「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

「善玉」「悪玉」 2019・03・11

2019-03-11 06:00:00 | Weblog





    今日の「お気に入り」。

    「 怪我がなおって退院するとき、おかげでほらこんなに手があがるようになった。あげてみせてくれとテレビに

     頼まれても、少女はにこりともしなかった。それでも事を荒だてたくなかったのだろう。顔をそむけたまま手を

     半ばあげた。

      川上慶子はマスコミがこの事故を奇貨として、はじめ自分を見世物にして次いでながく売物にする気だなと察

     してそれを拒否したのである。テレビに出してやると言えばどんなことでもすると思っているテレビ人間を、

     ほとんど彼女は憎んでいる。

     『日航の社長さん、お父さんお母さん妹を返して下さい』と言わせようとする魂胆を彼女はいち早く見ぬいて、

     それだけは言うまいぞと固く決心しているように見えた。マスコミに対するこれ以上の軽蔑を私は見たことが

     ない。

      年端もいかない少女にこんな察しがつくのを怪しむ人には、人は五歳にしてすでにその人だという言葉で答

     えたい。

      川上慶子の報道は『赤旗』からはじまった。父が共産党の町会議員だったからまっさき赤旗に出た。他の新

     聞はそれに追随しながら、ついに少女の父が共産党の町会議員だとは書かなかった。

      反天皇、反中曽根、反自民の新聞がなぜ共産党員であることをかくすのか。共産党は天下の公党である。

     新聞は彼女が全き善玉でなくなるのを恐れたのである。してみれば共産党員であることは百万読者の気にいら

     ないことだと、新聞はとっさに判断してかくしたのである。それも一社ならず新聞テレビの全部が転瞬(てん
     
     しゅん)のうちにかくしたのだ。その微妙な心理に私の関心は最もある。その機微にあってほかにない。

      夏目漱石は子をつれて活動写真を見物して、『あの人いい人? 悪い人?』とそのつど問われて閉口した

     という。マスコミは大衆を子供と同じだと見ている。かくて記者は円高を善玉か悪玉かとっさのうちにきめ

     なければならないのである。しかも読者は新聞が見る通りの存在で、したがってマスコミの体質は変るまい

     と思われるのである
。 」

        ( 山本夏彦著 「『豆朝日新聞』始末」 文春文庫 所収 )



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2019・03・10

2019-03-10 06:49:00 | Weblog






                           


   今日の「お気に入り」。

     「 新入社員を迎えて何をどう教えていいか分らなくて上役は困っている。年ごとに分らなくなる。知っている

      ことなら教えられると思うのはむろん誤りである。教えるのは才能の一種で、誰にでもその才能があるとは

      限らない。たいていない。


         ( 山本夏彦著 「『豆朝日新聞』始末」 文春文庫 所収 )


                                                      


                            
  
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2019・03・09

2019-03-09 06:25:00 | Weblog







  今日の「お気に入り」。


   「 ヒトラーの全盛時代は十年である、おごる平家だって二十年である。栄枯は一炊(いっすい)の夢だと

    書いたら一睡の夢だろう、字引ぐらい引け、またそのまま印刷に付す編集部も編集部だという手紙を

    もらったので驚いたことがある。

     『邯鄲の夢の枕』また『盧生の夢』の故事はまだ生きているつもりで書いたのは必ずしも私の落度

    ではない。謡曲に『邯鄲』がある。黄表紙に『金金先生栄花夢』がある。盧生という若者が栄華の都

    邯鄲の旅籠(はたご)で粥(かゆ)を待つうちついうとうと眠ると、富貴をきわめたり零落したりする一

    生の夢を見た。目ざめればもとの盧生である。粥はまだ炊きあがっていなかった。

     夕(ゆう)べは一睡もしなかったという言葉はむろんあるが、栄華は一炊の夢でなければならない。 」

          ( 山本夏彦著 「『豆朝日新聞』始末」 文春文庫 所収 )




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戸を出ずして天下を知る 2019・03・08

2019-03-08 05:15:00 | Weblog






   今日の「お気に入り」。


   「 『旅は友を失う』という俚諺(りげん)があるから、私は誘われても旅をしない。そのかわり小さな

    情報を拾って察するのである。古人は戸を出(いで)ずして天下を知り、窓をうかがわずして

    天道を見る
と言ったではないかとうそぶいて、再三旅した客を煙(けむ)にまくのである。 」

     ( 山本夏彦著 「『豆朝日新聞』始末」文春文庫 所収 )






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根のない核家族 2019・03・07

2019-03-07 06:50:00 | Weblog





  今日の「お気に入り」。


  「 デモクラシーは戦後アメリカから与えられたと思っているひとがあるが、大正時代に全盛だった

   のである。

    吉野作造が論陣を張って、それはほとんど一世を覆った。昭和になって社会主義に駆逐される

   まではデモクラシーの天下だったのである。戦前のデモクラシーと戦後のそれを違うと思っては

   ならない。同じである。

    大正デモクラシーをひと口で言うと親不孝である。自由恋愛である。猫なで声の童謡と童話

   ある。自由画であり綴方(つづりかた)である。もう一つ核家族である。

    以上戦後全盛のものはすべて戦前にあったのである。核家族まであったというとけげんな顔を

   されるが、東京は地方からの出かせぎ人が集まる大都会で、はじめ男一人が上京してやがて結婚

   して二人だけの所帯をもつ。いずれ親を呼ぶがそれは根のない核家族である。」

        ( 山本夏彦著 「『豆朝日新聞』始末」文春文庫 所収 )







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2019・03・04

2019-03-04 07:00:00 | Weblog



  今日の「お気に入り」。



   「 こときれて なほ邯鄲の うすみどり 」

   「 いやなこと いやで通して 老の春 」



             ( 富安風生 )






   インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には、富安風生さん

  のことが以下のように解説されています。

   「 富安 風生(とみやす ふうせい、1885年(明治18年)4月16日 - 1979年

   (昭和54年)2月22日)は、愛知県出身の俳人。本名は謙次。高浜虚子に師事。

   逓信省に勤めながら俳誌『若葉』を主宰。

   温和な作風で知られた。」


  「 経歴

    愛知県八名郡金沢村(現在の豊川市金沢町辺り)生まれ。

    豊橋町立豊橋尋常中学時習館、第一高等学校、東京帝国大学法科大学卒業。

    卒業後は逓信省に入り、のち逓信次官。」


  「 句作

    代表的な句に『みちのくの伊達の郡の春田かな』『まさをなる空よりしだれざくらかな』など。

    『よろこべばしきりに落つる木の実かな』といった軽妙な句もあり、『ホトトギス』を除名

    された杉田久女はこの句を皮肉って『喜べど木の実も落ちず鐘涼し』というパロディ句を作った。

    また風生は1934年に『何もかも知つてをるなり竈猫』という句を作っている。『竈猫』は風生の

    造語であったが、この句が虚子に認められたことで『竈猫』が新季語として登録されることとな

    った。

    富安はまた植物に詳しかったため、『植木屋の富安』の意で『植富』のあだ名で呼ばれた。

    師である虚子との信頼関係も厚く、虚子は1938年にともに避暑に出かけた際の出来事をもと

    に『風生と死の話して涼しさよ』という句を作っている。なお小澤實にこの句を本歌取りした

    『虚子もなし風生もなし涼しさよ』という句がある。 」

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海ゆかば 2019・03・03

2019-03-03 11:15:00 | Weblog



     今日の「お気に入り」は、時折り、脳の奥底からよみがえり、口ずさむ歌。

     大阪出身の作曲家 信時潔(のぶとき きよし、1887年(明治20年)-1965年(昭和40年))さん

    がNHKの嘱託を受けて1937年(昭和12年)に作曲した「 海ゆかば 」。
    
     インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には、「当時の大日本帝国政府が国民精神総動員

    強調週間を制定した際のテーマ曲」と解説されています。

     歌詞は万葉集の「賀陸奥国出金詔書歌」の一節。



       「 海(うみ)行(ゆ)かば 水(み)漬(づ)く屍(かばね)

        山(やま)行(ゆ)かば 草(くさ)生(む)す屍(かばね)

        大(おほ)君(きみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ

        かへりみはせじ 」



    「 此處(ここ)は御國(おくに)を何百里(なんびゃくり) 」の明治の軍歌「戦友」同様、 メロディと言い、歌詞と言い、

   「哀歌」にしか聞こえません。

    因みに、インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には、信時潔さんのことが、次のように

   解説されています。


   「 大正・昭和時代日本の作曲家、音楽学者、チェロ奏者。大阪市出身。 」

   「 略歴

     牧師・吉岡弘毅(元津山藩士の外交官で明治初期の日朝外交を担当)の子として大阪市北区中之島に生まれ、幼少より

    賛美歌に親しんだ。大阪の市岡中学を経て、東京音楽学校器楽部および研究科器楽部でチェロを学んだ後、同科作曲部に移り、

    アウグスト・ユンケルに指揮法、ハインリヒ・ヴェルクマイスターにチェロと作曲、ルドルフ・ロイテルに対位法と和声学を

    師事する。東京音楽学校助教授を勤めたのち、留学先のドイツでゲオルク・シューマンに師事、帰国後に東京音楽学校教授と

    なる。同校の本科作曲部(現東京芸術大学音楽学部作曲科)創設に尽力し、弟子には、片山頴太郎、下総皖一、坂本良隆、

    橋本國彦、呉泰次郎、細川碧、高田三郎、大中恩、柏木俊夫などがいる。

     主な作品には、交声曲『海道東征』、歌曲集『沙羅』、国民唱歌『海ゆかば』(大日本帝国海軍の将官礼式用儀制曲『海ゆかば』

    とは同名異曲)、『紀元二千六百年頌歌』、ピアノ組曲『木の葉集』、合唱曲『紀の国の歌』、『鎮魂頌』などがある。

     『沙羅』は現在でも愛唱され、多くの合唱曲も演奏機会が多い。『沙羅』を初めとする歌曲は木下保編曲の合唱曲としても

    親しまれた(木下は『海道東征』初演時の指揮者でもある)。芸術音楽のみならず文部省唱歌『電車ごっこ』等を作曲。

     戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂や監修にも力を注いだ。校歌・社歌・団体歌等の作曲も数多く手がけ、生涯で

    少なくとも1000曲以上を数える。

     シェーンベルクやバルトークなど当時の現代音楽の知識も豊富だったが、実作ではドイツの古典派・ロマン派に基づく簡素で

    重厚な作風を貫いた。太平洋戦争後は作品数が減るが、これは『海ゆかば』が軍国主義に利用され、学徒出陣の際に用いられた

    ことに対抗できなかったことを恥じたものだとも言われる。同世代の作曲家である山田耕筰とは作風、経歴、戦後の処し方で

    好対照をなす。 」
     



  

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Never On Sunday 2019・03・01

2019-03-01 06:00:00 | Weblog




  今日の「お気に入り」は、ラジオ番組で聞いた1960年代のはやり歌、”Never On Sunday”

   1960年に公開された映画「日曜はダメよ」の主題歌で、その後、内外の歌手が色んな歌詞で歌いました。

    次なるは、イギリス出身の歌手 Petula Clark さんが歌った "Never On A Sunday"
   

   「 Never on a Sunday when the church is full of people

    And the bells are ringing in the steeple, la la ....


     Oh, you can kiss me on a Monday,

    A Monday, a Monday is very very good

     Or you can kiss me on a Tuesday

    A Tuesday, a Tuesday in fact I wish you would

     Or you can kiss me on a Wednesday

    A Thursday, a Friday, and Saturday is best

     But never never on a Sunday

    A Sunday, a Sunday 'cause that's my day of rest


     Come anyday and you'll be my guest

     Anyday you say but my day of rest

    Just name the day that you like the best

     only stay away on my day of rest


      you can kiss me on a cool day

    A hot day, a wet day which ever one you choose

      Or try to kiss me on a grey day

     A Mayday, a pay day and see if I refuse

      And you make it on a bleake day

     A freak day, a week day why you can be my guest

       But never never on a Sunday

      A Sunday's the one day I need a day to rest


       Just name the day that you like the best

        Only stay away on my day of rest


      
       ( 後 略 )                         」



                     



   インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」には、映画「日曜はダメよ」や御年86歳の Petula Clark さんについて

  次のような解説が載ってました。


   「 『日曜はダメよ』(希題:Ποτέ Την Κυριακή、ラテン語転写:Pote Tin Kyriaki、

    英題:Never on Sunday、仏題:Jamais le dimanche)は、1960年にギリシャで制作された

    白黒映画である。

     ギリシャのピレウスに住む娼婦イリヤと、ギリシャ研究者でギリシャの全てをこよなく愛する

    アメリカ人旅行者ホーマーとの物語である。

     イリヤ(メリナ・メルクーリ)は底抜けに明るい売春婦で町中の男たちの憧れでもあった。

     アメリカからホーマー(ジュールス・ダッシン)という古代ギリシャの民間研究家がやって

    きた。上陸第一歩、彼は酒場に入った。そこで町の男たちが酔って唄うのに感激し、思わず

    拍手した。それが男たちを怒らせてしまい、喧嘩になった。仲に入って喧嘩を止めたのが

    イリヤだった。ホーマーは彼女こそ伝統的なギリシャ美人とみて、さっそく研究対象に決めた。

     そして今の商売をやめさせようと思った。イリヤは週1回、日曜だけは仕事を休んで、トニオ

    (ジョージ・ファウンダス)やジョルゴ(ティトス・ヴァンディス)ら気の合った男たちを

    呼んでドンチャン騒ぎをやった。ホーマーも粘りが功を奏して参加することができた。町の

    売春ボス、ノー・フェイスの子分ガルベジが日曜日に贈物を持ってきた。が、たちまち男たちに

    つまみ出された。独立営業のイリヤはノー・フェイスにとってシャクの種だった。ホーマーの

    更正運動を知ったノー・フェイスは、金を出してイリヤに足を洗わせようとした。ホーマーは

    イリヤの仕事を休ませて勉強を教えた。彼女の独特なギリシャ悲劇の解釈にはホーマーもめん

    くらった。売春婦の1人が、イリヤにホーマーがノー・フェイスの手先だと教えた。怒った彼女

    は今までの修行をほっぽりだした。そこへ外国の大艦隊が入港した。イリヤは売春婦たちの

    先頭に立ってノー・フェイスに挑戦した。ブタ箱での団体交渉に成功して、軍配はイリヤに

    上った。再び酒場にイリヤの姿がみられるようになり、男たちは大喜び。初めてギリシャ人

    気質を知ったホーマーも考えを変え、踊りに加わった。――次ぎの日、出港するアメリカ船の

    甲板に、1人寂しく帰国するホーマーの姿があった。

     本作品の主演はメリナ・メルクーリとジュールズ・ダッシンであり、舞踊・音楽・言語などの

    ギリシャ文化に観衆が穏やかに浸れるものとなっている。また、主題歌とブズーキによる

    テーマ音楽は1960年代を代表するヒット曲となり、作曲者のマノス・ハジダキスはアカデミー賞

    を受賞した。

     本作品の脚本・監督はダッシン自身である。


     本作品はアカデミー歌曲賞(マノス・ハジダキス)を獲得、さらに主演女優賞(メリナ・メルクーリ)、

    衣装デザイン賞、白黒映画賞、監督賞、脚本賞にノミネートされた。 」



     「 ペトゥラ・クラーク (Petula Clark、1932年11月15日 - )は、イングランド・サリー州エプソム出身の歌手、女優。

      ペトラ・クラーク、ペチュラ・クラーク、ペトゥーラ・クラークとも表記される。

      イギリスを代表するシンガーの一人であり、特に1960年代が全盛期であった。

      イギリスのみならずフランスにも進出を果たし、特に1964年の『恋のダウンタウン』で世界的ヒットを飛ばした。

      また『フィニアンの虹』ではハリウッド映画にも進出を果たした。




      
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