今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日の続き。
「この百科事典には項目ごとに一々サインがある。サインした人は当時の各界名士である。名士は新聞雑誌に召集されてはじめて名士である。名士の原稿は当然掲載されることを欲する。したがって名士は編集方針を察してそれに迎合した原稿を書く。故にその責任はあげて編集長にある。
編集長はあの名高い林達夫である。林達夫は当時も今も一世の尊敬を集めた人である。この人は名前だけの責任者ではなく、文字通りの責任者で、酒席で雑談しているときでも漏れていた一項目を得ると、とびあがってメモしたほどだったといまだに語り草になっている。
それなのにこの編集である。軍艦長門や陸奥を載せたって軍国主義にもどるわけはない。私はこれほどの人物がどうしてこんな編集の方針をたてたか理解しかねるのである。
小学館以下の百科事典が別個の方針ならそれを買えばいいのだが、そうでないから困るのである。辞書は盗むものだというと語弊があるが写すものである。ことに小学館は平凡社を写して訴えられた。写真を図版に改めているからコピーではないと言いはったが通らなかったことがある。だから平凡社にない項目は他社にもないと思って大過かないのである。
いま再び百科事典合戦だという。まだ出たばかりだから分らないが、私は何度も以上のことを言ってきた。新しい事典にその弊がないことを願うばかりである。
(『読売新聞』昭和60年3月6日夕刊)」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)
「この百科事典には項目ごとに一々サインがある。サインした人は当時の各界名士である。名士は新聞雑誌に召集されてはじめて名士である。名士の原稿は当然掲載されることを欲する。したがって名士は編集方針を察してそれに迎合した原稿を書く。故にその責任はあげて編集長にある。
編集長はあの名高い林達夫である。林達夫は当時も今も一世の尊敬を集めた人である。この人は名前だけの責任者ではなく、文字通りの責任者で、酒席で雑談しているときでも漏れていた一項目を得ると、とびあがってメモしたほどだったといまだに語り草になっている。
それなのにこの編集である。軍艦長門や陸奥を載せたって軍国主義にもどるわけはない。私はこれほどの人物がどうしてこんな編集の方針をたてたか理解しかねるのである。
小学館以下の百科事典が別個の方針ならそれを買えばいいのだが、そうでないから困るのである。辞書は盗むものだというと語弊があるが写すものである。ことに小学館は平凡社を写して訴えられた。写真を図版に改めているからコピーではないと言いはったが通らなかったことがある。だから平凡社にない項目は他社にもないと思って大過かないのである。
いま再び百科事典合戦だという。まだ出たばかりだから分らないが、私は何度も以上のことを言ってきた。新しい事典にその弊がないことを願うばかりである。
(『読売新聞』昭和60年3月6日夕刊)」
(山本夏彦著「とかくこの世はダメとムダ」講談社刊 所収)