今日の「 お気に入り 」は 、吉田兼好 の「 徒然草 」
の 冒頭のくだり 。
「 『 徒然草 』序段
つれづれなるまゝに 、日くらし硯に向かひて 、
心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく
書き付くれば 、あやしうこそ物狂ほしけれ 。 」
初めて読んだとき 、「 あやしうこそ物狂ほしけれ 」が
何のことやら「 ちんぷんかんぷん 」だったことを思い出
します 。
「 古文 」については「 あんちょこ 」本を買いそろえて
読みまくっていました 。 ( 若い人に「 あんちょこ 」って言っても通じない )
( ´_ゝ`)
( ついでながらの
筆者註 : 「 『 徒然草 』( つれづれぐさ )は 、卜部兼好
( 兼好法師 、兼好 、吉田兼好 )が書いたと
される随筆 。清少納言『 枕草子 』、鴨長明
『 方丈記 』とならび 日本三大随筆の一つと
評価されている 。 」
「 作品の名にもとられる書き出しの『 つれづれ 』
( 徒然 )は『 やるべき事がなくて 、手持ち
無沙汰なさま 』を意味する 。『 つれづれなり 』
と『 よしなしごと 』や 、『 書き付く 』は先行
する文学にも用いられている組合せであり 、作品
および自己を卑下する謙遜の辞である 。 」
「 兼好を作者とするのが僧・正徹( 後述 )以来 、
定説になっている 。」
「 序段を含めて 243段 から成る 。文体は和漢混
淆文と 、仮名文字が中心の和文が混在している 。
内容は多岐にわたり 、序段には『 つれづれなる
ままに 』書いたと述べ 、その後の各段では 、
兼好の思索や雑感 、逸話を長短様々 、順不同に
語り 、隠者学に位置づけられる 。兼好が歌人 、
古典学者 、能書家などであったことを反映して
いるほか 、兼好が仁和寺がある双ヶ丘( ならび
がおか )に居を構えたためか 、仁和寺に関する
説話が多い 。また 、『 徒然草 』が伝える説話
のなかには 、同時代の事件や人物について知る
史料となる記述が散見され 、歴史史料としても
広く利用されている 。中でも『 平家物語 』の
作者に関する記述( 226段 )は現存する最古の
物とされる 。 」
「 現在は『 長年書き溜めてきた文章を 1349年頃
にまとめた 』とする説が有力である 。」
「 同時代の史料に『 徒然草 』への言及が伝わら
ないことから 、『 執筆後約百年間は注目され
なかった 』とされる 。室町中期に僧・正徹が
注目し 、自ら書写した写本にこの作品を兼好
法師のものとし 、兼好の略歴も合わせて記し
ている 。これが正徹の弟子の歌人や連歌師た
ちに波及し 、応仁の乱の時代に生きた彼らは 、
『 無常観の文学 』という観点から『 徒然草 』
に共感をよせた 。 」
「 小林秀雄は『 徒然草 』という短いエッセイで 、
兼好の『 物が見え過ぎる眼 』を指摘し 、本書を
『 空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな
事件 』と評価している 。」
以上ウィキ情報 。 )
( ´_ゝ`)
山田太一さんの随筆「夕暮れの時間に」に次のような
記述がある 。「 方丈記 」を書いた 鴨長明さん のことを平安
時代のお坊さんと言っておられるのだが 、鴨長明さん が出家
したのは 、平安時代ではなく 、鎌倉時代になってからのこと
であるらしい 。 同じく遁世者である「 徒然草 」の吉田兼好
さんが 出家したのは 、鎌倉時代の次の南北朝時代になって
からのことと思われる 。
「 たしかに死んでしまえば万事が終りなのだから 、
むなしいといえばすべてがむなしい 。なにかに執
着するのは愚かといわれればその通り愚かである 。
しかし 、どこに住んでも文句をいわれない土地の
ある平安時代に 、お坊さんで 、家族もなく 、人
ともつき合わず 、稼がなくても自給自足できる 、
老境の近い人のいうことは割り引いて聞いた方が
いいと思う 。お坊さんへの教訓としてはよく分る
が 、俗人には無理があると思う 。死ぬことを考
えたら 、たしかにむなしいことばかりだが 、す
ぐ死ぬわけではない人間は 、そんな啓示で身を
つつしんでいたら 、生きているうちから死んだ
ようになってしまう 。
大災害は 、ぎりぎり一番大切なものを教えてく
れる 。生きているだけでありがたいとか 、絆が
大事だとか 、たしかにそれは真実だが 、究極の
真理だけで 、私たちは日々をいきいき生きてい
けないのだと思う 。哀しいといえば哀しいが 、
それが生きているということなのだと思う 。
( 多摩川新聞 2012年1月1日 ) 」