今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。
備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。
引用はじめ 。
「 農業というのは 、日本のある地方にとっては死
物狂いの仕事であったように思える 。
土佐に 、檮原(ゆすはら)という山間のむらがある 。
幕末の志士で那須信吾( 天誅組の乱で討死 )や
那須俊平( 蛤御門ノ変で討死 )などという郷士が
この檮原から出た 。
『 檮原のひとはえらい 』
と 、高知市内のひとはよく言う 。土佐のチベット
といわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地
に住みつき 、代々石を割って土をつくり 、わずか
な山田を建造物のように造営し 、水はときに渓流
から汲みあげて注ぎ 、平安末期にこの村ができて
以来 、それほどまでして生きねばならないかと思
えるほどの労働を重ねて 、昭和三十年前後までい
たっている 。あるいはこんにちなお 、そうかもし
れない 。
『 檮原の千枚田 』
といわれる 。
山の斜面を掻きとり 、土中の石をとりのぞき 、
棚をつくるようにして田を造り 、土が流れぬよう
に土止めとして石垣を築き 、その棚と石垣が 、千
枚もあるかと思えるほどに層をなして 、古代の石
造構造物を見るようである 。
土佐の檮原は 、高知県の西北角の愛媛県境にちか
い山中にある 。山口県の秋吉台に似たカルスト地
形の土地で 、溶食された石灰岩が無数に土中にか
くれていたり露出していたりして 、ここを拓くと
いうのは 、まず石を抱きあげてとりのぞくという
ことからはじめねばならなかった 。」
「 律令体制というのは 、都の貴族や寺院のために
のみあったといっていい 。全国の農民は『 公民 』
という名のもとに公田に縛りつけられ 、転職や移
住 、まして逃散の自由はなく 、働く機械のように
あつかわれ 、収穫の多くを都へ送らせられた 。
律令制は広義の奴隷制だったともいえるであろう 。
ひとびとは租税を納められなくなって逃散した 。
かれらの多くは中央政権の拘束力のややゆるい関東
や奥州に流れたりしたが 、中央政権の目のとどき
にくいところといえば 、かならずしも関東や奥州
だけではない 。
大山塊のなかの秘境のような所も 、逃亡先として
わるくなかった 。この土佐檮原も律令の逃亡者が
吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であると
いう解釈を『 檮原町史 』はとっている 。卓見と
いっていい 。
上代の檮原のひとびとの多くは伊予( 愛媛県 )
の先進的な水田地帯から逃げてきた 。石を割って
でも稲を植えようという過酷な労働を自分に強い
たのは 、人里という律令社会にもどれば刑罰か漂
泊のはての餓死が待っているだけだというかれら
の確信と恐怖であったにちがいない 。
私はかつて幕末の那須信吾をしらべているときに 、
檮原に関心をもった 。ところが檮原を知る努力を
しているうちに 、奈良朝・平安朝という律令の世
の農民に関心を持った 。
ただほとんど資料がない 。農民の感情もわから
ねば 、利害感覚もわからず 、要するに律令の農
民像というのは深い霧のむこうにあるのみで 、な
にひとつわからない 。ただ律令の『 浮浪者 』た
ちが逃げ落ちてきた檮原の苛烈な労働のあとをみる
とき 、かれらが捨ててきた下界の水田地帯( 律令
体制下の農村 )を逆に想像できる 。捨てたくなる
ような体制としての苛酷さが下界の水田地帯を覆っ
ていたのではないかという想像である 。いかに石
をくだいて土を作ろうとも 、体制外の檮原のほう
が楽天地だったのではないかと想像できるのだが 、
それ以上はわからない 。」
「 耕シテ天ニ至ル 。貧ナルカナ 。
という有名なことばは 、古語ではなく 、また中国
の古典にある言葉でもない 。
明治中期に日本にきた清国の政治家が 、瀬戸内海
を汽船で神戸へむかいつつ 、内海の島々の耕作の状
態をみて驚歎してつぶやいたことばである 。当時日
清の関係が嶮悪になりつつあり 、この清国の政治家
としては 、日本の経済力を見きわめたいという思い
があったのであろう 。岩だらけの小島が 、梨の皮
を剥くように島肌を剥き 、段丘を作り 、それが層
々と島の天辺にまで達している 。まことに貧なるか
なであり 、清国の政治家としては 、帝国主義の相
貌を見せはじめているこの小さな島国の楽屋裏を見
たような感じがして 、あるいは安堵の思いをそうい
う表現に託したのかもしれない 。
そこへゆくと 、清国の農村は大らかで 、耕作しが
たいような土地に鍬を打ちこむようなことは 、ほぼ
なかったといっていい 。」
「 大陸とはちがい 、小さな島国では 、小さな収獲を
得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって
耕地を造らざるを得ず 、檮原のような営みは古来日
本の各地でつづけられてきたし 、このことは日本人
の性格を形成する要素の一つになっているような気
がする 。」
「 ・・・ 大和政権というのは 要するに 水稲農業を奨
励し普及し 、それによって権力と富を得 、秩序の
安定を得ようとする政権ということがいえるであろ
う 。ユダヤ教やキリスト教 、回教のような巨大な
形而上的体系でもって民を治めようとしたのではな
く 、要するに 稲作農業という形而下的なものを普
及することによって権力を充実させ拡大させた政権
で 、上代における征服事業というのも 、稲作普及
軍の一面をもち 、山野を駆けまわる非稲作人に打
撃をあたえて『 化外 』のかれらが水田に定着すれ
ばそれでよしとした 。極端にいえば 、徳に化して
いることは定着して稲作をしていることであり 、徳
に化していない( 化外 )ということは 、稲作をせ
ずに けもの を追ったり 、魚介を獲ったりしている
ということであったにちがいない 。」
引用おわり 。
「 千枚田 」が美しく撮られた写真を数多く見るにつけ 、
営々とそこを造り 、耕してきた農民の執念や怨念みたい
なものを感じる 。ただの観光資源の被写体としてうっと
り眺めていていいわけないような ・・・ 。