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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・07・31

2006-07-31 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親と子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「母は借金とりのくる月末は、とつぜん集合をかけて、子供らをつれて山へ逃げた。この山へゆくのは、不思議に天気のいい日で、母は小作田も休んでいた。小作田におれば、借金取りがそこまでくるからで、とにかく、人眼につかぬ所へ逃げていなければならなかったようだ。借金とりは、朝きたり、夕方きたりした。それで一日まるきり家をあける必要があった。母は前夜から支度して、袋のつぎをあてたり、私らのもんぺをつぎあてたりしてくれた。そうして、弁当もつくった。生家のある谷はなぜか乞食谷という名だった。その谷から山へ入るのだった。そこは他人の山だったが、秋は栗や椎が落ちていたし、松茸も生えていた。鼠ダケや、山グミがみのっていた。母に教えられて、私たちは斜面に這いつくばって、いろんな木の実をひろうのだった。陽がさすと、山には、云いようのないうす陽で干いた地めんがあった。そこに、父をのけた一家が円くなってすわって、栗の実を喰ったり、グミを喰ったりした。山のなかの陽だまりにさしていたその陽ざしの明るさは、得体のしれないものだった。私には、妙に、母が美しく、あやしく見えたものだ。こんな時間を、私に植えつけてくれた、借金取りのくる日に、私は感謝しなければならない。また母が山へ逃げた思いつきにも、脱帽せねばならぬ。今日私は都会に住んで八百屋の店頭で、季節季節の山の幸を見かけるが、栗やキノコの肌から光りが出ていると、五十年前のあの山での陽だまりが、ふきこぼれるように思いだされ、瞼がうるむのだ。こういう私の心魂を育ててくれた母にも感謝する。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・30

2006-07-30 09:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「こういう思いを子供心にもたせた祖母はえらい人だといま思うのである。私はいまも何でもない使った物を捨てる気がせず、のこすくせがあって、物への異常な執着がある。これも祖母がくれたものかと思う。祖母は眼が見えぬから、手にさわったものを拾ってたしかめていた。村の道でも、家の中でも、破れ壁なので、雪がふきこんでくる寝所は、冬はいつもふとんはしめっていた。このように風のふき込むままに父が放置していたのは、あとで考えると、父の持ち物ではなく、地主の持ち物だった木小舎を、祖父が改造して家にしていたものを、父がうけついで住んでいるからだった。自分がいくら大工だからといってそれを修復しても他人の持ち物になる。地主にとられてしまう馬鹿らしさだったろう。これはごく自然な貧乏人の思いであって、早くどこかへ越すつもりでいた父にとっては、その引越しが思うようにゆかなかったこともあり、しょっちゅう母との争いになったらしかった。この親の事情を子供らは勝手に解釈し、破れ家に永遠に住まねばならぬかといったような思いを抱いて、父をのろったのである。いま六十歳になってふりかえると、風のふきこむ家もオツなものだった、と思う。うちの炉端はよその家より大きな火が燃えていた。というのは、金持の家や、電燈のある家は、火をたきすぎると、電球がすすけるし、衣類もよごれるので、焚き惜しみしていたのだが、うちは、半分は他人の破れ家でもあるし、そこにきれいな衣裳がかかっているわけでもないし、ともっている電球もないのだから煤けて困るものはない。それで、火を大きくたいて、周囲に子供らも父母も座をしめて煖がとれた。火をたくと本がよめる。こういう火を中心にした冬のぬくもりは、電燈のない家だけに、一家の集中度の濃さはどこよりもあって、私ら子供は、物もいわず、一夜じゅう父の焚く火を見ていたり、父がそのわきで細工物をつくったり、塔婆をつくったり、棺桶をつくったりするのを見て楽しんだ。こういう父の労働を、わきで見ながらくらす日の思い出はまだまだあるのだが、それらの一つ一つが、頑固なにくたらしい父の風貌とかさなって、温かく火のように、いま私をぬくめる。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・29

2006-07-29 07:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、一昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「二

  先ず盲目の祖母のことだ。彼女はたった四年ぐらいしか、私とともに生きていない。しかも、私が四つの時の死だから、私がいま瞼にのこしている祖母のくわい髪に朱い玉のついた耳かき兼用のカンザシをさしていたのを見たのは、たぶん道びきを背中に負われてやった二、三歳の記憶だろう。その祖母は、盲目のくせによく縫いものをした。木綿針を指先の腹にくっつけ、糸はしを口でしごいて細くかたくし、針にそわせて、穴へうまく入れ、足袋のつぎ当てをするのだ。縫う時には線の切れた電球に裏返した足袋をはかせ、針で突いてゆくと、針先が電球にすべってうまくいざるのである。盲目の祖母には光る電球は不要だったが、切れた電球が必要なのだった。私は四歳までこの祖母の裁縫に立ちあっていたから、世の中に切れた電球が、いかに尊いものかを学んだ気がする。友人の家へゆくと、クズ箱に捨ててある電球に、自然と手が走った。世間の人は、私が、電燈もない家にうまれているから、切れた電球に執心した心の裏側をどう見たかしらぬ。が、少しでも大きな電球があれば、祖母の足袋縫いの能率があがるだろうという思いがあって私はそれを拾ったのである。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・28

2006-07-28 08:05:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、谷川俊太郎さんの「うそとほんと」と題した詩を一篇。

 「うそはほんとによく似てる
  ほんとはうそによく似てる
  うそとほんとは
  双生児

  うそはほんととよくまざる
  ほんとはうそとよくまざる
  うそとほんとは
  化合物

  うその中にうそを探すな
  ほんとの中にうそを探せ
  ほんとの中にほんとを探すな
  うその中にほんとを探せ」

   (角川春樹事務所刊「谷川俊太郎詩集」所収)
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2006・07・27

2006-07-27 09:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「なぜ、自分はこんな家の、こんな親にうまれたのだろう、という思いがやどったのは、たぶんこうした日だった。こういう家といったが、小舎のような家は、土間と板の間があるきり、寒々したもので、座敷六畳はあっても畳はあげられ(盆・正月だけ敷かれた)、子供らの寝る所は変型四畳の板の間とゴザを敷いた土間と板ざかいになったあげ間だった。壁には穴があき、朝早くから、無数の光りの矢が、雨のように顔の上へふりそそいだ。なぜ、父は大工のくせに、破れ家のまま放ったらかしているのか、そういう家に私らを住まわせて、威張っているのも不思議だった。
 私が九歳で家を出て、京都の寺へゆくまでの、両親におぼえた絶望に近い反抗心の概要である。誰から入知恵されたわけでもない。私自身が、育てた。
 いまはもう、こういう貧困家庭はどこにもないだろう。盲目の祖母は施設に入れられているだろうし、棺桶づくりなども役場が処理してくれるだろうし、『村あるき』などの傭人はいなくて、回覧板が役目を果していよう。もちろん、母が村の辻で直していたような古下駄をはく人もいない。人々はスーパーで買ったクツをはいている。六十年近い前の、大正初期に私があじわった家の貧困ぶりは書けば書くほどよその国の出来ごとのように思えよう。
 だが、この貧困な家庭と親の思い出は私にはわすれられないのである。ケシゴムで都合よく消しも出来ぬ。暦の根に、固い雪として凍りついている。このことが、いま私にとって重要である。貧困をのろっていた頃は、よその家と比べて、イヤだった両親でありわが家だが、なつかしいというよりも、いま不思議に光りのようなものを放って私をとらえるのだ。もうしばらく、なぜそんな光りが見えるのか、を分析してみる。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・26

2006-07-26 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「貧乏なことはそれ自体悪徳だ、といった人がいる。ドストエフスキーも貧乏を憎んだし、河上肇も貧乏の追放を叫んで生涯を閉じた。だが、大正八年三月ごろは私の家と同じような小作百姓の家が日本にはゴマンとあり、三食喰えない親子はザラで、貧乏なために、しなくてもいい夫婦喧嘩や、親子喧嘩をやっていた。喧嘩ばかりしている父母がいると、その喧嘩は子供にもうつって、兄と私はよく喧嘩した。うちの喧嘩は村でも有名で、私は泣きだすと、村じゅうを走りまわって、夕方まで帰らなかった。家へ帰っても、父母がいるわけではない。父は遠出の仕事だし、母はよその田へ出ているから、暗くならぬと帰らない。電燈もない。まっ暗の家へ帰るよりはどこか村の堂とか、友だちの家にいる方がいいのだった。友達の母親は、私に風呂へ入ってゆけといい、時には友達といっしょにめしも喰わせてくれた。そういう家には、電燈があったので、私はまぶしかった。よその家はゆたかだと思った。だが、そう思っても、そこは、他人の家だからいつまでもおるわけにゆかない。自分には、イヤな家だと思えても生まれた家ならそこへ帰らねばならない。よその家の電燈の下でよんだ本のことや、喰っためしや、煮つけの味が、うちのと少しちがっていたことを腹の中で反芻しながら、にくたらしい兄と、しかめつらした父と、泥田を這いまわってきたため、腹をへらしていらだたしげに台所に立っている母の待つ家へのろのろ歩くのであった。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・25

2006-07-25 08:10:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日と同じ作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した文章の続きです。

 「父と母はよく喧嘩していた。私が四歳の時に祖母が死んだ。父は外へ仕事に出れるようになり、組にも入って普請にゆくのだったが、給金をもち帰らないので、母はぶつぶつ云い、結局、働き者の母は、地主の家の小作で米や野菜や薪をもらって、私たち五人の子を養育し、実質的な主導権をもつようになった。だが、当時の家は父が家長であった。金をもち帰らぬふしだら男でも、威張っていたのだ。私の父はとりわけ頑固者で理屈いいで、字も書け、弁舌もうまかった。母は反対に字も下手だったし、物言いもまあまあの無口者で、ひたすら働く性格だった。そのため事ごとに衝突したのだ。喧嘩はいつも陰湿だった。時には父が母を撲りつけるのを見たが、ねっちりと母をやりこめることがあった。母は泣いていた。しくしく泣くのである。眼をはらして、子供にかくれてしくしく泣く母を、私は三つごろから何ど見たことか。
 母は十六歳で京都に奉公に出て、下駄つくりをおぼえていた。十九歳で帰って、里の父親が財産を失ない、中風になって、村の辻へ出て仁丹を売ったり、下駄の鼻緒を打ったりするのについて廻っていて、父を見染め、結婚することになったらしかった。もちろん、そういう事情を私が知るのはのちのことだが、母は嫁にきた時は、タンスも長持もなく、風呂敷に当座の衣類をつつんできたといっていた。軀一つできた姿は、それはそれで棺桶つくりの父にふさわしい嫁だったろう。私はその母の二十二歳の時の子である。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・24

2006-07-24 14:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、「親子の絆についての断想」と題した、作家水上勉さんが書かれた五章から成る文章です。

 「一
  
  なぜ自分は、こんな家の、こんな父母に生まれたのだろう、と思いはじめたのはいつ頃だったか、たぶん、よその親子が目にうつって、わが家と比べはじめた時だろうと思う。五つだったか。六つだったか。比べる家は六十三軒あったの家々であり、そこの親やら子なのである。五つ六つでよその家をよく見たわけでもないが、よその家へゆく用事はあった。私の父は棺桶大工といわれて、埋葬地近くの他人の土地に建った小舎のような家に住んでいた。父の母は盲目だった。私にとって祖母であるが、この人は若くから全盲で、眼が見えないのに、『村あるき』していた。区長の家へ朝早く用事をききにいって、六十三軒をふれ廻るのである。米二俵が祖母の給料だった。私はよく祖母の手びきをした。それでよその家をのぞくことになった。どこの家にも電燈があり、風呂があり、庭には柿やら蜜柑やら、グミがあって、牛や馬もいた。川戸(浅い川につくった炊事場)には魚の骨や、鶏の骨があった。夕方、訪れてゆくと、電燈の下でめしを食う親子の食膳に湯気が立ち、ぷーんと煮物の匂いが鼻をついた。
 だが、私の家には、そういう明るい団欒はなかった。先ず電燈がなかった。風呂もなかった。浅い川の川戸もなかった。水は地主の家へもらいにゆくのである。もらい水での炊事だから、風呂まで手がまわらぬのも道理だった。陽がしずむと真っ暗になる家で、五人もの兄弟妹が、ごろごろ、棺桶をつくる父と、下駄直しの上手な母のもとで育ったのだ。私は二ばんめで兄とは二つちがい、一つちがいの弟に弘がいたが、これは早逝、つぎの弟は五つちがいで生まれている。まだ、ふたりいた。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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2006・07・23

2006-07-23 07:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、昨日引用した「親子の絆についての断想」と題した作家水上勉さんの文章に編者である山田太一さんが付されている前書きです。

 「表面揉めないことが、ほとんど人間関係の目的になりかけている今の世の中で、人と人とが深く関わることは、いよいよ少ない。親と子も例外ではないが、それでも尚、水上さんがお書きのように、親と子の関係には『オリジナルで、いかなる通念も届かぬ』なにかがある。その絆をまともに生きるしか、さしあたって私たちが浅薄をのがれる道はないのかもしれない。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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親子の絆 2006・07・22

2006-07-22 08:50:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、作家水上勉さんの「親子の絆についての断想」と題した五章から成る文章の最後の章の一節です。

 「私は以上のような過去と、現在をのべて、子供だったころの親への思いと、父親になってからの子への思いを正直にのべたつもりである。読んでわかってもらえるかどうか。私の事情は、友人知己の事情とくらべていくらか波瀾にとんでいるといえぬでもない。しかし、波瀾にとむのは、私だけではないのだった。六十歳ともなれば、大正初期の生誕ゆえ、米騒動、シベリア出兵、上海事変、満州侵略、中日戦争、太平洋戦争、敗戦―飢餓、朝鮮事変、特需景気、神武景気、高度成長、省エネルギー時代と、この国の動乱につきあっているのである。親子の事情もそれぞれ異って波瀾は必定で、私以上の苦惨、どころか、いまだに、生死の消息がつかめず、探し求めておられる親子もあるはずである。私の年齢では、親子の絆という問題を考えると、そういう不幸な時代を背景にして、必死に生きもがいた親子のことに思いがゆき、また、自分自身にも思いがゆくので、今日のたとえば、親子がいつもそろって、かりに、長期ローンで買求めた家にせよ、一つの電燈の下に居間があって、食器や食器棚にめぐまれ、電気洗濯機や、冷暖房機がうなって、快適な生活がいとなまれている、この国のいわゆる『中流』といわれる家庭から、親と子の絆について、しきりに問いが投げかけられているときけば、この上何がほしいのかと不思議に思うのである。ぜいたくなことを云っちょるわい、という思いがしないでもないのである。ひょっとしたら、人々は、貧困という恵みから遠ざかったため、大事な心をとりこぼしての不安かと思う。私もいまはその一人である。口はばったいことはいえない。人間というものは、寒く凍えてくれば、軀をよせ合うものだが、冬でも、夏のように暖房してくらせば、軀をはなすのである。どっちに、親と子の絆がその幼少期にふかく根をおろすかは云わでものことだ。さらに、いえることは、盲目の祖母にしても、足萎えの子にしても、人びとは、嘗て『家』を施設として、一しょにくらし、ファミリーで面倒を見た(私の生家は貧困だったがそうだった)ものが、いまはこれを『役所』にゆだねて、『施設』をつくらせ役所に手のとどかぬところがあれば、代表を選出して、自分のために手のとどくようにたくらむ時節となった。自分で手をよごすことが不幸だという価値観なら、こんな生活から親と子のつむぎ出す光りのようなものは、消えるだろう。少なくとも、私だけは、そういう考えがあるから、人をつかって何々するとか、役所に世話をやかせるということだけは慎しみたい、と必死に生きている。子にのこすものがあるとすれば、そういう考え(精神といってもいいか)しかないではないか。物なんてものは、いつか無くなるものだから。永くのこるのは心しかない。」

   (山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 所収)
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