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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・07・31

2013-07-31 13:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」。

 「 だいぶ年をとってきた。スキーでは、急斜面も新雪でも転ばなかった僕が、けっして転ばない

  ような緩斜面で転んで骨折した。単にドジだったわけではない。体力が衰えて、運動神経が少し

  ずつにぶくなってきたのだ。これが年をとるということなんだろう。少しずつ死が近づいてきて

  いると思う。

  もしも、孫たちから『何で人は死ぬのか』と聞かれたら、僕はこう答える。

  『生きているすべての命には限りがあるんだよ。秋になると木の葉は枯れるだろう。落葉は大地

  に栄養を与える。季節が変わり、春に新しい緑を育てるために葉は散るんだよ』

   夏が終わって秋がくれば、僕も葉を落とす。たんたんと、たんたんと、葉を落とす。

  そうやって死んでいく。

   僕が『がんばらない』という本に書いた言葉がある。

  『今日は死ぬのに、とてもいい日だ』

   死が近づいたときに、こんな言葉を言えたらいいなあと思っている。」 

        (鎌田實著「大・大往生」小学館刊 所収)


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2013・07・28

2013-07-28 14:15:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「死ぬ気まんまん」より。

「 従姉妹のモモちゃんが、ピンクのバラたくさんたくさん持って来てくれて、千疋屋の

 メロン菓子ももらった。

 『何か欲しいものないの?もうお金があまっちゃっているのよ』モモちゃんはいつも

 そう言う。私も『モモちゃん、何か欲しいものない? 何でも言って』と言い合う。

 今日は、私はモモちゃんに、手刺しの白いレースに丸えりのブラウスを買ってあった。

 本当にモモちゃんは人品骨柄上等である。そう言い合うだけで、心がでっかくなって、

 おまけに楽しい。

 モモちゃんは、私より七歳くらい年上だけど、古き良き日本のエッセンスを全部持っ

 ている。

 まず姿勢が良く、居ずまいが美しい。

 『あなたねェ、もう私駄目だわ、お金あるのに、何にも欲しいものがないのよ。年取

 るって、欲がなくなっちゃうのねェ。欲って、若さなのねェ』

 急に、『ニコニコ堂の性欲はあるが、精力がない』を思いだしたが、ニコニコ堂はま

 だ若いのだろうか。

 モモちゃんは、下品な話題は絶対にしない。私も下ネタ話などしたことがないし、モ
 
 モちゃんにはそんなものは受け入れないオーラが発散している。たぶん一生に一度も

 そんな話は聞かずにすんだと思う。

 気品というも、別にモモちゃんの家柄血統が上等というわけではない。私の父がモモ

 ちゃんの父親の弟で、山梨のど田舎の百姓の出である。

 しかし、私の父も下品ではなかったし、モモちゃんの父親も堂々たる人格だったと思

 う。

 そしてつくづく、教育というものは重大だと思う。モモちゃんは、戦後民主主義教育

 を受けていない。

 私はどっぷり戦後教育である。

 戦争中で、学徒動員で、勉強どころではなくて、松ヤニ掘ったり炭かついでばっかい

 たというが、道徳とか作法の教科があったそうだ。

 同じ血統でも、私の方が下品だと思う。

 行儀も悪いと思う。

 言葉づかいもなっちゃいない。モモちゃんは日常生活の中で、自然に敬語を使い、きれいな日本語を話す。

 言葉は人間の中で、まことに重大である。それだけが人間の証明であるとも言える。

 言葉は民族の誇りである。世界中どこの国でも民族の誇りであらねばならない。

 たちの良くない人間はゴリラ以下、牛以下だと思う。

 何故なら、動物達は孤独に耐えている強く淋しい目をしている。

 言葉を話すと、あの動物の孤独な目が失われ、目はあらゆる欲望の表現ツールになり、物欲しげになる。

 私達は宿命としてそうなってしまった。

 モモちゃんは乱れまくる日本語にとても心をいためている。いや我ら一族はいかりまくるのである。

 さてどうしましょうということになると、モモちゃんは、戦前の教育に戻した方がいいと言う。

 もう私も同感である。

 日教組の中学の国語の教師が、『伯母と叔母の区別はない。同じだ』と言うので、私はモモちゃんにきい

 たら、『当り前でしょ、あるのが。日本語のすばらしいところでしょ』

 うん、私の日本語は正しかった。伯父さんと叔父さんは違うのが一目でわかる。

 英語はわざわざ、オールドとかつけるが風情がねェのう。

 日教組の組合会議に出かける間に、伯母と叔母の違いを勉強しろ。

 権利ばかり主張するな。

 権利には義務が袷(あわせ)の着物のようについているのだよ。

 単衣(ひとえぎぬ)の着物を一年中着るな。

 私は目上のモモちゃんにとても失礼なことをたくさんしていると思う。口のきき方だけでも。

 モモちゃんは無欲だった。一生無欲だったと思う。

 不思議なことに無欲な人には金が降りつもるのだ。そして、降りつもる金に大笑いしている。

 それから恥を知っている。何が恥であるか、教育の中に含まれていたと思うし、世の中が恥を知って

いた。

 恥しらずというのが、人の別の言い方だったと思う。

 資本主義と民主主義の中で、どうして人間の品格を保持すればいいのか、私は正直わからない。

 モモちゃんの世代もやがて消えてゆく。

 貧乏でもいい、品格とか誇りとかを持って、私は死にたい。

 でも、どうすればいいのかわからない。

 モモちゃん、私はお金で買えないものをあげたい。尊敬とか恩義とか。」

(佐野洋子著「死ぬ気まんまん」光文社刊 所収)



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2013・07・27

2013-07-27 14:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「死ぬ気まんまん」より。

 「 死ぬことが間近になったら、死んだらお金はかからないということに気がついた。

  部屋をぐるりと見わたすと、全部買ったものばかりである。茶碗から箪笥、横に壁が見えた

  から家も買ったのである。

   もらった花が不思議なバラ色をして暗く咲いているが、これもくれた人が買ったのである。

  私はぎょっとした。私は金のためにずーっと働いていたのだ。

  すべての時代貧乏で、コロッケ一ヶを半分ずつ食べたが、コロッケも五円だった。買いに

  行く時はいていたつっかけも買ったのだ。

   私は一生どれくらい金をつかい稼いだのだろうと思うと、当り前のことは不気味でうす気

 味悪いことだった。

  私の周りの人も皆働いているが、趣味でお金はいりません、と働いている人はいない。

   私は自由業で年金がないから、九十まで生きたらどうしようと思ってチビチビ貯金をして

  いた。国民年金もないのである。十年くらい前、社会保険庁に行って、けんかをして、

 『そんなものいらんわ』とけつをまくっちゃったのである。けつをまくったわけは、窓口の

  男がくさっていたからである。あゝ窓口がくさっているってことは、この組織全体がくさ

  っているとわかった。私は卒業した時から自由業だったから、国民年金は払っていたので

  ある。

   窓口の男は、私が領収書を一枚持っていったら、二十年前の分全部領収書を持って来いと

  言う。二十年分はコンピューターに入っているが、それ以前のは領収書を持って来なくち

  ゃだめだと言った。

 (その時、そちらにも控えがあるはずだと何で言わなかったのか、自分でもわからない。)

  そしてその男は言ったのだ。明らかにバカにした態度で腰をひねって、そこに腕を置き

 『全部もらったって、たいしたことないよ』

  私は許さない。お前は公務員だから何十万ももらうのだろう。それは私らが納めた税金

  だろが。

  そして今の騒ぎである。ホラネ、あの時からそれ以前から、くさっていたのだよ。

  浮いた年金の中に私のも浮いていると思うと、社会に参加している気がして晴れがまし

  い。

   チビチビ貯金も死ねばいらないのである。

   ガンが再発して骨に転移した時、お医者は、死ぬまでに治療費と終末介護代含めて一千

  万円くらいだろうと言ってくれた。

   ほぼ七十歳くらいで、私は金がかからなくなるはずである。

   私は抗ガン剤は拒否した。あの全く死んだと同じくらい気分の悪い一年は、そのために

  一年延命しても、気分の悪い一年の方が苦しいのである。もったいない。そうでなくて

  も老人につき進むのは身障者につき進むことである。

   七十前後はちょうどよい年齢である。まだ何とか働け、まだ何とか自分で自分の始末は

  できる。

   私はとてもいい子で生きて来たにちがいない。神様も仏様もいるのである。そしてちゃ

  んと私に目を留めてくれたのだ。」

(佐野洋子著「死ぬ気まんまん」光文社刊 所収)


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2013・07・25

2013-07-25 06:30:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「死ぬ気まんまん」より。

 「 変な夢を見るようになった。かいだことがない、くさーい匂いだけがする夢を二度見た。二度とも

  同じ夢だった。私は夢の中で、これが死の匂いか、死体の匂いではなく、死の匂いかと思っていた。

  この間は、死んだ父さんが、ぴらぴらした単衣(ひとえ)の紺色の大島を着て、七人も八人もぐるぐる

  私の周りを忍者のように音もなく動いていた。

   昨夜は兄さんが、白黒のサッカー生地のブラウスに半ズボンをはいて、消えたり現れたり、実にデ

  ジタルに出て来た。

   私は、あの世があるとは思っていない。

  あの世はこの世の想像物だと思う。

   だから、あの世はこの世にあるのだ。

   不幸にして若くして同級生が死んだりする。同級生は皆驚き、『えっ、嘘』とか言って、葬式で泣く。

   それぞれ思いはこもごもで、喪服に白いハンカチがちらちら動く。

   久しぶりの同級生の大人のなり方に感心したりし、『せっかくだから、ごはんでも一緒に食べようか』

  とゾロゾロ、二階に座敷がある店に入り、しんみりと『早すぎたよなあ』『何であんな好い奴がなあ』

  と、しばし遠い目で、あの世のかつての友人の姿を思い出したりしている。

   そして一時間後、もう誰も死んだ人のことなど忘れて、『バカヤロー、先生にちくったのお前だろ』

  『俺じゃねぇよ』。青白い秀才が『いや実は俺が参謀だった』『えーっ』などと実ににぎやかに楽しい

  同窓会になってしまう。

   そんな時、私はにわかに覚醒し、思う。他人の死は一時間しか続かない。親族と他人は違うんだ。特に

  仲が良かった人以外は、時々思い出して淋しい目になれれば上等なのかもしれない。

   子供の時から仲が良かった孔(こう)ちゃんが五十代半ばで死んだ時は、ショックだった。

 そして孔ちゃんは、きれいな茶色い箱の中に、ぎっしりと思い出として詰まってしまった。

   時々、ふたを開けて、記憶を選ぶ。

   ディカプリオをつぶしたような頑丈な顔をして、他の誰とも違う味わいは、子供の時から互いに尊敬し

  合っていたことだった。他に誰もそういう感覚を持つことはなかった。

   大人になると私はひがみっぽくなって、私を尊敬する人など見つからなかった。

   私はバカ丸出しで、そのくせ人の欠点にいやに目ざとくなっていた。

   年下だったけど、がっしりしたロバート・デ・ニーロのような体格に安心感があった。

   私が孔ちゃんに一目置いたから、孔ちゃんも私に優しかったのかもしれない。
 
   死なない人はいない。

  そして死んでも許せない人など誰もいない。

   そして世界はだんだん淋しくなる。」

  ( 佐野洋子著「死ぬ気まんまん」光文社刊 所収 )


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2013・07・24

2013-07-24 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「死ぬ気まんまん」より。

「 火葬場のない富士川の縁(へり)の小さなで、母は兄を火葬にすると言ってきかなかった。

 川っぷちの地面に兄の棺桶を薪(たきぎ)の上にのせ、たくさんの木を親戚の男の人達が集めて燃やした。

  それに火をつけるのは親ではなく兄弟だそうで、私が兄に火をつけた。どしゃ降りの日だった。

 母はその煙を遠くに見て、身をもんで泣いた。
 
  私は七十でもうすぐ死ぬが、七十年の年月の中で、兄の死が最も大きい喪失感だった。

 コロコロ目の前で人が死ぬと、死ぬってことは、実に単純で当り前になっていった。

  私は恐ろしいとか、こわいとかを思わない人になっていた。

  あの大雨の夜中に真っ暗な山道を走ったことで、暗い所がこわいと思わなくなった。あの時のことを

  考えれば、どんな暗い所も軽ーいことに思える。

  大人になって、男と惚(ほ)れた腫(は)れた、別れる別れないと大騒ぎしても、泣くことはなかった。

  私が泣く時は、口惜(くや)しい時だけになってしまった。

  口惜し泣きは何か開放感がない。

  そしてタダシのことを思い出すと泣く。どんな時でも泣く。不憫(ふびん)なのだろうか。そしてタダシ

  のことを覚えているのは、家族の中で私だけになった。

  昨日、従姉のモモちゃんが来た。
 
  モモちゃんは父方の従姉で、私より九歳年上である。

  モモちゃんはタダシのことを覚えていてくれる。

  『あの子は惜しかったわね。あの子は大物の面構えをしていたわよ。悪いけどあんたの兄弟の中にあんな

 大物はいないわね。本当に惜しい人は死んじゃうんだねー』

  すいません。しかし、私はモモちゃんの意見に賛成である。

  私は、人は家で死ぬべきだと思う。

  病院で死ぬのが当り前になっているけど、家の中で畳の上で死ぬべきである。

  あの頃、人の命は地球より重いなどと言う人はいなかった。

  日本人の子供よりイラクの子供の方が軽い命である。

  タダシと兄ちゃんの命もフワーッと人魂になって消えるほど軽かった。命は皆、グラムで量れるものでも、

  金に換えられるものでもない。

  大人になるとなかなかコロッとは死ねない。

  父は二年間、うすべったい布団と同じ厚さで天井を見続けて死んだ。

  私もコロッとは死ねない。

  もしかしたら死なないのかもしれないと思ってしまう。

  昨日、病院で好(い)い男先生にきいた。『私、あとどれくらいで死にますか。いや正確でなくていいです。

  例えば、月単位とか、週単位とか大ざっぱでいいですから』

  『うーん、年単位』

 『えっ!? 先生、あと二年くらいって言われて、すっかり私はその気になって、二年はとっくに過ぎましたよ。

  私はジャンジャン金使っちまったじゃないですか』

 『えっ、お金なくなっちゃったの。困ったねェ』

 『ホスピスのお金だけ取ってあります』

 『困ったねェ』と言って笑い出してしまったので、私も笑った。

 先生がかわいそうになったので、『私やたら元気ですから、仕事しますから、大丈夫です』

 好い男先生は四月に開業する。今通っている病院より私の家から近いので、私は好い男先生についてゆくことに

 した。タクシー代が半分ですむ。
 
 私は死ぬまで、どういうつもりで生きていけばいいのか分からない。

 ただ、壮絶に闘うということだけは嫌だ。

 死ぬまで舞台に立ちたいと言った新劇の役者が日々やせおとろえながら立っていた舞台は、嫌だった。お客に

 失礼ではないか。私は痛くなったら、すぐ麻酔を打ってほしい。どんどん打ってほしい。

 私は死ぬのは平気だけど、痛いのは嫌だ。痛いのはこわい。頭がボーッとして、よだれを垂らしていてもいい

 から、痛いのは嫌だ。」

  ( 佐野洋子著「死ぬ気まんまん」光文社刊 所収 )


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死ぬ気まんまん 2013・07・23

2013-07-23 06:45:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、佐野洋子さん(1938-2010)のエッセー「死ぬ気まんまん」より。

 「 私の家族は私の目の前で、スコンスコンと何人も死んだ。昔は皆、病人は家で死んだ。

  三歳の時、生まれて三十三日目の弟が、鼻からコーヒー豆のかすのようなものを二本流して、死んだ。

  あんまり小さかったので顔も覚えていない。ただの赤ん坊の顔していた。三十三日目くらいでは人間の

  顔にならないのだろう。私は悲しいと思わなかった。あんまり赤ん坊だったからだ。あれはいったい何

  の病気だったのだろう。病院に連れて行く間もなく突然に死んでしまった。

  でも母は泣いていた。人が来ると泣いたが、身も世もないほど泣いたとは思えないとわかったのは、何

  年かたって兄が死んだ時の母を知ってからだ。

   それから私の下の下の弟が大連から引き揚げて三ヶ月目に、またコロリと死んだ。

  名をタダシと言った。その時、家(うち)は子供が五人もいて、八歳の私は四歳のタダシの子守係だった。

  今でも私はタダシの柔々と丸っこい小さな手の感触がよみがえる。

  いつも私が手をつないでいた。引揚船の船底からほとんど縄ばしごのようなものを上り、つるつるに氷

  ですべる甲板のトイレに連れて行った。タダシは四歳にして貫禄があった。一度もぐずったこともなく

  我儘も言わなかった。無口だった。その上、眉毛のはじにつむじがあり、小さい西郷隆盛のようだった。

  母は背中に生後三カ月の赤ん坊を背負い、ほかに三人の子供がいたので、タダシは私の子供のようだった。

  たぶんタダシのことは母より私の方がよく知っていたと、いま思う。

   父の田舎に引き揚げてからも、タダシは私の子供だった。二月に引き揚げて来て五月に死んだ。

   死ぬ前の前の日、私とタダシはれんげ畑にいた。私はれんげの花を摘んではタダシに握らせた。いつもは

  とても喜ぶのに、その日は笑わなかった。石に座ったまま花を握った。花をまた握らせようとした時、前

  の花の束がばかに熱くて、くったりしていた。

  家に帰ろうと思ってタダシの手を引くと、動こうとしなかった。私は強く手を引いた。タダシは嫌々歩いて

  すぐしゃがみ込んだ。私はじれてタダシを背負った。背中がすごく熱くなった。タダシがその時、高熱を出

  していたのだとわかったのは、私が大人になってからだった。

  父の実家の蚕部屋で、タダシは二日目の夜に死んだ。

  小さな小さな棺桶だった。医者も来なかった。医者のいない村だった。

  母が泣いたかどうか覚えていない。父は泣かなかった。

  タダシは白い米の飯を生涯一度も食わずに死んだ。

  中国ではコーリャンと粟を、日本に帰ってからは、さつま芋入りの麦飯か、さつま芋だけを食った。たぶん

  栄養失調で、熱と闘うエネルギーの蓄えが一グラムもなかったのかもしれない。

  死にそうなタダシの隣に同じように死にそうなもう一人の弟の布団があった。

  下の台所で親戚の小母さん達が、『どっちが先に死ぬずら』と言う、賭けをしているみたいな言葉を聞いた時、

  そうか、どっちかが死ぬのかと私は思った。

  次の日、目が覚めた時、もうタダシは死んでいた。

  小さい小さい棺桶だった。百姓の七男の父に墓はなかった。どこかさしさわりのない、誰のものでもない墓地

  のはじっこにタダシを埋めた。

   次の年の六月の大雨の日に兄が死んだ。兄は一週間くらい寝た。母は半狂乱だった。

   あまり母が泣き続けるので、父は寺の坊さんの所に母を連れていった。今にして思うが、母は宗教心のまるで

  ない人だったから、坊さんは何の役にもたたなかった。二度行ってやめ、そして泣き続けた。

  その時は富士川の向こう町の外れに、疎開していた医者がいた。大雨で富士川は氾濫し、鉄骨の橋の橋桁の上

  まで水が流れていた。夜中の二時頃、一時間以上かかる真っ暗な山道を、私は医者をたたき起こしに行った。

  生涯であんなこわかったことはない。夜中の真っ暗な森がどんなにこわいか知っている人はいると思う。

  もう寝ている医者を私はたたき起こした。泣き叫び怒鳴り、雨戸を破るほどたたいた。私はただ怒鳴った。

  『オキテクダサーイ、オキテクダサーイ』のどが痛くなった。

   医者が寝巻を着たまま雨戸を開き、ぼーっとした声で『一人で来たのか』と言った。

   私は医者を連れて走った。連れてと言ってもいいと思う。医者は『待ってくれ、待ってくれ』と、私のうしろ

  でぜいぜい言いながらついて来た。

   医者を呼びに夜中に行ったのは二度だ。二度目の時、医者の前で兄は死んだ。

  私と兄はほとんど近親相姦と思うほど一心同体であった。

  兄の目の色をいつでも正確に読んだ。
 
  私は兄が私を信頼しているのをはっきり意識していた。右に心臓のある病弱な兄を私は守る人だと自分で思って

  いた。
 
  母は泣いた。声が森進一のようになっても泣いた。

  長男を失った母はたくさんの同情を寄せられた。同情がやって来ると母はすぐ泣いた。

  兄が死んだ瞬間、私は泣いた。畳に体をぶちつけて泣いた。そして、そのあと泣かなかった。

  長男を亡くした母のために泣いてくれる人もいた。しかし、兄を失った妹の私のことに同情する大人はいなかった。

  私は毎日、兄と手をつないで寝ていた。

  兄が死んだと本当に思えたのは、つなぐ手がない夜、毎晩はっと気が付く。兄ちゃんは死んだ。私は兄ちゃんが死

  んでいることを毎晩忘れているのだとギョッとするのだった。」

  (佐野洋子著「死ぬ気まんまん」光文社刊 所収)


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2013・07・22

2013-07-22 07:20:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」。

 「 仕事で大きなミスをしたときにはどうすればいいか。それはもう絶対に失敗を認めることだ。

 言い訳はいらない。逆になぜミスを認めない人がいるのかがわからない。意味のない保身をし

  たいのか、変なプライド(人間の尊厳とか、矜持とは違う平俗な自尊心)がそうさせるのか。

  確かに仕事を始めると上司から『プライドを持て』と言われるような場面がある。だがその

  言葉には語られていない部分がある。プライドとは、『持て』と言われて持てるものではない。

   プライドを持つためには、それに相当するだけの努力や訓練、そして結果が必要なのである。

   自分の力を蓄えていって、どこから攻められても大丈夫なだけの『自分の鉄の鎧』というもの

  を築き上げていかなければならない。そういう武器というか、腕っ節というものを身に付けて

  いることが大前提だ。『いつでも死ねる』といった、身を捨てるような覚悟も必要だ。それが

  なくてプライドだけ持つというのはどうしようもない。」

  (なかにし礼著「人生の教科書」ワニブックス刊 所収)


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2013・07・21

2013-07-21 06:30:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

 「 社会人になり仕事をする。何人か同期もいるだろう。やがてその同期の人間と自分に仕事に

  おける実績の差が出てくることもある。そこで多くの人は焦りを感じてしまう。しかし他人は

  他人である。同期を意識して焦りを感じるのは、無意識に勝負をしていると思っているからだ。

  それを意識するなと言っても難しいかもしれないが、『他人のことは一切関係ない』というのは

  絶対的な真理である。

   自分の人生は自分でしか完結できないし、自分の速さでしか走れない。人と比べると相対的な

  評価が生まれる。しかし自分の人生は絶対的なものだ。そこでどう自分の人生を作っていくか

  ということを考え、意識と意思を持って進めていく、それは同僚たちと連携できるものではな

  い。」

 「 仕事というものは、目の前に来た事柄に全力を注がなくてはいけない。好きな仕事、嫌いな仕

  事は関係ない。全力を尽くすことで、人間は計り知れない能力を発揮できる。」

  (なかにし礼著「人生の教科書」ワニブックス刊 所収)






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2013・07・20

2013-07-20 06:35:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」。

 「『何か大きな忘れ物をしたかもしれない』と気付いてしまったなら、その瞬間からインプットを始め、

  すぐにでも努力を始めることだ。」

 「成長とは、『成長したいと思う人だけがする』ものだ。」

 「 人生のイニシエーションなしに人の成長はあり得ないのだ。

  ではそのイニシエーションとはどんなものなのだろうか?

  それは突き詰めて言えば『旅』と、『恋愛』と、『読書』だ。」

 「 だから若者たちよ、旅に出よ、海外へ出よ!」

 「 昨日今日、学校を出て来た頼りない若者よりも、外国に行って帰ってきた人のほうが能力があるに

  決まっている。」

 「『人を愛する』という、価値あることをしないでいて、自分のことで悩むのは言ってみれば怠慢だ。

  『怠慢』と『臆病』、『無知』というのは、人間の三大欠点。この病に陥らないようにしないと

  いけない。
 
   臆病とは自信のなさの表れであり、そのせいで人は物事の決断ができなくなってしまう。そして

  決断さえできるようになれば、人は怠慢ではいられなくなる。そう僕は信じている。」

  (なかにし礼著「人生の教科書」ワニブックス刊 所収)


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2013・07・19

2013-07-19 06:20:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」。

 「 人間は『未熟児』として生まれてきます。だから、人に依存しないと生きていけない。成長するまでの

  長い依存状態が、人間に様々な問題を生じさせる。『ものぐさ精神分析』という本の中で、岸田秀(しゅう)

  氏が書いておられるところです。

  子馬は生まれて一週間もすると、自分の足で立ち上がる。他の動物も、自分で餌を探すことが出来るように

  なると、親から離れていきます。親離れ子離れ何てことが問題になるのは、人間だけなのです。

  親の作った環境、親からの遺伝、親の人生からの影響、人間だけが、あまりにも多くのものを親から受け継

  いでしまいます。『ハネムーンのベッドには、六人の人間がいる』。ヨーロッパの諺が意味しているのも、

  そのことです。

   親子の問題は、他人にはなかなか分かってもらえません。」

  (鎌田敏夫著「来て!見て!感じて!」海竜社刊 所収)





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