今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「年賀状というものは、もらえば嬉しいものである。ことに元日の朝、山ほどもらえばうれしいものである。それを嬉しくないというのは、うそである。そんなうそをついて何になるかというと、自慢になる。
自分はすこしは世間に知られた男だから、年賀状を沢山もらう。けれどもこちらからは出さない。出さなくても許される。その証拠に年ごとに賀状はふえるばかりだと、自慢なのである。要するに、もらうのは好きだが、出すのはきらいだというほどのことを飾って言っているのである。
人みな飾って言うのである。」
(山本夏彦著「編集兼発行人」中公文庫 所収)
「年賀状というものは、もらえば嬉しいものである。ことに元日の朝、山ほどもらえばうれしいものである。それを嬉しくないというのは、うそである。そんなうそをついて何になるかというと、自慢になる。
自分はすこしは世間に知られた男だから、年賀状を沢山もらう。けれどもこちらからは出さない。出さなくても許される。その証拠に年ごとに賀状はふえるばかりだと、自慢なのである。要するに、もらうのは好きだが、出すのはきらいだというほどのことを飾って言っているのである。
人みな飾って言うのである。」
(山本夏彦著「編集兼発行人」中公文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」の「あとがき」から。
「文語文は平安の昔の口語が凍結され、洗練に洗練をかさねて『美』と化したものである。洗練の極次第に末梢的かつ
煩瑣になった、そこへたまたま明治のご一新である。横文字の侵入をいかに消化するか、文語文は悪戦苦闘してにわかに
生気をとりもどした。」
「保険や銀行はそれまでなかったものである。明治の人は保険を命請負(いのちうけおい)、災難請負、銀行を銭屋(ぜにや)と
訳したが識者の採用するところにならなかった。いずれも微笑をさそう名訳だがえらそうでない。えらそうな漢語訳のほうが
採用されて今日(こんにち)に及んでいる。
文語が口語に転じたのは『欲』である。口語ならかゆい所に手がとどくと思ったのが運のつきだった。横文字はとどくと思って
まねしたのである。中江兆民は西洋人はくどいといった。尾崎紅葉はもう分ったよと言った。言葉は少し不自由なほうが
いい。時々もう少しで分らなくなる寸前に分るのがいい。分ったとたん胸なでおろすような快感が
ある。
全国に旧制高等学校が出来て、教師が誤訳を指摘されるのを恐れて、要らぬ品詞まで訳して、生徒はその口まねして日本語は
リズムを失った。リズムを失えば暗誦の能力を失う。詩は朗読されるものだったのに黙読されるようになった。文字のない時代は、
すべては暗誦されたのである。講談落語はつい最近まで耳からおぼえること古人のようだった。『真書太閤記』は千枚近くあろう。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は一言半句過たず暗記していたに違いない。
ローマ人はギリシャを滅ぼしてもその子弟にギリシャ語を学ばせた。食卓でもギリシャ語を語った。
ローマは滅びてもフランスの家庭では十七世紀までラテン語で話した、家庭教師、給仕人、(ぬひ)にいたるまでラテン語を
話すものを雇った。
海軍中佐広瀬武夫は日記を漢文で書いた。プーシキンの詩を漢詩に訳した。私は墓石の返り点のない白文を読むことが出来ない。
鷗外の先妻は若くして死んだ。眉目妍好(びもくけんこう)ならずといえども白文を読むこと流るるが如くだった
と鷗外はただ二行ではあるが追悼している。断絶は戦後にあったのではない、すでに明治初年にあったのである。
漢文の読みくだし文を私は文語文として扱っている。和漢混淆文も。
藤村詩集はあんなに読まれたのに口語自由詩になって以来詩は全く読者を失った。読者を失うと詩は難解になる。純文学も読者を
失うと同時に難解になった。だから文語に帰れというのではない。そんなこと出来はしない。出来ることは何々ぞと私はひとり
問うているのである。
口で語って耳で分るのが言葉である。文字は言葉の影法師だと古人は言った。
もう一つリズムのない文は文ではない。朗誦できない詩は詩ではない。
語彙の貧困を言うものはあっても、言い回しの滅びたのを惜しむものはない。『そんなにいやなら勝手にお仕』。
子供のとき私はしばしば母親に言われた。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
「文語文は平安の昔の口語が凍結され、洗練に洗練をかさねて『美』と化したものである。洗練の極次第に末梢的かつ
煩瑣になった、そこへたまたま明治のご一新である。横文字の侵入をいかに消化するか、文語文は悪戦苦闘してにわかに
生気をとりもどした。」
「保険や銀行はそれまでなかったものである。明治の人は保険を命請負(いのちうけおい)、災難請負、銀行を銭屋(ぜにや)と
訳したが識者の採用するところにならなかった。いずれも微笑をさそう名訳だがえらそうでない。えらそうな漢語訳のほうが
採用されて今日(こんにち)に及んでいる。
文語が口語に転じたのは『欲』である。口語ならかゆい所に手がとどくと思ったのが運のつきだった。横文字はとどくと思って
まねしたのである。中江兆民は西洋人はくどいといった。尾崎紅葉はもう分ったよと言った。言葉は少し不自由なほうが
いい。時々もう少しで分らなくなる寸前に分るのがいい。分ったとたん胸なでおろすような快感が
ある。
全国に旧制高等学校が出来て、教師が誤訳を指摘されるのを恐れて、要らぬ品詞まで訳して、生徒はその口まねして日本語は
リズムを失った。リズムを失えば暗誦の能力を失う。詩は朗読されるものだったのに黙読されるようになった。文字のない時代は、
すべては暗誦されたのである。講談落語はつい最近まで耳からおぼえること古人のようだった。『真書太閤記』は千枚近くあろう。
稗田阿礼(ひえだのあれ)は一言半句過たず暗記していたに違いない。
ローマ人はギリシャを滅ぼしてもその子弟にギリシャ語を学ばせた。食卓でもギリシャ語を語った。
ローマは滅びてもフランスの家庭では十七世紀までラテン語で話した、家庭教師、給仕人、(ぬひ)にいたるまでラテン語を
話すものを雇った。
海軍中佐広瀬武夫は日記を漢文で書いた。プーシキンの詩を漢詩に訳した。私は墓石の返り点のない白文を読むことが出来ない。
鷗外の先妻は若くして死んだ。眉目妍好(びもくけんこう)ならずといえども白文を読むこと流るるが如くだった
と鷗外はただ二行ではあるが追悼している。断絶は戦後にあったのではない、すでに明治初年にあったのである。
漢文の読みくだし文を私は文語文として扱っている。和漢混淆文も。
藤村詩集はあんなに読まれたのに口語自由詩になって以来詩は全く読者を失った。読者を失うと詩は難解になる。純文学も読者を
失うと同時に難解になった。だから文語に帰れというのではない。そんなこと出来はしない。出来ることは何々ぞと私はひとり
問うているのである。
口で語って耳で分るのが言葉である。文字は言葉の影法師だと古人は言った。
もう一つリズムのない文は文ではない。朗誦できない詩は詩ではない。
語彙の貧困を言うものはあっても、言い回しの滅びたのを惜しむものはない。『そんなにいやなら勝手にお仕』。
子供のとき私はしばしば母親に言われた。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「昭和十六年十二月八日日米英開戦の朝、寝すごした山本七平は『オイはじまったぞ戦争が』『エッどことどこが』。
若くても七平さんは知識人である。それが『まさか』と思っていたのだから他は推して知るべしである。人は来(きた)るべき戦争におびえて十五年も戦々兢々としていたというのはウソである。皆さんまさかと思って寝ていたのである。初めて空襲がある日まで東京人は寝ていたのである。」
「戦前まっくら説はインテリが言いふらした。社会主義は正義だからこれにかぶれぬインテリはなかったが逮捕されるとすぐ転向した。それをうしろめたく思って非転向の一群が米軍に釈放されると忽ち追随してまず読売新聞を乗っとった。組合をつくってそれを支配した。最も成功したのは教員組合の組織化で、いま文部省新聞社諸官庁にいる働き盛りはみなそれで育った日教組の申し子である。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
「昭和十六年十二月八日日米英開戦の朝、寝すごした山本七平は『オイはじまったぞ戦争が』『エッどことどこが』。
若くても七平さんは知識人である。それが『まさか』と思っていたのだから他は推して知るべしである。人は来(きた)るべき戦争におびえて十五年も戦々兢々としていたというのはウソである。皆さんまさかと思って寝ていたのである。初めて空襲がある日まで東京人は寝ていたのである。」
「戦前まっくら説はインテリが言いふらした。社会主義は正義だからこれにかぶれぬインテリはなかったが逮捕されるとすぐ転向した。それをうしろめたく思って非転向の一群が米軍に釈放されると忽ち追随してまず読売新聞を乗っとった。組合をつくってそれを支配した。最も成功したのは教員組合の組織化で、いま文部省新聞社諸官庁にいる働き盛りはみなそれで育った日教組の申し子である。」
(山本夏彦著阿川佐和子編「『夏彦の写真コラム』傑作選2」新潮文庫 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」から。
「さすがに聖書だけは口語訳と文語訳が共にあった。いまだに文語訳でなければならぬという神父と信者がいるのである。その口語訳を以下に示す。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延(の)ばすことができようか。(略)野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。しかしあなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
「だからあすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。
「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。
「あなたがたの中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
もういいだろう。なぜ口語訳なんかにしたのだろう。分らない字句があってもリズムさえあればいいのである。暗誦すること百遍、意はおのずから通じるのである。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
「さすがに聖書だけは口語訳と文語訳が共にあった。いまだに文語訳でなければならぬという神父と信者がいるのである。その口語訳を以下に示す。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延(の)ばすことができようか。(略)野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。しかしあなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
「だからあすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。
「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。
「あなたがたの中で罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかしもし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
もういいだろう。なぜ口語訳なんかにしたのだろう。分らない字句があってもリズムさえあればいいのである。暗誦すること百遍、意はおのずから通じるのである。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の著書「完本 文語文」から。
「詩人といえば漢詩人のことだった明治七、八年、当時の少青年を驚かしたものに聖書と讃美歌の翻訳がある。翻訳者の名は植村正久、井深梶之助ほか二、三が残っているだけで、あとの大ぜいは残ってない。いずれも当時の最高の知識人で根底に和漢の学がある人々である。
ゆふぐれしづかに いのりせんとて よのわづらひより しばしのがる――にはじまる讃美歌(植村正久訳)のごときは全文平かなである。当時の漢学書生の目にどんなに新鮮で高雅に聞えたか察しられる。これがのちの新体詩に与えた影響ははかり知れない。
――空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈らず、倉におさめず、汝(なんぢ)らはこれより遥かに優(すぐ)るる者ならずや。汝らのうち誰か思ひ煩(わづら)ひて身の丈(たけ)一尺を加へ得(え)んや。
前にもあげたが、山上の垂訓(すいくん)のなかの一節である。私はキリスト教徒ではないがこの章は暗記している。全文をあげたいがその紙幅がない。やむなくきれぎれにあげる。
――この故に明日のことを思ひ煩(わづら)ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日で足れり。
――昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時ころイエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神なんぞ我を見すて給ひしとの意(こころ)なり。
『汝らのうち、罪なきものまず石もて打て』。『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒にてあらん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし』。
私の主旨は箴言(しんげん)を並べることではない。私がこれを暗記しているのは、この文にあるリズムの故(ゆえ)である。文語文の故である。けれども今さがすと私の手中にあったはずの讃美歌集がない。八方に問合せたが、あるのはすべて口語訳で、文語訳はとうの昔絶版にしたという。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)
「詩人といえば漢詩人のことだった明治七、八年、当時の少青年を驚かしたものに聖書と讃美歌の翻訳がある。翻訳者の名は植村正久、井深梶之助ほか二、三が残っているだけで、あとの大ぜいは残ってない。いずれも当時の最高の知識人で根底に和漢の学がある人々である。
ゆふぐれしづかに いのりせんとて よのわづらひより しばしのがる――にはじまる讃美歌(植村正久訳)のごときは全文平かなである。当時の漢学書生の目にどんなに新鮮で高雅に聞えたか察しられる。これがのちの新体詩に与えた影響ははかり知れない。
――空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈らず、倉におさめず、汝(なんぢ)らはこれより遥かに優(すぐ)るる者ならずや。汝らのうち誰か思ひ煩(わづら)ひて身の丈(たけ)一尺を加へ得(え)んや。
前にもあげたが、山上の垂訓(すいくん)のなかの一節である。私はキリスト教徒ではないがこの章は暗記している。全文をあげたいがその紙幅がない。やむなくきれぎれにあげる。
――この故に明日のことを思ひ煩(わづら)ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日で足れり。
――昼の十二時より地の上あまねく暗くなりて、三時に及ぶ。三時ころイエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神なんぞ我を見すて給ひしとの意(こころ)なり。
『汝らのうち、罪なきものまず石もて打て』。『一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一粒にてあらん。もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし』。
私の主旨は箴言(しんげん)を並べることではない。私がこれを暗記しているのは、この文にあるリズムの故(ゆえ)である。文語文の故である。けれども今さがすと私の手中にあったはずの讃美歌集がない。八方に問合せたが、あるのはすべて口語訳で、文語訳はとうの昔絶版にしたという。」
(山本夏彦著「完本 文語文」文藝春秋社刊 所収)