14歳からの哲学 考えるための教科書 単行本 – 2003/3/20
プレゼントにも最適。「考える」読書。
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人には14歳以後、一度は考えておかなければならないことがある!今の学校教育に欠けている、14、5歳からの「考える」ための教科書。
「言葉」「自分とは何か」「死」「心」「体」「他人」「家族」「社会」「規則」「理想と現実」「友情と愛情」「恋愛と性」「仕事と生活」
「メディアと書物」「人生」など30のテーマを取り上げる。
読書感想文の定番,中高大学入試にも頻出の必読書。年代を超えて読み継がれる著者の代表作。
商品の説明
著者からのコメント
○14歳の人へ、
このような仕方で物事を考えることを、「哲学」と言います。
もし君が、このようなものの考え方、当たり前に思っていることが本当はどういうことなのかを知りたくて考えるということに、もっと興味があるのなら、書店か図書館へ行って、「哲学」と名付けられたコーナーを見てみるといいでしょう。そこには、古くはプラトン、デカルト、カントといった有名な名前の人々の本が並んでいるし、新しくは現在生きている人によって書かれた本もたくさんあります。
でも、たとえ今の君がそれらの本を手に取って読んでみても、聞きなれない言葉や変な言い回しがいっぱい出てきて、おそらくちんぷんかんぷんでしょう。大学へ行けば、それらを専門に勉強するための学科もありますが、でも、もし君がこの本に書いてあるような仕方で「考える」とはどういうことなのかがわかったのなら、あれらの本を無理して読んだり、専門の知識を覚えたりする必要は、必ずしもないのです。
なぜだかわかりますね。だって君が求めているのは、「考えて、知る」ことであって、「読んで、覚える」ことではないからです。自分で考えて知るために、他人の本を読んで覚える必要はありません。むろん、あれらの哲学者たちは、自分で考えて知ったことを、書いて本にして残したわけですが、それらを読んで考えるとはどのようにしてなのか、まずそれがわかっているのでなければ、それらを読んでも何も知ることはできないでしょう。でも、そんな仕方で哲学の本を読んで、考えたつもりになってしまうことが多いので、あれらの本を読むのは、自分で考えるとはどのようにしてなのか、なんとなくでもわかってからの方がいいかもしれません。そうして考えながら読んでみるなら、あんなに面白い読書はありませんよ。
だからとにかく大事なことは、君が、「知りたい」という気持ちを強くもっているということ、ただそれだけだということです。あれらの立派な哲学者たちだって、考え続けていた理由はそれに尽きるのだから、その意味では全く同じなのです。だからこそ、哲学という考える営みが、人類によってなぜずっと続けられてきたのか、はっきりとわかるなら、君はもうすでに哲学を始めているということになるわけです。たとえ「哲学」という名前なんか知らなくてもね。
この本が、そのささやかなきっかけになることを、期待しています。
○14歳以上の人へ
「哲学」という何かが、自ら考えるより先に存在しているわけではないのですが、哲学史や学説を覚えることが哲学であるという誤解は根深く、あるいはそれらを「やさしく」解説したところで、やはり自ら考えられているわけではなく、さらには自ら考えているかのようで、単なる個人の人生観であったり、そんなこんなを見るに見かねて、とにかく人が素手で考え始めるその生の始まりを伝えるべく、このような教科書の形で書いてみました。
対象はいちおう14歳の人、語り口もそのように工夫しましたが、内容的なレベルは少しも落としていません。落とせるはずがありません。なぜなら、ともに考えようとしているのは、万人もしくは人類に共通の「存在の謎」だからです。したがって、何らかの答えめいたものを教えているわけではないこの本を「教科書」と呼ぶのは、ひょっとしたらふさわしくないのかもしれませんが、子供とともに、生徒とともに、あるいは一人で、なお謎を考えて知りたいという意欲をおもちのいかなる年齢の人にも、何らかお役に立てるものと思っております。
あえて指導要領めいたことを申しますと、I・II章は14歳から、III章は17歳からとなっていますが、これは、III章は、やや大きい視野が必要かと思われたためであって、抽象度においては、おそらくどれもあまり変わりないでしょう。I「原理」、II「現実」、III「真実」と、無理に言うならそんな感じで書かれています。
トランスビュー社の中嶋廣氏の御子息が、たまたま中学三年生だったこともあり、それこそ「生の」貴重な意見を、参考とすることができました。うまく本書に反映できていれば、幸いに思います。
(池田晶子/文筆家)
内容(「MARC」データベースより)
抜粋
君はいま中学生だ。
どうだろう、生きているということは素晴らしいと思っているだろうか。それとも、つまらないと思っているだろうか。あるいは、どちらなんだかよくわからない、なんとなく、これからどうなるのかなと思っている、多くはそんなところだろうか。
生きているということは素晴らしいと思っている人にとって、生きているということは素晴らしい。なぜって、その人が、生きているということは素晴らしいと思っているのだから。
生きているということはつまらないと思っている人にとって、生きているということはつまらない。なぜって、その人が、生きているということはつまらないと思っているのだから。
どうだろう、こんなふうに言われて、君は何か意外なことを聞いたように感じるだろうか。それとも、すごく当たり前なことを聞いたように感じるだろうか。 ひょっとしたら、誰かは気がついたかもしれない。…・・(「第一章 考える[1]」より)
著者について
1960年生まれ。慶應大学文学部哲学科卒業。専門用語による「哲学」についての論ではなく、哲学するとはどういうことかを日常の言葉を用いて示し、多くの読者を得た。代表作の『14歳からの哲学 考えるための教科書』は、中学国語教科書に紹介されるなど、特に幅広い年代に読まれた。
著書に『14歳からの哲学』『人生のほんとう』『あたりまえなことばかり』『リマーク1997-2007』(トランスビュー)『新・考えるヒント』『オン!―埴谷雄高との形而上対話』『新・考えるヒント』(講談社)『41歳からの哲学』(新潮社)『君自身に還れ』(本願寺出版社)『14歳の君へ』『暮らしの哲学』(毎日新聞社)ほか多数の著作を残し、2007年2月23日47歳で死去。
精神が豊かであることだけが、人生が豊かであるということの意味
副題の「考えるための教科書」というのが意を得ている
「哲学」とは「世界や人生などの根本原理を追求する学問」のことであり
本著は、それを14歳。。中学生レベルの問いかけをし、考えるヒントや道筋をしめしてくれている
しかし当然ながら答えはない
今の時代、きっと少し前よりも、簡単に答えを求め、てにいれているのではないだろうか
それゆえに、考えるという行為を飛ばしていることが多いようにも感じます。
疑問→答え
この中間に考えるという行為が当然入るはずなのに、ググって答えを見つける
この考えるということが精神を豊かにしていく行為なのだろうと思いました。
「精神が豊かであることだけが、人生が豊かであるということの意味だ」という文章があります。
人生が豊かであるために精神が豊かである、そのために考える
そんな流れなのだろうと思います。
短絡的に答えを見つけるのもよい
けれども
時には答えのないことに思いを巡らし、
あーでもない、こーでもないと、、
あるいは
こうしたらあーなって、あーしたらこうなって
と考える訓練も、とても大切だとおもっています。
深く考えずに答える人も多い
決して悪いとは言わないまでも
考えが浅いひとだな。。。という印象をもってしまいます。
常にでないとしても、考える訓練はとても大事であると再考した次第です。
多くの人に読み、考える機会になればいいと思います。
高校生・大学生にも
大学生になる息子に買いました。
普段、本をあまり読まないのですが、熱心に読んでました。読んでよかったと言っていました。おすすめできる本です。
孫へのプレゼントの下見
数か所赤線が本文に引かれていましたが、プレゼントの下見なのでOKです。
池田哲学(生きる智慧)の傑作
自分の中での今年のベストテンには必ず入るでしょう。
もっと早く知っていればよかったです。
副題:考えるための教科書
この本には答えはない、わからないということがわかり、考える事の大切さを知ることがもっとも大切なことなのだと思う。
備忘録的に書き留めました
もし君とは、君が単純に思っているように君の体としたら、体が死んだら君は死ぬよね。でも、もし君とは君の体じゃないとしたら、体が死んでも君は死なないことになるのだけれども、それとも、そんなこと知りたくないのかな。 p44
楽しんで仕事をしているうちに、気がつかなかった自分の才能に、気がつくこともあるだろう。生きなければならないから仕事をしなければならないなんて思っている限りは、人は決して本当に生きることは出来ないんだ。 p116
上品(じょうぼん)と下品(げぼん)というのは、徹頭徹尾、人の内面、精神性こそを評価する言葉なんだ。 p118
自分の欲得や欲望を満たすために、精神を忘れて為されるすべてのことは卑しい。中でも最も卑しいことは、文字通り「卑怯」ということだ。正しくないから卑劣なことだ。勇気がないから逃げること。人は、卑怯なことだけはするべきではない。卑怯は精神の死だからだ。卑怯によって生き延びるよりは、時には、人は死ぬことの方を選ぶべきかもしれないんだ。 p121
天をみるとはどういうことか、もうわかるよね。ちっぽけな自分を捨てることだ。無私の人であることだ。君が自分を捨てて、無私の人であるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。真実だよ。人は、個に徹するほど天に通じることになる。この宇宙は、なぜかそういうつくりになっているからだ。本物か偽物かという問を理解するのも、はやり本物の人だけだ。偽物ばかりが横行する今の世の中を生きてゆくのは、本当に大変だ。でも、偽物の人生を生きて死ぬよりは全然大変なことじゃない。だから、本物の人間になろう。君は、君だけは、本物を見抜ける本物の人間になろう。 p129
人生にとっても最も大事なことについての知識は、新聞にもネットにも書いていない。書いてあることもあるけれども、それを受け取って持っているだけで、自ら考えているのでなければ、あくまでもただの情報だ。情報は知識ではない。ただの情報を自分の血肉の知識とするためには、人は自分で考えなければならないんだ。 p133
しっかり考えて、賢い人間になりたいのなら、やっぱり本を読むのがいい。むろん、どんな本でもいいというわけじゃない。本物の人が書いた本物の本だ。メディアの策略で流行になっているような本は、まず偽物だ。だまされないように、見る目を鍛えて。絶対に間違いのないのは、だからこそ、古典なんだ。古典は、考える人類が、長い時間をかけて見抜いた本物、本物の言葉なんだ。消えていった幾千の偽物、人の心に正しく届かなかった偽の言葉の群の中で、なぜその言葉だけは残ったのか、はっきりとわかる時、君は、いにしえの賢人たちに等しい知識を所有するんだ。これは、ネットでおしゃべりするなんかより、はるかに素晴らしいことじゃないか。 p136
人類は進歩してきたのだろうか。そもそも「進歩」とはどういうことなのだろう。中略。道具は確かに進歩したけれども、道具を使う君の精神は、じつはちっとも進歩していないのじゃないだろうか。いや、それどころか、便利な道具のおかげで、言葉という精神の価値がいよいよわからなくなっているのだとしたら、これは進歩どころか堕落じゃないだろうか。中略。その楽しみを追うこと自体が生活の目的となって、何のための生活なのかを考えることをしないのならば、置き去りにされた精神は、貧しくなるばかりのはずだ。それなら、何のための豊かさだろう。精神が貧しくなる生活の豊かさが、どうして人類の進歩であるはずあるだろう。中略。自然を自分の「外」にある物質と見ることで、それを観察、実験して、客観的な法則性をそこに見出すことが可能となった。中略。すべてを自分の「外に」ある物質と見る事で、人は、自分の「内に」ある精神のことを忘れる。あるいは、「内の」精神も、「外の」物質と同じものだと見るようになる。つまり、精神とは物質である、精神とは脳であるという、現代人の九分九厘がそう思い込んでいる錯覚のもとも、ここにある。 p147
精神を貧しくする快楽や欲得のために生きたいのだったら、そのような人生に何の意味があるだろう。なぜなら、精神が豊かであるということだけが、人生が豊かであるという意味だからだ。 p148
人は、自分で自由に運命を創造しながら、その人生を生きてゆく。その人生はこの宇宙に存在しているという当たり前の事実を、決して忘れずに考えてゆくことだ。考えるほどに、君は、いったいどうしてこういうことになっているのかという驚きを新たにするはずだ。そして、奇跡という言葉すら色を失うのを感じるのなら、君は、果ての果てまで、このことの謎を知りたいと思わないか。
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