「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

火宅の人 Long Good-bye 2024・12・16

2024-12-16 06:16:00 | Weblog

 

    今日の「 お気に入り 」は 、沢木耕太郎さんの著書

  「 檀 ( だん ) 」の終章に引用されている 作家の 檀一

  雄 さん が綴られた夫人あての手紙 。

    夫人のお名前は 、福岡県柳川市生まれの ヨソ子 さん 

  「 檀 」の主人公である 。

   作家の檀一雄さんが 、昭和26年 ( 1951年 ) 、

  鯨船に乗り込んで 、はるばる南氷洋に出掛けられた折

  り 、旅先からヨソ子夫人に宛てて出された長文の手紙

  だそうである 。

   昭和26年 、檀一雄さんは 、御年(おんとし) 39歳 、

  直木賞を受賞されるなど 、文壇での声価が高まってい

  た時期に夫人宛て書かれた私信で 、当然のことながら 、

  余人の目に触れることを想定していない 、夫人に対す

  る あけすけな物言いになっている 。旅先の開放感も

  手伝ってのこととはいえ 、妻に対してそこまで上から

  目線で語りかけるかという 、支配 ・被支配の関係を

  うかがわせるような手紙である 。

   70年前の戦後間もない昭和の時代のことで 、こん

  ちの感覚で 、その時代の人の家父長的な考え方や物言

  いをじてもはじまらないし 、手前勝手 、身勝手な人

  であることに 、二十世紀も二十一世紀もなく 、勘定高

  い俗人しか言いようがないような 文面ではあるが ・・・ 。

   同じ「 無頼派 」と呼ばれる作家であっても 、太宰治

  さんとは 、大分違うような 。

   ともあれ 、引用はじめ 。

  「 新年おめでとう 。太郎次郎と大変なことでしょ  
   う 。そのほか諸雑事ほったらかしの儘だったか
   ら 、御心労さこそといつも感謝しております 。
   扨 、結婚以来 、一度もあなたに手紙を書いたこ
   とがなかったような気がするから 、今日は一つ
   思い切って 、長い手紙に致します 。今後も又書
   く機会は無いと思いますし 、この手紙 、後年格
   別の変化が無い限り遺書をも兼ねておきますから 、
   出来たら保存をしておかれるがよろしいでしょう 。
    平常冗談にまぎらわせて 、口に出したことはあ
   りませんが 、失意の時 、大事の時 、私よりも
   何層倍も沈着であり 、激励にみちているあなた
   の心意気を 、私は大変尊敬しております 。それ
   でなかったなら 、私は何度も自分の道を見迷った
   ろうとすら 、考えることがあります 。私は持続
   的に女を愛することなど出来ない性分ですが 、あ
   なたの落着いた性格を畏れもし 、深く愛してもお
   ります 。

    私はあなたを 、実はいい加減に貰ったのですが 、
   天の与えてくれた好伴侶に感謝しております 。 
   ムラ気で 、御気分屋の私にとって 、あなたのよ
   うな飾りのない敦厚(とんこう)な愛情を得たこと
   を誇りに思っております 。
    あなたへの感謝は 、『 リツ子 』の中の静子と
   いう形で転化して描いたことを 、あなたはまだ
   信じていないようですね 。

    これから少し悪口も書きますが 、怒らないでど
   うぞ考えて見て下さいあなたは優しいし厚味
   のある人柄ですが 、その優しさを表現すること
   は甚だ拙劣ですね 。私はあなたと森を歩いたこ
   とも 、月を眺めたことも 、海辺に立ったことも
   ありません 。それは私が誘わないばかりでなく 、
   来客や家族が多いので忙しいばかりでなく 、あ
   なたが来ようとしないのです 。
    例えばあなたと立った姿勢で接吻をしたことが
   あったでしょうか 。これもまた私が悪いばかり
   でなく 、あなたが 、二人だけの愛情を感じなが
   ら私の傍に立って 、じっと待っていてくれたと
   いうことが一度もなかった証拠にほかなりません 。
    例えば私達大家族が一緒に電車に乗ったとしま
   す 。あなたが私の傍に座ったためしが有ったで
   しょうか 。
    更にあなたは 、夜の愛撫をかわし合うときにも 、
   おおむね非常に投やりであるか 、大まかである
   かのようです 。それも又私が疲れているのと 、
   力の足りない故であるかも知れませんが 。
    私は繰り返しあなたに云っております 。仕事が
   煩労ならば女中さんを二人でも三人でも雇ったら
   よいではありませんか 。そうしてあなたはあな
   たの力を私の仕事の周囲に注いでくれるか 、乃
   至はあなたの教養 、慰安に向けてくれるがよい
   ではありませんか 。
    おしめを洗ってくれることもありがたいが 、そ
   ういう仕事は人にまかせて 、野山に立ち 、生き
   る喜びを知り 、激励を交わし合って 、殆ど亡び
   かかっている私を更新して貰いたいのです 。」

    ( 中 略 )

  「 さて 、これからは生きている間に起り得る出来
   事について私の意見を明瞭にしておきます
    あなたにかりに恋人が出来ても一向にさしつか
   えありませんよ 。私が余り愉快に思うかどうか
   は別にして 、誰でも自由に愛し 、愛されるべき
   だからです 。但し肉体関係ができているときに
   は 、なるべくそれを報せ合いたいものですね 。
   何故なら自分の子供でない子を知らずに 、かか
   えあげているのは悲惨ですから 。
    あなたに愛人が出来た節も 、あなたからの申出
   がない限り 、私の方から離婚の申出は決して致し
   ません 。別居はするとしても 、あなたが私の夫
   人であって何のさしつかえはないわけですから 、
   従って下石神井のあなたの家はあなたの愛人と暮
   す巣になってもさしつかえないわけです 。それは
   今日迄のあなたの御辛労に対する感謝からです 。
   かりにあなたが愛人と結ばれて 、どうしてもあな
   たから離婚の希望がある節も 、次郎の連れ子料と
   して 、あの家を贈呈いたします 。家がいやなら 、
   家の代価六十五万円を( 一時には払えないし 、
   金で払うのはあやしいが )さし上げる約束をして
   おきます 。若しそんなことがあった節 、この手
   紙を証拠として裁判所に提出して下さい 。
    若し又 、私に愛人が出来た節も 、あなたと離婚
   はいたしません 。私は別宅を構えてその方へ逃げ
   てゆくだけのことで 、その際はあなたと子供達の
   充分な養育費を負担しましょうね 。
    以上 、洗いざらい色んなことを書きましたが 、
   しかしもう何年生きるか 、憫(あわ)れな人間同士
   であってみれば 、なるべく仲良く一緒に 、乗り
   かかった船とあきらめて 、死ぬ迄信じ合って生き
   てゆきたいものですね 。
    それには 、もっとお互いに愛情の技巧に気をつ
   け 、電車に乗る時には一緒に掛け 、腕を組んで
   野山を歩き 、月や花を愛し合い 、時には立った
   接吻を交わし 、夜の愛撫にも慰め合い 、いたわ
   り合い 、お互いのよろこびの源泉を深くし 、お
   互いのよろこびを教え合い 、ヤキモチを焼かず 、
   深く信じ 、事破れた時には率直に 、なつかしい
   昔の夫婦だったという立場から相談し合うことに
   致しましょう 。
     一月十日           檀一雄   」

  ( 沢木耕太郎著 「 檀 」新潮文庫 所収  )

   引用おわり 。

   この文面だけみると 、檀一雄さんの現状認識として「 夫婦

  の愛情関係は すでに 破たんしている 」ようです 。

   これだけ挑発的内容の手紙を作家が書いても 、その後何年

  もの間 、夫人の作家に対する対応に 、作家が期待するほど

  に目立った変化はなかったんでしょうね 、きっと 。

   こんな形で思いを口にした以上 、作家としては 、「 火

  の人 」の道へ 、お考え通り 、何年か後に淡々と進まれたん

  でしょう 。

   鈍感といえば 、鈍感なんでしょうね 。人間にはよくある

  ことではありますが 、自己防衛本能 。 

   見たくないものは見ないというか 、見えない 。

   聞きたくないことは聞かないというか 、聞こえない 。

   読みたくないことは 、頭に残らないというか 、残さない 。

   あとで気が付く てんかん病み 。

  。。(⌒∇⌒); 。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「 沢木 耕太郎(さわき こうたろう 、1947年11月
        29日 - )は 、日本のノンフィクション作家・エ
        ッセイスト・小説家・写真家 。」

       「 檀 一雄(だん かずお、1912年〈明治45年〉2月
        3日 - 1976年〈昭和51年〉1月2日)は 、日本の
        小説家 、作詞家 、料理家 。」

         以上ウィキ情報 。)

 

  

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もののあはれ Long Good-bye 2024・12・14

2024-12-14 05:28:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため  、「 望月の御牧(みまき) 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、「 望月の御牧 ( 官牧 ) 」のお話 。

   引用はじめ 。

  「 清少納言の『 枕草子 』に 、

     駅(むまや)は 梨原(なしはら)。望月
     (もちづき)の駅(むまや)。山の駅は 、
     あはれなりしことを聞きおきたりし
     に 、またもあはれなることのありし
     かば 、なほとりあつめてあはれなり 。

    と 、ある 。

    この駅(むまや)は 、律令制における官道の
   宿駅のこと 。宿駅には馬や人夫が置かれて旅
   人のもとめに応じ 、つぎの駅まで乗り継ぎさ
   せる 。右の文章にある梨原の駅は近江(おう
   み)にあり 、望月の駅というのは 、いうまで
   もなく信濃(しなの)にある 。山の駅というの
   はどこにあるのか未詳だが 、文章の後半は山
   の駅について書かれていて『 深くしみじみと
   心ひかれることをきいていたが 、また別な話
   をきき 、かさねがさね心のひかれることであ
   る 』という 。梨原や信濃の望月の駅につい
   てはどういう説明もされていないが 、要する
   に『 あはれ 』ということであろうし 、あは
   れ という語意には景色のよさということも 、
   重要な要素として入っているに相違ない 。
    かといって清少納言が信州に来たとは思えな
   い 。

    彼女は 、中宮定子(ていし)に仕えた 。宮廷
   での話題のひとつは 、諸国の名所についてで
   あろう 。国々へ受領(ずりょう)としてくだっ
   た者やそれに随行した者などが 、国々の名所
   についてのみやげ話を持ちかえるために 、京
   においては女官でさえ諸国の地理についての
   知識を相当持っていたと思われる 。
   『 駅は数あるが 、信濃なる望月の駅の御牧
   (みまき)ケ原の景色がもっともよく 、秋の夕
   暮など 、草遠き原に駒の群れるあり 、散る
   あり 、蓼科(たでしな)のふもとに黄葉(もみ
   じ)して 、その風情(ふぜい)はえもいわれな
   い
    などと 、地方に馴れた男どもが 、旅をせぬ
   宮廷の女官たちになによりもの話のたねとし
   て語ったにちがいなく 、自然 、清少納言の
   脳裏に望月の駅の景色がありありと浮かぶよ
   うになっていたのであろう 。」

  「 平安朝までの公家(くげ)政権が 、奥羽の地
   を十分に掌握していたとはいわれないという
   ことについては 、すでに触れた 、自然 、
   日本第一等の良馬を産する奥羽には御牧(官牧)
   がなく 、このため官牧にあっては信濃の馬 、
   とくに望月の馬がもっともよいとされた 。
    御牧の管理をする者は 、千曲川の流れの両側
   で農場をひらいている者たちである 。それら
   はやがて武士として成長してゆく 。
    木曽に住む木曽義仲は 、手勢といってもわず
   かだった 。旗あげに際し 、かれはわざわざ東
   信の佐久平までやってきて 、千曲川畔で兵を
   あつめた 。かれが佐久平をもって挙兵の地と
   した理由は 、一つには馬を獲るためであった
   であろう 。騎兵をもって圧倒すれば平家軍は
   かならずしもおそるるに足りない 。そういう
   軍事的な知恵は 、当時 、東国のつわものども
   にとって 、ごく常識的なものであったかと思
   える 。」

  「 依田の城というのは上田の南にあり 、千曲川
   に流れこむ依田川の岸にあった 。いま依田と
   いう地名はないが 、依田川という河川名はあ
   る 。このあたりを本拠にすれば 、いまの軽井
   沢付近の長倉の御牧はもとより 、望月の御牧
   の馬もことごとくおさえることができる 。
   『 馬の産地さえ制すれば 』
    というつもりが 、木曽義仲にあったにちがい
   ない 。義仲は 、鎌倉の頼朝からみれば源氏の
   傍流である 。たがいに競立する立場にあった 。
   頼朝にとって義仲は無用有害の存在であり 、
   共通の敵である平家よりも むしろ分派の状況に
   ある 味方 をほろぼさねばならない 。このこと
   は一つの敵を共有する在野党の宿命的な生態な
   のかもしれない 。」

   引用おわり 。

  。。(⌒∇⌒);。。

   司馬遼太郎さん の 紀行文「 街道をゆく 9 」の「 信州

  佐久平みち 」の筆写は 、ここまで 。

 

   

   

   

 

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こもろなるこじょうのほとり Long Good-bye 2024・12・12

2024-12-12 05:59:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 小波だつ川瀬 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、「 小諸 」でのお話 。

   引用はじめ 。

  「 道を南下して 、千曲川のうねる遥かな彼
   方に小諸城の台地を見たとき 、さすがに詩
   情を禁じえない 。
    北から佐久平(さくだいら)をめざせば 、
   だれもが小諸をその袋の口のように感ずる
   にちがいない 。むかしは 、小室という漢
   字をあてた 。むろ とは上代の地理用語で
   もある 。狭隘な平地をいうらしい 。」

  「 小諸の東北方に 、東信濃の地勢 、気候
   その他に決定的な大要素になっている浅間
   山巨大な山塊として蟠(わだかま)ってい
   る 。そのふもとの丘陵が小諸へのびてき
   てこの小さな城市(じょうし)を載せ 、西
   は断崖になり 、千曲川に洗われている 。
   城は川に臨んだ断崖の上にあり 、遠望す
   ると景観としてはまことに佳(い)い
    が 、以上は私の想念の中の小諸城で 、
   信州にくらい私は 、このあたりに来るの
   もむろんはじめてで 、ただ遠望しての眺
   望のよさだけは 、このとき味わうことが
   できた 。」

  「 小諸城の城内は 、懐古園という公園に
   なっている 。その前の広場に古い機関
   車が置かれていて 、まわりに大衆食堂
   が軒をならべ 、どういうわけかパチン
   コ屋並みの大音響で音楽が拡声放送され
   ていて 、足がひるんでしまった 。
    ともかくも大衆食堂の一軒に入ると 、
   こういう店における時代の象徴ともいう
   べき仏頂面(ぶっちょうづら)の女の子が
   デコラのテーブルを拭いていて 、声を
   かけてもふりむきもしなかった 。定年
   をすぎた年齢の編集部のHさんが辞を低
   くして女の子に何か話しかけているのだ
   が 、背を向けたまま顔も見てもらえない 。
   やがて女の子が不機嫌そうに背をのばし
   て 、
   『 なにか 、註文するのかね 』
    というようにHさんをちらりと見た 。
   アウシュビッツのナチの下士官というの
   はこういうぐあいだったろうと思われた 。

    ( 中 略 )

     小諸なる古城のほとり
     雲白く遊子悲しむ

    という島崎藤村の詩さえなければ 、小
   諸城趾はいまも閑(しず)かだったであろ
   う 。こういう騒音もなければ 、残忍な
   客あしらいもなく 、テーブルの上の器
   物の狼藉もなかったにちがいない 。
   村の詩も小諸城趾もわれわれの誇るべき
   文化だが 、それが大衆化され商業的に
   受けとめられて再表現されたときに民族
   のほんとうの民度とか文化の担当能力が
   露呈するのかもしれない 。つけっぱなし
   のテレビのコマーシャルまで耳の中を搔
   きまわして 、どうにも居たたまれなかっ
   た。

    ( 中 略 )

    そばが 、運ばれてきた 。
    さすがに信州だけにそばが旨く 、下味
   (つゆ)もわるくはなかった 。値段もそこ
   そこで 、その意味では商業主義の必要な
   条件を充(み)たしていた 。
    ただ食物をひとに与える場合 、犬にや
   る場合でも頭をなでてやるというスキン
   シップがあって与える者と受ける犬との
   間の文化的関係が成立するのだが 、食
   堂の商業主義が十分な条件をもつにはせ
   めて犬の飼主程度の心が必要かとおもわ
   れる 。
    たかがそばを食うのにこういうたわご
   とを考えずともいいのだが 、場所が藤
   村の詩と小諸の古城のなかでのことだけ
   に 、つい信州人に対する当方の期待が
   過剰になってこんなことを考えてしまっ
   た 。
    食堂を出ると 、懐古園である 。なん
   となく入ってみる気がおこらなくなって 、
   そのまま南にむかった 。」

    引用おわり 。

    。。(⌒∇⌒);。。

    これでも 、SNSの攻撃的なメッセージに見られるような

   部分は 、筆写から省いたが 、騒音や色彩の暴力とでも言う

   べき観光地の有り様や 、作家をして「 残忍な客あしらい 」

   と言わしめ 、いたたまれなくするような大衆食堂の雰囲気

   は 、上に筆写した文章だけでも 、十分読者に伝わってくる 。

   ( 中 略 ) の部分の記述は 、「 週刊朝日 」の編集者がよく掲

   載をためらわなかったのか不思議なくらい 、作家の生まの

   感情をぶちまけたような文章である 。「 知の巨人 」の知

   力がムダに使われており 、冷静な分析者であり続けた司馬

   遼太郎さんには全く似つかわしくない文章群 。よほどお怒

   りであったらしい 。

   。。(⌒∇⌒); 。。

    50年ほど前の「 小諸城趾 」の「 懐古園 」前の広場に

   あったらしい大衆食堂 。こんにち どうなっているん

   しょうね 。仏頂面(ぶっちょうづら)の女の子も 、いまや 、

   仏頂面のお婆さん ?   垢抜けた観光地のレストランか

   フードコートに変身しているかもしれません

   

 

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ちいさがた Long Good-bye 2024・12・10

2024-12-10 05:33:00 | Weblog

  

 

  

   今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 千曲川点景 」と題された小

  文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州の別所温泉を経ての旅の続き 。

   引用はじめ 。

  「 別所は塩田平にあるということは 、すでに
   ふれた 。この塵取(ちりとり)型の小さな平野
   は 、奥の別所において高く 、千曲川の方向
   にむかい 、ゆくにつれて低くなる 、狭いな
   がらも 、見るからに膏腴(こうゆ)(あぶらみ)
   の地といった感じである 。
    この塩田平は 、それと相重なる上田平とと
   もに 、信濃(しなの)では まとまった規模の
   農耕地帯として最初にひらけ 、『 小県(ち
   いさがた) 』という地名で中央にも早くから
   知られていた奈良朝の律令体制がはじま
   ると 、このあたりに国府がおかれたらしい 。
    どこに置かれたかは 、明瞭でない 。」

  「 同行の桜井孝子さんは 、故郷だけに 、信
   濃を詠んだ万葉の歌のいくつかをそらんじ
   ている 。

     信濃通(しなのぢ)は 今の墾道 刈株(はり
     みち かりばね)に 足踏ましなむ 久都(くつ)
     はけ わが背( 巻十四、三三九九 )

    という歌を 、国府の所在について話して
   いるときに 、彼女はさりげなく挟んだ 。
    この歌は 、東歌(あずまうた)の一つで 、
   防人(さきもり)に徴せられて都へゆく若い
   夫のために妻が詠んだ歌である 。
    道を墾(ほ)るというのは新道を開くこと
   で 、墾道とは開通したばかりの新道 。自
   然 、笹などの刈株がそそけ立っている 。
   きっと足を踏みぬいたりなさるでしょう 、
   さあ履(久都)をはいていらっしゃいよ 、
   という 。久都は靴のことだが 、原日本に
   は存在しなかった 。ふつう革製だが 、木
   製 、布製のもある 。この場合 、刈株の
   墾道である以上は革製でなければならない 。
   くつ という言葉はどうやら朝鮮語の kuit
   と同源らしく 、この歌には『 あのハイカ
   ラな靴というものをはいていらっしゃいよ 』
   という気分が入っているのにちがいない 。
    この歌でおもしろいのは 、
   『 信濃には京へゆく便利な道路が開鑿(か
   いさく)されたらしい 』
    という道路情報が 、関東の防人の妻の耳
   に入っていたということである 。

   『 続日本紀(しょくにほんぎ) 』の和銅六
   (713)年のくだりに 、

     美濃信濃二国の堺は径道険阻にして往
     還艱難なり 。よりて吉蘇路(きそじ)
     (木曽路)を通ず 。

    と 、ある 。信濃側からいえば 、松本か
   ら木曽福島を経て美濃(岐阜県)の中津川
   へ出てゆく道路は 、この和銅六年に開墾さ
   れた 。その後 、中山道で都のほうへゆく
   にはこの木曽路が利用され 、このおかげで
   源平争乱期に木曽義仲がここで雌伏するこ
   とができたわけだし 、はるかな後世ながら
   島崎藤村の『 夜明け前 』に出てくる木曽
   路の馬籠(まごめ)の宿(しゅく)もこのおか
   げで出来 、いまも中央本線がほぼこの道路
   沿いに走っている 。万葉時代にはこれが刈
   株の道で革のくつでもはかなければ歩けな
   かったというのも 、おもしろい 。
    奈良朝という律令国家は 、全国を公田に
   してそこからあがってくる米その他を都に
   運ばせるために 、道路を必要とした 。木
   曽路の開鑿は人民の難儀を軽減する目的よ
   りもむしろ租税の運搬を便利にするためで
   あった 。しかしながらこの木曽路の開鑿に
   よって信濃国は都に近くなった
    いま一つの変化は 、信濃では 、それまで
   一国の中心だった千曲川ぞいの小県(ちいさ
   がた)(上田平など)東の片隅というだけに
   なり 、国のほぼ中央にある筑摩の松本平
   (まつもとだいら)飛躍的に重要になった
   ことである 。松本平はそれまでも大きな農
   業生産地であったが 、貢租をはこぶ道路地
   理からいえば僻陬(へきすう)にあったとい
   っていい 。この道路によって信濃の中心は
   千曲川ぞいから松本に移り 、国府も小県か
   ら松本へうつされてしまった 。新道路の開
   鑿が土地の事情を基本的に変えるというのは 、
   こんにちにかぎったことではない 。」

  「 私のこの旅は 、あたらしい土地へゆくと
   かならず国府のあとか 、それが明瞭でなけ
   れば国分寺あとを訪ねることにしている 。
   そのあたりは上代におけるその国の中心だ
   ったから 、山河を見わたすだけでも 、感
   慨が深まるような気がする 。」

  「 地図では 、国分寺跡は上田の市街地より
   やや南で 、千曲川の東岸にある 。ゆくと 、
   河原に 、

     信濃国分寺趾(あと)

    という大きな石碑が立っている 。
    史跡公園などと仰々しく銘うたれているが 、
   地面と簡単なコンクリート製の腰掛け台があ
   る程度で 、樹木といえるほど樹木はなく 、
   その場に立っているだけで心が荒涼としてく
   る 。
   『 これは 、公園ですか 』
    と 、須田画伯が 、どう写生していいか途
   方に暮れた表情で 、ふりむいた 。
    信州人は 、神経のゆきとどいた感覚を持っ
   ている 。そのことは定評のあるところだが 、
   どうも諸事 品下がってきた日本のなかにあっ
   て 、信濃人(しなのびと)まで がさつ になっ
   てきたということであろうか 。
    それにしてもこの公園はひどく 、ちかごろ
   しきりに史跡公園を造っている中国人などが
   みれば ―― かつての中国がこのようだった
   だけに ―― 越し方を思い 、いまの日本人
   の心の荒みようにおどろくかもしれない 。

    日本人は 、古来 、杜(もり)を神聖な場所
   として大切にしてきた 。共同体の中心をな
   す神社の境内(にわ)は樹木でうずめ 、鬱然
   たる杜をつくり 、杜に神が天降(あも)りす
   るという信仰を継承してきた 。西洋では 、
   公園をそのようにした 。公園の概念を明治
   のときに輸入した日本は 、公園をもって神
   社の杜のように考えて 、結果としてはほぼ
   まちがいなかった 。
    人間の心を安らかにするのは 、樹木しか
   ない

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒); 。。

   上の「 史跡公園 信濃国分寺趾 」の記述にもあるが 、

  50年ほど前の 、この信州への旅においても 、作家

  や同行者一行をがっかりさせる観光開発の有り様が度々

  語られる 。「 小波だつ川瀬 」の章で語られる小諸城趾

  の「 懐古園 」への入園を断念させるくだりは 、攻撃的

  かつ執拗な筆致で 、司馬さんに似合わな過ぎて 、筆写

  に堪えない 。50年後の現在 、こんな目に遭うことは

  しょっちゅうであることも悲しい 。行かなきゃいいの

  であるが ・・・ 。

 

    ( たしか浅間山 )

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おんりえど ごんぐじょうど Long Good-bye 2024・12・08

2024-12-08 05:11:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   信州は 、別所温泉にある常楽寺の本坊境内にある

  コンクリート造りの美術館に収蔵されている 徳

  家康の『 課念仏 』のお話 。

   引用はじめ 。

  「 常楽寺の本坊境内には 、コンクリート造り
   の美術館もある 。
   『 先代が美術品が好きで 、寺にあったもの
   や集めたものをここに収蔵しておいてくれた
   んです 』
    といって 、現住職の半田孝淳氏が 、扉の
   錠をあけてくれた 。
    めずらしいものが数点ある 。なかに 、徳
   川家康がみずから筆をとって書いた『 日課
   念仏 』というのがあり 、写真で見た記憶が
   あるが 、本物はむろんはじめてだった 。
   字で南無阿弥陀仏という六文字を 、六段に
   びっしり書き込んでいる 。終りのほうに 、
   南無阿弥と書いて 、あとは陀仏と続けず 、
   家康と書いている 。誤記ではなく 、日課念
   仏の作法なのであろう 。そういうのが六カ
   所あった 。
   かれは 、念仏の徒であった
   かれの先祖は徳阿弥という時宗の聖で 、全
   国を遊行(ゆぎょう)するうちに三河(みかわ)
   松平郷という山中に流れてきて 、松平家に身
   を寄せた 。そのうち松平家の娘と深くなり 、
   子がうまれた 。遊行聖(ゆぎょうひじり)には
   よくある例である 。やがてこの家は一遍の時
   宗念仏から法然の浄土宗に転じ 、世を重ねて
   家康に至った 。家康は生涯 、戦陣に出るとき 、

     厭離(おんり)穢土
     欣求(ごんぐ)浄土

    と大書した大旆(たいはい)を本営にひるがえ    
   した 。『 ああこんな浮世はつくづくいやだ 、
   よろこび勇んであの世へ行きたい 』などとい
   う文句を戦陣の旗につかった大将など 、古今
   東西に家康しかない 。士卒に死を怖れさせな
   いようにとの配慮もあるだろうが 、それにし
   ても本気で念仏を信じていなければ 、こんな
   旗を戦陣にかかげることはなかったにちがい
   ない 。

    もっとも平安末期から戦国までの念仏の流行
   というのは 、単純な厭世主義の流行というも
   のではなく念仏を信じることによって自分
   を形而上的世界に解放するというごく陽気な
   一面があり形而下的には 、念仏を唱える
   ことによって互いの間に『 御同朋(おんどう
   ほう)・御同行(おんどうぎょう) 』の結びつ
   きができるという一面もあり色彩でいえば
   寒色ではなく暖色の文化性というべきもの
   あった 。この当時のそういう面からいえば 、
   家康の旗の文句はひとびとから違和感をもた
   れるようなものでは決してなかった 。
    この家康の『 日課念仏 』は 、慶長十七(16
   12)年という年号が入っている 。晩年という
   べき時期で 、この翌々年にかれは豊臣秀頼を
   討滅する軍を発する 。」 

   引用おわり 。

   念仏といえば 、昨年11月に89歳で亡くなった

  脚本家の山田太一さん ( 1934 - 2023 ) が書かれた

  小説「 空也上人がいた 」( 朝日新聞出版 刊 ) の最

  終章で 、年老いた主人公に寄り添って 、

  「 少し顎を上げて 、小さく口をひらいて 、汚れた

  着物を着て 、細い脛を出し 、履きつぶしかけの草

  鞋で 」、車椅子を押す主人公の歩調に合わせて 、

  歩いてくれている 、

   と主人公の目に映るのが 、市( いちのひじり )

  空也上人 であることを思いだす 。物語の狂言回し 、

  京都 、六波羅蜜寺の寺宝「 空也上人立像 」のイメ

  ージと重なる 。

  久し振りに 、身につまされて 、心に響く小説た 。

 

   

 

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なむあみだぶつ Long Good-bye 2024・12・06

2024-12-06 05:44:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝

  日」に連載されたもの 。

   備忘のため 、「 山寺の中の浮世絵 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   司馬遼太郎さんの「 街道をゆく 」の場合 、

  「 すこし無駄話をしたい 」で はじまる 件 ( くだ

  り ) は 、存外おもしろい 。

   400年近く続いた平安時代の初期を生きた伝教

  大師 最澄弘法大師 空海の話柄 。

   引用はじめ 。

   「 この別所温泉を持つ野は 、塩田平(しおだだ
   いら)とよばれる 。信州らしく文字どおり高燥
   の地で 、降雨量はすくなく 、標高は温泉のあ
   たりで六五〇メートルだという 。」

   「 別所温泉は もとは近郷の湯治場で 、湯治客は
   たね屋の屋敷に間借りした 。いま別所温泉の  ( 蚕のたね屋 )
   伝統のある宿屋はたいてい たね屋 だった家で

     すということだった 。  」

   「 常楽寺は 、丘陵の中腹の台上にある 。台上
   までは 、石段を登る 。のぼりつめると 、本
   坊がある 。きれいなわらぶきの屋根をかぶっ
   ていた 。
    寺域は緑につつまれ 、あたり一面に蟬しぐれ
   が降りつづけて 、もうそれだけで十分な感じ
   がした 。
    この寺は 、本坊だけである 。本坊は坊さん
   の住まいだから 、参詣者は来ない 。参詣者は
   この寺が持っている観音堂( 北向観音 )のほ
   うへゆく 。観音堂は 、本坊からすこし離れて
   いる

   「 すこし無駄話をしたい 。

    天台宗を興した最澄は 、入唐(につとう)して
   天台教学の体系を持ち帰ったが 、当時『 新仏
   教 』として認識されていた密教については 、
   帰路 、越州に寄ったとき 、そこにあったいわ
   ば田舎密教を持ち帰っただけであった 。
    日本で最澄を待っていた宮廷人たちは 、最澄
   がかついで帰った風呂敷包みの内容のうち 、か
   んじんの天台体系よりも密教に関心をよせた 。
   最澄はいそぎ時代の要求に応(こた)えるべく自
   分の体系に密教部門をを入れたが 、その内容の
   薄弱さが気になり 、そのことがかれの生涯の苦
   のたねになった 。
    それに反し 、最澄と同時期に入唐した空海は
   もともと独学で密教の専門家になっていただけ
   でなく 、長安において正密の法統を承け 、か
   れ自身の論理でもって巨大な結晶体のような体
   系をつくりあげ 、かつ密教の重大事である行
   (ぎょう)についても間然するところがなかった
   最澄はこの空海から密教を学ぼうとしてうまく
   ゆかず 、一方 、南都のふるい仏教側との論争
   で精根をついやし 、五十六歳で世を去った
    帰国後の最澄は自分の教学を防衛することに
   明け暮れたために 、持ち帰ったものを整理す
   るいとまもなく 、その風呂敷包みを叡山の山
   頂に置いたまま世を去ったといっていい 。
   澄は 、叡山に戒壇を置くことが生涯の念願だ
   った 。戒壇とは官僧を作りだすための資格授
   与所といっていい 。下野(しもつけ)の薬師寺 、
   奈良東大寺 、大宰府の観世音寺の三カ所にあ
   ったが 、最澄は叡山にも設けてほしいと官に
   運動し 、奈良の僧の反対に遭ってついに実現
   せず 、実現したのはその死後だった 。
    最澄は前半生において恵まれ 、後半生にお
   いては稔りのない抗争にひきこまれてかんじ
   んの教学面では何もしていないにひとしい
   ただ死後 、後継者にめぐまれた人間の一
   生は 、棺のふたを覆ってもなおわからない
   いうのが 、最澄の場合であろう 。空海の教
   学は後継者によって発展しなかった発展す
   る余地がないほどに空海が生前完璧なものに
   してしまっていたからである 。これに対し
   澄の後継者たちはちがっていた 。師匠が叡山
   の山の上に風呂敷包みをほとんど解きもせずに
   置きすてて世を去ったあと 、みなで風呂敷を
   解き 、そのぼう大な内容を手分けして整理し
   たり 、研究したりして 、この系統から無数
   の学僧や思想的人物が出 、ついに鎌倉仏教と
   いう日本化した仏教世界を創造するにいたった
   空海の真言宗には 、そういう華やかさは 、そ
   の後なかった 。」

  「  最澄の死後 、円仁(えんにん)(794-864))
   が巨大である
    かれは下野(栃木県)の産で 、最澄の生前
   に入門し 、その死後 、最澄が生涯苦にして
   いたその希薄な密教体系を充実させるべく 、
   東シナ海の波濤を越えて入唐した
    その旅行記である『 入唐求法巡礼行記(にっ
   とうぐほうじゅんれいこうき) 』は 、若いこ
   ろのライシャワー氏によって世界中に紹介さ
   れ 、いまでは玄奘(げんじょう)の『 大唐西
   域記 』、マルコ・ポーロの『 東方見聞録
   とともに世界の三大旅行記にかぞえられるに
   至っている 。
    円仁は九世紀の唐をつぶさに見 、帰国後 、
   幾年か経って天台座主に任ぜられ 、その死
   後 、慈覚大師(じかくだいし)とおくりな
   れた 。」

  「 この常楽寺に付属する『 北向観音 』の観
   音堂伝説では 、この円仁が登場する 。
    天長二(825)年に 、この常楽寺の丘陵の一
   角で 、毎夜 、光明が射し 、地鳴りをとも
   なった 。朝廷がおどろき 、天台座主円仁を
   派遣した 。( 実際には 、円仁が天台座主に
   なるのはそれから二十九年後 ) 。円仁が現地
   で修法(すほう)を営むうち 、空中から声が
   あって 、自分は観音である 、わが像を刻み
   北向きに安置せよ 、といった 。円仁はこの
   像を刻み 、いわれるとおりに北向きにし 、
   観音堂にまつった 。
    おそらくこの伝説は 、観音堂にあつまって
   いた聖たちが創作したのであろう 。
   『 そういうありがたい観音さまだ 』
    と 、ひとびとに触れまわったにちがいない 。
   別所温泉の湯元のの一つは 、古い時代 、大
   師ノ湯とよばれた 。この大師は空海・弘法大
   師の大師ではなく 、円仁・慈覚大師の大師で
   あるらしい 。ここの聖たちは 、本来の常楽
   寺が天台宗であるというので弘法大師にする
   わけにゆかず 、慈覚大師にしたのに相違ない 。
   天台宗なら 、宗祖の最澄・伝教大師にすれば
   よさそうなものだが 、最澄は人文科学者のよ
   うな人格的印象があるため 、聖たちが最澄を
   持ちだすわけにゆかなかったのかもしれない 。
   それに初期の聖は 、多くは密教の徒であった 。
   最澄はいわば密教の落第生であったために最
   澄という大学総長のような印象の名前では神
   秘伝説の主人公にするわけにゆかず 、いっそ
   天台密教を確立したその弟子の円仁のほうが
   いいということだったのであろう 。
   『 善光寺だけお詣りしていてはいけない 。
   北向観音に詣らなければ片詣りになる
    と 、善光寺とワン・セットにして売りだす
   ということをかんがえたのも 、観音堂の聖
   たちに相違ない 。かれらが湯聖をも兼ね 、
   ひとびとに観音堂の参籠をさせて仏果を得さ
   せる一方 、湯治をさせて神経痛などを癒さ
   せるということにしていたのかと思える 。
   そうでなければ別所という地名ができるわけ
   がないと思うが 、どうであろう 。 」

   引用おわり 。

   。。(⌒∇⌒);。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「 最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉
        もしくは767年〈神護景雲元年〉- 822年
        〈弘仁13年〉)は 、平安時代初期の日本
        の仏教僧 。日本の天台宗の宗祖であり 、
        伝教大師(でんぎょうだいし)として広く
        知られる 。近江国(現在の滋賀県)滋賀
        郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺
        (現:大津市坂本)の地に生れ 、俗名は
        三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に
        渡って仏教を学び 、帰国後 、比叡山延暦
        寺を建てて日本における天台宗を開いた 。 」

        「 空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835
        年4月22日〈承和2年3月21日〉)は 、平安
        時代初期の僧 。諡号は弘法大師(こうぼう (諡号の読みは しごう)
        だいし)。真言宗の宗祖 。俗名は佐伯眞魚
        (さえき の まお)。

         日本天台宗の宗祖である最澄と共に 、日
        本仏教の大勢が 、今日称される奈良仏教
        から平安仏教へと 、転換していく流れの
        劈頭(へきとう)に位置し 、中国より真
        言密教をもたらした 。能書家でもあり 、
        嵯峨天皇・橘逸勢と共に 三筆 のひとり
        数えられている 。

         仏教において 、北伝仏教の大潮流である
        大乗仏教の中で 、ヒンドゥー教の影響も
        取り込む形で誕生・発展した 密教 がシル
        クロードを経て中国に伝わった後 、中国
        で伝授を受けた奥義や経典・曼荼羅などを 、
        体系立てた形で日本に伝来させた人物でも
        ある 。

        以上ウィキ情報 。

        Yahoo ! 知恵袋 にこんな Q&A がありました 。

         「Q:間然するところなし。の『 間然 』の
            語源を教えてください 。
            どうして 、『 欠点をついてあれこれ
            と批判・非難すること 。』という意味
            になるのですか ?
          A:『 間然 』の意味は『 欠点をついて
            あれこれと批判・非難すること 』では
            なく 、『 非難されるような欠点があ
            ること 』です 。
            『 間 』は『 すきま 』、『 然 』は
            『 状態・様子 』ですから 、『 間然 』
            は『 すきまがある状態 』ということ
            になります 。すきまがあれば完全では
            ない 、すなわち欠点がある 、という
            意味になるわけです 。」)

 

  

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いちひじり Long Good-bye 2024・12・04

2024-12-04 07:01:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

  連載されたもの 。

   備忘のため 、「 捨聖(すてひじり)一遍 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   一遍上人の話柄 、昨日の続き 。

   引用はじめ 。

  「  ・・鎌倉期においては 、東は相模(さがみ)あたり
   から 、北陸道 、中山道(なかせんどう) 、東海道 、
   畿内はいうまでもなく 、山陽道から九州にかけて
   まで 、野にも山にも念仏が満ちていた 。
    社会科の教科書ふうにいえば念仏門は法然にはじ
   まって親鸞がこれを承(う)け 、別派として一遍が
   存在する 。やがて室町に入って親鸞の子孫の蓮如
   (れんにょ)が 、念仏の組織的な大問屋として大本
   願寺教団をつくりあげて 、各地に一向一揆をおこ
   し 、本願寺顕如(けんにょ)のときに織田信長と対
   決するというふうになるが 、実際には法然以前に
   古流(こりゅう)ともいうべき念仏集団が各地に多種
   類存在した 。それらが法然の出現を待って教学を
   与えられ 、すこしずつ組織されるのである 。たと
   えば高野聖(こうやひじり)を中心とする高野念仏も
   あれば 、紀州の熊野にあつまっていた熊野聖たち
   の熊野念仏もあった 。さらには信濃の善光寺を中
   心にあつまっていた善光寺聖という集団があり 、
   善光寺念仏といわれていた 。念仏の本尊はいうま
   でもなく阿弥陀如来である 。善光寺の本尊はこの
   古刹(こさつ)としてはめずらしく阿弥陀如来で 、
   日本最古のものといっていい 。中世 、阿弥陀信
   仰がさかんになってから信濃の善光寺という寺が 、
   天下に喧伝されたかと思える 。喧伝されるについ
   ては 、善光寺の僧が才覚を働かせたのではなく 、
   善光寺にいわば巣食っていた善光寺聖たちが 、さ
   まざまな伝説を創作しては諸国に触れあるいたか
   と思われる 。」

  まことにという存在は 、中国の過去にも 、朝
   鮮やヴェトナムの歴史にも存在しない 。中国では
   似たものとして道士が存在するが 、朝鮮やヴェト
   ナムでは類似のものもない 。ともかくも日本の中
   世の聖たちは 、こんにちの日本の大衆社会の諸機
   能をすでに備えていた 。ときに小説家のようであ
   り 、ときに新聞 、テレビ 、ラジオの機能をもち 、
   ときに広地域の商品販売者であり 、ときに思想の
   宣布者であり 、ときに社会運動家のようでもあっ
   た 。」

  「  高野念仏熊野念仏善光寺念仏といっても 、
   教団化されていない よさ があった 。かれらはそ
   の後の法然教団や蓮如教団のように相互に排除し
   あう体質がなく 、他からすぐれた聖がやってくれ
   ば 、歓喜してそれに従ったようにおもわれる 。
   たとえば一遍がやってきて 、
   『 佐久平で 、別時念仏をしたい 』
    ということになれば 、かれらは 、行装(ぎょう
   そう)が乞食のようにきたないことで有名な一遍を
   かこみ 、それを擁するようにして千曲川を南へさ
   かのぼって佐久にむかったにちがいない 。ついで
   ながら別時念仏というのは 、念仏は本来日常に唱
   えるものだが 、修行のためにとくに期間を設け
   (期間は一定しない 。一日だけの場合もあれば 、
   例外的ながら九十日という長期間を設定する場合
   もある)ひたすらに念仏を勧修(ごんしゅう)する行
   事であった 。
    一遍は 、この別時念仏を佐久の伴野郷でおこなっ
   た 。伴野郷というのはいまはたしか佐久市に入る
   のであろう 。ごくちっぽけな地名として残ってい
   るにすぎないが 、鎌倉期では信濃一国のなかで最
   大の水田地帯とされた 。それだけに農民の数も多
   く 、高名な一遍聖が別時念仏を催すとなれば 、
   佐久はじまって以来といっていいほどの民衆があ
   つまったに相違ない 。
    ときに 、歳末であった 。一遍が指導してこれを
   やっていると 、千曲川の上に紫雲がたなびき 、
   ひとびとをよろこばせた 。この奇瑞(きずい)は 、
   三年後に関東の片瀬の地蔵堂で一遍が『 一日一
   夜 』の念仏を民衆とともに修したときにもおこっ
   た 。紫雲のほかに花も降った 。ひとびとは一遍
   の徳に天が感応したと言い騒いだのに対し 、一遍
   はにがい顔をし 、念仏というものはそういう変な
   ものではない 、と𠮟った形跡がある 。一遍のぜん
   たいの思想からいえばそれは単に自然現象にすぎな
   いもので 、そういうことを信ずることそのものが
   念仏の本義がわかっていない証拠であるというもの
   であった 。片瀬のときの奇瑞については 、一遍は
   有名な言葉を吐いている

    華のことははなにと(註・問)へ 。紫雲のことは
    紫雲にとへ 。一遍はしらず 。

    これをみても 、中世末期の遊行僧である一遍の精
   神をささえていた知性の筋肉がいかに強靭であった
   かがわかる
    一遍はさらに 、伴野郷の近所の小田切(おだぎり)
   へも行った 。
    小田切というのは 、いまの佐久の臼田(うすだ)町
   とよばれている町制地域からわずかに南にある村で 、
   ここに小田切川という細川が流れている 。蓼科山
   (たてしなやま)の中腹の上(かみ)小田切という土地
   を源流とし 、平野の下(しも)小田切に入って千曲
   川に合流する 。一遍が行ったのは 、この合流点付
   近だったにちがいない 。
    一遍はこの小田切で 、踊り念仏をやった 。
   『 鉦(かね)をたたき 、輪になって 、念仏をとな
   えながら踊ろうではないか 』
    と 、一遍はいったにちがいない 。一遍は三世紀
   あまり前の平安中期に出た空也(くうや)(こうや と
   もよむ)を尊敬していた 。空也はいかにも一遍に似
   ていた 。『 市聖(いちひじり) 』とよばれ 、念仏
   をすすめつつ諸国を歩き 、道路を普請したり 、水
   利を通じたりしたが 、空也念仏といわれる踊念仏
   (おどりねんぶつ)を創めたことで 、特徴をもつ 。
   踊りつつ和讃や念仏をとなえるのだが 、楽器には
   瓢箪がある 。それに鉦と鉢という騒がしいもので
   あった 。要するに内(うち)に信仰が満ちてうれし
   くてたまらず 、ついに歓喜踊躍(かんぎようやく)
   するに至るというのが 、本旨だった 。
    一遍は 、それを小田切において再興した 。私は
   盆踊の起源などよく知らないが 、この佐久の小田
   切で一遍がみなと一緒になって踊りまわったこと
   も起源の一つに数えられるのではないか 。

   引用おわり 。

  。。(⌒∇⌒);。。

  ( ついでながらの

    筆者註:「空也(くうや)は 、平安時代中期の僧 。
        阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちの
        ひじり)、市上人(いちのしょうにん)と
        も称される 。

        人物
         観想を伴わず 、ひたすら『 南無阿弥陀仏 』
        と口で称える称名念仏(口称念仏)を日本
        において記録上初めて実践したとされ 、日
        本における浄土教・念仏信仰の先駆者と評
        価される 。摂関家から一般大衆に至るまで
        幅広い層・ことに出家僧に向けてではなく
        世俗の者に念仏信仰を弘めたことも特徴で
        ある 。空也流の念仏勧進聖は鎌倉仏教の浄
        土信仰を醸成したとされる 。

         俗に天台宗空也派と称する一派において祖
        と仰がれるが 、空也自身は複数宗派と関わ
        りを持つ超宗派的立場を保ち 、没後も空也
        の法統を直接伝える宗派は組織されなかっ
        た 。よって 、空也を開山とする寺院は天
        台宗に限らず 、在世中の活動拠点であった
        六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する
        (空也の没後中興した中信以降 、桃山時代
        までは天台宗であった )。

         踊念仏 、六斎念仏の開祖とも仰がれるが 、
        空也自身がいわゆる踊念仏を修したという
        確証はない 。ただし 、空也が創建した六 ( 官僧でもない私度僧
        波羅蜜寺には『 空也踊躍念仏 』が受け継  の念仏聖が六波羅蜜寺
        がれており 、国の重要無形文化財に指定   の創建者。わけありだ
        されている 。             な。)

         門弟は 、高野聖など中世以降に広まった
        民間浄土教行者『 念仏聖 』の先駆となり 、
        鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた 。

        以上ウィキ情報 。

         京都の六波羅蜜寺の寺宝 「 空也上人立像 」

        は 、教科書や写真でしか見たことはないが 、

        口から念仏が飛び出す ユニークな鎌倉時代

        の木彫 である 、と聞く 。左手に杖をついて

        小さく一歩足を踏み出した姿で 、わずかに

        開いた口から 、小さな仏像が6体現れてい

        る 。空也が唱えた「 南無阿弥陀仏(なむ

        あみだぶつ)」の声が 、阿弥陀如来の姿に

        変わった様子を表現していそうだ 。

 

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すてひじり Long Good-bye 2024・12・03

2024-12-03 05:11:00 | Weblog

 

  今日の「お気に入り」 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 信州佐久平みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

  連載されたもの 。

   備忘のため 、「 捨聖(すてひじり)一遍 」と題

  された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。

   一遍上人の話柄 、読み進み 、読み返しつつ 、

  書き写す 。

   引用はじめ 。

  「 この信州佐久平へ発つ前 、なにげなく『 一遍
   上人絵伝 』(  鎌倉末に成立  ) をながめていると 、
   一遍が信州へ出かけている 。
    一遍が京より信濃にくだったのは弘安二( 1279 )
   年で 、元寇の再来の二年前である 。八月 、善光
   寺に参籠し 、その後 、しばらく信濃路を歩いて
   ひとびとに念仏をすすめた 。
    一遍の本質は 、むろん念仏にある 。その念仏
   は 、その師といえばいえる法然より思想的に徹
   底し 、また『 念仏を申すひと 』としての言動
   は芸術性をもっていたという点で法然よりも豊潤
   で 、さらには念仏を勧めあるく聖(ひじり)とし
   ての生涯も 、その思想に苛烈なほどに忠実だっ
   たという点で 、諸事おだやかな日常を好む法然
   の及びがたいところだった
    法然は 、流罪に遭ったとき以外は 、寺住いを
   欲した 。それもほとんど京にいた 。しかし一遍
   はたえず諸国を遊行(ゆぎょう)し 、一所にとど
   まらなかった 。

    聖と鹿とは 、里にひさしくありて難にあふ 。

    と 、前記の絵巻物の詞(ことば)にあるが 、
   遍が生前自戒のためにたえず言っていたことば
   かもしれない聖というのは 、僧として無位
   無官の乞食僧のことであることはすでに『 高野
   山みち 』のくだりでふれた 。聖という存在が
   日本の思想史に重要な位置を占めることも 、す
   でにふれたかと思うが 、そのなかでも一遍がも
   っとも巨大かもしれない 。かれはみずから『
   聖( すてひじり )』といった 。南無阿弥陀仏
   のほかは 、生涯捨てに捨てたこの人物は 、死に
   臨んで自分の法義を書いたものさえ焼きすてた
    かといって 、およそみずから誇ることのなかっ
   たこの人物は 、捨聖であるという自分の生き方
   さえ誇らず 、『 一切を捨ててやっと往生できる
   というのは 、自分が下根(げこん)であるからだ
   といっている 。

    念仏の機に三品(さんぼん)あり 。上根(じゃう
    こん)は妻子を帯し家に在りながら 、著(ちやく)
    せず(註・執着せず)して往生す

    というのは 、同時代人である親鸞の生活形態が
   それにあてはまるかもしれない 。法然は 、不犯
   (ふぼん)の人で 、生涯妻帯しなかった 。強いて
   あてはめれば 、

    中根(ちゆうこん)は妻子をすつるといへども 、
    住処と衣食を著して往生す 。

    が 、法然の形態に近いかもしれない 。これらに
   対し 、一遍は 、『 我等は下根(げこん)のものな
   れば 』として 、

    一切を捨てずば定めて臨終に諸事を著して往生を
    し損ずべきなり 。

    と 、いう(『 一遍上人語録 』)。名利(みょうり)
   や妻子はおろか 、学問も 世俗的な勢力への野望も 教
   線を張るという望みも 、すべて捨てる 。捨てると
   いう主体であるおのれをさえ捨て 、ただ南無阿弥陀
   仏ということのみに化(か)さなければ 、下根の自
   分は往生しがたい 、という 。これを下根といって
   卑下する一遍に 、法然や親鸞に見られないすさまじ
   さがある
    ともかくも 、一遍が佐久平に入ったのは 、すでに
   捨聖としての境地を確立した四十一歳のときであっ
   た 。五十一歳で生を畢(おえ)たかれとしては 、晩
   年といっていい 。」

    引用おわり 。

    神奈川県藤沢市にある時宗総本山の寺院 「 清浄光寺 」

   (しょうじょうこうじ)( 通称 遊行寺 ) の緑青色の屋根

   を遠くに望みつつ 、本書を読んでいる 。遊行寺の近く

   で 、「 街道をゆく 」の捨聖 一遍上人が登場するくだり

   を読んでいるのも 、何かのご縁あってのことか 。

   

   。。(⌒∇⌒); 。。

   ( ついでながらの

    筆者註: 一遍(いっぺん 、英語: IPPEN)は 、鎌
        倉時代中期の僧侶 。時宗の開祖 。全国各
        地で賦算(ふさん)と呼ばれる『 念仏札 』
        を渡し 、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)
        と唱える『 踊り念仏 』を行った 。徹底
        的に自身の所有物を捨てたことで『 捨聖
        (すてひじり)』とも呼ばれた 。

         一遍は 、承久3年(1221年)の承久の乱に
        より没落した伊予国(愛媛県松山市)の豪
        族の河野家の次男として延応元年(1239年)
        に生まれる 。宝治2年(1248年)に10歳よ
        り仏門に入り 、建長3年(1251年)からは
        太宰府の聖達上人の元で 、浄土教を学ん
        だ 。弘長2年(1262年)に父の訃報を受け
        ると 、一度故郷に帰り 、半僧半俗の生活
        を続けていたが 、文永8年(1271年)に33
        歳で再出家し 、文永11年(1274年)より
        全ての財産を捨て一族とも別れ 16年間の
        遊行の旅に出る 。」

       「 旅ころも 木の根かやの根 いづくにか
               身の捨られぬ 処あるべき

        以上ウィキ情報 。)

 

  

 

  

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