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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2014・05・31

2014-05-31 08:05:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「藤村という作者は昔も今も珍しくない不倫を働いて、あろうことかそれを真顔で公表することによって、世間の支持、すくなくとも文壇の支持を得られるとあてにした。はたしてそれは得られたのである。ばかりか、次第に聖人君子になりすました。新聞の連載によって原稿料と印税の収入は秋声や花袋をしのいだのである。吉原がいやなら芸者遊びくらい出来たはずである。それなのに藤村は終始素人娘ばかりに手をつけている。当時は芸娼妓を買うことは罪でもなければ悪でもない。素人に手を出すことのほうがその遊興費を惜しむから、ケチだとかえって非難された時代である。
 私は藤村が端然とまた鬱然(うつぜん)と座している図を見て満身これ生殖器のように思えてならない。それでいて芸娼妓を買って鬱を散じないのは、それを罪だと思っていたからではないか。毎晩客をとる女は女ではないと思っていたのではないかとひそかに思うのである。ちなみに台湾に去った姪はその二十年ほどあと昭和十二年三月板橋市立養育院でひとり死んだと新聞に出た。
 俗に禍いを転じて福とするという藤村ほどそれに長じた人はない。その謹厳な態度、出版社の小僧が来ても玄関に端座して丁重な辞儀をして感激させ、それが不自然でないこと、その程度で人は感激すると承知して果して感動させたのである。芝居でなく常にそれをするのは天賦のものである。私は必ずしもそれを咎(とが)めているのではない。
 藤村は十代のむかし北村透谷(とうこく)の強い影響を受けてキリスト者として受洗している。あるいは透谷のいう恋愛は人生の秘鑰(ひやく)だと信じていたのではないか。女を買うが如きは女性の冒涜(ぼうとく)であり、実は心に女性崇拝の念を抱いていたのではないかと私は思っている。
                                                    〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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2014・05・30

2014-05-30 06:20:00 | Weblog



今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「漱石の推挽で藤村は明治四十一年朝日新聞に『春』を連載して、作者としての名声と報酬を得てほとんど別人になった。
 妻の死後いくばくもなく手伝いに来ていた兄の娘、姪(二十二)と関係して子を孕(はら)ませる、それが表沙汰になるのを恐れて金を作って大正二年数え四十二でパリに渡り、姪の父すなわち藤村の兄に手紙で打ちあけ兄は姪を引きとって養女にやって事なきを得た。その間第一次大戦あり、大正五年帰京したが姪との関係は旧に復した。兄はこれには激怒して藤村と義絶したところで『新生』前篇を終っている。世間はこれを深刻なざんげとみて非難が思ったより多くないのに力を得て、あくる八年後篇を書いて完結した。
 花袋は藤村が自殺するかと案じたというが、藤村はなかなか自殺なんかしない。ついに兄は藤村と義絶し姪を台湾に住む長兄に預け、二人は宗教的新生を願って、この不倫な関係を清めるにつとめ自己の罪過の生体解剖にも似た告白によって浄化を図ったというが、これを世間が許すばかりか忘れ、その真摯(しんし)な態度にかえって感動し、次第に尊敬して今にいたったのは時代といえば時代だが、けげんといえばけげんである。
                                                    〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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2014・05・29

2014-05-29 14:10:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「藤村は大八車に『破戒』を積んで小売書店の一々を尋ねて置いてもらう。幸い好評ではあったが、労多くして得るところ少い、これでは版元にまかせたほうがいいと知って叢書はこの一冊でやめたが、『破戒』が漱石に明治最初の小説とまで激賞されたのは大きな収穫だった。をテーマにした勇気に漱石は驚いたためで、いくら明治の末だって一人テキサスに去って終っては問題の解決にはならない
 けれども文壇に一石投じることにはなると見込んで書いたのはやはり天成のジャーナリストなのである。私はそれをさきに田山花袋の『蒲団』を例に述べた。藤村は極貧の状態のなかで妻を栄養不良で鳥目にしている。子をひとり死なしている。執念である。その執念は妻子にとっては迷惑である
                                                    〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)



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2014・05・28

2014-05-28 08:30:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「藤村の晩年の作に『夜明け前』がある。いつの時代でも現代は前代よりすぐれていると思わなければ人は生きるにたえないから、夜明け前はいい題なのである。江戸時代はまっくらだったと言わぬばかりである。
 これは現代人に対して媚びるもので迎合である藤村は生れながらのジャーナリストだった。藤村詩集はいまだに読まれている。その詩の幾つかを諳(そら)んじている読者はまだいる。春陽堂はこれに対して支払ったか。原稿料買切で二十五円くらいしか払ってないと伝えられる。それでは妻子を養えないから自費出版を試みた。緑蔭叢書第一篇『破戒』がすなわちそれである。主人公瀬川丑松は被差別出身である身分をかくせとかたく父親にいましめられていた。小学校の教員である丑松はながく苦しんだ末自分が民であることを生徒にうちあけ、かくしていたことを手をついて詫びて教職を捨てテキサスに新天地を求めて去るところでこの物語は終っている。
                                     〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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2014・05・27

2014-05-27 06:50:00 | Weblog



今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「藤原正彦はケンブリッジに遊んで、周囲の数学の教授たちが皆々シェイクスピアをふまえて洒落も冗談も言いあうのを耳にして、ひそかに恥じたと書いていたが、ナニわが国だって震災までは、歌舞伎をふまえた洒落や冗談を交わしあっていた。河竹黙阿弥は不世出(ふせいしゅつ)の作者だった。それが一朝にして滅びたのは劇場がみな焼けうせたからである。べつに百軒前後あった寄席もなくなった。これらは焼けたあと活動写真館になったと思えば分るだろう。活動は昭和初年から名を映画と改め、昭和三十五年まで全盛を極めたが、テレビがあらわれたらみるみる衰えた。そしてテレビに代るものはない。芝居には十八番があるが、映画やテレビにはない、新作に次ぐに新作をもってするから共通の話題にはならない。
                                     〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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2014・05・26

2014-05-26 06:50:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「島崎藤村は時代を明治時代、大正時代、昭和時代と元号によって分けないほうがいいと言った。この分けかただと誤解が生じる。
 明治は大正十二年の大震災まで残っていた。この震災で東京はまる焼けになった。焼けるまでは明治の続き、したがって江戸の名残もわずかではあるが残っていた。
 その名残は震災によって跡かたもなく消えうせた。それまでは芝居といえば歌舞伎で、これを見ないものはなかった。見なくても多く講談落語を介して知っていた。昭和になってから芝居噺(ばなし)がすたったのは、本家本もとの芝居の見物が激減したからである。したがって声色(こわいろ)もすたった。
                                     〔『諸君!』平成十ニ年十月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)



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2014・05・25

2014-05-25 07:30:00 | Weblog


今日の「お気に入り」。

 青い眼鏡・みどりのレンズ・茶のレンズ掛けかへて空を見る人を視る

 一団のしだいに解けしマラソンの孤りぼつちとなりしランナー

 あつぱれの棒逆上り一つして見せて素早く去りし少年

 八十余年たどきなく来てなほつづく日々つらぬけよ 一声の笛

 楽しむことすくなく生きて きつぱりと〈短歌やめます〉とも言ひかねる

                         (齋藤史)

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2014・05・24

2014-05-24 06:45:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「みんなこれらは学校の帰りに行った。学校というのはアンリ・バルビュスが校長を務める労働者大学(ユニベルシテ・ウヴリエール)である。バルビュスと武林夫妻はまだ金があったころ避暑地で友になっている。バルビュスは左傾していて、武林を同志だと誤解している。しばしば手紙をくれるのはいいが、檄文(げきぶん)を訳して日本の同志に送ってくれという。武林は辻潤と同じくダメの人で、檄なんかとばす宛先もない。
 君訳して送れと私は言いつけられて字引引き引き見たら檄文というものはどこも同じなので索然とした。教授陣はいずれも共産党の大立者で、こんな学校になぜはいったかというと授業料がタダだったこととバルビュスの『縁』である。生徒はすぐ同志扱いする見るからに愚直な労働者風が多かった。外国人の少年だとみてとると笑いかけてくるその顔はどこの国の労働者も同じだなと見た。西洋へ行って日本と同じところばかり見ているのでは私ながら行った甲斐がない。漱石はイギリスへは二度といかない、こんないやな国はないとその『文学評論』の序に書いた。ほとんど罵倒していた。若い私の気持はそれに酷似している。それならそれを書けと言われるが人みな飾っていう我にもあらず飾るのがいやなら言うまいと思っていたが、この大冊を見て異文化に接した一少年の動揺をそっけなく手短かに書いてみてはと思うようになった私はそれを自然に思うようになったのである
                                                  〔『諸君!』平成十一年十一月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)


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2014・05・23

2014-05-23 07:20:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「ミュージック・ホールを私は寄席と呼んでいた。シガール(蟬座)とフウルミ(蟻座)、ほかに『ボビノ』に最も行った。リュシェンヌ・ボワイエが全盛のころで、ここではダミアも見た、牧嗣人(まきつぐんど)も見た。牧はエレジーと題して『荒城の月』をバスで歌って好評だった。いかにもエレジーである。
 清岡氏もこのボビノに触れていたので思いだした。以前石井好子に調べてもらったが、あとかたもないそうである。シャルル・ゲラン、ルイ・ジュ―ヴェで名高いヴィユウ・コロンビエ座は映画館になっていた。そういえば二十代の娘にルイ・ジュ―ヴェを知るかと聞いたら知らぬ、ルイ十兵衛ならハーフかと問われて十年ひと昔の感に耐えなかった。
                                                  〔『諸君!』平成十一年十一月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)



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2014・05・22

2014-05-22 14:15:00 | Weblog


今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。

「清岡の大河小説の主人公は一人ではない。藤田嗣治夫妻、薩摩治郎八、岡鹿之助、金子光晴夫妻、松尾邦之助以下一九三〇年代にパリにいた群像が主人公で、なかでも金子光晴森三千代夫妻に多く筆を費している。
 この金子光晴の夫人三千代と土方は東京にいる間恋仲だったのである。互に未練はあったが三千代は土方を去って夫妻は放浪の末パリにたどりついたのである。そのころ私はパリ日本人クラブの秘書の手伝いをしていた。やがてパリ近郊のメゾン・ラフィットのちっぽけなヴィラで武林家に同居する。ひまだけあって金のない時は寄席と映画館に行っていた。
 昭和六年はサイレント映画がトーキーに変るときであること日本と同じで、おかげで私は日本では見られないバレンチノの『血と砂』、アンナ・メイ・ウォンという支那人の女優でハリウッドのスターを知った。アンドレ・ボージェ、ジャン・ミューラはフランスでは大スターだが日本では誰も知らない男優たちだと知った。
 ロラン・ドルジュレスという流行作家の『木の十字架』はレマルクの『西部戦線異状なし』のまねだなとすぐ分った。マネの世の中なのはどこの国も同じだなと知ったのはいいが、映画のまんなかで雄弁で名高いもと外務大臣アリスティッド・ブリアンが出てきて、平和演説を延々とするのには驚いた。おかげで西洋のエロカンス(雄弁術)を見る機会を得たのはよかったが長すぎる。みんなドイツ人が悪いのだなんて、そんなことはあるまいと東洋の一豎子(いちじゅし)(小僧)には見てとれるのに、満場の共感湧くが如しである。ヒトラーもこうした弁舌を振ったのだろう。興行師というものはフランスも日本も同じだなと思った。
                                                  〔『諸君!』平成十一年十一月号〕」

(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)

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