今日の「お気に入り」は、2015年6月14日の記事「日本人をここまでダメにした元凶は
『サラダ油』と『マーガリン』 」。
今を遡ること70年前の1945年8月、筆者の両親は兵庫県に住んでおりました。
筆者が生まれる2年半ほど前のことで、当時、父は44歳、母は36歳になっておりました。
二人とも明治生まれです。
住まいの西方600キロ余りのところに長崎市が、そして西方350キロ余りのところには広島市がありました。
太平洋戦争が日本の大敗で終わったのが1945年8月15日。
その9日前の8月6日には広島に、6日前の8月9日には長崎に、それぞれ米軍機が原子爆弾を投下しました。
広島、長崎両市の被曝とは比ぶべくもありませんが、日本全国各地に、そして兵庫県にも死の灰は降ったに
違いありません。
筆者が生まれた1948年以降、言い換えると20世紀の後半、東西冷戦時代には米ソ両大国のみならず、
敗戦した日独伊以外の連合国側の国々が競って大気圏核実験を繰り返しておりました。
英国、フランス、中国、インド、……。
原発ならぬ核兵器による「放射能汚染」が世界中に蔓延した時代がかなり長く続いたことを現代人は
ともすれば忘れがちです。
考えてみれば、1945年以降、地球上の生物は、世界中のどこかでヒトによって繰り返し作り出される
「核分裂による放射能」という「汚染物質」に今日に至るまでずーっと一日の休みもなく、曝され続けて
きたのだと思います。
団塊世代の筆者などは、こうした「放射能汚染」のみならず、高度成長期以来の「大気汚染」、
「水質汚染」などにも長く曝され続けてきたことになり、身体中の細胞や組織、とりわけ繊細な
脳の神経細胞などはさぞや悪い影響を受け続けてきたに相違ありません。
幼時から、これだけ数々の「汚染」に曝され、侵され続けながら、70歳近くになるまで
「曲がりなりにも」健康に生き続けているのですから、生物として生まれながら身に備わって
いる生命力というか、自然治癒力というか、新陳代謝の力がいかに強力なものであるかがよく
分かります。
「曲がりなりにも」と表現したのには理由があります。
「死の灰」はたまさかにしか降りませんが、「大気汚染」、「水質汚染」、そして唐突ながら
「食品汚染」は一年中途絶えることなく、身体を蝕み続けるものです。
「食品汚染」は事件、事故であっても「大気汚染」や「水質汚染」のような日常的なものでは
ないぞ、常在するものではないと仰いますか。
本当にそうでしょうか。
自分自身を、そして親兄弟、妻子など身の回りの家族、親族を、顧みただけでも、数多くの「汚染」
の影響を受けていない者が一人としていないことに気が付きます。
「健康に」終世生き続けた者など一人もいなかった、あるいは「健康に」現在生き続けている者など
一人もいない、ということに思い至ります。
以前にも増して、様々な「汚染物質」や「微量であっても毒性のある化学物質」に、それと自覚する
ことなく、侵され続けているに違いありません。
「放射能汚染」や「大気汚染」そして新たに加わった「電磁波の悪影響」などは個人の意志、判断、
力で回避しきれるものではありませんが、そうした不可抗な現実、不可抗な事象が多過ぎて、それに
慣れ過ぎて、回避できるものまで回避する努力を怠ってきてしまっているのではないでしょうか。
予防医学の専門家である山田豊文さんが、2007年に出版されたご本「病気がイヤなら『油』を
変えなさい!」の冒頭に、次のように書かれています。
「私達の体は100%食べたものでできています。
良いものを食べれば、良い体と心ができます。
悪いものを食べれば、悪い体と心ができます。」
そうです、「食べもの」に含まれる「有害物質」は、私たちが個人の意志、判断、力で回避できる
「リスク」です。
このさき団塊世代や団塊二世、三世たちが否応なく直面する「認知症大爆発」の時代に、その「認知症」
の原因と目されるものの代表格の因子が「サラダ油」とトランス脂肪酸だらけの「マーガリン」だと思います。
この二つおよびこの二つを使った「加工食品」は最も忌避すべき食品です。
「食生活の中にトランス脂肪酸を持ち込んだことは、過去100年間で食品産業界がやらかした最大の悪事」
とハーバード大学の教授に言わしめたものです。
またまた唐突ながら、あるグローバルな食品会社、仮に「N社」としましょうか。
そのN社の製品、仮に「化学調味料無添加コンソメ」としましょうか、スーパーで見かけました。
「化学調味料無添加」とありますから、今流行りの「ヘルシーさ」が売りの商品です。
化学調味料が「認知症」などの脳神経系統の疾患に良くないのではないかと言われ始めてから大分
経ちました。
別名「うま味調味料」の「化学調味料」は、食品の表舞台から徐々に姿を消しつつあります。
「化学調味料不使用」、「合成着色料不使用」、「保存料無添加」と言った商品表示が「商品の売り」として
当たり前になったのに、世の中には「化学調味料」そのものが商品としてスーパーやコンビニの
店頭に並んでいます。そして「化学調味料」がたっぷり入った「ラーメン」やインスタント
食品の「スープの素」などが、街の飲食店に、そして家庭に氾濫しているのが現実で、「ヘルシーさ」
を追求している筈の多くの消費者が、「慣れ親しんだ美味しさ」に我を忘れて離れられないでいます。
話を元の「コンソメ(乾燥スープ)」に戻して、その商品のパッケージには「原材料名」として、
食塩、シーズニングパウダー、……、香辛料……、そして最後に「米油」と表示されています。
他の同種の「乾燥スープ(コンソメ)」の場合、この「米油」のところには「食用油脂」と表示
されており、その意味するところは「油」として「サラダ油」が使われていることを意味します。
なぜ「サラダ油」を使わないのでしょう。「サラダ油」はヘルシーな「油」ではなかったん
ですか・・・・。
「語るに落ちる」です。
N社は「サラダ油」でなく「米油」が「ヘルシーな油」であることを、それが健康志向の強い
購買者層にアピールすることを承知の上で売らんがために原材料に加えているのです。
「サラダ油業界」や「マーガリン業界」、そんな業界があるのかどうか存じませんが、
「サラダ油」や「マーガリン」が日本の消費者に忌避されると業界が潰れるという危惧を
持たれる向きもあるかも知れません。
欧米の先進諸国では「マーガリン」はとっくに製造、販売が禁じられていると言うのに、暢気な
国です、日本は。
問題は、食品業界が潰れるかも知れないといった、そんな次元の低いところにある訳ではありません。
潰れるものなら潰れてみろと言いたいところですが、なーに油脂メーカーはしたたかで、もしも
「サラダ油」が日本の消費者に忌避されるなら、国産の米ぬかで「米油」を増産します。
「ごま油」や「オリーブ油」だって増産します。
国産で足りないなら、いくらでも輸入します。
「ココナツオイル」や「えごま油」や「しそ油」だってキャンペーン張って売りまくります。
少々高値でも消費者は買ってくれます、命には替えられませんから。
ただ、日本の消費者が現実に「サラダ油」を忌避するようになるのは今から何年後でしょうか。
10年後でしょうか。
10年後に、認知症を発症して家族がもっと前に「サラダ油」止めときゃ良かったと気がついた
としても、時すでに遅し、病人、家族共々、残念ながら軌道修正も、元の身体に戻ることも出来ません。
母親の胎内にいる時からの、毎日の繰り返し、積み重ねですから。
嗚呼、残念、後の祭りです。
「ぬるま湯に浸かって茹で蛙になる」なんてフレーズがバブルの時代にはありました。
美味しいもの、慣れ親しんできたもの、これまで毎日散々食べてきて何ともなかったじゃないか、
というそれだけの理由で舵をきり損ねるのです。
大気汚染や水質汚染の進んだ街に長年住み続けながら、自分は健康だ、身体のどこも悪くないと
言ってるのと同じことではないですか。
大層な名前の付いた病気でなくても「不定愁訴」なら現代人の誰もが経験していることではありませんか。
本当に健康な人はそんなにしょっちゅう「不定愁訴」などおぼえる筈がありません。
個人差はもちろんありますが、三十代、四十代で認知症を発症する人が増えているのは決して偶然のこと
ではありません。
認知症の原因物質と言われている数々の「有害物質」の「脳神経系統」に対する攻撃が繰り返され、
人の、ペットの身体の自然治癒力というか、解毒作用や新陳代謝の能力の限界をある時超える、その
認知症発症の「臨界点」に一日一日近付きつつあるのだと思います。
因みに、脳の神経細胞のかなりの部分は使われていない、稼働していない、と言われています。
使われていない所がいくら損傷(=萎縮)していても、外見上「認知症の症状」は顕在化しておらず、
自覚症状もなく、病識もない、つまり見かけは健常者である、ということは充分考えられるではあり
ませんか。
使われていない(稼働していない)なんて「講釈師見てきたようなウソを言い」で、神経細胞で構成
される脳は絶えず新陳代謝を繰り返し、損傷し死滅した神経細胞は別の神経細胞で補完され、器官と
しての機能は保たれますが、器官としての損傷が進むとある時から、機能不全を来たし始めるという
ことではないでしょうか。
若いからといって安心はできません。
老いも若きも、キレやすい人、増えてますよね。
「臨界点」を超えるのは「もの忘れ外来」に出掛けていく何年も何年も何年も前ですよ、きっと。
大元は「マーガリン」を塗ったくって食った「パン」だなんて、黒人、白人の多い米国人と違って
モンゴロイドは何故か「お酒に弱い」人種で、アルコールに弱い黄色人種は、認知症になりやすい
だなんて、今さらそんなこと言われましても、・・・・、本当に残念だ。でもまだ遅くはないかも。