牛田信子は思わぬことに四条侯爵の3男であると隆重と恋愛関係となったが、そのことが芳野教授の定子夫人に咎められるここになった。
「信子さん、賢婦人を目指すのですよ」厳しい口調で諭す。
女中の身で奉公する信子は、恩師のはからいで、「行儀見習い」の立場に置かれていた。
崇拝していた奥様の助言に信子の恋愛心は乱れる。
「私は、私の道を歩んでいきます」信子は別れの言葉を深い悲しみのなかで伝えた。
「信子さんの気持ちわかりました」彼は「武士道」を体現したような気高い男であり清く退いていくことになる。
軍人である隆重は上海へ赴く日が迫っていた。
それは、四条家の鎌倉の別邸でのしばしの逢瀬のときであった。
そして、手を取り合う2人の永遠の別れを予感させるここととなる。
参考
賢婦人の背景
6月16日は明治から大正にかけて活躍した教育者・社会活動家の矢嶋楫子(1833-1925)は、幕末から明治にかけて、男尊女卑の価値観が当たり前だった時代に、女性の教育と地位向上の分野でリーダーシップを発揮した女性でである。
賢婦人の背景
賢婦人に共通するのは「教育熱心」と「他人のために尽くす奉仕精神」と言える。
日本は「良妻賢母」、中国は「賢妻良母」、朝鮮は「賢母良妻」という用語が、日本は明治維新後の 1890 年代に、中国や朝鮮においては 1905 年頃から使われ始めた。
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