今日の「 お気に入り 」は 、沢木耕太郎さんの著書
「 檀 ( だん ) 」の終章に引用されている 作家の 檀一
雄 さん が綴られた夫人あての手紙 。
夫人のお名前は 、福岡県柳川市生まれの ヨソ子 さん 、
「 檀 」の主人公である 。
作家の檀一雄さんが 、昭和26年 ( 1951年 ) 、捕
鯨船に乗り込んで 、はるばる南氷洋に出掛けられた折
り 、旅先からヨソ子夫人に宛てて出された長文の手紙
だそうである 。
昭和26年 、檀一雄さんは 、御年(おんとし) 39歳 、
直木賞を受賞されるなど 、文壇での声価が高まってい
た時期に夫人宛て書かれた私信で 、当然のことながら 、
余人の目に触れることを想定していない 、夫人に対す
る あけすけな物言いになっている 。旅先の開放感も
手伝ってのこととはいえ 、妻に対してそこまで上から
目線で語りかけるかという 、支配 ・被支配の関係を
うかがわせるような手紙である 。
70年前の戦後間もない昭和の時代のことで 、こんに
ちの感覚で 、その時代の人の家父長的な考え方や物言
いを難じてもはじまらないし 、手前勝手 、身勝手な人
であることに 、二十世紀も二十一世紀もなく 、勘定高
い俗人としか言いようがないような 文面ではあるが ・・・ 。
同じ「 無頼派 」と呼ばれる作家であっても 、太宰治
さんとは 、大分違うような 。
ともあれ 、引用はじめ 。
「 新年おめでとう 。太郎次郎と大変なことでしょ
う 。そのほか諸雑事ほったらかしの儘だったか
ら 、御心労さこそといつも感謝しております 。
扨 、結婚以来 、一度もあなたに手紙を書いたこ
とがなかったような気がするから 、今日は一つ
思い切って 、長い手紙に致します 。今後も又書
く機会は無いと思いますし 、この手紙 、後年格
別の変化が無い限り遺書をも兼ねておきますから 、
出来たら保存をしておかれるがよろしいでしょう 。
平常冗談にまぎらわせて 、口に出したことはあ
りませんが 、失意の時 、大事の時 、私よりも
何層倍も沈着であり 、激励にみちているあなた
の心意気を 、私は大変尊敬しております 。それ
でなかったなら 、私は何度も自分の道を見迷った
ろうとすら 、考えることがあります 。私は持続
的に女を愛することなど出来ない性分ですが 、あ
なたの落着いた性格を畏れもし 、深く愛してもお
ります 。
私はあなたを 、実はいい加減に貰ったのですが 、
天の与えてくれた好伴侶に感謝しております 。
ムラ気で 、御気分屋の私にとって 、あなたのよ
うな飾りのない敦厚(とんこう)な愛情を得たこと
を誇りに思っております 。
あなたへの感謝は 、『 リツ子 』の中の静子と
いう形で転化して描いたことを 、あなたはまだ
信じていないようですね 。
これから少し悪口も書きますが 、怒らないでど
うぞ考えて見て下さい 。あなたは優しいし厚味
のある人柄ですが 、その優しさを表現すること
は甚だ拙劣ですね 。私はあなたと森を歩いたこ
とも 、月を眺めたことも 、海辺に立ったことも
ありません 。それは私が誘わないばかりでなく 、
来客や家族が多いので忙しいばかりでなく 、あ
なたが来ようとしないのです 。
例えばあなたと立った姿勢で接吻をしたことが
あったでしょうか 。これもまた私が悪いばかり
でなく 、あなたが 、二人だけの愛情を感じなが
ら私の傍に立って 、じっと待っていてくれたと
いうことが一度もなかった証拠にほかなりません 。
例えば私達大家族が一緒に電車に乗ったとしま
す 。あなたが私の傍に座ったためしが有ったで
しょうか 。
更にあなたは 、夜の愛撫をかわし合うときにも 、
おおむね非常に投やりであるか 、大まかである
かのようです 。それも又私が疲れているのと 、
力の足りない故であるかも知れませんが 。
私は繰り返しあなたに云っております 。仕事が
煩労ならば女中さんを二人でも三人でも雇ったら
よいではありませんか 。そうしてあなたはあな
たの力を私の仕事の周囲に注いでくれるか 、乃
至はあなたの教養 、慰安に向けてくれるがよい
ではありませんか 。
おしめを洗ってくれることもありがたいが 、そ
ういう仕事は人にまかせて 、野山に立ち 、生き
る喜びを知り 、激励を交わし合って 、殆ど亡び
かかっている私を更新して貰いたいのです 。」
( 中 略 )
「 さて 、これからは生きている間に起り得る出来
事について私の意見を明瞭にしておきます 。
あなたにかりに恋人が出来ても一向にさしつか
えありませんよ 。私が余り愉快に思うかどうか
は別にして 、誰でも自由に愛し 、愛されるべき
だからです 。但し肉体関係ができているときに
は 、なるべくそれを報せ合いたいものですね 。
何故なら自分の子供でない子を知らずに 、かか
えあげているのは悲惨ですから 。
あなたに愛人が出来た節も 、あなたからの申出
がない限り 、私の方から離婚の申出は決して致し
ません 。別居はするとしても 、あなたが私の夫
人であって何のさしつかえはないわけですから 、
従って下石神井のあなたの家はあなたの愛人と暮
す巣になってもさしつかえないわけです 。それは
今日迄のあなたの御辛労に対する感謝からです 。
かりにあなたが愛人と結ばれて 、どうしてもあな
たから離婚の希望がある節も 、次郎の連れ子料と
して 、あの家を贈呈いたします 。家がいやなら 、
家の代価六十五万円を( 一時には払えないし 、
金で払うのはあやしいが )さし上げる約束をして
おきます 。若しそんなことがあった節 、この手
紙を証拠として裁判所に提出して下さい 。
若し又 、私に愛人が出来た節も 、あなたと離婚
はいたしません 。私は別宅を構えてその方へ逃げ
てゆくだけのことで 、その際はあなたと子供達の
充分な養育費を負担しましょうね 。
以上 、洗いざらい色んなことを書きましたが 、
しかしもう何年生きるか 、憫(あわ)れな人間同士
であってみれば 、なるべく仲良く一緒に 、乗り
かかった船とあきらめて 、死ぬ迄信じ合って生き
てゆきたいものですね 。
それには 、もっとお互いに愛情の技巧に気をつ
け 、電車に乗る時には一緒に掛け 、腕を組んで
野山を歩き 、月や花を愛し合い 、時には立った
接吻を交わし 、夜の愛撫にも慰め合い 、いたわ
り合い 、お互いのよろこびの源泉を深くし 、お
互いのよろこびを教え合い 、ヤキモチを焼かず 、
深く信じ 、事破れた時には率直に 、なつかしい
昔の夫婦だったという立場から相談し合うことに
致しましょう 。
一月十日 檀一雄 」
( 沢木耕太郎著 「 檀 」新潮文庫 所収 )
引用おわり 。
この文面だけみると 、檀一雄さんの現状認識として「 夫婦
の愛情関係は すでに 破たんしている 」ようです 。
これだけ挑発的内容の手紙を作家が書いても 、その後何年
もの間 、夫人の作家に対する対応に 、作家が期待するほど
に目立った変化はなかったんでしょうね 、きっと 。
こんな形で思いを口にした以上 、作家としては 、「 火宅
の人 」の道へ 、お考え通り 、何年か後に淡々と進まれたん
でしょう 。
鈍感といえば 、鈍感なんでしょうね 。人間にはよくある
ことではありますが 、自己防衛本能 。
見たくないものは見ないというか 、見えない 。
聞きたくないことは聞かないというか 、聞こえない 。
読みたくないことは 、頭に残らないというか 、残さない 。
あとで気が付く てんかん病み 。
。。(⌒∇⌒); 。。
( ついでながらの
筆者註:「 沢木 耕太郎(さわき こうたろう 、1947年11月
29日 - )は 、日本のノンフィクション作家・エ
ッセイスト・小説家・写真家 。」
「 檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月
3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は 、日本の
小説家 、作詞家 、料理家 。」
以上ウィキ情報 。)