今日の「 お気に入り 」は 、作家 司馬遼太郎さんの
「 街道をゆく 」から「 海柘榴市 ( つばいち ) 」の一節 。
備忘の為 、 抜き書き 。昨日の「 日本書紀 」のなか
の噺 ( はなし ) の つづき 。
引用はじめ 。
「 噺 ( はなし ) を要約すると 、あるとき疫病が流行した 。
何神のタタリのせいであろうということで 、帝の皇女を
巫女にしてまつらせたところ 、すこしも降神せぬばかり
か 、彼女は髪がぬけ落ちてやせ衰えるばかりであった 。
代って 、どうやら偉大な巫女であったらしい帝の伯母の
倭迹迹日百襲姫 ( やまとととびももそひめ ) を巫女にして
憑神状態 ( かみがかり ) にさせたところ 、たちまち神の声
あり 、彼女の口を籍 ( か ) りて 、『 若し能く我を敬い祭
らば 、必ず当 ( まさ ) に自平 ( たひら ) ぎなむ 』( 『 日本
書紀 』 ) と 、いった 。帝はおどろき 、誰 ( た ) が神ぞや 、
と問うと 、神はいう 、『 大物主神と為 ( い ) ふ 』と 。
ここで天孫系とは別系列の国つ神が 、崇神の王家にはじめ
て入るわけであり 、このいきさつは 、崇神帝とその武装
グループが大和以外の地 ―― 九州か 、あるいは満鮮の地
であろう ―― からやってきたことをよくあらわしている 。
さらによくあらわしているのは 、この噺の以下のような
つづきである 。
『 たれか 、大物主命 ( 三輪山 ) をまつる者はいないか 』
と 、崇神帝はさがした 。古代信仰にあっては 、その神の
子孫とされている血統の者 ―― 名負 ( なおい ) の氏 ( う
じ ) ―― によってのみその神をまつることができる 。と
ころが 、三輪山をまつっていたミワの族長の子孫は崇神
帝にほろぼされたかなにかで三輪の故地にはおらず 、崇
神帝はそれをさがさせ 、やっと茅渟 ( ちぬ ) ( 大阪湾沿岸
地方の古称 ) の地に大田田根子命 ( おおたたねこのみこと )
という人物がいると知り 、それをよんで土地をあたえ 、三
輪山にのぼらせ 、祭主にした 。 崇神帝も 、苦労した 。
ついでながら 、崇神帝の名はミマキイリビコと言う 。この
ミマは南鮮の任那( みまな )国のことでこの帝はここから
きたという説を騎馬民族説の江上波夫氏はとっておられるが 、
任那国号の成立はだいぶあとだから 、ちょっと無理なように
思われる 。
が 、崇神帝が 、軽快屈強の武装集団をひきいて大和へやっ
てきたであろうことは 、大和の土着勢力から興ったとみる
よりも征服形式としてはるかに自然である 。古代 、戦闘的
性格のうすい農耕地帯に駆けこんできてこれを征服するとい
う作業は 、大和一国の規模でなら 、五百騎もあれば十分で 、
後世の軍事規模で想像するようなぼう大な軍団など必要がない 。
はなしのついでながら 、ごく近世 、数億の民をもつ大明帝国
をたおして清帝国をたてたのは 、満州にいた騎馬民族である
ツングースの一派 女真族だが 、かれらは六十万から八十万程
度の人口であった 。あるいはまた日本の戦国のころの備前国
( 岡山県 ) の大名 宇喜田能家 ( うきたよしいえ ) の家系伝説に
も 、『 能家の先祖は元百済国の王子 。兄弟三人船にのり 、
当国児島郡藤森に着船す 』とあり 、中世周防国 ( 山口県 ) で
栄えた 大内氏も 、わざわざ誇って『 百済王子 琳聖 ( りんしょ
う ) 太子の後裔 』と称していたが 、百済王子であることはあ
やしいとはいえ 、遠いむかしは 二 、三百騎の武装隊が海岸
から侵入すれば 、元来自衛力にとぼしい農耕地帯はかれらの
侵略に対しお手あげであったであろう 。
その古代的な形式が崇神王朝の成立であるという説は 、ごく
自然なことといわねばならない 。崇神帝の和風の謚 ( おくり
な ) を 、『 ハツクニシラススメラミコト 』 という 。『 日本
書紀 』はこれに 御肇国天皇 という文字をあてる 。
その帝の帝都が 、土着民ミワ族の故地である 三輪山 のふもと
におかれ 、葛城の カモ族 を圧倒して 大和盆地を平定した 。
さらに国中の平和を保つため 、大和の土着勢力から武器をとり
あげ 、それを石上 ( いそのかみ ) の地に収納した 。という平定
方式をとったのは 、秀吉の刀狩りを連想させる 。
石上から三輪へ南下する途中 、道の左手に崇神帝の御陵がある 。
私は兵隊にゆくとき 、葛城に住む外祖母がこの三輪にまでお詣り
につれてきてくれたが 、そのとき 、この御陵をみて 、その樹叢
のうつくしさにうたれた記憶がある 。いま車窓からのぞいても 、
なおその美しさは衰えていない 。 」
引用おわり 。
( ついでながらの
筆者註 :司馬遼太郎さん( 1923年 〈大正12年〉 8月7日
- 1996年〈平成8年〉 2月12日 )の軍歴 。実戦
は体験されていないよう 。
「 1943年( 昭和18年 )11月に 、学徒出陣に
より大阪外国語学校を仮卒業( 翌年9月に正式
卒業となる )。兵庫県加東郡河合村( 現:小野
市 )青野が原の 戦車第十九連隊に入隊した 。
・・・
翌44年4月に 、満州四平の四平陸軍戦車学校に
入校し 、12月に卒業 。
・・・
司馬は 、軍隊生活になかなか馴染めず 、訓練
の動作にも遅れが目立ち 、同期生のなかでも戦
車の操縦はとびきり下手であったが 、『 俺は将
来 、戦車1個小隊をもらって 蒙古の馬賊の大将
になるつもりだ 』などと冗談を言うなど 、笑み
を絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しに
なっていた 。
戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転
属したが 、成績の悪かった者はそのまま中国に
配属になり 、これが生死を分けた 。卒業後 、
満州国牡丹江に展開していた 久留米戦車第一連
隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される 。
翌1945年に本土決戦のため 、新潟県を経て栃木
県佐野市に移り 、ここで 陸軍少尉 として 終戦を
迎えた 。 」
以上ウィキ情報 。
「 街道をゆく 」の一節に 、次のような記述があり
ます 。
引用はじめ 。
「 私は満州へ行った 。
最後は東満州の国境あたりにいて 、にわかに
連隊とともに朝鮮半島を南下し 、釜山から輸
送船に乗った 。私のいた部隊は 、当時の世界
のレベルからみれば使いものにならない戦車を
八十輌ばかりもつ戦車連隊であったが 、それ
でも日本陸軍にとっては虎ノ子であったことは
たしかで 、アメリカ軍の東京付近に上陸するの
にそなえるため 、終戦の三カ月前にもどらされ
たのである 。
私どもの輸送船は新潟港に入り 、戦車をつみお
ろしたが 、そのとき 、埠頭のむこうから一人の
初老の将校がやってくるのがみえた 。私は最下
級の将校だったから 、相手の年齢をみて大佐か
少将だろうとおもって敬礼すると 、なんと少尉で
あった 。それが叔父であった 。叔父との奇遇に
おどろくより 、こんな世界にもめずらしいほどに
古ぼけた少尉が 、いまからどの戦場に出かけてゆ
くのだろうということに興味をもち 、日本の戦力
が底をついていることをこのときほど痛感したこ
とはない 。
『 朝鮮や 』
と 、叔父は憮然としていった 。
いまから思えば 、私どもの属した関東軍の主力が
逐次南方へ間引かれ 、ついに私などの連隊を最後
に満州がカラになってしまったあと 、日本陸軍は
ソ連との国境を朝鮮でまもろうと思いつき 、そう
いうことで叔父のようなひとたちを召集したのに
ちがいない 。
『 まあ朝鮮へゆくのもええやろ 。武内宿禰は百歳
か二百 歳で朝鮮へ行ったというからな 』
と 、叔父はむろん葛城の竹内のひととして武内宿
禰が竹内で暮らしていたことを信じていたし 、そ
れと自分の運命とが重なり 、一種落魄のおもいで 、
そうつぶやいたのにちがいない 。
( いまから朝鮮へ行って帰れるのかしら )
とおもったが 、叔父は私どもをおろした船で朝鮮
へゆき 、その後ぶじ帰ってきて 、畳の上で死んだ 。
五十代だったから 、年齢だけは武内宿禰にあやかれ
なかった 。」
引用おわり 。)