今日の「 お気に入り 」は 、内田百閒さん
( 1889 - 1971 )の随筆「 御馳走帖 」( 中公
文庫 )の中から「 腰弁の弁 」と題した小文 の
一節 。
引用はじめ 。
「 私は永年の間 、朝飯も午飯もたべなかつ
た 。しかしそれはお膳に坐らないと云ふ
のであつて 、一日ぢゆう晩まで何もたべ
なかつたわけではない 。朝はビスケツト
に林檎 、午は蕎麦のもりかけを食つて 、
身体の調子がすつかりそれに馴れてゐた 。
今度日本郵船会社の嘱託になつて出掛け
るに就き一番閉口したのは食べ物の事であ
る 。丸ノ内にだつて蕎麦はありますよと
軽く云ふ人があるが 、蕎麦屋はあつても 、
毎日私の待つてゐる時刻に持つて来させる
のは中中骨が折れる 。出前持ちはこちら
の気のすむ様にばかりしてくれるものでは
ない 。仮りにきまつた時刻に持つて来る
様に馴らしたとしても私は毎日行つてゐる
わけではないから始末がわるい 。何曜日
にはいらない 、外の日には時間を間違へ
ては困ると云ふ様な面倒な事は 、大勢を
相手に商売してゐる者に云つても無理で
ある 。」
「 そんなに六づかしいなら御自分から食ひ
に行けばいいではないかと 、その説をな
す人が云ふのであるが 、これは大変な誤
解であつて私がいつも家で蕎麦ばかり食つ
たのは 、蕎麦が好きな為ではなく 、蕎麦
で一時のおなかを押さへて我慢をしたに過
ぎない 。若し自分から足を立てて食べに
出掛けると云ふことになれば 、蕎麦屋で
盛りやかけを食ふよりは 、西洋料理とか
鰻の蒲焼などの方が好きである 。ただ昼
間の内からさう云ふ物を食べ散らす様なお
行儀のわるい事をすると 、自分の身体に
いけないから蕎麦で養生してゐたのである 。
食意地が張つてゐて自制心の弱い私の様な
者は 、成る可くうまさうなにほひのする
場所へ近づかないに限る 。
色色考へをめぐらして見たが 、いい分別
がないので面倒になつて 、結局なんにも
食べないのが一番簡単であると思ひ出した 。
さうきめたので気も軽く 、おなかの中も
軽いなりに日本郵船へ出かけてゐたが 、
家を出る時から既に腹がへつてゐるので 、
向うにゐる何時間かの内には 、二三度 目
の前がぐらぐらとして 、机の端につかまる
事がある 。廊下を歩くと 、時化に遭つた
甲板の様に 、急に向うの方が高くなつたり 、
足もとが落ちて行つたりして 、あぶなくて
仕様がない 。郵船会社は見掛けは立派だけ
れども 、廊下が安定してゐない 。」
「 そんな事を暫らく続けたが 、あんまり腹が
へるので 、或る日 節を屈して 、丸ビルで
蕎麦を食つて見た 。あつらへたお膳は目の
前に来たけれども 、辺り一面が大変な混雑
で 、私のすぐ右にも左にも 、鼻をつく程
近い前にも知らない人が一ぱいゐて 、みん
な大騒ぎをして何か食つてゐる 。腹のへつ
た鶏群に餌を投げてやつた有様で 、こつち
迄いらいらして 、自分の蕎麦を食ふ気がし
なくなつたから 、半分でやめて 、外へ出
てほつとした 。
そんな所へ行くのは一度で懲りたが 、郵
船会社の中で足もとがふらふらする事に変
はりはない 。若し廊下で倒れてしまつたら 、
死因は空腹であると云ふ事になると 、郵船
会社が見つともないであらう 。
大分長い間 瘦せ我慢を続けてゐたけれど 、
到底長持ちのする事でないと見極めがつい
たので 、アルミニユームの弁当函に麦飯を
詰めて携行する事にした 。机の抽斗に入れ
ておいて 、そろそろ廊下の浮き上がつて来
る二時半か三時頃に食べる 。おかずがうま
いと御飯が足りなくなるから 、塩鮭の切れ
つ端か紫蘇巻に福神漬がほんの少し許リ入れ
てある計りである 。持つて来る時には中が
詰まつてゐるから音がしないが 、夕方帰る
時は 、エレヹーターに乗つた拍子に 、袱紗
包みの中がからんからんと鳴る事もある 。」
引用おわり 。
日本郵船や丸ビルが出てくるので 、いつの頃の話かと
思ったら 、昭和十年代 、太平洋戦争が始まる前の日本
の首都 東京 、丸の内界隈にお勤めの頃の日常らしい 。
随筆の中に 、以下の記述があり 、嘱託勤めの裏事情が
わかって面白い 。
「 私は嘱託として会社に顔を出してゐたが 、
その内に戦争が始まり 、外洋航路は丸で
駄目になつた 。郵船としての活動は麻痺
してしまつて 、内部には人べらしも行は
れるし 、私の様な我侭な地位は邪魔にな
るばかりであつた 。
その時分私は一時 、無給嘱託と云ふ事に
なつた 。無給なら止めてしまへばいいで
はないかと云ふに 、さうは行かないわけ
がある 。当時頻りに報道班員と云ふ名前
で軍から指名されて 、文士が支那や南方
へ行かされた 。私にも直接 、軍からで
はないが 、一寸そんな話があつた事もあ
る 。それがいやなので 、郵船の屋根の下
から出てしまふ時期ではないと思つた 。
何も郵船の庇護を受けると云ふのではなく 、
郵船にそんな力がある筈もなかつたが 、
ただ自分は会社勤めの身分である 。文士
としてのお役には立たないと云ふ顔がして
ゐたかつたからである 。
その内に又もとの有給嘱託に戻して貰つ
て 、敗戦により郵船ビルを接収された後
まで会社にゐたが 、・・・ 」