今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「夏がくれば思いだすという歌があるが、あとは忘れた。夏が来ると向田邦子を思いだす。去るものは日々に疎(うと)しというが、ちっとも疎くならないひとがいる。むろん稀である。『山月記』や『李陵』の作者中島敦はまだ生きている。数え三十四のままでいる。私の二十代の友辻まことは少数ではあるが熱心な読者を持っている。それも若い読者である。たとえ流行作家であっても死ぬと同時に読者はぱっと去る。だから読者は蚤に似ていると私は書いたことがある。蚤は人がつめたくなると同時に去る。
向田邦子は死んで二十年近くなるが、読者はふえこそすれ減らない。私はテレビをろくに見ないからテレビの作者としての邦子は知らない。『銀座百点』に短篇を書きだしてから知った。
以来読者である。そのうち『週刊文春』に連載するようになって二、三度ほめたが、まとめて四ページもほめたのは昭和五十五年だから死ぬ一年前である。まにあってよかったとこれはあとで思った。
向田邦子は突然あらわれてすでに名人である。彼女のコラムはこの週刊誌の宝であると、ついでに『週刊文春』までほめて何となく義理をしたような気になった。これを書いてまもなく対談した。『テレビのなかのインテリア』と題すれば『室内』誌上に彼女の出る幕がある。芝の青松寺内の醍醐(だいご)という精進料理屋に来てもらったが、初対面でその上名人といわれたので緊張したのだろう、話ははずまなかった。そのとき私はこんなことを言った。
すでに私の命(めい)は旦夕(たんせき)に迫っている、こき使うなとわが社の二十代の女子社員に言って、タンセキって何ですか、タンセキでも患っているのですかと問われて毎度のことながら笑った云々。
同じことを別の席で三十代の一流会社の女子社員に聞いたら知らぬと答えた。四十代の女のアナウンサーに聞いたら、知ってはいるが耳で聞くのは初めてだといわれた。それでいて彼女たちは中島敦の読者なのである。『山月記』も『李陵』も漢文くずしである。今どきの高校生が見たこともない字句に満ちている。これがたいていの文庫本に欠かさずあるところを見ると少青年は読むのである。リズムさえあれば字句は分らなくても分るのである。だから私は遠慮なく使うのである。
向田邦子は細心の注意を払って耳で聞いて分らぬ言葉は使うまいとしていた。たぶんラジオ育ちだからだろう。そのせいで祖父は『うけ判』をついて貧乏したと書いた。請判(うけはん)は貸借の保証人としてつく判のことで、借り手が返さなければ追及される。これは東京の下町では戦前は用いたが、今はほとんど死語で、思いがけない対面をしたようで懐しい。」
(山本夏彦著「最後の波の音」文春文庫 所収)