今日の「お気に入り」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 高野山みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。
備忘のため 、「 政所 (まんどころ)・慈尊院 」と題
された小文の中から 、数節を抜粋して書き写す 。
書き写す手が止まらない 。
引用はじめ 。
「 高野山へ登るのは いまはケーブル・カーか
自動車道路によるが 、かつては七つの登山
口があった 。高野街道西口 、京街道不動
坂口 、龍神街道湯川口 、熊野街道相浦口 、
同大滝口 、大峰街道東口 、大和街道粉搗
(こつき)口である 。
このうち 、平安朝いらいもっとも繁く人
々が踏みならした道は 、慈尊院から登っ
ていく高野街道西口で 、町石道(ちょうい
しみち)とよばれたりした 。いまはほとん
ど廃道になっているらしい 。
十年ばかり前 、この旧道を高野山大学の
若い先生と学生十人ほどが 、ところどころ
密林のようになっている旧道を登ったこと
があるという 。もはや人の通えるような道
ではないといわれる 。」
「 境内を突っ切って奥へ至ると 、そこから
再び長い石段になる 。かつて旧道をたどっ
たひとびとは 、この石段の途中まで登り 、
そのまま石段を右へ離れ 、そこから出てい
る山道へ足を踏み入れるのである 。」
「 旧道への入口は 、まだ入口であるという
のに 、雑木で鬱然とし 、樹々の下に木下
闇(このしたやみ)ができていた 。その木下
闇を背にして 、大きな花崗岩の町石が建っ
ている 。
町石というのは一丈一尺の石柱で 、山頂
まであと何町ということを知らせる道しる
べなのだが 、石柱の頂が五輪のかたちを
なし 、石柱の表面に梵字が刻まれ 、形は
簡素な石の柱ながらも一基ずつがさまざま
な菩薩を象徴しているということになって
いる 。山頂の大門まで百八十基ある 。ほ
んの十年ばかり前までは道の廃(すた)れと
ともに多くの町石が谷底にころがったり 、
人知れずに傾いていたりしたが 、最近 、
文化庁の肝煎(きもいり)で谷底にころがっ
ているのを滑車をつかってひっぱりあげ 、
その何基かを自動車道路の路傍に移したり
して 、近頃は人目につくようになった 。
院政の例を最初にひらいた白河天皇 ( 10
53 ~ 1129 ) というのは 上皇・法皇にな
ってから熊野へ八度詣でたほか 、高野山
にも四度登ったといわれるが 、そのつど
この町石道をたどり 、町石ごとに足をと
め 、礼拝し 、真言(しんごん)をとなえた 。
町石そのものも信仰の対象だったことが
推察できる 。
町石はそのときどきの権門勢家の寄進に
よるものらしく 、そのうち天皇の寄進が
四基 、鎌倉の執権北条氏の寄進も二基ある 。
慈尊院の町石の横を通って旧道をすこし
たどってみたが 、百歩もゆかぬうちに深
山幽谷にまぎれ入ってしまいそうで 、そ
のままひきかえして石段の途中に戻った 。
息切れしないように石段をゆっくり登る
ことにした 。
石段の左側が石垣になっている 。石垣
には草や苔が蒸れるように覆っていて 、
ここでも幾種類かの大型の草が花をつけ
ていた 。高野山は梅雨どきが野の花の季
節であるのかもしれない 。
花好きの須田さんにとって 、この石段
登りは楽しそうであった 。縁日を歩いて
いる子供が 、綿菓子の屋台や金魚すくい
の水槽に一つ一つ吸いよせられてゆくよ
うに 、何段かごとに石垣に寄って行って
は 、葉をすくうように指をのばして行っ
たり 、小さな花におどろいたりしていた 。
地上でこれだけ平和な人はいないかもし
れない 。」
「 石段を登りつめると 、思ったより大き
な平坦の地面がひろがっている 。左右が
谷で 、左側の谷が暗く深い 。正面の奥
が 、神社になっていた 。明治の神仏分
離以前は 、慈尊院の守り神として寺域の
一つになっており 、僧がお守りをし 、
僧がお経をあげていたらしい 。」
「『 丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社 』
という名前がついている 。うっかり平
安朝の世にまぎれこんでしまったかと思
えるほどに 、神社としてはめずらしい名
前である 。
官省というのが奈良朝・平安朝の行政
用語であることは 、いうまでもない 。
官とは太政官のことであり 、省とは民
部省のことである 。両機関を併称する
ときに官省と言う 。この社名には『 符 』
がついている 。丁寧にいうには 、『 官
省符荘 』といわねばならない 。官省符
荘とは 、平安期の荘園の一種( 法的性格
としての )である 。荘園とは 、いうま
でもなく平安期の律令体制における土地
公有制度の原則をくつがえしてゆく私有
農場のことだが 、この荘園のうち 、官
省符荘とは『 その荘園のもちぬしは国
家に租税を納めなくてよい 』というこ
とを太政官の官符と民部省の省符でもっ
て認められた荘園のことである 。この
特権を得るには 、ときの高官に対して
よほどの工作をおこなわねばならず 、
とくに有力寺院の荘園の場合に多い 。
( つまりは 、高野山領のことであるの
か )
と 、私は神社の社名を仰ぎながらおも
った 。平安朝のある時期に 、高野山は
それが所有する荘園のすべてでなくても
その一部を『 租税なし 』という特権を
獲得した 。租税を『 不輸 』といって
も荘園の農民は高野山にしぼられるのだ
が 、高野山そのものが紀伊の国庁や都に
租税を払わなくてもいいというものであ
る 。さらには 、持主は荘園内の治安警
察権も持つ 。ともかくも『 官省符荘 』
の農民は国家に属せず 、私的機関に隷属
させられてしまうわけで 、その荘民とし
ては誇るべきことなのか なげくべきこと
なのか 、おそらく後者であったであろう 。」
「 空海の死後 、一時高野山も亡びるかと
思われるほどの時期もあったが 、やがて
白河法皇などが参詣に来たりするように
なった平安中期以後は 、その権威も経済
も大いに安定したにちがいない 。その安
定の巨大な象徴ともいうべきものが 、こ
の丹生官省符神社かと思われる 。
社殿の前に立てられた立札の由緒書を読
むと 、
『 官省符荘二十一箇村の総氏神である 』
という旨のことが書かれている 。富裕な
紀ノ川流域の二十一箇村の荘園というのは
大変な富の源泉とおもわれるが 、官省符荘
であるためには 、高野山がその荘園の隷民
たちの行政・警察権をにぎっていたことに
なる 。具体的には 、政所である慈尊院が 、
江戸期の代官のようにその実務を執ってい
たのであろう 。その二十一箇村の人心のま
とめとして 、総氏神を慈尊院に置く必要が
あったにちがいない 。
祭神は丹生都比売(にうつひめ)である 。
空海が高野山に密教の道場を据えたとき 、
地主神(じぬしがみ)としてこの神をまつり 、
慈尊院にも 、慈尊院を守護するためにこ
の神をまつった 。
当初は 、この神の仕事は寺域の守護だけ
であったが 、世を経て高野山の経済が巨
大になるにつれてこの神は 、官省符荘の
村々が高野山領であるぞという縄張りを示
す象徴になった 。さらには発展して 、各
村の隷民の心を一つにするという政治上の
必要をになう総氏神の役割をになわせられ
るようになったと見ていい 。」
引用おわり 。
。。(⌒∇⌒) 。。
平安朝の「 律令体制や荘園制度 」について 、
司馬遼太郎さんのような解説をしてくれる先生
が 、もし 、学校にいらして話が聞けたなら 、
日本史の勉強も興味深い 、随分と楽しいもの
になるだろな ~ 。
。。(⌒∇⌒); 。。
( ついでながらの
筆者註:筆者の手許にある 「 ス-パー大辞林 3.0 」には 、
不輸不入という四字熟語について 、次のような解
説がある 。
「 【 不輸不入 】
荘園制において 、租税を納入することを
免ぜられ(不輸)、また国衙(こくが)の
役人を荘園内に入らせない(不入)特権 。
権門勢家および社寺の荘園がこの特権を与
えられていた 。 」
試験運用中の生成AIは 、
「 不輸不入(ふゆふにゅう)とは 、平安時代に
荘園領主が国から認められた特権で 、国家権
力の介入を排除する権利です 。
不輸不入の特権には、次のようなもの
があります 。
・不輸(ふゆ)の権:国から賦課される税
目の一部またはすべてが免除される権利
・不入(ふにゅう)の権:国使や国検田使
などの立入りを拒否する権利
この特権を得た荘園領主には 、土地を寄
進する者が多く 、特に藤原摂関家に荘園
が集中しました 。」
と 、もうちょっと詳しく 、解説してくれる 。
Yahoo! 知恵袋には 、
Q 「 不輸不入権とはなんでしょうか 」
A 「 税金を払わない 、国の警察権を排除して
いい という 権利 の事です。 」
という質疑応答もある 。
良い子のみんなは わかったかなあ 。
社寺 、権門勢家ならずとも 、こんな特権欲しいよなあ 。
昔も 、今も 。 )