「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

ポルトガルの海 2013・03・22

2013-03-22 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「ポルトガルの海」と題した詩一篇。

「塩からい海よ お前の塩のなんと多くが
ポルトガルの涙であることか
我らがお前を渡ったため なんと多くの母親が涙を流し
なんと多くの子が空しく祈ったことか
お前を我らのものとするために 海よ
なんと多くの許嫁がついに花嫁衣装を着られなかったことか

それは意味のあることであったか なにごとであれ 意味はあるのだ
もし魂が卑小なるものでないかぎり
ボハドールの岬を越えんと欲するならば
悲痛もまたのり越えなければならぬ
神は海に危難と深淵をもうけた
だが神が大空を映したのもまたこの海だ

           『歴史は告げる』より」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)


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2013・03・21

2013-03-21 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「わたしは羊飼」と題した詩一篇。

「わたしは羊飼
羊はわたしの想念
それはすべてわたしの知覚したもの
わたしは考える 眼と耳で
手と足で
そして鼻と口で

花を考えるとは花を見ること 香りをかぐこと
果物を食べることがその果物の意味を知ることだ

だから暑い一日
その一日を心ゆくまで楽しんだあまり寂寥におそわれ
草の上に身を横たえて
ほてる眼を閉じると
全身が実在のなかに横たわっているのを感じる
わたしは真なるものを知り うれしくなる」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』池上岑夫編訳 彩流社刊 所収」)


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2013・03・20

2013-03-20 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(18888-1935)の「わたしの村からは」と題した詩一篇。

「わたしの村からは見える 地上から見える限りの世界が……
だからわたしの村はほかのどこにもおとらず広い
わたしの背丈はわたしの身長でなく
わたしの視界とひとしいのだ……

都会では この丘の上のわたしの家ほど
広く生きることはできない
都会では そこここの大きな家が視野をかたく閉じ込め
地平線をかくし わたしたちの視線を空のなお彼方へと押しやる
それらはわたしたちを小さな存在にかえる 眼が与えてくれるものを奪うからだ
わたしたちを貧しくする 見ることよりほかにわたしたちの富はないからだ」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)

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2013・03・19

2013-03-19 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「わたしが死んでから」と題した詩一篇。

「わたしが死んでから わたしの伝記を書く人がいても
これほど易しいことはない
二つの日付があるだけだ――生まれた日と死んだ日との
この二つの出来事にはさまれた日びはすべてわたしのものだ

わたしがどんな人間であったか語るのは易しい
わたしは見た 狂人のように
事物を愛した いかなる感傷もなく
果せなかった望みはなにもない 盲(めし)いたことがなかったから
聞くことさえ見ることに付随する行為にすぎなかった
わたしは学んだ 事物は実在したがいに異なることを
それをわたしは理解した 頭でなく眼で
頭で理解することは事物をすべてひとしいと見なすことであろう

ある日わたしは子供のように睡くなった
わたしは眼を閉じて睡った
そしてわたしはただ一人の自然詩人だった」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)


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2013・03・18

2013-03-18 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「師よ」と題した詩一篇。

「師よ 時間(とき)はすべて静穏です
私たちが虚しく過す
時間(とき)はすべて
もし虚しく過すことに
花を挿しさえすれば
花瓶に花を挿すごとく

私たちの人生に
悲哀はありません
歓喜はありません
思い煩うことなき賢者となって
学ぼうではありませんか
人生を生きることでなく

送ることを

心静かに穏やかに
幼児(おさなご)を
われらの師とし
眼に自然を
くまなく映しながら……

川の辺(ほとり)で
道の辺で
ときに応じて
常にかわることなく
そっと癒しながら
生きていることの疲れを

なにごとも語らず
時は過ぎ去り
私たちは老いてゆきます
ほとんど冷やかに学ぼうではありませんか
感じとるのを
私たちが過ぎ去りゆくのを

踠(もが)いても
それは意味のないことです
抗(あらが)うことはできないのです
己れの子らを
常に貪り食らう
あの残忍な神に

花を摘もうではありませんか
そっと浸そうではありませんか
私たちの手を
静かな川の流れに
その静けさを
学ぶため

向日葵(ひまわり)となって 常に
太陽を見つめながら
私たちは心静かに
人生を発つことでありましょう
生きたことを
悔いることもなく」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)

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Bloom where God has planted you. 2013・03・11

2013-03-11 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、渡辺和子さんの著書「置かれた場所で咲きなさい」(幻冬舎刊)から。

「どんな相手や物事に対しても、まず考え、次に感じ、しかる後に行動する。」

「人生にポッカリ開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。」

「思わぬ不幸な出来事や失敗から、本当に大切なことに気付くことがある。」

「時間の使い方は、そのままいのちの使い方になる。」

「待つことで、心にゆとりができると気付いた時、生きている『現在(いま)』は、より充実したものになる。」

「自分のいのちに意味を与えることで、苦しい状況でも生きてゆくことができる。」

「いつ、何が起きるかわからないから、いつも準備をしておく。」

「信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく。」



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2013・03・10

2013-03-10 07:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「偉大であるためには」と題した詩一篇。

「偉大であるためには お前そのものでなければならぬ
お前のなにであれ 誇張するな 排除するな
なにごとでもお前自身であれ どれほど些細なことも
お前のすべてを注いでなせ
いずこの湖にも月は輝いてその姿をあますところなく映す
高きに生きているからだ」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)



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2013・03・09

2013-03-09 14:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「馬車が街道を」と題した詩一篇。

「馬車が街道を通り そして見えなくなった。
だが街道は美しくならなかったし 醜くさえならなかった。
外界での人間の行為はこうしたもの。
われらはなにひとつ減らさぬ 加えぬ。われらは通り過ぎ 忘れる。
そして太陽は 毎日 つねに正確だ。」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)

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2013・03・08

2013-03-08 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソア(1888-1935)の「テージョ川は」と題した詩一篇。

「テージョ川はわたしの村を流れる川より美しい。
だがテージョ川はわたしの村を流れる川ほど美しくない。
テージョ川はわたしの村を流れる川ではないからだ。

テージョ川は大きな船を浮かべている。
そのうえ テージョ川を走る、
いまテージョ川にないものがすべてのなかに
見える人々には かつての帆船の記憶が。

テージョ川はスペインから流れ来て
テージョ川はポルトガルで海に注ぐ。
これを知らぬ人は誰もいない。
しかしほとんどいない、わたしの村の川のことを
どこへ流れて行くかを
どこから流れて来るかを知る人は。

わたしの村の川のほうが自由で大きいのは まさに
わたしの川を知る人のほうがすくないからだ。

ひとはテージョ川を通って世界へ出てゆく。
テージョ川のむこうにはアメリカがあり
富をみつける人々には富がある。
だが考えた人は誰もいない、わたしの村の
川のむこうにあるもののことを。

わたしの村の川はいかなることも考えさせない。
あの川のほとりにいる人は あの川のほとりにいるだけ。」

(「フェルナンド・ペソア詩選『ポルトガルの海』」池上岑夫編訳 彩流社刊 所収)

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2013・03・04

2013-03-04 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、与謝蕪村の句。


  春雨やもの書かぬ身のあはれなる

          (「蕪村句集」所収)

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