「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・02・28

2006-02-28 06:20:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、以前朝日新聞に連載された大岡信さんの「折々のうた」の中で紹介された俳句をいくつか。

  がうがうと風うなる日の芽ぶきかな

  雪しづる音にざわめく羊たち

  蜊蚪(くわと)一つ群より離れあそびをる

  歳晩やお産の牛と夜を過ごし

  千頭の牛の鼻息牧開き

  天心に手の切れさうな春の月   (越渡あざみ)


  (筆者註)
    蝌蚪(かと)はおたまじゃくしのこと。春の季語。
    歳晩はとしのくれのこと。当然ながら、冬の季語。
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2006・02・27

2006-02-27 08:50:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、東国の武士で、安倍頼時の子、安倍宗任が京の都で詠んだ歌と伝えられるもの。1947年生れの作家、高橋克彦さんの「炎(ほむら)立つ」は、都の朝廷に反旗を翻す、この親子を含む蝦夷(えみし)の人々の物語です。

 
わが国の梅の花とは見つれども大宮人はいかが言ふらん
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ひと口で言ってくれ 2006・02・26

2006-02-26 09:10:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 大昔のことは資料が少なくて分らない。最近のことは資料が多すぎて分らないというのは至言である。いかにも

   二・二六事件は資料が多すぎて、高橋是清や渡辺錠太郎がなぜ殺されたか分らない。
 
    千万言を費さないでひと口で言ってくれ。それがジャーナリストの仕事だと私は何度か言った。蔵相高橋是清は

   陸海軍の予算を一再ならず大幅に削ったから殺されたのである。折から軍縮条約は自然解消して世界は軍拡の時代

   にはいった。わが国も軍艦大和、同武蔵を建造しなければ国防を全うできないと、海軍大臣は辞表を懐ろに議会に

   臨んで蔵相とわたりあった。蔵相は国を亡ぼす狂気の予算だとその過半を削った。すなわち生かしてはおかれぬ。

    なぜ教育総監渡辺錠太郎は殺されたか、紙幅が尽きたから言えないと某大雑誌に書いたら、驚くべし渡辺氏の子

   孫から自分もよく知らない、教えてくれと電話があった。

    渡辺錠太郎は教育総監真崎甚三郎大将のあと教育総監になった。真崎は二・二六事件の青年将校をかげで操る親

   玉で、青年将校は渡辺が策動して真崎のイスを奪ったと信じた。渡辺は陸軍きってのインテリで、無類の読書家で

   当時の軍人の枠を出た人である。まの悪いことに渡辺は名古屋の偕行社(陸軍軍人の倶楽部)で天皇機関説でいい

   とその演説中で言った。

    天皇は君臨すれども統治しない、法人である国家の機関だという説は大正年間は平気で通用していた。陛下も先

   刻ご承知である。けれども昭和十年これを偕行社で言うのは不用意である。渡辺は軍人であるより学究だった。

   何より機関という言葉がいけない。すでに陛下はあらひと神である。それを何ぞや機関とは。これまた生かしては

   おかれぬ。

    以上ひと口で言ってみた。それにしてもなぜ機関などと訳して平気だったのだろう。これが大正デモクラシーなの

   である。まことに近いことは資料が多すぎる。」


   (山本夏彦著「世間知らずの高枕」新潮文庫 所収)
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あら筋を言えない事件なんてこの世の中にはない 2006・02・25

2006-02-25 07:15:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 旧臘三十一日『テレビ評伝犬養毅』(NHK総合)を見た。こんな番組があるとは知らなかったから、一時間で

   五・一五事件早わかりとはありがたいと、幸い掃除もすんだので坐りこんだがやはりいけなかった。

   これでは犬養がなぜ殺されたか、かんじんのことが分らずじまいである。犬養を殺した海軍将校の一人山岸宏は、

   いまだに存命で写経して冥福を祈っているとこれはテレビで初めて知った。それならこの事件で死刑になったもの

   は一人もないことを番組は言わなければいけない。

    死刑の求刑はあったが重すぎると海軍側が圧力をかけ、最も重い判決が十五年(二人)山岸宏は十年、あとは執行

   猶予だった。十五年なんて実は五、六年で出てくることご存じの通りである。判決文は憂国の至情を諒とすると言っ

   たから、憂国の至情さえあれば許されるとこれがのちの二・二六事件を誘発した。新聞は彼らに同情的で、したがっ

   て減刑嘆願書が集まって、なかには血書まであると写真入りで報じたから嘆願書はいよいよ集まって、いわゆる『世

   論』になった。

    犬養は『話せば分るまあ坐れ』『靴ぐらいぬいではどうか』と将校たちをうながしたという。見ればいかにも土足

   だから彼らは一瞬ひるんだ。かくてはならじと『問答無用うて』と命じたのがこの山岸だそうで、これは誰でも知っ

   ていることだから画面で再現するには及ばない。大事なのはなぜ殺されたか、である。

    総理大臣犬養毅は満州事変を一刻も早く終らせようと尽力したのである。満州国の建国にも反対で、それを公言して

   憚らなかったのである。当時の少壮軍人は満州を植民地にして極貧の農民を入植せしめ、『王道楽土』にするつもり

   だったのである。
  
    蔵相高橋是清は犬養が殺されてもなおひとり屈しなかった。高橋はすでに八十に近く身命を賭している。昭和九年度

   の陸軍の予算の六割、海軍のそれの四割しか高橋は認めなかった。海軍は軍縮条約の解消をひかえて大海軍にすべく、

   当時の金で四億四千万円を要求して一億七千万円に削られたのである。蔵相も海相も互に辞表を懐ろにしてわたりあっ

   たという。

    高橋はこの時ばかりでなく昭和十一年度の陸軍の予算も大幅に削った。無謀でばかばかしい要求だと一蹴したから二・

   二六事件でまっさきに血祭にあげられたのである。そんなことなら知っていると笑うならマスコミよそれをまず言え。

   文字で書いて五行、口で言って一分とかからない。

    これらを百も承知なら同じ二・二六で斎藤(実)内大臣 鈴木(貫太郎)侍従長 岡田(啓介)首相 渡辺(錠太郎)

   教育総監がなぜ殺されたか(鈴木岡田は助かる)一人当り一分間で言えるはずである。」



  「 プロならかいつまんで一分で言えるはずである。あら筋を言えない事件なんてこの世の中にはない。」


   (山本夏彦著「美しければすべてよし」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
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まじめ人間というものは何をしでかすか分らない 2006・02・24

2006-02-24 08:40:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 タバコの害についてこのごろ威丈高に言うものが増えたのは不愉快である。いまタバコの害を言うものは、

   以前言わなかったものである。いま言う害は全部以前からあったものである。それなら少しはそのころ言う

   がいい。

    当時何にも言わないで、いま声高に言うのは便乗である。人は便乗して言うときは声を大にする。ことに正

   義は自分にあって相手にないと思うと威丈高になる。これはタバコの害の如きでさえ一人では言えないものが、

   いかに多いかを物語るものである。

    私は戦争中の隣組を思いださないわけにはいかない。隣組の正義は耐えがたいものだった。電車で靖国神社の

   前を通ったら車内からお辞儀しよう、英霊に黙祷をささげようと言えば正義は隣組にあるから抵抗できない。

   けれどもこの連中はのちに首相が靖国神社に参拝するなんてもってのほかだと言った。風向き次第でこんどは

   何を言いだすか分らない。

    タバコの害はよく承知している。それでもすいたければすうがいい、自分はすわないが――というのがこれま

   ですわぬ人の態度だった。私は日に八十本すったがふとしたきっかけがあってやめた。やめたというより縁が

   切れた。あれは縁が切れないかぎりやめられないからやめよと人にはすすめない。

    こんなことを言うのは勢いの赴くところ、『禁煙法』が提案されやしまいかと思われるからである。アメリカ

   ではむかし『禁酒法』が提案されたことがある。諸悪のもとは酒にある。酒さえ禁じれば世の中はよくなると、

   今ではとても信じられないことがまじめなアメリカ人には信じられ、その案は通過して一九二〇年から三三年

   までの十四年間実施されたのである。

    そして酒の密輸密造によってアル・カポネ以下のギャングたちが生れ、生れたからは今もその子孫がいるので

   ある。

    ヨーロッパ人や日本人はアメリカ人を笑ったが、まじめ人間というものは恐ろしいもので何をしでかすか分ら

   ない。こんどはまじめな日本人が禁煙法を提案して通過させる番かもしれない。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)



 腰折れを一つ二つ。

   環境にやさしい企業演じても
       むなしく響く煙産業
             たばこマリファナ目くそ鼻くそ

   けむりぐさアメリカのあと追いかけて十年先のピーエル訴訟
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寄せては返す波の音 2006・02・23

2006-02-23 06:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 私有財産は盗みだとプルードンは言った。これを奪い返して持たざる者に公平に分配するのは正義で

  ある。これ以上若者を魅する言葉はない。社会主義には正義があるが、資本主義にはない。だが正義と

  良心ほど忌むべきものはない。五・一五、二・二六の青年将校は正義と良心のかたまりだった。『問答

  無用撃て』と彼らは犬養毅や高橋是清以下を殺した。レーニンのあとをついで独裁者になったスターリ

  ンは、革命の功労者ジノヴィエフ、ブハーリン、ラデック以下を皆殺しにした。毛沢東は文化大革命で

  何千何百万人を殺したか数知れない。金日成、ポル・ポト以下あげて数うるべからず。

   悪は転じて善と化す。資本主義は産業革命以来のものである。はじめは搾取の限りを尽したが、資本は

  生産したものを買わせなければならない、買わせるには買えるだけの賃銀を与えなければならない。結

  局競争してより安いものを提供しなければならなくなる、こうして今わが国は値下げ競争をするにいた

  っている。

   邪悪な資本主義のおかげで、人は冬暖く夏涼しい極楽にいる。テレビは百害あって一利ないと納得させ

  ることはできても、取上げることはできない。食いものを捨て助平の限りを尽す王様は昔は革命家に滅

ぼされたが、今は滅ぼすものがいない。人類はまるごと滅びる瀬戸際にいる。私は社会主義早わかりを

『室内』平成十一年十一月号に四ページで書いた。粗筋は右の如くだからこれで分った人は見るに及ばない。」


   (山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)

  
   山本夏彦さんが創刊し、半世紀以上続いたインテリア雑誌「室内」が、通算615号目の2006年3月号で

  休刊(廃刊ではない)することになったそうである。
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人生は些事からなる 2006・02・22

2006-02-22 06:25:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「槌田満文著『名作365日』(講談社学術文庫)はフシギな本である。東京新聞夕刊にまる一年連載したものを、まとめて一冊にした本である。もし今日が一月十七日ならその日の紙面に一月十七日の日付が出ている小説を、ほとんど無限の作品中からさがしだして毎回四五〇字にまとめたものである。
 一月十七日なら尾崎紅葉の『金色夜叉』にある。『宮さん、来年の今月今夜、さ来年の今月今夜、十年後の今月今夜、おれは一生を通じて、今夜のことを忘れない。忘れるものか、来年になったらきっとおれの涙で月をくもらせてみせる云々』という名高いせりふがあるから私だって書けるが、あくる一月十八日になると忽ち行詰る。それがこの本には365日一日も欠かさず揃っているのである。
 たとえば七月七日の項を見ると、大田洋子の『残醜点々』という小説のなかから抜いてある。大田洋子は広島で被爆してなお何年か生きて小説を書いたひとである。『一九五一年七月七日の日暮れバラック街の軒下には、七夕竹が立ちならんだ。宝船、星、ちょうちんなどが、色とりどりの短冊とともに、青い笹の葉でひらひらとゆれている。その中には原爆で両親を失った子供が書いたのか「お父さん」「お母さん」とだけ記された短冊も下っていた』。
 それにしてもまる一年である。新聞がお休みの日にはあくる日のぶんまで二日ぶん並べた。首尾よくみんな並べても文学的には何の業績にもならない。何というフシギな情熱だろう。」

  (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)
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生きるかなしみ 2006・02・21

2006-02-21 06:25:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ山田太一さんの「断念するということ」と題した小文の中から。

 「 大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく、心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念

  して心の平安を手にすることなのではないだろうか?

   私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?

   本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ること

  など、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要

  さない。
 
   そのように人間は、かなしい存在なのであり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う。」


 「『可能性』という衝迫を逃がれて、あるがままの生を受け入れるばかりが善とはいわないし、私だってとてもそんな境地に

  たどりつきようもない人間だが、絶えず自他への不満をかかえ、追い立てられるように生を終るのもみじめである。心して

  『生きるかなしみ』に思いをいたしたい。ひとにではなく、自分にそういい聞かせている。」


   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 筑摩書房刊 所収)
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おだやかな幸福感 2006・02・20

2006-02-20 10:55:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山田太一さんの「断念するということ」と題した小文の中から。

 「 海外を旅して、たとえばパリでノートルダムもルーヴルも見なかったといえば呆れられ、台北へ行って故宮博物院を

  訪ねなかったといえばなにをしていたのかと疑われる。一歩足をのばせば行けるものを何故行かなかったのかと、信じ

  られないというような顔をされる。

   では、そんなにノートルダムを愛し、故宮博物院の名品に心奪われているのかというと別にそれほどのことはなく、

  衆人の認めるコースをたどる『可能性』を手にしながら、それに背を向ける人間は『不自然』なのである。東大へ入

  れる学力を持ちながら、高校で終りたいなどということも『不自然』である。あと数時間眠らずに頑張ればノルマを

  達成出来たのに諦めてしまった社員は人間としてもあまり上等ではないと見られてしまう。そういう世界に私たちは

  生きている。

   そして半分ぐらいは、そうした世界にうんざりもしているのではないだろうか?ルーヴルの前へ行って美術館に入ら

  ず、公園のベンチで日射しの動くのを見ているなどということは、まったく日本人には苦手だし、私だってそれが素晴

  らしいとばかりは思わないが、といって中へ入って目ぼしい(といわれている)名作を駆け足で見て回り、売店で関連

  の絵はがきやみやげを買い、記念写真をとってスケジュールをこなしたと一息つく人生の空疎を感じないわけにもいか

  ない。
 
   どこかで的をはずしている。結構頑張って生きているのだが、力点がずれている。おだやかな幸福感がない。平安が

  ない。老いてもまだ可能性を追い、あれも出来るこれも出来ると、まだ行ってない国はどことどこだとツアーのカタ

  ログをめくって、スケジュールをつくる。それが老後の有力な理想型である。

   無論それが悪いとは言わない。しかし、その根底に、自分がこれまで生きて来られて、いまなお生きているのは、

  なにものかの恩寵とはいわないまでも、無数の細かな偶然に支えられているのであり、決して自分の力ではないと

  いう認識があるべき――とはいわないが、あった方が幸福だろうという思いはある。実際、いつ地震に遭っても交通

  事故に遭っても死病にかかっても不思議はない人生を、何十年か、なんとか生きて来られたということは驚くべき

  ことであり、それに深く思いをいたせばわざわざ旅に出なくても、深い幸福感を得られるかも知れず、また旅に出

  ても、目にするものの味わいが深いにちがいない。」


  (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 筑摩書房刊 所収)
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ドミ・モンド 2006・02・19

2006-02-19 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から昨日の続きです。

 「芸術家はもと貴族の奉公人同然だった。映画の時代になって大金をとるようになると役者は上流に似た者になった。
『なんの芸人づれが』とかげでは言っても表では言わなくなった。そのうち勲章をもらうまでになって尊敬されるようになった。芸人に対する敬語の変りようを見るとこの半世紀が分る。今は多く先生と言っている。大正十二年の震災まで一流の劇場には『芸人控所』と書いてあった。
 それなのにデヴィ夫人はアメリカの社交界で侮辱された。面と向って醜業婦よばわりされたのである。初めてである。これはまだ社交界の面目がわずかに残っていることを示す。
 デヴィ夫人は昭和十五年東京で生れた、父親は大工、長じて赤坂のナイトクラブ『コパカバーナ』のホステスになって、インドネシアのスカルノ大統領に見そめられ、その第三夫人になった。これで社交界のメンバーになる資格が生じたとデヴィ夫人は思ったが、むろん思わないものがあった。
 クラブのホステスは客と寝室を共にして、そのつど金をもらうと信じられている。即ち醜業婦だと罵られたからカッとなってシャンパングラスを投げつけ、相手の女に傷を負わせ禁固六十日の実刑と罰金を科せられた。
 デヴィ夫人は不服である。女はみな金と力になびく。社交界の上流夫人とホステスとどこが違うかというが違うのである。マルグリット・ゴーチェこと椿姫は社交界に入れなかったし、入ろうとも思わなかった。モンドに対するドミ・モンド(半社交界)は舞踏会を主催できるが、そして貴族の客も来るが、その雰囲気は尋常ではない。
 デヴィ夫人は大統領の第三夫人としてながくちやほやされていたので気がつかなかった。あるいは気がつかないふりをしていた。ここはお前の来るところではないぞと言われて逆上したのである。」


   (山本夏彦著「『社交界』たいがい」文春文庫 所収)
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