「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・10・31

2013-10-31 15:05:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は。山本夏彦さん(1915-2002)と山本七平さん(1921-1991)の対談集から。

夏彦 『雨月物語』に『菊花の約(ちぎり)』がありますね。
 播磨の国、加古の駅(うまや)に丈部(はせべ)左門という博士あり。
 この左門が旅でわずらっている赤穴(あかな)宗右衛門を縁あって救う。
 二人は親しんで義兄弟になる。
 宗右衛門はひとたび国へ帰って九月九日の重陽の日には必ずもどると約束するが、その日になっても帰らない。
 そんなはずはないと酒、肴をととのえて待っていると、宗右衛門は故郷で反乱の新城主に捕えられ、死ねば魂はよく千里行って千里帰るというから、死んで霊となって来たという。
 ただねえ、これだけじゃ本当の友かどうかわかりにくい。

七平 オー・ヘンリーの小説に似たのがあったな。
 仲のいい友だちが何年後にここで会おうと約束をして別れる。
 その約束の日、巡査が歩いていると男が暗闇に立っている。
 『そこで何している』と問うと『実は何年後の何日に、ここで会う約束をしたから立っている』と言って、タバコに火をつける。
 『ほんとに現れるかね』と巡査。
 『あの男は義理堅いから、必ず現れますよ』
 『今その時間の五分前じゃないか』と巡査。
 二人は二、三、問答して、じゃ私はひと回りしてくるからねと巡査は行く。
 まもなく友だちと称する男が現れたのはいいが、見ると人相が全く違う別人で、それが待っていた男を逮捕する。
 実は前の巡査が友だったんですね。
 約束の時間にそこへ行って名乗りを上げようと思ったら、タバコの火でこれがお尋ね者だとわかったというわけ。
 自分が捕えるにしのびなくてひと回りしてくると言って仲間に頼んだという、オー・ヘンリーの物語。

夏彦 ありましたねえ。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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2013・10・27

2013-10-27 14:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「活字として紙の上に並んでいる詩歌にかぎらず、メロデイのついている歌でも、私はその文句を全部覚えているものは一つもない。小学校の校歌さえ覚えなかったのだから、推して知るべしである。もちろん、『君が代』とか『古池や――』とかは、知っている。これらは22ンガ4のように、自然に覚えてしまうから、例外である。
 したがって、そらでその文句を口誦む詩歌というものは、私にとって有り得ない。
 しかし、詩を読むのは好きである。詩といっても、明治以降現代にいたる新体詩で、一時期ずいぶん愛読した。大手拓次などという、シロウトのあまり知らない詩人の詩も読んだが、さてその『藍色の蟇』の一節を思い出そうとしてみても、駄目である。だが、最も愛読した萩原朔太郎か中原中也になれば、そのあちこちの二、三行が頭に浮んでくる。
 朔太郎では、
    『手ははがねとなり、
     いんさんとして土地(つち)を掘る』
 とか、
    『腰から下のない病人の列があるいてゐる、
     ふらりふらりと歩いてゐる』
 とか、
    『私はゆつたりとふほふくを取つて
     おむれつ ふらいの類を喰べた』
 とかいうことになり、中也では、
    『幾時代かがありまして
       茶色い戦争ありました』
 とか、
    『心置なく泣かれよと
     年増婦(としま)の低い声もする』
 とか、
    『汚れつちまつた悲しみに
     今日も小雪の降りかかる
     ……
     汚れつちまつた悲しみは
     たとへば狐の革裘(かわごろも)』
 とか、さらにはあの有名な、
    『ああ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
     ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ』
 とかいうことになる。しかし、頭に出てくるのはそういう断片だけで、一つの詩全部ということになると、駄目である。
 最近は、すこしは現代詩を含む詩を読むようになったが、戦後間もなくから長いあいだ殆ど詩に近付かなかった。その期間に印象に残った現代詩を一つだけ挙げておくことにしよう。
 印象に残ったのは、一つにはその詩を読むことになったプロセスが、印象深かったためである。昭和二十九年、私は肺結核で清瀬病院に入院していた。丁度その七月に芥川賞をもらったので、その病院ではいささか有名となり、ときおり未知の人がベッドに訪れてくることがあった。
 隣の病室にいるという青年がやってきて、雑談のあげく、最近詩集を出したから読んでみてくれ、という。私は億劫で、はなはだ乗気でなかったが、翌日渡された詩集を開いて、『おや』とおもった。本ものの詩なのである。本ものを見分ける規矩はなにか、といわれても困るが、ともかく『これは本ものだ』と私はおもったわけだ。文章を書く人間は露骨なもので、こういう際たちまち相手にたいする気持が違ってしまう。以来その青年(といっても、私も当時は青年であったが)と、友人になった。
 その青年というのは、飯島耕一であり、その詩集は『他人の空』である。もちろん、当時、私はそういう名前は知らなかった。その詩集には、いま読み返してみても好い詩が並んでいるとおもえる。左に書き写すのは、『すべての戦いのおわり』と題する詩で、三つの詩が集って成立っているが、『砂の中には』『世界中のあわれな女たち』は省略する。

      他人の空

     鳥たちが帰つて来た。
     地の黒い割れ目をついばんだ。
     見慣れない屋根の上を
     上がつたり下つたりした。
     それは途方に暮れているように見えた。

     空は石を食つたように頭をかかえている。
     物思いにふけつている。
     もう流れ出すこともなかったので、
     血は空に
     他人のようにめぐつている。」


(吉行淳之介著「吉行淳之介随想集『なんのせいか』」大光社刊 所収)



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2013・10・25

2013-10-25 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「文章は志を述べるもので、述べてあいまいなのは志があいまいなのである。」

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2013・10・24

2013-10-24 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、吉行淳之介さん(1924-1994)の著書「吉行淳之介随想集『なんのせいか』」より。

「根岸の里の侘住い、というのがある。若い人たちには知らぬ人が多いとおもうが、五七五の俳句で、下の七五をこの文句にすれば、上の五にいかなる文句がきても間に合う、というのである。
 たとえば、といっても俳句や和歌は苦手なので、なかなか思い出せないが……。
     古池や蛙とびこむ水の音
 有名な芭蕉の句である。この下の七五を変えて、
     古池や根岸の里の侘住い
 とすれば、なんとなく間に合う。
 上の五が、初雪や、とか、底冷えの、などとなれば、たちまち間に合ってしまう。無精をしないで、歳時記をひもといてみるか。
     葱白くあらいたてたる寒さかな(芭蕉)
     葱白く根岸の里の侘住い
     冬の水うかぶ虫さえなかりけり(虚子)
     冬の水根岸の里の侘住い
 五七五七七の和歌にも、こういう便利な文句がある。下の七七を、それにつけても金のほしさよ、とするのである。それはさておき金のほしさよ、という説もある。
 これは百人一首でやってみよう。
     田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ
       それはさておき金のほしさよ
     しのぶれど色に出にけりわが恋は
       それにつけても金のほしさよ
 なんと便利な言葉ではないか。俳句や和歌の世界とは別に、こういう便利な言葉は、時代時代によって、できてくるものだ。
 戦争中は、兵隊さんのおかげです、というのがあった。
 戦後になると、戦争のせい、というのがあった。政治が悪い、というのもあった。」

(吉行淳之介著「吉行淳之介随想集『なんのせいか』大光社刊 所収)

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2013・10・23

2013-10-23 07:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「生きていることは、汚れることだ、ということは生きているうちにしだいに分ってくる。その考えが決定的になったのは、戦争のときである。
 汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに、汚れていないつもりならば、それは鈍感である。
 もっとも、汚れかたにもいろいろある。私として、あまり歓迎できない汚れかたもいろいろあるが、それについて話し出すと長くなるので、やめる。
 汚れるのが厭ならば、死ぬより方法はない。子供の頃。はやくも餓死することになる。
 旧制高校の頃……、矢鱈に悩む時期である。あるいは悩んでみせる。私は寮の日誌に、『ぼくは悩みがないことを、悩む』と書いて、その風潮をからかったことがある。といって、自分に悩みがなかったわけでもないのだが、友人たちの悩みを聞いていると、感心できないものが多かった。
『ぼくは、いま、食事のたびに悩んでいるんだ』
 と言い出した男がある。
『牛も豚も魚も野菜も、みんな生命のあるものだ。そういうものを食べていいものか』
 と、彼は悩むのである。
『なにを、いまさら』
 と、私は思った。
 そういう残酷を犯すこと、そういう汚れかたをすることが、生きてゆくことなので、二十年ちかく生きてきたくせに、なにをいまさら、と思ったわけである。
 生きてゆくことにきめたならば、生きてゆくために便利なことは、どんどん受け容れたほうがよい。
 食べるものにしても、なんでも喰べてしまったほうが便利である……。というのは『考え方』であって、それに実行がともなうようになったのは、これは戦争のおかげである。それから、その仕上げをしたのは、やっぱり、赤線のおかげだなあ。
 であるから、高踏的に振舞っている人間は、みんなインチキだとしかおもえない。『純粋』とか『純潔』とか『純情』とかいう言葉くらい、嫌いなものはない。どれもこれも胡散くさいにおいを、ぷんぷんと放っている。」

(吉行淳之介著「吉行淳之介随想集『なんのせいか』」大光社刊 所収)


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2013・10・22

2013-10-22 11:10:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「私たちは悪いのは他人だと思う訓練なら受けているが、悪いのは自分だと思う訓練なら受けてない。」

「私は個人の運命の責任は個人にあって、国にないと思っている。これも私の言葉ではない。プロテスタントの言葉で、いまは時流にさからう言葉で、故に私の好きな言葉である。」

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2013・10・18

2013-10-18 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「長生きなんていうのは人生の目標にはならない。『健康のためなら死んでもいい』というギャグもあるが、健康は人生の目標ではない。
 健康は幸せに生きるための道具なんだ。その道具を磨くことが大事。こうやって考えていくとだんだん答えが出てくる。大切なのは『幸せ』。
 幸せってなんだかわかりにくい。でも、幸せを支えているものはいくつかわかる。その中の一つに健康があるだろう。仕事も関係している。
 ぼくはこの本の中で、働く場があることと愛する人がいること、これが人間が生きていく上で大事、と書いた。幸せには愛とか、人と人の繫がりも関係してくるだろう。文化とか芸術とかももちろん関係してくる。
 行動変容が大切なのだ。ちょっと生活を変えれば、誰でも、どこの県の人でも健康で幸せになれる。

 変な健康法にひっかからないこと。健康ブームなので、いびつな健康法が半年に一つぐらいずつ出てくる。ずっと流行(はや)り続けているものなんてよく見るとないはず。
 ぼくの言っていることはぶれない。当り前のことを言っているだけ。みんな聞いたことがあるような話だ。なぜならこれが王道だからだ。
 時々崩れてもいい。長く、なんとなくやり続けることが大事。がんばりすぎる必要はない。人間は時々、決めたことを守らないことがある。それが人間だ。
 つまずいてもつまずいてもやり続けること。
 もう一度、大事なことだけ繰り返す。『減塩』『血液をサラサラにする魚』『色素の多い野菜』『海藻、キノコなどの繊維』『発酵食品』『運動』。」

「人は必ず変われる。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)



大切なのは「幸せ」。そのとおりだと思う。自分や家族の「幸せ」のため、今は「健康」と「長生き」を「人生の目標」にする。「人のために働く人間」。私なりの「別解」。
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2013・10・15

2013-10-15 07:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集にある寸言。

「作者にとっては作品がすべてである。人物はカスである。だから人物を知っていると作品の鑑賞のさまたげとなる。」

それにつけても、語る作者が多過ぎる。


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2013・10・14

2013-10-14 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「今までの慣例を壊していくと必ず、後ろ指をさされたり、批判されたりする。どんないいことでも必ず一割ぐらいは水をかけてくる人達がいる。後ろ指をさされても気にしない。それが人間というものだと、初めから割り切っている。
 ぼく達の国は民主主義の国だから、いいのだ。どんなにいいことをしても、批判をする人がいていい。だが、その口を封じてはいけないのだ。
 打たれ強い出る杭になることが、今の日本で生きていくためには大事。
 仕事も恋愛も結婚も、みんな好きなようにやればいい。どうせ、いろいろ言う人はいる。気にしないことだ。
 腐った空気の中で空気を読み合っていれば、自分も腐ってしまう。腐らないことが大事。」

「人間は見栄っ張りな生き物だ。いつも自分を装っている。だから打たれたくない。打たれる姿なんか人に見せたくない。
 打たれた時の弱さも、つらさも、さらけだしてしまえばいい。杭は徐々にたくましくなり、打たれても打たれても、負けない杭になる。
 『別解力』のある生き方や、△に生きる生き方は、一つのイズムに自分をがんじがらめにしない生き方である。がんばるだけでは、もろくて、壊れやすい。ところどころ、がんばらない生き方をしていると、ガラス細工のようではなく、鋼(はがね)のように、柔らかで強い『新しい人間』になる。
 自分にこだわる生き方は、自立していないといけないと思いがちだが、どっこい違うのである。誰かに寄りかかる勇気をぼくはいつも持っている。寄りかかり名人だ。甘え上手と、ぼくのことを、親友で画家の原田泰治さんはよく言う。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)

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2013・10・13

2013-10-13 10:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「新しい資本主義は柔軟であってほしい。
 ほどほどにもうけながら、自然や現地の人達を大切にする。そんなあったかな資本主義。これは『別解』である。資本主義は本来、競争が大原則。ドライで冷たく、きびしい。これは20世紀の常識。
 共産主義は自滅していった。論理的に破綻していった。共産主義になっても、人間の倫理観を変えない限りまともな国にならないのだ。『新しい人間』が生まれない限り、革命なんて、意味がないのだ。
 ソ連の末期にチェルノブイリの放射能汚染地域の子供達を救うために、共産主義の国に入った。だめな国だなと思った。民衆は、貧しく、まともな医療が受けられていないのに、権力をもった人達は特別の病院で受診することができる。共産党の幹部が行く、リゾート地があったりする。これでは、共産主義がもつわけがない、とぼくは思った。それから、ソ連が崩壊するのに、4ヶ月しかかからなかった。
 邪悪な心が権力を握れば、共産主義はますます専制的になり、怖いシステムになることもわかってきた。
 資本主義しかないとすれば、20世紀型の競争する資本主義でなく、あったかな資本主義ができたらいいな、と思う。
 『別解力』が必要とされていると思う。あったかな資本主義なんて、可能なのかどうかわからないけど、可能にしたいと思う。競争を原則としながら、競争に負けた人達も、もう一度生きなおすチャンスが与えられる国にしたい。働きたいと思っている人達がいきいきと働ける国になったらいいと思う。
 みんなが自分や家族のために99%働きながら、1%は誰かのために、と思っているような国。そんな国ができたらいいと思う。可能性は十分にあると思う。」

「ぼくが一番ゲバラを評価しているのは、キューバ革命が成功した後に使用した、『新しい人間』という表現だ。」

「人のために働く人間。」

「中国や北朝鮮を見ていると、『新しい人間』の匂いがまったく感じられない。だから、魅力を感じない。ぼくは『新しい人間』になるように努力してきた。ゲバラの『新しい人間』というバトンをリレーしていきたいと考えて生きてきた。」

(鎌田實著「〇に近い△を生きる」ポプラ新書 所収)

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