今日の「お気に入り」。
「 『人間は、自分の目に最も近いまつ毛が見えない』という意味の言葉がある。確かに
そのとおりである。そんな人間どもが、自己自身を見つめるのは、実に困難なことで
あろう。自分がいま歓(よろこ)んでいるのか、哀(かな)しんでいるのかぐらいは覚知
出来ても、真に自分という人間を成しているものの正体を、到底知ることなど出来よう
はずがない。それなのに、人間は月に行こうと莫大な費用と頭脳を費やし、軍備に国家
予算の多くを使う。人間は三千年前から、精神の進歩を止めたままである。いや、おそ
らく精神という領域においては、紀元前よりもはるかに後退した。科学文明は、私たち
から『思考する時間』を奪ったのである。」
( 宮本輝著 「命の器」講談社文庫所収 )