「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2013・08・31

2013-08-31 06:50:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「父の影、子の影」より。

「終戦の年の秋の暮れ、復員してきた父を見て、私たち家族は驚いた。文字通り落魄していたのである。軍服は着ていたが、その襟に階級章がなかった。腰の辺りがどこか頼りないと思ったら、見慣れた軍刀がない。何よりも体が一回り小さく見える。恰幅のよかった体からも、人懐っこく明るかった人柄からも、突然空気が抜けてしまい、目が定まらず、影が薄かった。私は小学校の四年生だった。労わる気持ちより先に情けないと思ってしまった。父にしたって、すすんで家族に見せたいと思って見せた姿ではなかったに違いないが、ほとんど家を留守にしていて久々に帰った父を、私はこんなにうらぶれた姿では見たくなかったのである。
 いま思うと、それからの日々、私は父への失望を表情や態度に表したのだと思う。それを察したのか、父も口が重くなった。大人の目ならともかく、わずか十歳の末っ子にそんな目で見られた父の情けなさを考えるほど、私は大人ではなかったのだ。公職追放された父は、することもなく、家から二キロほど離れた小さな畑に、毎朝リヤカーを曳いてでかけ、日の暮れまでたった一人で耕し、種を蒔き、痩せた野菜を作った。私はそんな父をさえ冷たい目で見ていた。
 それから三年経った夏の日の午後、父は突然倒れ、担ぎこまれた市民病院で数時間後にあっけなく死んだ。中学生になっていた私は、少し離れたところから父の死を見ていた。取りすがることも、泣き叫ぶこともしなかった。苛立つような蝉時雨が夜になっても止むことのない、異様に暑い日のことだった。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫所収)

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2013・08・30

2013-08-30 08:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「父の影、子の影」より。

「父は、大正のはじめに陸軍士官学校を出て任官した生粋の職業軍人だった。生粋ではあったが、栄達の才のない凡庸の人だった。命じられるままにシベリア出兵に参加し、満州事変に立ち会い、日中戦争では大陸の各地を転戦した末、太平洋戦争の終焉を九州の五島列島で迎えた。いつも人より二、三歩遅れて歩いたその軍歴は、ほぼ三十年である。目を血走らせて荒らぶる武にも馴染めず、かと言って風月を愛する文の人にもなり切れず、驕ることもなかった代りにこれといった武勲もない、つまりは凡庸の人だったわけである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・29

2013-08-29 14:05:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「父の影、子の影」より。

「戦後すぐに急死した父のことを、私が何かにつけ思い出すようになったのは、私が父の死の歳、つまり五十をいくつか過ぎたころからだったと思う。それまでの三十数年間は、こうして書くことはもちろん、誰かに父の話をするということさえほとんどなかった。別に父が恥ずかしい人だったわけではない。あるいは父と私の間に、思い出したくない嫌なことがあったわけでもない。ただ、晩年の父に私は息子として優しくなかったのではないかという、曖昧な気持ちの負い目が、その間、私の中にわだかまりつづけていたように思うのだ。それは、いまさらどうしようもないことだけに、水を吸った砂袋のように、私にとって憂鬱で重い荷物だった。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・28

2013-08-28 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「幻景二題」より。

「もう三十年、私はテレビドラマでさまざまな絵を撮ってきた。男の絵もあり、女の絵もあった。幸せの風景も撮ったし、絶望の心も撮った。けれど、春峰のペンキ絵に勝る人生の不思議も、『満願』の泣きたくなるほどの幸せも、私には撮った覚えがない。もし、私の中の、この二つの幻景と肩を並べられるものがある日撮れたら、そう自分で思えたら、その瞬間に私はいまの仕事をやめてもいいと思っている。
                                     (『CEL』91年5月)」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・27

2013-08-27 06:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「春峰の富岳図」より。

「小学生のころ、住んでいた家に風呂がなくて、毎日近くの銭湯へ行っていたことがある。戦後ようやく一、二年、いまのようにお湯の浄化装置などないから、早い時間に行かないと、どぶ水のようになってしまう。格別きれい好きだった覚えもないが、そのころ私は、お湯が開いてすぐの四時ごろに行くのがいつの間にか習慣になっていた。そんな時間に入りにくる子供はまずいない。たいていは暇で長湯の老人たちである。私はそんな連中といっしょに頭に手拭いをのせ、毎日そればかり唸っている禿の老人の『壺坂霊験記』を聴きながら、のんびりとお湯に浸っているのが嫌いではなかった。さてそろそろ上がろうかと、湯槽(ゆぶね)の縁(ふち)に頭をのせたまま目を開くと、見慣れた富士山のペンキ絵が眼前いっぱいに広がって見える。あのころの風呂屋ならどこにでもあった美保の松原越しの霊峰富士の図である。それにしても、いやに精密で実写的な絵だった。砂の一粒一粒、松の一葉一葉まで描きこんであるように私には見えた。その絵の中に、一ヶ所、なんとも気になるものがあった。よく見ると絵の右端あたり、背のさして高くない松の根本に痩せた老人が一人、旅支度の足を投げ出して、縞模様の風呂敷に包んだ大きな荷物に凭れているのである。長旅の途中、あまり景色がいいので一服という風情なのだろうが、不思議なのはこの老人、絵の左上、肝腎の富士を見ていないのである。それならどこを見ているかと言うと、どこも見ていないので困ってしまう。ぼんやり、ただ中空に目をやっているのである。見様によってそう見えるというのではない。精密なだけに、確かに何も見ていないのがわかる。玲瓏富士を前にして、富士を見ていない、あんな面妖な絵を、私は今日まで見たことがない。」

「作者の名前は春峰(しゅんぽう)、絵の左下に達者な署名と、花押らしいものまで、もっともらしく書いてあった。」

「恐らく、若いころ絵を志し、何かに躓いて落魄し、ほんの戦後の短い間だけ、焦土に建ちはじめた風呂屋の壁に描く場を与えられたのだろう。その後、筆を折ったか野垂れ死にしたか知らないが、私は春峰の富岳図を老人たちといっしょに首までお湯に浸かりながら、湯煙の向うに毎日眺めていた。あれから五十年近く経って、いま考えるのだが、あれが私が人生の不思議を見たはじめではなかったろうか。あるいは、人生の不思議とは、あのペンキの絵の中の老人の、何も見ていない目に尽きるのではなかろうか。目覚めの早くなったこのごろ、白みはじめた窓の障子に、あの老人の姿がぼんやり浮かんで見えることがある。老人は中空からゆっくりと私の方へ目を移し、唇の端をちょっと歪めて皮肉に笑ってみせる。そして、白い暁の光の中に溶けこむように消えて行く。私には、そんな風に思えてならない。」


(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・26

2013-08-26 14:14:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「『満願』の日傘」より。

「その小説をはじめて読んだのがいつだったのか、覚えていない。いちばん最近読んだのは、つい昨日のことである。その間、何十回読んだかわからない。もしかしたら、短いものだから、全部諳んじることができるかもしれない、と思うほどである。太宰が戦後すぐに書いた『満願』という小説の話である。
 太宰らしい中年男が、疎開したまま伊豆あたりの田舎に戦後もそのまま居ついている。彼は昼近くにのこのこ起きだし、近所の医者の家に新聞を読みに行くのを日課にしている。陽当たりのいい縁側で夫人の出してくれたお茶を飲み、新聞を隅から隅まで読む。毎日そうやっていると、いつの間にかこの医院に来る患者や、その家族の顔を自然に覚えてしまう。その中に、ちょっと気になる一人の若い奥さんがいた。週に一度ばかり薬を貰いに来て、その帰りぎわ、医者が玄関までわざわざ送って出て、その奥さんに『もうしばらくの辛抱ですよ』と叱咤するように言うのである。その度に、医者の目をまっすぐ見つめ、女学生のようにこっくりうなずくのが気にかかり、医者の夫人に訊ねてみると、ご主人が胸の病気でもう一年余り養生していて、若い奥さんの懸命な看護でだんだんよくなっているという。ただ、体に障るので、夫婦のことを禁じられているらしい。辛抱というのは、何もそのことだけではないだろうが、可哀相に、と人の好い夫人は垣根越しに帰って行くその奥さんの後ろ姿を見送るのだった。
 春が過ぎて夏が来た。ある日、彼が新聞からふと目を上げると、垣根の向う、野の道を白い日傘がくるくる廻りながら遠ざかって行くのが見える。弾むように、飛ぶように、日傘が踊っている。あの若い奥さんだった。医者の夫人が、彼の耳元で囁いた。『今日、やっとお許しが出たのよ』。満願である。二人はいつまでも嬉しい日傘を見送っていた。
 私にも見えるようである。心が冷え冷えと寒い日、何か、誰か、温かいものが欲しいと願うとき、目をつむると白い日傘がくるくる廻って行くのが私には見える。たったこれだけの幸せがなぜ私にはない、と嘆きたいこともある。もしあのとき、もう少しの優しさが私にあったら、と悔やむこともある。とても手の届かない情景のように思える日もあれば、明日はあの日傘が自分の方へやって来そうに思える日もある。幻だと思えばこそ、満願の日傘はいっそう楽しげに、くるくる、くるくる廻るのである。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)



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2013・08・24

2013-08-24 14:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。

「太宰に『雪の夜の話』という短い小説がある。その中に、デンマークの難破船の話が出てくる。溺死した若い水夫の網膜に、美しい一家団欒の光景が焼きついていたというのである。それは水夫の乗っていた船が難破したところに近い、灯台守の一家だった。太宰は、いかにも太宰らしく推理する。その水夫は嵐の海を必死で泳ぎ、やっとの思いで灯台の窓にすがりつく。やれ嬉しや、救けを求めて叫ぼうとして、ふと窓越しに見ると、いましも灯台守の一家がつつましくも楽しい夕飯をはじめようとしている。ここでいま、自分が叫んだら、一家の団欒は滅茶苦茶にになると思った途端、窓にしがみついていた水夫の指先の力が抜け、そのまま波に呑まれてしまったというのである。そして彼の網膜には、命の終わりに見た美しい光景が焼きついて残った。
 夕餉の支度の音がなくなってしまった町を歩きながら、私はそんな話を思い出す。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・23

2013-08-23 07:40:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。

「 一すじの草にも
  われはすがらむ、
  風のごとく。

  かぼそき蜘蛛の絲にも
  われはかからむ、
  木の葉のごとく。

  蜻蛉のうすき羽にも、
  われは透き入らむ、
  光のごとく。

  風、光、
  木の葉とならむ、
  心むなしく。

 白秋を師と仰いでいた大木惇夫が、大正の終りごろに書いた『風・光・木の葉』である。ここにも、冷え冷えとした薄明りの世界がある。人の命のはじまりと、終わりが仄見える。私にはこの詩句が、反乱軍の若い将校たちの、低い呟きに聞こえるのだ。軍靴の響きに埋もれて、ともすれば消えがちになりながら、薄明りの歌はだんだん遠ざかっていくのだった。――大木惇夫は十数年後のニ・ニ六の朝を、予知していたのだろうか。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・22

2013-08-22 10:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。

「私がニ・ニ六を想って突然涙がこぼれるのは、その日の未明、帝都に牡丹雪が降っていたと聞くからである。その中を、兵たちが粛々と行ったというからである。それは薄明りの世界だったはずである。迷いもあったろう。怖れもあったろう。何も考えまいと、ただ唇を噛んだ者もあったろう。指導者の将校たちにしたところで、自分の命の行方を知らぬ者があったとは思えない。彼らは、舞い散る雪片の向うにほめく薄明りだけを見つめて、歩いていったのである。私は、あの朝、雪が降っていなかったら、ニ・ニ六は汚辱の事件になり果てていたのではないかと思う。薄明りの中――彼らも雪を見ていた。天皇も、雪を見ていた。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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2013・08・21

2013-08-21 10:30:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。

「そんな哀しい、瞬く間の薄明りを、白秋はちゃんと書き遺している。

  時は逝く、赤き蒸汽の
  船腹(ふなばら)の過ぎゆくごとく。
  穀倉(こくぐら)の夕日のほめき、
  黒猫の美しき耳鳴りのごと、
  時は逝く、何時(いつ)しらず
  柔らかに陰影(かげ)してぞゆく。
  時は逝く、赤き蒸汽の
  船腹の過ぎゆくごとく。

《ほめく》は、《熱く》あるいは《火めく》と書くらしい。微かに震えながら火照るという意味だと、私は思っている。こんないい言葉は、わが国にしかない。これが人の命であり、白秋の切ない吐息であり、私たちが、夕暮れ、とぼとぼ還る道の果ての薄明りである。――白い船腹に鋭く赤い線の入った蒸気船が、嘘みたいにすぐ目の先を滑っていく。辺りはしんとして、世界は静寂の中にある。船上にも、埠頭にも、人影はない。見ている者も、乗っている者もいないのに、船だけが行く。いま、命の刻(とき)、船だけが滑るように行く。――こんな光景を、たとえ数秒でも撮れたら、私は死んでもいい。」

(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)

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