今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 朝日新聞はながく共産主義国の第五列に似た存在だった。第五列というのは国内にありながら敵勢力
の味方をするものである。それなら朝日新聞はわが国の社会主義化を望むかというとそんなことは全く
ない。資本主義の権化である。朝日は昭和天皇を常には天皇と呼び捨てにしていたのに、逝去の日が近
づくと陛下と書きだした。ついには崩御と書いた。最大級の敬語である。読売が崩御と書いてひとり朝
日が書かないと読者を失うかと恐れたいきさつはいつぞや書いた。
朝日の売物は昔から良心(的)と正義である。こんなことでだまされてはいけないとむかし私は『豆
朝日新聞』の創刊を思いたった。地下鉄の駅々にタダでくれる葉書大のPR紙『ことばの豆辞典』のた
ぐいがあって、乗客のとり去るにまかせている。わが豆朝日はそのまねして同じく客の持ち去るにまか
せる。
題字は本物の朝日新聞の桜吹雪をそっくり縮写して上に『豆』の字を冠したからオヤと皆々手にとっ
てくれる。葉書大の上質紙には裏表五枚書ける。この世に五枚で書けないことはない。
大朝日はこう言うが豆朝日はそうは思わぬと私は反駁する。紅衛兵の目は澄んでいたと書いてあれば、
わが軍国少年の目も澄んでいた、毎日同じことを言って聞かせれば信じて子供の目は澄む。林彪(りんぴ
ょう)は健在だというが死んでいる。大朝日がソ連のハンガリー侵攻の非をかばえばわが豆朝日は『春秋
に義戦なし』と嗤(わら)う。アポロが月に到着したと読んだら『何用あって月世界へ』と書く。これは
題である。『月はながめるものである』これは副題である。
これよりさきわが豆朝日は『創刊の辞』に本紙は一年をかぎって廃刊する。週一回月曜日発行、無料、
記事は匿名、執筆者は私一人。紙代印刷代アルバイト代など合計○百万円かかる。今○百万円持つ者は山
ほどいるが、捨てる者はいない。私は捨てる。発行所は東京中央郵便局私書函○号『豆朝日新聞社』。
たちまち東京中次いで日本中の評判になるが大朝日はこれを記事にできない。大朝日本社のある地下
鉄銀座駅では豆朝日の奪いあいになる。大朝日の社員がごっそり持って去れば、柱のかげで見張ってい
るアルバイトがすぐ補充する、また持ち去る、また補充する。アルバイトをとらえて問いつめても、ぼ
くアルバイトです何も知りませんと答えてラチがあかない。
それにしても絶讃好評の豆朝日をなぜ一年五十二週で終るかというと、ハンガリーのときに『春秋に
義戦なし』と言ってしまえば、チェコのときにもう言うべき言葉がないからである。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 友のごときものを持つことはできても真の友は持てない。だから友に似たものを多く集めて真の友
の代りにするのである。死ぬときはせめてそのにせの友にかこまれて死にたいのである。
友の幸運は嬉しいものである。けれども二度も三度もかさなるといやな気がする。また友の不運
は同情に耐えないものである。けれどもその友を見舞う足どりは我にもあらず勇むのである。
俗に金銭の貸借は友を失うという、だからしないと断る友がある。なに貸したくないのである。
真の友なら貸す、そして貸したことを忘れる。借りたほうも忘れる。形勢が逆転してこんどは貸し
てくれたほうが借りにくると、以前借りた友は貸し手に回れたことを喜んで貸し、そして共に忘れ
る。かくの如きが真の友ならこの世に真の友はない。
お話変って中年の妻の五割以上が夫と別れたがっていると、新聞で読むとその気になる妻がいる。
夫が退職金を貰うと日ならずして菊池さん又は佐々木さんと妻は夫を姓で呼ぶ。
その声音にぞっとして振向くと、ながながお世話になりましたが今日かぎりお別れしたいと言う。
女はそれが流行となればそそのかされれば何でもする。ひと前でまる裸になるくらいだから、別れ
もしよう。
けれどもこの世に友はないのである。友のごときものでさえ稀なのである。三十年四十年友に似
たものならそれは友なのである。一夫一婦は根本に無理をふくんでいる。けれども人間の考えたも
ののなかではよく出来たほうだとながめて私は思うのである。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 テレビは百害あって一利ないという持論を展開して納得させることは出来ても、その家(うち)から
テレビを取上げることはできない。
二十年あまり前これからは映像の時代だ、映像は活字の百倍千倍の情報をもたらすといったが、そ
のころ韓国の情報はキーセン旅行と金大中だけだった。
浅間山荘事件の時はどのチャンネルからも同じ画面しか出なかった。あれはただダブっているだけ
で豊富ではないとその時私は書いた。固唾(かたず)をのんで何を見ているのかというと、誰かが死ぬ
のを待っているのである。過激派でも警官でもどっちでもいい。目の前で撃たれ、血を流し、もがい
て息たえるところが見たくて終日手に汗にぎっているのである。
高見のけんぶつという、安全地帯で人の死をみるほどの見ものはない。自分が手をくだすのではな
いから俯仰(ふぎょう)天地に愧(は)じない。その死が完了したあくる日マスコミは茶の間の見物と共
に極悪非道と罵って快をむさぼる、テレビと見物は一味でありぐるである。
それは時の古今、洋の東西を問わない。フランス革命のむかし人民は毎日ギロチンにかけられる男
女を見物して歓呼した。ことに女たちは熱狂した。
言いたくはないがこれらはスペクタクルでありスキャンダルなのである。稀にみる見世物なのであ
る。神戸の大地震に戦慄したのは東京ではその一両日だけである。ひと月以上同じ報道にあきあきし
たところへオウム真理教騒ぎがおこったのはいいタイミングだった。大地震も両信用組合も消しとん
でサリンでもちきりになったが、あれもまた重複で豊富ではない。次の大惨事がおこらないから今回
も同じ映像が出ているだけだと知るから私は見ない。一件落着してから見ようと思って、結局は見な
いで終るだろう。
人は{むろん私も}スキャンダルが大好きである。だから私は目をそむけるのである。そして出来
てしまったものは出来ない昔に返せないのである。故にテレビは百害あって一利がないといくら言っ
ても、言い甲斐はないのである。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から昨日の続きです。
「 そのことは新聞と各界名士の間に酷似していると既に書いた。戦前大新聞はあのけし粒大のルビを
廃したい意向で、医家の権威に意見を求めた、権威はルビは日本人の近眼の元凶だと口を揃えて言っ
た。こうしてルビを廃して何十年、近眼はふえるばかりである。戦前は小学生にはなかった近眼が今
はおびただしくある。
およそ権威の発言で迎合でないものはひとつもない。中国、北朝鮮べったりの時の発言は同じくべ
ったりだった。それでいて事ごとに言論の自由を言った、私はそれをべったりの自由と呼んでいる。
それならお前はどうだと言うなら、表むきは迎合に見せて、実は見る人が見れば分るように言いたい
ことを言うように心がけている。今も昔もない、戦時下であれ平和裡であれ言論は常に二重であるべ
きだと思っている。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日引用した
「 灰谷説は良心的にすぎる」と題した文章の続きです。
「 この灰谷健次郎は『フォーカス』が生首事件の中学生の顔写真を載せたことに抗議して、「『フォー
カス』が犯した罪について」と題した一文を投じた。フォーカスは即座にこれを掲載した。
灰谷いわく自分はこの少年の顔写真を載せたと新聞で知って戦慄した。まだ犯人ではない、容疑者の
前途はどうなる、少年法を無視した非難に対して、フォーカスはこの犯罪は少年法の枠を越えていると
答えて反省の色がない。
灰谷は新潮社からたくさん本を出している。事と次第によってはその本を全部ひきあげるというほど
の字句で結んだ。
全部引きあげたら打撃だろうと言わぬばかりなのはおどしではない。本気のつもりだろうが版元はび
くともしない。流行作家は二、三年ごとに死んでいる。今回私はこの誤解または自惚(うぬぼれ)につい
て言いたい。有力な版元と作者の間は主人と奉公人に似ている。版元は先生々々と言うが、実は使って
やるのだと思っている。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「 健康な人は本なんか読まない、その人たちに読ませなければベストセラーにはならない、故に
ベストセラーなら読むに及ばないとついこの間私は書いた。この人たちが争って読むのは『一杯
のかけそば』のたぐいである。
灰谷健次郎という作者は良心ではない。良心的な作者だから以前も売れたし今も売れている。
『風』という当時匿名の批評家は灰谷の『兎の眼』を評しておよそ次のように書いた(大意」。
主人公は工業地帯の塵芥処理所の子供に愛情をそそぐ小学校の先生である。弱者を切りすてる
世間のエゴと無理解と戦う人と聞いただけでああ、例の進歩的児童文学だなと気がつく。
この小説の特色は、弱者だけに本当の人間性がみられるというドグマが中心になっていること
である。強者はみなエゴの固まりで虚偽の生活しかしていないという設定である。そして弱者に
よって強者は自分の人間性の虚偽を悟らせられるという論法なのである。この論法だと当然弱い
貧しいということが一切の非行の免罪符になる。
たとえばこの教師は、他の一教師が手を洗わない処理所の子が給食当番になることに反対した
のに、その子が病原菌をばらまいたとしても『クラス全員は喜んで伝染病にかかる』と言ってい
る。また野犬狩りでつかまった犬を取り戻そうと、子供たちが保健所の車をこわしてもかえって
喜ぶ始末である。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)