「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

つれづれなるままに Long Good-bye 2024・01・31

2024-01-31 06:15:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、吉田兼好 の「 徒然草 」

 の 冒頭のくだり 。

 「 『 徒然草 』序段
    つれづれなるまゝに 、日くらし硯に向かひて 、
   心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく
   書き付くれば 、あやしうこそ物狂ほしけれ 。 」

 

   初めて読んだとき 、「 あやしうこそ物狂ほしけれ 」が

  何のことやら「 ちんぷんかんぷん 」だったことを思い出

  します 。

  「 古文 」については「 あんちょこ 」本を買いそろえて

  読みまくっていました 。 ( 若い人に「 あんちょこ 」って言っても通じない )

 

 ( ´_ゝ`)

 

 ( ついでながらの

   筆者註 : 「 『 徒然草 』( つれづれぐさ )は 、卜部兼好
       ( 兼好法師 、兼好 、吉田兼好 )が書いたと
       される随筆 。清少納言『 枕草子 』、鴨長明
       『 方丈記 』とならび 日本三大随筆の一つと
       評価されている 。 」

    「  作品の名にもとられる書き出しの『 つれづれ 』
     ( 徒然 )は『 やるべき事がなくて 、手持ち
     無沙汰なさま 』を意味する 。『 つれづれなり 』
     と『 よしなしごと 』や 、『 書き付く 』は先行
     する文学にも用いられている組合せであり 、作品
     および自己を卑下する謙遜の辞である 。  」

    「  兼好を作者とするのが僧・正徹( 後述 )以来 、
     定説になっている 。」

    「  序段を含めて 243段 から成る 。文体は和漢混
     淆文と 、仮名文字が中心の和文が混在している 。
     内容は多岐にわたり 、序段には『 つれづれなる
     ままに 』書いたと述べ 、その後の各段では 、
     兼好の思索や雑感 、逸話を長短様々 、順不同に
     語り 、隠者学に位置づけられる 。兼好が歌人 、
     古典学者 、能書家などであったことを反映して
     いるほか 、兼好が仁和寺がある双ヶ丘( ならび
     がおか )に居を構えたためか 、仁和寺に関する
     説話が多い 。また 、『 徒然草 』が伝える説話
     のなかには 、同時代の事件や人物について知る
     史料となる記述が散見され 、歴史史料としても
     広く利用されている 。中でも『 平家物語 』の
     作者に関する記述( 226段 )は現存する最古の
     物とされる 。 」

    「  現在は『 長年書き溜めてきた文章を 1349年頃
     にまとめた 』とする説が有力である 。」

    「 同時代の史料に『 徒然草 』への言及が伝わら
     ないことから 、『 執筆後約百年間は注目され
     なかった 』とされる 。室町中期に僧・正徹が
     注目し 、自ら書写した写本にこの作品を兼好
     法師のものとし 、兼好の略歴も合わせて記し
     ている 。これが正徹の弟子の歌人や連歌師た
     ちに波及し 、応仁の乱の時代に生きた彼らは 、
     『 無常観の文学 』という観点から『 徒然草 』
     に共感をよせた 。 」

    「 小林秀雄は『 徒然草 』という短いエッセイで 、
     兼好の『 物が見え過ぎる眼 』を指摘し 、本書を
     『 空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな
     事件 』と評価している 。」

     以上ウィキ情報 。 )

     ( ´_ゝ`)

 

     山田太一さんの随筆「夕暮れの時間に」に次のような

    記述がある 。「 方丈記 」を書いた 鴨長明さん のことを平安

    時代のお坊さんと言っておられるのだが 、鴨長明さん が出家

    したのは 、平安時代ではなく 、鎌倉時代になってからのこと

    であるらしい 。 同じく遁世者である「 徒然草 」の吉田兼好

    さんが 出家したのは 、鎌倉時代の次の南北朝時代になって

    からのことと思われる 。


    「 たしかに死んでしまえば万事が終りなのだから 、
     むなしいといえばすべてがむなしい 。なにかに執
     着するのは愚かといわれればその通り愚かである 。
      しかし 、どこに住んでも文句をいわれない土地の
     ある平安時代に 、お坊さんで 、家族もなく 、人
     ともつき合わず 、稼がなくても自給自足できる 、
     老境の近い人のいうことは割り引いて聞いた方が
     いいと思う 。お坊さんへの教訓としてはよく分る
     が 、俗人には無理があると思う 。死ぬことを考
     えたら 、たしかにむなしいことばかりだが 、す
     ぐ死ぬわけではない人間は 、そんな啓示で身を
     つつしんでいたら 、生きているうちから死んだ
     ようになってしまう 。
      大災害は 、ぎりぎり一番大切なものを教えてく
     れる 。生きているだけでありがたいとか 、絆が
     大事だとか 、たしかにそれは真実だが 、究極の
     真理だけで 、私たちは日々をいきいき生きてい
     けないのだと思う 。哀しいといえば哀しいが 、
     それが生きているということなのだと思う 。
            ( 多摩川新聞 2012年1月1日 ) 」

 

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春はあけぼの Long Good-bye 2024・01・29

2024-01-29 05:42:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、清少納言「 枕草子 」

 の 冒頭のくだり 。

 「 春はあけぼの 。やうやう白くなりゆく山際 、
  少し明かりて 、紫だちたる雲の細くたなびき
  たる 。

   夏は夜 。月のころはさらなり 、闇もなほ 、
  蛍の多く飛びちがひたる 。また 、ただ一つ
  二つなど 、ほのかにうち光て行くもをかし 。
  雨など降るもをかし 。

   秋は夕暮れ 。夕日の差して山の端いと近う
  なりたるに 、烏の寝所へ行くとて 、三つ四
  つ 、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり 。
  まいて雁などの連ねたるが 、いと小さく見
  ゆるは 、いとをかし 。日入り果てて 、風
  の音 、虫の音など 、はた言ふべきにあらず 。

   冬はつとめて 。雪の降りたるは言ふべきにも
  あらず 、霜のいと白きも 、またさらでも
  いと寒きに 、火など急ぎおこして 、炭持て
  渡るも 、いとつきづきし 。昼になりて 、
  ぬるくゆるびもていけば 、火桶の火も 、白
  き灰がちになりてわろし 。

 

 

   初めてこの文章を目にしたのは 、60年ほど前の 、筆者が

  高校生だった頃のこと 。「 古文 」の授業の担当教官で 、

  筆者を中世国文学の世界に誘ってくれたのは 、国文学者

  で 教育者でもある 坊城俊民 さん  ( ぼうじょう としたみ 、

  1917年〈大正6 年〉3月29日 - 1990年〈平成2年〉4月6日 )。

   高名な学者であること 、堂上華族の嫡子で  、三島由紀夫

  と縁浅からぬ人であることなど 、無論 露知らず 、先生の

  醸し出す雰囲気と 授業内容だけで 、古文が好きになり 、

  味気ない高校生活や受験勉強の慰めとしていたことを 今

  懐かしく思い出します 。

  ( ´_ゝ`)

  ( ついでながらの

    筆者註:「 『 枕草子 』( まくらのそうし )とは 、平安時代
        中期に 中宮定子に仕えた女房 、清少納言により執筆
        されたと伝わる随筆 。ただし 本来は 、助詞の「 の 」
        を入れずに「 まくらそうし 」と呼ばれたという 。

         執筆時期は正確には判明していないが 、長保3年
        ( 1001年 )にはほぼ完成したとされている 。「 枕
        草紙 」「 枕冊子 」「 枕双紙 」とも表記され 、古
        くは『 清少納言記 』『 清少納言抄 』などとも称さ
        れた 。また 日本三大随筆の一つである 。」

         「 清 少納言( せい しょうなごん 、旧字体: 淸 
        少納󠄁言 、康保3年頃〈966年頃〉 - 万寿2年頃
        〈1025年頃〉)は 、平安時代中期の女房 、作
        家 、歌人 。随筆『 枕草子 』は 平安文学の
        代表作の一つ 。歌人としては 中古三十六歌仙
        そして女房三十六歌仙の一人でもある 。

        名 前
         正確な生没年や本名は不明である 。生没年は 、
        岸上慎二による推定である 。」

       「 『 清少納言 』は宮中での女房名で 、『 清 』
        は清原姓に由来するとされている 。『 少納言 』
        は官職少納言に由来するものと見られるが 、
        当時女房名に官職名を用いる場合は 父親や近
        親者がその官職にあることが通例であった 。
         清原氏の近い親族で少納言職を務めたものは
        おらず 、『 少納言 』の由来は不明である 。 」

       「 語呂の関係からか 今日では『 せいしょう・
        なごん 』と発音されることもあるが 、上述
        しているように『 清 』は父の姓から 、
        『 少納言 』は役職名が由来であるため 、
        本来は『 せい・しょうなごん 』と区切って
        発音するのが正しいと思われる 。

        出 自
         父の清原元輔は 、受領などを務める下級貴族
        であったが 、『 万葉集 』の読解と『 後撰和
        歌集 』の選者( 梨壺の五人 )を務めた著名
        歌人として知られていた 。曽祖父( 系譜によ
        っては祖父 )は『 古今和歌集 』の代表的歌人
        である清原深養父 。兄弟姉妹に 、雅楽頭為成・
        太宰少監致信 、花山院殿上法師戒秀 、および
        藤原理能( 道綱母の兄弟 )室となった女性が
        いる 。

    「 紫式部は『 紫式部日記 』において 『 清少納言こ
     そ 、したり顔にいみじう侍りける人 。さばかり賢し
     だち真名書きちらして侍るほども 、よく見れば 、
     まだいと堪へぬことおほかり 。かく人に異ならむと
     思ひこのめる人は 、かならず見劣りし 、行末うたて
     のみはべれば( 清少納言という人は とても自慢げに
     している人です 。賢そうに漢文など書いていますが 、
     よく見れば粗が多いものです 。このような 人と変わっ
     たことを好む人は 、必ず失敗し 、行く末も危ない
     ものです )』と酷評している 。」

     以上ウィキ情報 。

     「 紫式部日記 」、人に見せる目的で綴られた「 日記 」

     という名の 「 平安朝の後宮サロン 」の日刊紙 みたいな 。

      中宮定子に仕える女房 清少納言 をディスる 内容

     の書き込み 。紫式部は 、他派閥の女房 。

      現代の SNS上 の書き込みと相通ずるものがある 。

      「 源氏物語 」は その延長線上にある 宮廷スキャン

     ダルの絵空事 。

      「 光源氏って 、ただの クズ ?!  」って 、どこかの

     ラジオ局の男性アナウンサーが口走ったのを聞いた

     ような気がするのは 、筆者の空耳か 。「 インタビュ

     ーする前に 、作家の著書ぐらい読んどけ 」と 、その

     アナウンサーが 寂聴さんに叱られた理由が よくわかる 。

     叱られたことを根に持ってるな 。叱った寂聴さんが も

     っともで 、叱られたあんたが悪い 。  )

 

 

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片手は常に空けておけ Long Good-bye 2024・01・27

2024-01-27 06:22:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、政治家 石橋湛山( 1884年 - 1973年 )

 の言葉  ( 再録 ) 。

 「 人生とは飽くまでも生存を目的とした順応の経過に他なら

  ない 。」

 「 哲学 、宗教 、科学 、文芸 、その他百般の人生の現象は

  ただことごとく 境遇順応の手段 、即ち 生活する為に起こ

  ったものに過ぎない 。このほかに意味はない 。」

  ( ´_ゝ`)

  閑話休題 。

   西村博之 さん ( 1976年11月16日 -  ) の 著書「 1%の努力 」の

 中に こんな くだり があります 。

 「 僕は 、人生に『 生きる意味 』は存在しないと考えている 。

  虫や細菌に生きる意味がないのと一緒で 、地球上の生物は

  地球の熱循環システムの一部としての機能を果たしている

  だけだ 。ただ 、そう考えることで 、『 じゃあ 死ぬまでに

  できるだけ楽しく暮らすほうがいいな 』と思うことができ

  る 幸せの総量を増やすことを目標にすればいいのだ 。」

 「 昭和の時代より 平成のほうが 、殺人事件や餓死が少なく

  幸せの総量は多い 。」   ( 人によるけどね 。感想としてはわかるけど 、

                          時代で区切ってもね ・・・  。 

                          世界の幸福度ランキング みたいな 雑駁で 、

                          皮相で 、空疎な 議論 。

                          ある時代の「 幸せの総量 」って何 ?

                           因みに 、

                          大正時代 1912年7月30日 - 1926年12月25日 、

                          昭和時代 1926年12月25日 - 1989年1月7日 、

                          平成時代 1989年1月8日 - 2019年4月30日 、

                          令和時代 2019年5月1日 -  。

                          昭和は 最も長く続いた日本の元号で 64年を数えるが 、
                          「 元年 」と「 64年 」は共に7日間しか使用されな
                          かったため 実際の期間は 62年と14日 となる 。
                          外国のものを含めても最長の元号であり 、歴史
                          上 60年以上を数えた元号は 、昭和の他には 、
                          清の康熙( 61年 )と乾隆( 60年 )しかない 。

                           ギネスものの元号 。)                     

            ( ´_ゝ`)

    1%のひらめき がなければ 、99%の努力 はムダになる 。

 「 99%の努力と1%のひらめき 』というのは 、発明家

  エジソンの有名な言葉だ 。これの真意をみんな誤解してい

  る 。 本当は 、『 1%のひらめき がなければ 99%の努力

  はムダになる 』ということを言った現実的な言葉だ 。しか

  し 、『 努力すれば 道が開ける 』という表現で広まっている 。

   ひらめきもないまま 、ムダな努力を積み重ねていっても意

  味がない 。」

     ( ´_ゝ`) 。。

 

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泡沫 うたかた 水の泡 Long Good-bye 2024・01・25

2024-01-25 04:55:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、鎌倉時代の随筆 、鴨長明 の

 「 方丈記 」の 冒頭のくだり 。「 徒然草 」兼好法師 、

 「 枕草子 」清少納言とならぶ「 古典日本三大随筆 」に

   数えられるとか 。

 

 「 ゆく河の流れは絶えずして 、しかも 、もとの水に
  あらず 。 ( 「 しかも 」は 現代文のようで  かたい感じ 。「 又 」の方が いいような 。 )

   よどみに浮ぶうたかたは 、かつ消え 、かつ結びて 、
  久しくとゞまりたるためしなし 。世中にある 、人 
  と栖( すみか )と 、又かくのごとし 。
   たましきの都のうちに 、棟( むね )を並べ 、甍を
  争へる 、高き 、いやしき人の住ひは 、世々を経て 、
  尽きせぬ物なれど 、是をまことかと尋れば 、昔し
  ありし家は稀なり 。或は去年 ( こぞ ) 焼けて今年
  つくれり 。或は 大家 ( おほいへ ) ほろびて小家
  ( こいへ ) となる 。住む人も是に同じ 。所もかは
  らず 、人も多かれど 、いにしへ見し人は 、二三
  十人が中に 、わづかにひとりふたりなり 。朝に
  死に 、夕に生るゝならひ 、たゞ水の泡にぞ似り
  ける 。

   不知 、生れ死ぬる人 、何方より来たりて 、何方
  へか去る 。又不知 、仮の宿り 、誰が為にか心を
  悩まし 、何によりてか目を喜ばしむる 。その 、
  主と栖と 、無常を争ふさま 、いはゞあさがほの
  露に異ならず 。或は露落ちて花残れり 。残ると
  いへども 、朝日に枯れぬ 。或は花しぼみて露な
  ほ消えず 。消えずといへども 、夕を待つ事なし 。

 

 ♪♪ もーしも 、貴方が 、百と三つまで 生きたけりゃ 、 

    安全第一で いーき ましょ お~   (^^♪

  その昔 、コオロギ の ジミニ―・クリケット役 の声優

  さんが ブラウン管の中で そう歌ってましたっけ !?

  どちら様も 、ご安全に  。

   ついでながら 、ジミニ―・クリケットは 、人間になる

  ことを目指す ピノキオ のお目付け役で 、物言う 旅人

  のコオロギ  。。

  

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立つ鳥跡を濁す Long Good-bye 2024・01・23

2024-01-23 05:44:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、ことわざ「 立つ鳥跡を濁さず 」 。

  去っていく者は 、跡が見苦しくないように始末してから出立

 しなくてはならないというたとえ 。 また引き際がいさぎ

 よく 、さわやかなたとえ とか 。

  英語だと 、” A bird does not foul the nest that it is about to

 leave. ( いま巣立たんとする鳥は古巣を汚したりはしない )” 

 だとか 。” It’s an ill bird that fouls its own nest. ” は「 自分の

 巣を汚す鳥は悪い鳥だ 」という意味の 、英語の慣用表現である

 らしい 。” the kingfisher was one of the few birds that fouls its

 own nest. ( カワセミは自分の巣を不潔なままにしておく珍しい

 種だった ) ” なんて表現もみかけたが ホント かどうかは知らな

 い 。kingfishers という英単語が「 カワセミ 」の別名であるこ

 とを初めて知った 。たしかに 、彼の鳥は 漁 が巧みだ 。

  ” On leaving a place one should see that everything is

 in good order before one goes. ” ぐらいの表現が 感覚的には

 ぴったり 。

  放っておくと 物は増えていくのが 世の習い 。

  ゴミ屋敷にならないように 気を付けなくっちゃいけません 。

  自戒の弁 。

  ( ´_ゝ`)

   閑話休題 。

  「 解散 」、「 解散 」と聞くと 「 仁義なき世界 」の「 解散式

 が 頭に浮かぶ 。「 人が 三人寄れば 派閥をなす 」政界で 、

 「解散 」が 成就した ためしはない と聞いたことがあるような

 気がする 。

  あの手この手で ほとぼりがさめるまでの 時間稼ぎ 。

  毒饅頭 、みんなで食らえば 怖くない 。

  ゆく河の流れは絶えずして 、しかも 、もとの水にあらず 。

  「 しかも 」じゃなく「 また 」の方が 、しっくりくるなあ 。

 ( ´_ゝ`)

 ( ついでながらの

    筆者註:「 カワセミ( 翡翠 、翡翆 、魚狗 、川蟬 、

        学名:Alcedo atthis )は ブッポウソウ目

        カワセミ科カワセミ属に属する鳥 。水辺に

        生息する小鳥 。鮮やかな水色の体と長いく

        ちばしが特徴 。ヒスイ 、青い宝石 、古く

        はソニドリ( 翠鳥 、鴗 )と呼ばれること

        もある 。

        形 態

         全長は 17 cm ほどで  ( 16-20cm ) 、ス

        ズメよりも大きいが 、長いくちばし( 嘴

        峰長 3.3-4.3 cm )のため 体はスズメほど

        の大きさ 。日本のカワセミ科のなかでは

        最小種となる 。翼開長は 約25 cm  ( 24 -

        25cm ) 。体重 19-40g 。くちばしが長くて 、

        頭が大きく 、頸 、尾 、足は短い 。オス

        のくちばしは黒いが 、メスは 下のくちば

        しが赤いのでオスと区別できる 。また 、

        若干メスよりオスの方が色鮮やかである 。

        頭 、頬 、背中は青く 、頭は鱗のような

        模様がある 。喉と耳の辺りが白く 、胸と

        腹と眼の前後は橙色 。足は赤い 。幼鳥は

        全体に黒っぽく 、光沢が少ない 。

         カワセミの青色は色素によるものではなく 、

        羽毛にある微細構造により光の加減で青く

        見える 。これを 構造色 といい 、シャボ

        ン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理 。

         この美しい外見から『 渓流の宝石 』など

        と呼ばれる 。特に 両翼の間からのぞく背

        中の水色は鮮やかで 、光の当たり方によっ

        ては緑色にも見える 。漢字表記が ヒスイ

        と同じなのはこのためである 。

       「  繁殖期には オスがメスへ獲物をプレゼン

        トするコアジサシと同様な『 求愛給餌

        がみられる 。つがいになると 親鳥は垂直

        な土手に巣穴をつくる 。最初は垂直の土手

        に向かって突撃し 、足場ができた所でくち

        ばしと足を使って 50-90 cm ほどもある横

        穴を掘る 。穴の一番奥はふくらんでおり 、

        ここに 3-4個の卵を産む 。  ( 護岸工事で土手に巣穴が掘れない  ) 

         卵からかえったヒナは親鳥から給餌をうけ

        ながら成長し 、羽毛が生え揃うと巣立ちす

        る 。せまい巣穴の中は 当然ヒナの糞で汚れ

        るが 、ヒナに生えてくる羽毛は鞘をかぶっ

        ており 、巣立ちのときまで羽毛が汚れない

        ようになっている 。若鳥は胸の橙色と足に

        褐色味がある 。

         非繁殖期は縄張り意識が強く 、1羽で行動

        する 。水上を飛んだり 、えさ場が見渡せる

        枝や石の上で休む姿がみられる

       「 名 称

         カワセミは『 川に棲むセミ 』の意で 、こ

        の『 セミ 』は 古名の『 ソニ 』が『 ソビ 』

        に変化し 、それが転じて『 セミ 』となった 。

         その『 ソニ 』の『 ニ 』は 土の意味で 、

        ソニ( 青土 )からきた 。また 、近縁の

        『 アカショウビン 』などの ショウビン も

        この『 ソニ 』から来た 。 これらとは別に 、

        室町時代から漢名を取り入れ 、『 ヒスイ

        ( 翡翠 ) 』とも呼ばれるようになった 」

        以下はどうでもいい情報 。

       紀宮清子内親王( 現・黒田清子 )が 山階鳥

          類研究所で研究を担当しているのは『 カワセミ 』

          である 。カワセミに対する思い入れが強く 、

          宮内庁職員文化祭に『 川瀬美子 』( かわせ・

          みこ )の名前で手芸作品を出品したことがある 。」

         「  ギリシア神話には 、一国の国王でもあった 夫

          ケーユクスを海難事故で失った女性アルキュオ

          ネーが 、死んだ夫と共に姿をカワセミへと変え 、

          2羽でつがいを組んでその後も仲良く暮らし続けた

          という話が存在する 。」

         500系新幹線のノーズデザインは カワセミのくち

          ばしをモチーフとしている 。

       以上ウィキ情報 。)

 

 

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おじいさんに聞いた話 つづき Long Good-bye 2024・01・21

2024-01-21 06:18:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、「 おじいさんに聞いた話 」

 ( トーン・テレヘン 著 、長山さき 訳 、新潮社 刊 ) の一節 。

  気になるくだりをメモしている 。備忘のため 、二度読み

 三度読みした上で 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 『 ロシアではある日突然はじまることがたくさんある

  んだ 』と祖父は言った 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 『 母親が八人子どもをもっていたとしよう 。十人でも

  十六人でもかまわない 。そのなかの一人だけ 、人生で

  悪い終わりを迎えるとしたら ―― 酒に溺れる 、賭けご

  とで金を失う 、悪い連中とつきあう 、酔っぱらって誰

  かを殴り殺す ―― 、それは母親にいちばん愛されてい

  た子どもなんだ 』と祖父は言った 。『 それが掟なんだよ 』

  祖父はぼくを見つめて言った 。『 いつでも 必ず 誰か一人は

  悪い終わりを迎えるものなんだ 。それも掟だ 』 」

  (* ̄- ̄)

 「 ぼくが人生で悪い終わりを迎えるとしたら 、母はほかの

  きょうだいよりもぼくのことを愛していたということだろ

  うか 、と考えてみた 。

   ぼくはよく坂を下る夢を見た 。急な坂で踏んばっている

  のだが 、どんどん勾配が増していく 。足をぴたりとつけ

  ても 、逆さまに歩いても 、坂は急になるばかりだ 。とう

  とう踏んばりきれずに 、あっという間に下に落ちてしまう 。

  巨大な石がぼくのまわりを落ちてゆく 。 」

  ( トーン・テレヘン著 長山さき訳 「 おじいさんに聞いた話 」

   新潮社 刊 所収 )   

  引用おわり 。

  ( ´_ゝ`)

  本日 読了 。ご先祖様から綿々と受け継がれた陰鬱な性格 。

  次は 、本屋大賞受賞作「 ハリネズミの願い 」を読んでみましょうか 。

  児童文学ではなさそうなので 。 ・・・ 子どもには 、もっと美しい

 話を聞かせてやってほしい 気もする 。

 ・・・ いつまでたっても 🦔 のもとに たどりつかない スローな 🐌 。

     そばにいてほしい 🐿 。🐢 や 🐜 は 友 。

     すべて 自身の投影 ?  。。。。。 

 

 

 

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おじいさんに聞いた話 つづき Long Good-bye 2024・01・19

2024-01-19 05:45:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、トーン・テレヘン 著 、

 長山さき 訳「 おじいさんに聞いた話 」の一節 。

  備忘のため 抜き書き 。

  引用はじめ 。 

 「 祖母の留守中に 、フィンランドのイマトラの滝の話を祖父

  が聞かせてくれた 。

  ヴィボルグに一家の夏の家 ( ダーチャ ) があって 、そこ

  からイマトラを訪れていたそうだ 。

  川の上流から木の樽や綱の解けたボートが流れてきて 、何

  千もの破片となって祖父のいる川辺に漂着することがあった 。

  滝の音はつんざくように大きく 、風のない日には四十キロ

  離れた場所でも聞こえるほどだった 。

   ある日 、祖父は祖母とそこを訪れた 。二人は数週間前に知

  りあったばかりだった 。

   太陽が輝き 、二人は下流の川辺に坐っていた 。

  サンドイッチとスイカを持ってきていた 。

   滝の音のせいで会話はできなかった 。

   『 だから 、ほほ笑みあっていただけだった 』と祖父は言った  

    その日 、二人は結婚を決めた 。

   『 おばあちゃんがうなずいて 、砂に指で〈 はい 〉と書いた

  とき 、おじいちゃんはまだなにも言ってなかったんだと  』

  祖父は言った 。『 それから おばあちゃんは指をワンピース

  で拭いて 、おじいちゃんを輝くような顔で見つめた 』

    祖父は一瞬 、ひたいをこすり 、考えにふけってからこう

  つづけた 。

   『 おばあちゃんが輝いているときには 、おじいちゃんは

  いつも目を伏せざるをえなかった 。太陽が眩しいときみた

  いに 』

   しばらく沈黙がつづいたので 、ぼくが本をめくっていると 、

  祖父は突然べつの話をはじめた 。ペルシャについて ―― ペル

  シャの馬と有名なペルシャ絨毯についてだ 。 」

  ( トーン・テレヘン著 長山さき訳 「 おじいさんに聞いた話 」

   新潮社 刊 所収 )

  引用おわり 。

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 ヴィボルグ( ロシア語:Вы́борг , 
       ラテン文字転記:Vyborg )は 、ロシア連邦レニン
       グラード州の都市 。人口は 7万2530人(2021年)。

        ロシア語での発音はヴィーボルクに近く 、また他に
       ヴィボルク 、ヴイボルク などの表記も用いられる 。
        かつては スウェーデン領 や フィンランド領 であっ
       た都市であり 、ヴィープリ( フィンランド語 、カ
       レリア語:Viipuri )、ヴィボリ( スウェーデン語:
       Viborg )の名でも知られる 。ちなみに ドイツ語では
       Wiborg( ヴィボルク )と表記される 。

        フィンランド湾に面し 、カレリア地峡の北西端に
       位置する 。サンクトペテルブルク から北西に 130km
       の距離にあり 、38km北にフィンランドとロシアの国境
       がある

      「 イマトラ( フィンランド語: Imatra )は 、フィン
       ランド東部に位置する町 、自治体 。南カルヤラ県
       イマトラ郡に属する 。1948年にロシア国境近くの
       三集落を中心に設立された 。過去50年間 、サイマ
       ー湖やヴオクシ川によって 近代的な工業都市へと
       変貌を遂げた 。1971年に自治体となった 。

        一番近くの町は 、ロシアのスヴェトゴルスク
       ( フィンランド名:エンソ )で 、7km しか離れ
       ていない 。サンクトペテルブルクは 南東 210km のと

       ころにあり 、首都ヘルシンキとは 230km 、フィンラ
       ンド側で最も近い町は ラッペーンランタ で 、37kmの
       距離がある 。

        1903年 、早瀬の近くに 当時のロシア帝国の首都 サン
       クトペテルブルクからの観光客向けホテルがオープンし
       た 。アールヌーボーとユーゲント様式のこのホテル
       は 、現在では『 イマトラ観光ホテル 』として知られて
       いる 。」 

       以上ウィキ情報 。

        イマトラの町の周辺には 、『 滝 』というか 、『 早瀬 』

       というか 、

       " Imatrankoski Rapids " 『 イマトランコスキー激流 』

       と呼ばれる河川流域 があるらしい 。一帯は 、あまり

       高低差のある地形とも思えないので 、ダム湖のような

       ところから放流によって作り出される 急流 なのかも

       知れない 。現代の観光地として辺鄙すぎ 、

        ロシア第二の都市 サンクトペテルブルグ以外からの

       フィンランド国内の一般の観光は やや不向きな土地

       かと思われる 。・・・ よくは知らんけど 。

        因みに 、サンクトペテルブルグ は 、団塊世代にとっ

       ては 、ソ連時代の レニングラード と言われた方が馴

       染み深い 。

        ボルゴグラード と言われるより 、スターリングラー

       ド と言われる方が 、わかりが早いのと同じ 。

        プーチン大統領とその与党 、大多数の国民が夢見る

       のは 、強いロシア 、皇帝が居るようで居ない 帝政ロ

       シア の再来 。中華人民共和国 も同じ 。夢見るだけで 、

       そんなもの どこにもありゃしないのさ 。 

 

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おじいさんに聞いた話 つづき Long Good-bye 2024・01・17

2024-01-17 05:50:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、「 おじいさんに聞いた話 」

 ( トーン・テレヘン 著 、長山さき 訳 新潮社 刊 )  。

  気になるくだりをメモしている 。備忘のため 、二度読み

 三度読みした上で 、抜き書きする 。コピペはしない 。

  以下は 、とびとびに抜き書きした いくつかの 訳文 。

  引用はじめ 。

 「 ロシアでなにかがハッピーエンドとなることは

  あるのだろうか 、とぼくは思った 。あったと

  しても 、祖父は けっして そんな話はしなかっ

  た 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 『 罪なしに栄えるものはない 』 祖父はそうも

  言った 。まるで 、青い字で皿に描いて壁に飾る

  のにふさわしいような 、教訓的な言葉だった 。

  神なしに 、あるいは罪なしに ・・・ そのちが

  いはほとんどない 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 ・・・ 祖父はぼくにしあわせと悲しみのちがいを

  説明しようとした 。

  『 悲しみの真ん中にいるときには 、いつか悲しく

  なくなるとは想像もできない 。だが 幸福の真ん中

  にいるときには 、それがすぐに終わってしまうと

  いつもわかるんだ 』

   生涯ずっと悲しんでいることはある 、ということ

  も祖父は話した 。だが 、生涯ずっとしあわせとい

  うのはありえないのだ 、と 。

  『 しあわせよりも悲しみのほうが無限に多いんだ ! 』

   そう言った祖父は一瞬 、机をこぶしで叩きたいように

  見えた 。 」

  ( ´_ゝ`)

 「 『 短気をおこすのを許されるのは 、神だけだ 』と

  祖父はつぶやいた 。ぼくは 、神について祖父が話す

  とき 、いつもそうであるように 、神の姿が頭に浮か

  んできた 。興奮した顔で 、逃げ去る群衆を追いかけ

  る姿だ 。 『 愛 、早く ! 』と短気に叫んでいる 。

  『 早くしろ ! たがいを愛するのだ ! 』 威嚇する

  ように握りこぶしを宙にかかげ 、つまずきながら走

  りつづけ 、さいごには泥に顔から突っ伏して倒れる 。

  群衆は 、ただの一人もほかの誰かを愛することなく 、

  神から逃げきるのだ 。 」

( トーン・テレヘン著 長山さき訳 「 おじいさんに聞いた話 」

   新潮社 刊 所収 )   

  引用おわり 。 

  ものいえば くちびるさむし あきのかぜ 。

  寒い国の「 突然死症候群 」、昔も今も 。

  ChatGPT によると 、

  The term " sudden death syndrome " means " an unexpected death

  occurring abruptly and without warning " .

  そりゃそうだ 。 

 

 

 

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おじいさんに聞いた話  Long Good-bye 2024・01・15

2024-01-15 05:45:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、今読み進めている短編

 小説集「 おじいさんに聞いた話 」( トーン・テレヘン 著 、

 長山さき 訳 新潮社 刊 )  。

  気になるくだりをメモしている 。備忘のための 抜き

 書き 。

 「 ぼくが六歳くらいのとき 、祖父が魔女のお話を聞

 かせてくれた 」で始まる「 小さな魔女 」と題した

 エピソード を興味深く読んだ 。やや長文なので抜き

 書きは止めにした 。同じく抜き書きはしなかったが 、

 「 裸の皇帝 」と題した 一篇 も秀逸 。

  以下は 、作者の祖父の プロフィール を含む 「 死ぬ

 こと 」の一節 。「 聞き書き 」の体裁をとった創作

 小説 。

  引用はじめ 。

 「 祖父は陰鬱な男だった 。詩人か植物学者になり

  たかったにもかかわらず 商売を職としたこと 、心

  から愛したロシアから亡命しなければならなかっ

  たこと 、戦時中 、二人の息子を亡くしたことな

  ど 、人生の逆境によってそうなっただけではなく 、

  子どものときから 陰鬱で真面目 、ふさぎがちな性

  質だったのだ 。思い出をつづった文章と 、話して

  くれた物語には 、たまに 軽快な面も感じられた 。

   祖父はよく 死 について話していた 。

   ぼくに死について話しているのを聞きつけると 、

  祖母がたしなめて言った 。『 もっと美しいことを

  話しておあげなさいよ ! お話でも読んであげま

  しょうよ ! カシタンカの話 ( チェーホフ作 、赤

  毛の雌犬の話 ) でもいいわ ・・・ 』

   でも 祖母が買い物に行くと 、祖父は死について話

  し 、ぼくは耳を傾けた 。死よりも大きくだいじな

  ことはない 、と祖父は言い 、ぼくは幼いときから

  その意見に賛成だった 。

   あるとき祖父は 、ロシア人の友人で自分とおなじく

  アルハンゲリスクに取引先のあった商人の話を聞かせ

  てくれた 。ともにアルハンゲリスクまで旅することも

  多く 、道中は何時間も話しこんだ 。商いの話はなる

  べく避け 、ずっと〈 展望 〉―― 今後なにが自分たち 、

  そしてロシアを待ち受けているか ―― について話して

  いた 。

   その商人は死後に生まれ変わるものと確信していた 。

  〈 輪廻 〉というのだ 、と祖父はぼくに書いてくれた 。

  ずっとあとになって 、ぼくはその言葉にふたたび出あ

  った 。

   魂は青い蝶で 、死後たちまち飛び立ち 、壁や閉まっ

  た窓をとおって消え去る 。新たな体を求めて ―― 商

  人はそう言っていたそうだ 。 」

   ( トーン・テレヘン著 長山さき訳 「 おじいさんに

    聞いた話 」新潮社 刊〈 新潮クレスト・ブックス 〉

    所収  )

    引用おわり 。

   

 

  ( ついでながらの

    筆者註:「 トーン・テレヘン( Antonius Otto Hermannus

     ( Toon ) Tellegen 1941年11月18日 -  )は 、

     ドイツの詩人 、児童文学者 。  ( ? )

     経 歴

      医師の父とロシア生まれの母のもと 、オランダ

     南部の島に誕生 。

      ユトレヒト大学で医学を修め 、ケニアでマサイ

     族の医師を務めたのちアムステルダムで開業医に 。

      1984年 、幼い娘のために書いた動物たちの物語

     『 一日もかかさずに 』を刊行 。以後 、動物を

     主人公とする本を50作以上発表し 、文学賞を

     多数受賞 。オランダ出版界と読者の敬愛を一身

     に集めている 。『 ハリネズミの願い 』で2017

     年本屋大賞翻訳小説部門受賞 。おもな作品に

     『 きげんのいいリス 』『 おじいさんに聞いた

     話 』。

     経 歴

     ・『 ハリネズミの願い 』長山さき訳 、新潮社 、

      2016年6月

     ・『 おじいさんに聞いた話 』長山さき訳 、新潮社 、

      新潮クレスト・ブックス 、2017年8月

     ・『 きげんのいいリス 』 長山さき訳 、新潮社 、

      2018年4月

     ・『 リスのたんじょうび 』野坂悦子 訳 、偕成社 、

      単行本 – 2018年9月

     ・『 リスからアリへの手紙 』柳瀬尚紀訳 、河出

      書房新社 、2020年3月

     ・『 キリギリスのしあわせ 』 長山さき訳 、新潮

      社 、2021年4月 

     「 アルハンゲリスク( Архангельск 
      アルハーンギェリスク;Arkhangel'sk )は 、
      ロシア北西部の都市 。人口は 約30万人(2021年)。
      白海に注ぐ北ドヴィナ川の河口近くに位置する 。
      アルハンゲリスク州の州都 。17世紀末にピョー
      トル1世によって海軍軍事基地として開発された 。
      アルハンゲリスクとは『 大天使の町 』の意味で 、
      戦う大天使( アルハンゲリ )『 ミカエル 』の
      名にちなんで命名されたものである 。 」

     以上ウィキ情報 。 )

 

    

 

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忘れられた日本人 つづき  Long Good-bye 2024・01・09

2024-01-09 05:09:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、宮本常一 さん ( 1907 - 1981 ) の著書

 「 忘れられた日本人 」( 岩波書店 刊 )  の中から「 梶田富五郎翁 」

 と題した小文の一節 。

 「 あとがき 」、「 解説 」を含めて 、読了 。

  備忘のため 、梶田富五郎翁の「 語り 」( 部分 ) を抜き書き 。

   引用はじめ 。

 「 やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようで
  ごいす 。わしはその頃もう嫁をもろうて 、この
  土地の土になる気になって 、漁師だけでは食えん
  から 、子供の時になろうた菓子のつくり方を家内
  におしえて 、わしは沖へ出る 、家内は家で菓子を
  つくって商いをする 、とまァそないにしてつつま
  しう暮しをたてて来やしたがのう 。
   はァ 、おもしろいこともかなしいこともえっとあ
  りましたわい 。しかし能も何にもない人間じゃけ
  に 、おもしろいということも漁のおもしろみぐら
  いのもの 、かなしみというても 、家内に不幸のあ
  ったとき位で 、まァばァさんと五十年も一緒にく
  らせたのは何よりのしあわせでごいした 。 
   だいぶはなしましたのう 。一ぷくしましょうかい 。」

   引用おわり 。

  ( ´_ゝ`)

     宮本常一さんの残した 膨大な記録の ほんの 一かけら 。

     とりとめのない聞き書きのようにもみえる 。

     年寄りたちは 、話がうまい 。

   おそらくは 繰り返し語られ 、練りに練られた 「 語り 」、

 「 語り口 」だからこそ 味わい深いのだと思う 。 

   創作ではない 庶民の 生の声 を蒐集しつづける 宮本さん や

  他の「 伝承者 」たちの ひたすら蒐集にかける 不思議な情熱 。

     なんなんだろう これは 。でも面白い 。 

   歴史学者 網野義彦さんは 、宮本常一さんの「 忘れられた

  日本人 」( 岩波文庫本 ) に寄せた「 解説 」の中でこう記述さ

  れている 。

 「 歴史学が 、歴史を対象化して科学的に分析探求する 歴史科学

  と 、その上に立って歴史の流れを生き生きと叙述する 歴史叙述

  によって 、その使命を果たしうるのと同様 、民俗学も 民俗資料

  を広く蒐集し分析を加える科学的手法と 、それをふまえつつ 庶

  民の生活そのものを描き出す民俗誌 、生活誌の叙述との総合 に

  よって 、学問としての完成に達するものと 素人流に 私は考える 。

  そして歴史家の場合もそうであるように 、この二つの能力を兼

  ねそなえる民俗学者はきわめて稀であろうと思う 。

   宮本氏は 前者についても 全くの不得手というわけではないが 、

  間違いなく 後者において卓越した力量を持つ民俗学者であった 。

  その力量が最高度に発揮されて結晶したのが本書であり 、日本

  の庶民は自らの中から 、このようにすぐれた伝承者 、民俗学

  者を生み出したことを 、十分に誇ることができる 。

  本書が刊行された1960年 、『 梶田富五郎翁 』の言葉を通

  して 、宮本氏は『 やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間の

  ようでごいす 』と言い切った 。辛苦の末に新たな漁村をひらい

  た老人のこの一言は 、まことに力強い 。なにものをもこえて

  前進する人間のたくましさを 、われわれはそこにはっきりと感

  じとることができる 。

   しかし死の三年前 、1978年 、宮本氏はさきの自叙伝『 民

  俗学の旅 』の結びに近く ( 235 ~ 236 ページ ) 、つぎのように

  のべている 。

  『 私は長い間歩きつづけてきた 。そして多くの人にあい 、

  多くの者を見てきた 。( 中略 )その長い道程の中で考え

  つづけた一つは 、いったい進歩というのは何であろうか 。

  発展とは何であろうかということであった 。すべては進歩

  しているのであろうか 。( 中略 )進歩に対する迷信が 、

  退歩しつつあるものをも進歩と誤解し 、時にはそれが人間

  だけではなく 生きとし生けるものを絶滅にさえ向わしめつつ

  あるのではないか と思うことがある 。( 中略 )進歩のかげ

  に退歩しつつあるものを見定めてゆくことこそ 、われわれに

  課されている 、もっとも重要な課題ではないかと思う

  これはまさしくわれわれ 、現代の人間につきつけられた課題

  そのものといってよい 。梶田翁の生きた時代はもとより 、本

  書の世に出たときからも 、時代は大きく変りつつあり 、宮本

  氏はついにその解決をみることなしに世を去った 。 」

 「 たしかに『 無字社会 』は日本では 、いまや極小の状態にな

  りつつある 。だが『 忘れられた日本人 』 『 忘れられた人

  間 』は現代の真只中にも 、また歴史の中にも 、なおきわめ

  て多いのである 。宮本氏以上の力をもって 、われわれはその

  『 伝承者 』となり 、その存在を世に問いつづけていかなくて

    はなるまい 。 」

   ( ´_ゝ`) 

   さる人のブログでこんな記述を見掛けました 。

  「 中国地方の『 えらい 』は以下の意味で使われます 。
   ・疲れた
   ・苦しい
   ・とても 」

  「 主に西日本では 、『 えらい 』に『 立派である 、
   地位が高い 』という意味以外の意味があることが
   わかりました 。」

   ( ´_ゝ`)

  えらいこっちゃ えらいこっちゃ よい よい よい よい  (^^♪

  ぴー ひゃーら どん どん どん ぴー ひゃーら どん どん どん (^^♪

  これ何でしたっけ ?

   

 

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