「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

戒語 2005・01・31

2005-01-31 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、良寛さんが身近な人々に与えていたという戒めの言葉、戒語です。

 ありふれていて、どうということはないのですが、人が陥りやすいことばかりです。
 
 こうした教訓めいた言葉を人に与えるということ自体は、村社会の中で自分に期待されている役割を果たすため、あるいは世の批判をかわすための一種のポーズではなかったかと思うのですが、数多くの戒語を、他の人ならともかく、貞心尼に対して与えていたということだけは、私の想像する良寛さんと余りしっくりきません。ただ、これも心ないひとの無用の詮索を回避するための配慮と考えればわからなくもありません。
 

・こと多き。
・口のはやき。
・手がら話。
・話の長き。
・講釈の長き。
・自慢話。
・いさかい話。
・物言いのはてしなき。
・人のもの言いきらぬうちに物言う。
・たやすく約束する。
・ことごとしく物言う。
・へつらうこと。
・あなどること。
・よく心得ぬことを、人に教うる。
・人の話の邪魔する。
・酒にえいて、ことわり言う。
・人のかくすことを、明からさまに言う。
・推し量りの事を、まことにして言う。
・悪しきと知りながら言い通す。
・さしたる事もなきを、こまごまと言う。
・よく物の講釈したがる。
・若い者の無駄話。
・物知り顔に言う。
・好んで唐言葉をつかう。
・人のことわりを聞き取らずして、己が理を言い通す。
・都言葉を覚えて、したり顔に言う。
・よく知らぬことを、憚なく言う。
・わざと無造作に言う。
・さとりくさき話。
・茶人くさき話。
・学者めきたる話。
・風雅めきたる話。
・おれがこうした、こうした。

 良寛さんにはこういう言葉もあるそうです。

「貧道(自分)の嗜まざる所三あり。曰く詩人の詩、書家の書、庖人の饌(料理人の料理)これなり」と。
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すみれつむ良寛さん 2005・01・30

2005-01-30 07:00:00 | Weblog
 「道のべの すみれつみつつ 鉢の子を 忘れてぞ来し その鉢の子を」

 「鉢の子を わが忘るれども 取る人はなし 取る人はなし 鉢の子あはれ」

 「鉢の子に すみれたむぽぽ こきまぜて 三世の仏に 奉りてな」

 今日の「お気に入り」、良寛さんの歌三首です。


 良寛さんは「手毬をよめる」と題した長歌を数多く作っていますが、次の歌もそのひとつです。

 冬ごもり 春さり来れば
 飯乞ふと 草の庵を
 立ち出でて 里にい行けば
 たまほこの 道のちまたに
 子どもらが 今を春べと
 手毬つく ひふみよいむな
 汝がつけば 吾はうたひ
 吾がつけば 汝はうたひ
 つきて唄ひて 霞立つ
 永き春日を 暮らしつるかも

 霞立つ永き春日をこどもらと手まりつきつつこの日暮らしつ
 こどもらと手まりつきつつこの里に遊ぶ春日はくれずともよし
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2005・01・29

2005-01-29 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は良寛さんの名筆の代表とされる次の二句です。


 君看雙眼色     君看よや雙眼の色
 
 不語似無憂     語らざれば憂いなきに似たり
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心身永閑 2005・01・28

2005-01-28 07:00:00 | Weblog
 良寛さんの詩をひとつ。今日の「お気に入り」です。

「生涯 身を立つるに懶く
 騰々 天真に任す
 嚢中 三升の米
 炉辺 一束の薪
 誰か問わん 迷悟の跡
 何ぞ知らん 名利の塵
 夜雨 草庵の裡
 雙脚 等閑に伸ばす」
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2005・01・27

2005-01-27 07:00:00 | Weblog
 良寛さんの詩の中にこういう対句があるそうです。

  「欲なければ一切足り
   求むるあれば万事窮す


 作家の中野孝次さん(1925-2004)は「欲望を棄てさえすれば、あるがままですべて足りているではないか。何が欲しい、彼が欲しいと欲望をつのらしたら、いくらあっても満足することはない。」と現代語訳されています。

 

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2005・01・26

2005-01-26 07:00:00 | Weblog
 昨日の「お気に入り」の最後は良寛さんの辞世の歌でしたが、今日の次なる句も良寛さんの辞世と伝えられているものです。

 
 「散る桜 残る桜も 散る桜


 古文書に「良寛禅師重病の際、何の御心残りはこれなきかなと人問いしに、死にとうなしと答う。また辞世はと人問いしに、
  散る桜 残る桜も 散る桜」とあるそうです。

 「死にとうなし」という答えも良寛さんらしいと思います。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「いはむろの たなかに立てる
  ひとつ松の木 けさ見れば
  しぐれの雨に 濡れつつ立てり
  ひとつ松 人にありせば
  笠かさましを 蓑きせましを
  ひとつ松あはれ」
 
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良寛さん 2005・01・25

2005-01-25 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は良寛さん(1758-1831)の歌です。

 読み返すたびに気持ちがやすまります。
 

 「古えに 変わらぬものは 荒磯海と 向かいに見ゆる 佐渡の島なり」

 「たらちねの 母が形見と 朝夕に 佐渡の島べを うちみつるとも」

 「きてみれば わが故郷は 荒れにけり 庭のまがきも 落ち葉のみして」

 「いざここに 我身は老いん あしびきの 国上の山の 松の下庵」

 「山かげの 岩間をつたう 苔水の かすかに我は すみわたるかも」

 「夜もすがら 草のいおりに われ居れば 杉の葉しぬぎ 霰降るなり」

 「むらぎもの 心楽しも 春の日に 鳥のむらがり 遊ぶを見れば」

 「霞立つ 長き春日を 子どもらと 手まりつきつつ 今日もくらしつ」

 「この里に 手まりつきつつ 子どもらと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」

 「今日もかも 子らがありせば たずさえて 野べの若菜を つまましものを」

 「この世さえ うからうからと わたる身は 来ぬ世のことを 何思うらん」

 「つきてみよ ひふみよいむな ここのとを 十とをさめて またはじまるを」

 「歌もよまむ 手毬もつかむ 野にも出む 心ひとつを さだめかねつも」

 「しろたえの 衣手寒し 秋の夜の 月中空に 澄み渡るかも」

 「君や忘る 道やかくるる このごろは 待てど暮らせど 訪れのなき」

 「あづさゆみ 春になりなば 草の庵を とく出て来ませ あひたきものを」

 「秋萩の 花咲くころは 来て見ませ 命またくば 共にかざさむ」

 「月よみの 光を待ちて かへりませ 山路は栗の いがの多きに」

 「いついつと 待ちにし人は 来りけり いまは相見て 何かおもはむ」

 「惜しめども 盛りは過ぎぬ 待たなくに 止めくるものは 老いにぞありける」

 「ゆくりなく 一日二日を おくりつつ 六十路あまりに なりにけらしも」

 「形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」
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2005・01・24

2005-01-24 07:00:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、サンテクジュぺリの「星の王子さま」から。

「心で見なくちゃ、物事はよく見えないってことさ。かんじんなことは、眼に見えないんだよ。」
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2005・01・23

2005-01-23 07:00:00 | Weblog
 文芸評論家の川本三郎さんが書かれたものの一節です。

「夫婦というのは、大仰にいえば、同志的結合のようなところがある。物の考え方や感じ方、あるいは生きるための価値感(ママ)が似ていないと長くやってゆけない。」


 金婚式を迎えることが出来た作家の中野孝次さんは、「夫婦とは、何十年も連れ添ってはじめて夫婦というものになるのであって、昨今の芸能人のように数年でもう、やれ不倫のやれ離婚のどうのこうのというのは、結婚ゴッコとでもいうべきおふざけをしているにすぎないような気がする。」と書いておられます。


 それぞれの夫婦にそれぞれの歴史あり。長ければいいというものでもありませんが、傍からは窺い知れないところがあるのも夫婦です。
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2005・01・22

2005-01-22 07:00:00 | Weblog
 年明け9日付けの朝日新聞朝刊に、「個人マネーが貯蓄から投資に向かう動きが加速している」という記事がありました。

 「『リスクを抱えても高めの利回りを』と期待する人の資金は外貨資産や投信に流れているようだ」とコメントがあり、「投資」型資産や「元本を大幅に割るリスクがなく、現在は定期預金より利回りがいい」金融資産の例として売れ行きが伸びているという「個人向け国債」が引き合いに出されていました。笑止千万です。

 確かに「定期預金より利回りがいい」、嘘ではない。しかし、所詮目くそ鼻くそを笑うで、いずれも「利回り」を宣伝文句にするのは欺瞞です。定期預金にせよ、個人向け国債にせよ、「実質ゼロ金利時代」に、限りなく低い調達コストで、国が個人マネーを直接、間接に吸い上げる手段でしかありません。

 一体どこの先進国に10年以上の長きに亘り「実質ゼロ金利」という銀行救済策をズルズルと続けているところがあるでしょう。寡聞にして知りません。バブルの頃に無茶苦茶なことをやって不良債権の山を築いた銀行経営者と銀行の暴走を許し、あまつさえそれを助長した金融当局、当時の大蔵官僚の責任は重大です。お隣りの大国なら極刑ものです。口をぬぐって、のうのうとしている人たち、せめて表舞台に顔を出さないで、この先ずっと謹慎していていただきたいものです。情報公開されたときに、恥ずかしい思いをしないで済むように。

 かっての「護送船団方式」が姿を変えた「実質ゼロ金利」をよしとしていつまでも続けている限りは、「もはやバブル後ではない」というプロパガンダは説得力を持ち得ません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今日の「お気に入り」は、その昔書き留めた政治家石橋湛山(1884-1973)の言葉です。

人生とは飽くまでも生存を目的とした順応の経過に他ならない
 哲学、宗教、科学、文芸、その他百般の人生の現象はただことごとく境遇順応の手段、即ち生活する為に起こったものに過ぎないこのほかに意味はない。」
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