今日の「お気に入り」は、小林一茶(1763-1827)の数多ある秀句の中からいくつか。
「又土になりそこなうて花の春」
「春風や牛に引かれて善光寺」
「うぐひすや軒去らぬ事小一日」
「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」
「我と来て遊べや親のない雀」
「痩蛙まけるな一茶是に有」
「からからと下駄をならして桜哉」
「又土になりそこなうて花の春」
「春風や牛に引かれて善光寺」
「うぐひすや軒去らぬ事小一日」
「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」
「我と来て遊べや親のない雀」
「痩蛙まけるな一茶是に有」
「からからと下駄をならして桜哉」
今日の「お気に入り」は、盛唐の詩人杜甫(712-770)の「可惜」と題した詩一篇。原詩、読み下し文、現代語訳ともに、中野孝次さん(1925-2004)の著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)からの引用です。詩人五十歳のときの作といいます。
可惜 惜むべし
花飛有底急 花の飛ぶこと底(なん)の急が有る
老去願春遅 老い去っては春の遅からんことを願う
可惜歡娯地 惜むべし 歓娯の地
都非少壯時 都(すべ)て少壮の時に非ず
寛心應是酒 心を寛(ゆる)うするは応(まさ)に是れ酒なるべく
遣興莫過詩 興(きょう)を遣(や)るは詩に過ぐるは莫(な)し
此意陶濳解 此意(このい) 陶潜のみ解す
吾生後汝期 吾が生 汝が期に後(おく)る
(現代語訳)
なんの用があって花はこうも早く散るのか。老いの身に願うのはただ春の逝くの遅いことだけなのに、ここは本来なら歓楽をつくすべき所であるが、もはやこの身が少壮でないのが残念だ。年をとったわたしには、酒だけが心をのびのびとひらいてくれるもので、また詩を作るにこしたたのしみはない。この心持ちを最もよく知っていたのは陶淵明だった。同時代に生きておられたら、あの人と共に酒を汲み、詩を作ってたのしんだところなのに。わたしの生れたのがかの人より遠い後世であったのが、なにより残念でならぬ。
可惜 惜むべし
花飛有底急 花の飛ぶこと底(なん)の急が有る
老去願春遅 老い去っては春の遅からんことを願う
可惜歡娯地 惜むべし 歓娯の地
都非少壯時 都(すべ)て少壮の時に非ず
寛心應是酒 心を寛(ゆる)うするは応(まさ)に是れ酒なるべく
遣興莫過詩 興(きょう)を遣(や)るは詩に過ぐるは莫(な)し
此意陶濳解 此意(このい) 陶潜のみ解す
吾生後汝期 吾が生 汝が期に後(おく)る
(現代語訳)
なんの用があって花はこうも早く散るのか。老いの身に願うのはただ春の逝くの遅いことだけなのに、ここは本来なら歓楽をつくすべき所であるが、もはやこの身が少壮でないのが残念だ。年をとったわたしには、酒だけが心をのびのびとひらいてくれるもので、また詩を作るにこしたたのしみはない。この心持ちを最もよく知っていたのは陶淵明だった。同時代に生きておられたら、あの人と共に酒を汲み、詩を作ってたのしんだところなのに。わたしの生れたのがかの人より遠い後世であったのが、なにより残念でならぬ。
今日の「お気に入り」は、以前朝日新聞に連載された大岡信さんの「折々のうた」の中で紹介された短歌を二首。
咲きすぎて清さ失ふ辛夷の木少し足らざる生活(くらし)よしとす
服あふれ靴あふれ籠にパンあふれ足るを知らざる国となり果つ (富小路禎子)
咲きすぎて清さ失ふ辛夷の木少し足らざる生活(くらし)よしとす
服あふれ靴あふれ籠にパンあふれ足るを知らざる国となり果つ (富小路禎子)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「死神にも見はなされ」と題された、昨日引用した平成11年8月のコラムの続きです。
「私はテレビも見ないラジオも聞かない。それでいてコラムを書くのはあんまりだから時々六本木に行く、新宿に渋谷に実物を見に行くことは以前書いた。
そこで若者の大群を見る、ほとんどまる裸の女たちを見る、去年は見なかったぽっくりのように高い靴のかかとを見る。この男女は十年前も見た、二十年前も見たといえばとがめていると思うかも知れないが、昭和十年代の銀座のクリスマス・イブでも見た。風俗がちがうだけで全く同じものだった。百年前のパリで見た、二千年前のローマで見た。
なまじ人には顔があるから一々違うと自分だけ思うが、たれか鴉の雌雄を知らんや。あれは個人ではない細胞である。細胞であるにたえないから事ごとに『個性』だの『オリジナリテ』だのと口々に言うのである。
昆虫の細胞には食ってばかりいるのがある、たった一度雌と交尾して、たちまち息たえるのがいる。あわれだというがそうか。我々はなまじ個体のなかに食を求めたり雌を求めたりする細胞があるので個人だと思っているのはとんだ間違いである。 私はながめて細胞ならまもなく死ぬだろう、死んでも全く同じ『種』としての人があとを継ぐだろう。これを新陳代謝という。故に私は死を恐れない。『死ぬの大好き』と書いたくらいである。ただ不思議に命ながらえていまだに生きている。死神にも見はなされたのである。」
(山本夏彦著 「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
「私はテレビも見ないラジオも聞かない。それでいてコラムを書くのはあんまりだから時々六本木に行く、新宿に渋谷に実物を見に行くことは以前書いた。
そこで若者の大群を見る、ほとんどまる裸の女たちを見る、去年は見なかったぽっくりのように高い靴のかかとを見る。この男女は十年前も見た、二十年前も見たといえばとがめていると思うかも知れないが、昭和十年代の銀座のクリスマス・イブでも見た。風俗がちがうだけで全く同じものだった。百年前のパリで見た、二千年前のローマで見た。
なまじ人には顔があるから一々違うと自分だけ思うが、たれか鴉の雌雄を知らんや。あれは個人ではない細胞である。細胞であるにたえないから事ごとに『個性』だの『オリジナリテ』だのと口々に言うのである。
昆虫の細胞には食ってばかりいるのがある、たった一度雌と交尾して、たちまち息たえるのがいる。あわれだというがそうか。我々はなまじ個体のなかに食を求めたり雌を求めたりする細胞があるので個人だと思っているのはとんだ間違いである。 私はながめて細胞ならまもなく死ぬだろう、死んでも全く同じ『種』としての人があとを継ぐだろう。これを新陳代謝という。故に私は死を恐れない。『死ぬの大好き』と書いたくらいである。ただ不思議に命ながらえていまだに生きている。死神にも見はなされたのである。」
(山本夏彦著 「寄せては返す波の音」 新潮社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「たとえば馬は胎内ですでに馬で、生れるとすぐ(すこしよろめくが)脚をふみしめふみしめ歩くことはご覧の通りである。人は歩くまでに一年前後かかる。話すまでにはもっとかかる。胎内に二年以上いなければならないのに、早く生れすぎたのでそれだけ不完全でそれだけ手がかかる。
人は他の動物にくらべてとても生き残れない存在なのに、こん日の繁殖を見たのはホモ・サピエンス、知恵あるおかげ、またホモ・ファベル、道具を持つようになったからだといわれている。
知恵いでて大偽(たいぎ)ありと私は子供心にぼんやり知っていた。生きて甲斐ない世の中だと私は幼ないとき天啓のごときを受けたのである。
私は他人と交って知るより自分を見て知ったのである。親友の幸運は一度は嬉しいが、二度三度かさなると嬉しくない、その友の悲運は気の毒だが見舞にかけつける足はおのずと勇む。そのことを私は自分のなかに見たのである。他人のなかに見たのではない。
私のコラムのたぐいはその観察の記録で、決して他をとがめているのではない。その目で私は他の毛もの、他の虫けらを見て知ったのである。
私はわがアパートのベランダに来る鳩や雀が、去年おととしの鳩と全く同じだと見てどれがどれの子孫だとは知るよしもない。あのおびただしい雀や鳩はその死体を見せない。ある日突然死期をさとって、去ってそこで眠るがごとく死ぬのである。人は禽獣に及ばず。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)
「たとえば馬は胎内ですでに馬で、生れるとすぐ(すこしよろめくが)脚をふみしめふみしめ歩くことはご覧の通りである。人は歩くまでに一年前後かかる。話すまでにはもっとかかる。胎内に二年以上いなければならないのに、早く生れすぎたのでそれだけ不完全でそれだけ手がかかる。
人は他の動物にくらべてとても生き残れない存在なのに、こん日の繁殖を見たのはホモ・サピエンス、知恵あるおかげ、またホモ・ファベル、道具を持つようになったからだといわれている。
知恵いでて大偽(たいぎ)ありと私は子供心にぼんやり知っていた。生きて甲斐ない世の中だと私は幼ないとき天啓のごときを受けたのである。
私は他人と交って知るより自分を見て知ったのである。親友の幸運は一度は嬉しいが、二度三度かさなると嬉しくない、その友の悲運は気の毒だが見舞にかけつける足はおのずと勇む。そのことを私は自分のなかに見たのである。他人のなかに見たのではない。
私のコラムのたぐいはその観察の記録で、決して他をとがめているのではない。その目で私は他の毛もの、他の虫けらを見て知ったのである。
私はわがアパートのベランダに来る鳩や雀が、去年おととしの鳩と全く同じだと見てどれがどれの子孫だとは知るよしもない。あのおびただしい雀や鳩はその死体を見せない。ある日突然死期をさとって、去ってそこで眠るがごとく死ぬのである。人は禽獣に及ばず。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 古い本を読むということは死んだ人と話をすることだ。」
「 私は年齢というものを認めてない。三千年も前の古人と話をしてどうして五十年や
百年の違いが違いだろう。生きているかぎり同時代人である。言葉は電光のように
通じるもので、私の話は中学生にも通じるし、同じ話が六十七十の老人にも通じない。」
「 私は子供のときから生きて甲斐ない世の中だ、さっさと死にたいと思っていたが、うまく
死ねるものではない。死神にも見放されたのである。なぜかと言われても人は五歳にして
すでにその人だとフレーベルの言葉を借りて答えるよりほかない。自分の内心を見てそう
思ったのである。以来ずっと私は人間の見物人になった。見れば見るほど人間というもの
はいやなものだなあと再三書いた。
どんな人の頭の中にも他人がいて、その他人がのさばって当人を追いだしてしまったの
が『私』だと言っても分ってもらえない。
だから私は時々女になる、女になれば男が見える。見えないところも多いが、それは色
情をもって見るからである。それなら私は犬になる。犬は身の丈三尺(一メートル弱)に
足りない、この世は一変して見える。けれども犬もまた哺乳類である。哺乳類であれば人
類に酷似している。
ここにおいて一躍して私は植物になる。人は植物をあなどって一段低いものと見るが私
は見ない。植物は人よりはるかに敏感である。鋸でひけば白い血を流す。四キロも離れた
孤独な銀杏同士はある日ある時風に乗って飛んで花を咲かせ実を結ぶ。植物がいかに高貴
か分ったろう。何よりいいのは常にすっくと立って移動しないことだ。人類の諸悪の根源
は移動するにある。何用あって月世界へ――。」
(山本夏彦著「寄せては返す波の音」新潮社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、以前朝日新聞に連載された大岡信さんの「折々のうた」の中で紹介された俳句をいくつか。
草麦や雲雀があがるあれさがる (上島鬼貫)
おぼろにてわれ欺(だま)すならかかる夜ぞ (加藤楸邨)
かたちてふあるとなくわらびもち (坂井建)
草麦や雲雀があがるあれさがる (上島鬼貫)
おぼろにてわれ欺(だま)すならかかる夜ぞ (加藤楸邨)
かたちてふあるとなくわらびもち (坂井建)
今日の「お気に入り」は、以前朝日新聞に連載された大岡信さんの「折々のうた」の中で紹介された俳句をいくつか。
無心とは春椎茸の傘のうら (和田知子)
打ちつゞく菜の花曇壬生祭(みぶまつり) (坂本四方太)
巣作りの今日はここまで軒燕 (本郷秀子)
無心とは春椎茸の傘のうら (和田知子)
打ちつゞく菜の花曇壬生祭(みぶまつり) (坂本四方太)
巣作りの今日はここまで軒燕 (本郷秀子)