今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」
掲載の記事から 抜き書き 。エーゲ海に浮かぶギリシャのお船の写真を見ていて連想
しました 。海運王は 、英語で Shipping Magnate と言うらしい 。
引用はじめ 。
「 アリストテレス・ソクラテス・オナシス( Αριστοτέλης Ωνάσης 、Aristotle
Socrates Onassis 、1906年1月15日 - 1975年3月15日 )は 、ギリシャの実業家 、
ミリオネア 。『 20世紀最大の海運王 』と言われた 。
生 涯
生い立ち
オスマン帝国時代の スミルナ( 現トルコ領 イズミル )で 、中流階級のギリシャ
人家庭に生まれた 。スミルナ一帯は 第一次世界大戦における連合国の勝利の後 、
希土戦争中の1919年に ギリシャによって占領されたが 、1922年にケマル・アタ
テュルク率いるトルコ軍によって奪還された 。
紛争の中でオナシス家は全ての財産を失い 、ギリシャへ難民として移住 。1923
年にはギリシャを離れ 、最初にウルグアイ 、モンテビデオ へ行き 、後 アルゼン
チンに渡り 、1925年にアルゼンチンとギリシャの市民権を取得した 。
海運王
最初にモンテビデオの旧市街地に居を構え 、葉巻タバコの商売を始める 。その
由縁あって 、市内にあるエレニカ・ギリシャ正教会は 、彼の全面的な寄付によ
って建設された 。後 、アルゼンチンにおいて同様の葉巻の輸出などの貿易業を
始める 。さらには 第二次世界大戦最中の フアン・ペロン政権下において 、食
肉のヨーロッパへの輸出なども手掛け 大きな成功をおさめた 。
その後ギリシアにもどったオナシスは 、第二次世界大戦後に余剰化した連合国
軍の船舶を安値で購入し 海運業をはじめ 、さらに ギリシアの海運王の スタブロ
ス・リバノス の娘の アシーナ・リバノス と結婚した 。これにより 規模を拡大
した海運業は 、戦後復興を進めるギリシアとヨーロッパ諸国においてまたたく
まに成功し 、1957年には ギリシャのフラッグ・キャリアである オリンピック
航空を設立するなどさらに事業領域を拡大し 、間もなく オナシスは『 海運王 』
と称されるようになった 。
女性遍歴
オナシスは1946年に海運王のスタブロス・リバノスの娘のアシーナと結婚し 、
2人の子供であるアレクサンダーとクリスティナは両方ともニューヨークで生ま
れた 。
1957年にヴェネツィアで開かれたエルザ・マックスウェルのパーティーで オ
ペラ歌手 マリア・カラス と知り合い 、1960年にアシーナと離婚した 。アシ
ーナは後に 、ブランドフォード侯爵ジョン・ジョージ・ヴァンダービルト・
スペンサー=チャーチル( 後の第11代マールバラ公 )や彼女の姉ユージニア
( Eugenia )の寡夫であった スタブロス・ニアルコス と再婚した 。
カラスとは 9年ほど関係していたが 結婚はせず 、1968年には 、1963年11月
に暗殺されたアメリカ大統領のジョン・F・ケネディの未亡人である ジャクリ
ーン・ケネディ と結婚し 、世界的に話題を呼んだ 。しかし ジャクリーンとの
結婚は『 恋愛によるものではなかった 』と言われ 、事実 夫妻は滅多に時を共
に過ごさなかった 。オナシスは ジャクリーンの子供の キャロライン や ケネデ
ィ・ジュニア とは良い関係を持ったが 、ジャクリーンは オナシスの娘 クリス
ティナ と良い関係を持てなかった 。ジャクリーンは その多くの時間を旅行と
買い物に費やし 、オナシスとは 別々に ゴシップ誌の紙面を飾った 。
死 去
この様な関係の中 、オナシスは ジャクリーンとの離婚申請を考えたが 、19
75年にフランスのヌイイ=シュル=セーヌで 、重症筋無力症の合併病である
気管支肺炎によって死んだ 。オナシスの莫大な遺産は 、彼の遺書に基づいて
娘のクリスティナが55% 、アレクサンダー・S・オナシス財団が45%( これ
は 1973年に飛行機事故で死去した彼の息子アレクサンダーが相続するはず
だった分の財産である )の遺産を得た 。また 、妻ジャクリーンは 義弟エド
ワード・ケネディによる交渉の結果 、1,000万ドルといわれる( 2,600万ド
ルであったとする説もある )オナシスの財産を手にした 。
ジャクリーンの遺産相続した財産は 彼女の愛人 モーリス・テンペルスマン
(英語版)の手によって 数億ドルに利殖された 。また 、クリスティナの
相続した財産は 彼女の一人娘 アシーナ・オナシス・デ・ミランダ に相続
された 。
同性愛
2007年に 、映画監督のフランコ・ゼフィレッリは生前のオナシスに言い
寄られたことがあることを明かし 、彼を両性愛者であるとした 。また 、
ピーター・エヴァンズは 、オナシスがスミルナにいた頃に トルコの陸軍
中尉と性的な関係にあったとしている 。 」
「 ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス( Jacqueline
Lee Bouvier Kennedy Onassis 、1929年7月28日 - 1994年5月19日 )は 、
第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ の夫人 。1961年から
1963年まで アメリカのファーストレディ であった 。身長 5フィート8イ
ンチ( 約173cm )。
概 要
1961年1月20日に アメリカ大統領に就任した ジョン・F・ケネディ は
43歳であり 、ジャクリーン も 31歳で ファーストレディ となった 。
しかし 、わずか 2年10カ月で 夫が暗殺されて 彼女はホワイトハウス
を去った 。そして 5年後の1968年秋に ギリシャの大富豪 アリストテ
レス・オナシス と再婚し 世界を驚かせた 。オナシスとの死別後 、
ジャクリーン は ニューヨークに移って 編集者としての人生を歩んだ 。
彼女は 単なる大統領夫人という枠を超えて 、1960年代から1980年代
にかけて ファッションアイコン として 世界の女性の憧れとなった 。
特にケネディ大統領が撃たれた時に 彼女が着ていた ピンクの シャネ
ル のスーツ に ピルボックス帽 の組み合わせは 時代を象徴するファッ
ションとして 人々の記憶に残っている 。1994年に死去し 、元の大統
領夫人として アーリントン国立墓地 の ジョン・F・ケネディ の墓の
横に埋葬された 。」
引用おわり 。
特に 感想ありません 。「 海運王 」の娘と結婚して「 20世紀最大の海運
王 」となった アリストテレス・ソクラテス・オナシスさんは 69歳で 、
ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシスさんは 64歳で 、
形ばかりの ご夫婦 、共に 60代で 他界されています 。
( ついでながらの 筆者註 :
オナシス家が全財産を失って 、トルコのイズミルからギリシャへ難民として
移住するきっかけとなったのは 、第一次世界大戦後の希土戦争 。
「 希土戦争( きとせんそう )は 、現在のギリシャとトルコ( もしくは
それらの前身に当たる国家 )の間の戦争 。
・ オスマン・東ローマ戦争 - 13世紀から15世紀にかけての戦争 。
最終的にはオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼした(1453年)。
・ ギリシャ独立戦争 - 1821年に起きた独立を目指すギリシャ第一共和国と
オスマン帝国との戦争 。ギリシャが勝利した 。
・ 希土戦争 ( 1897年 ) - クレタ島をめぐる ギリシャ王国 と オスマン帝国
との戦争 。オスマン帝国が勝利した 。
・ 第一次バルカン戦争 - 1912年に起きたギリシャを含むバルカン同盟と
オスマン帝国との戦争 。ギリシャが勝利した 。
・ 希土戦争 (1919年-1922年) - 第一次世界大戦後に起きた ギリシャ王国と
トルコ との戦争 。トルコ(アンカラ政府)が勝利した 。」
「 希土戦争( きとせんそう 、1919年 - 1922年 )は 、第一次世界大戦後に
ギリシャ王国 と トルコ の間に生じた戦争である 。大ギリシャ主義を標榜
して小アジア( アナトリア半島 )に侵攻したギリシャ軍は 、ムスタファ・
ケマル・パシャ 率いる トルコ軍に敗北し 、セーヴル条約 で得た領土を失い 、
現在のギリシャ領がほぼ確定した 。
トルコでは アンカラ政府の影響力が決定的となり 、1922年のスルタン制
廃止 、1923年のトルコ共和国建国 につながった 。
背 景
第一次世界大戦において同盟国側に立ち参戦した オスマン帝国 は 、
1918年10月に ムドロス休戦協定を結び 、連合国に降伏した 。帝都
イスタンブールを始めとするオスマン帝国領には連合国が進駐し 、
イギリスはイラクのモースル 、南東アナトリア 、西アナトリア 、
黒海の沿岸都市を 、また フランスは キリキア地域を 、イタリア
王国は アナトリア半島南西部の アンタルヤ と コンヤ を占領した 。」
以上ウィキ情報 。
100年前の 「帝国主義 」 の時代も 、「 新帝国主義 」の現代も 各地で
領土の奪い合い 。)