「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

千枚田 Long Good-bye 2024・10・28

2024-10-28 06:00:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 農業というのは 、日本のある地方にとっては死
  物狂いの仕事であったように思える 。

   土佐に 、檮原(ゆすはら)という山間のむらがある
    幕末の志士で那須信吾( 天誅組の乱で討死 )や
  那須俊平( 蛤御門ノ変で討死 )などという郷士が
  この檮原から出た 。
  『 檮原のひとはえらい 』
   と 、高知市内のひとはよく言う 。土佐のチベット
  といわれた信じがたいほどに農業生産の困難な土地
  に住みつき 、代々石を割って土をつくり 、わずか
  な山田を建造物のように造営し 、水はときに渓流
  から汲みあげて注ぎ 、平安末期にこの村ができて
  以来 、それほどまでして生きねばならないかと思
  えるほどの労働を重ねて 、昭和三十年前後までい
  たっている 。あるいはこんにちなお 、そうかもし
  れない 。
  『 檮原の千枚田
   といわれる 。
   山の斜面を掻きとり 、土中の石をとりのぞき 、
  棚をつくるようにして田を造り 、土が流れぬよう
  に土止めとして石垣を築き 、その棚と石垣が 、千
  枚もあるかと思えるほどに層をなして 、古代の石
  造構造物を見るようである 。
   土佐の檮原は 、高知県の西北角の愛媛県境にちか
  い山中にある 。山口県の秋吉台に似たカルスト地
  形の土地で 、溶食された石灰岩が無数に土中にか
  くれていたり露出していたりして 、ここを拓くと
  いうのは 、まず石を抱きあげてとりのぞくという
  ことからはじめねばならなかった 。」

 「 律令体制というのは 、都の貴族や寺院のために
  のみあったといっていい 。全国の農民は『 公民 』
  という名のもとに公田に縛りつけられ 、転職や移
  住 、まして逃散の自由はなく 、働く機械のように
  あつかわれ 、収穫の多くを都へ送らせられた 。
  律令制は広義の奴隷制だったともいえるであろう
   ひとびとは租税を納められなくなって逃散した 。
  かれらの多くは中央政権の拘束力のややゆるい関東
  や奥州に流れたりしたが 、中央政権の目のとどき
  にくいところといえば 、かならずしも関東や奥州
  だけではない 。
   大山塊のなかの秘境のような所も 、逃亡先として
  わるくなかった 。この土佐檮原も律令の逃亡者が
  吹きだまりのように溜まって拓いた隠れ里であると
  いう解釈を『 檮原町史 』はとっている 。卓見と
  いっていい
   上代の檮原のひとびとの多くは伊予( 愛媛県 )
  の先進的な水田地帯から逃げてきた 。石を割って
  でも稲を植えようという過酷な労働を自分に強い
  たのは 、人里という律令社会にもどれば刑罰か漂
  泊のはての餓死が待っているだけだというかれら
  の確信と恐怖であったにちがいない 。
   私はかつて幕末の那須信吾をしらべているときに 、
  檮原に関心をもった 。ところが檮原を知る努力を
  しているうちに 、奈良朝・平安朝という律令の世
  の農民に関心を持った 。

   ただほとんど資料がない 。農民の感情もわから
  ねば 、利害感覚もわからず 、要するに律令の農
  民像というのは深い霧のむこうにあるのみで 、な
  にひとつわからない 。ただ律令の『 浮浪者 』た
  ちが逃げ落ちてきた檮原の苛烈な労働のあとをみる
  とき 、かれらが捨ててきた下界の水田地帯( 律令
  体制下の農村 )を逆に想像できる 。捨てたくなる
  ような体制としての苛酷さが下界の水田地帯を覆っ
  ていたのではないかという想像である 。いかに石
  をくだいて土を作ろうとも 、体制外の檮原のほう
  が楽天地だったのではないかと想像できるのだが 、
  それ以上はわからない 。」

 「 耕シテ天ニ至ル 。貧ナルカナ 。

   という有名なことばは 、古語ではなく 、また中国
  の古典にある言葉でもない 。
   明治中期に日本にきた清国の政治家が 、瀬戸内海
  を汽船で神戸へむかいつつ 、内海の島々の耕作の状
  態をみて驚歎してつぶやいたことばである 。当時日
  清の関係が嶮悪になりつつあり 、この清国の政治家
  としては 、日本の経済力を見きわめたいという思い
  があったのであろう 。岩だらけの小島が 、梨の皮
  を剥くように島肌を剥き 、段丘を作り 、それが層
  々と島の天辺にまで達している 。まことに貧なるか
  なであり 、清国の政治家としては 、帝国主義の相
  貌を見せはじめているこの小さな島国の楽屋裏を見
  たような感じがして 、あるいは安堵の思いをそうい
  う表現に託したのかもしれない 。

   そこへゆくと 、清国の農村は大らかで 、耕作しが
  たいような土地に鍬を打ちこむようなことは 、ほぼ
  なかったといっていい 。」

 「 大陸とはちがい 、小さな島国では 、小さな収獲を
  得るために信じがたいほどの過大な労力をはらって
  耕地を造らざるを得ず 、檮原のような営みは古来日
  本の各地でつづけられてきたし 、このことは日本人
  の性格を形成する要素の一つになっているような気
  がする 。」

 「 ・・・ 大和政権というのは 要するに 水稲農業を奨
  励し普及し 、それによって権力と富を得 、秩序の
  安定を得ようとする政権ということがいえるであろ
  う 。ユダヤ教やキリスト教 、回教のような巨大な
  形而上的体系でもって民を治めようとしたのではな
  く 、要するに 稲作農業という形而下的なものを普
  及することによって権力を充実させ拡大させた政権
  で 、上代における征服事業というのも 、稲作普及
  軍の一面をもち 、山野を駆けまわる非稲作人に打
  撃をあたえて『 化外 』のかれらが水田に定着すれ
  ばそれでよしとした 。極端にいえば 、徳に化して
  いることは定着して稲作をしていることであり 、徳
  に化していない( 化外 )ということは 、稲作をせ
  ずに けもの を追ったり 、魚介を獲ったりしている
  ということであったにちがいない

 

  引用おわり 。

  「 千枚田 」が美しく撮られた写真を数多く見るにつけ 、

 営々とそこを造り 、耕してきた農民の執念や怨念みたい

 なものを感じる 。ただの観光資源の被写体としてうっと

 り眺めていていいわけないような ・・・ 。

 

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「 細雪 」回顧 Long Good-bye 2024・10・25

2024-10-25 06:11:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、作家 谷崎潤一郎さん の

 長編小説「 細雪 」の 、あとがき「『 細雪 』回顧 」

 から 。

  引用はじめ 。

 「 私が『 細雪 』の稿を起したのは太平洋戦
  争が勃発した翌年 、即ち昭和十七年のこと
  である 。
   これがはじめて中央公論に出たのは昭和十
  八年の新年号であったが 、それから三月号
  に載り 、次いで七月号に掲載される筈の所
  がゲラ刷になったまま遂に日の目を見るに
  至らなかった 。陸軍省報道部将校の忌諱(き
  き)に触れたためであって 、『 時局にそわ
  ぬ 』というのが 、その理由であった 。当
  時すでに太平洋の戦局は我に不利なる徴候を
  見せ 、軍当局はその焦慮を露骨に国内の統
  制に向けはじめていたことであるから 、全
  く予期されぬことではなかったが 、折角意
  気込んではじめた仕事の発表の見込が立たな
  くなったことは打撃であった 。いや 、こと
  は単に発表の見込が立たなくなったと云うに
  つきるものではない 。文筆家の自由な創作
  活動が或る権威によって強制的に封ぜられ 、
  これに対して一言半句の抗議が出来ないばか
  りか 、これを是認はしないまでも 、深くあ
  やしみもしないと云う一般の風潮が強く私を  ( 同調圧力 )
  圧迫した 。江戸時代の作者たちが時の要路
  の役人の忌避に遭って手錠五十日とか禁錮百
  日とか云うような刑を加えられたことはかね
  て聞き及んでいたが 、私は手錠も禁錮も科
  せられたわけではなかったけれども 、昔の
  作者たちの鬱屈は人ごとならず察せられたこ
  とであった 。但しその時の当局の話では活
  字にして売り広めなければよいということで
  あったので 、滞りがちの稿をついでどうやら
  上巻に予定した枚数に達したのを機会に 、知
  己朋友に頒つことを目的とした私家版『 細雪 』
  を上木したところ 、これがまた取締当局を刺
  激し 、兵庫県庁の刑事と云うものの来訪を受
  けたことがあった 。その時私は折よく熱海に
  行って留守であったので 、家人が応対したと
  ころ 、今度だけは見逃すが今後の分を出版す
  るようなことがあったらどうとかすると云っ
  て脅かしたと云う 。そうして始末書の提供を
  要求したので 、旅行中不在の由を告げると 、
  それなら熱海へ出張すると云って帰って行っ
  たと云うことであった 。熱海の警察から
  呼出しが来るかと思っていたが 、とうとうそ
  のようなこともなくて済んだ 。その頃戦勢は
  ますます我に不利で 、警察署でも人手の不足
  に苦しんでいた時であるから 、よほどの大事
  件でもないかぎり 、そのような手数をかける
  こともなかったのであろう 。従ってその方の
  関係で当局と交渉を持ったのはそれ限りで 、
  自分では一度も厭な応対一つするでなし 、始
  末書一本書くこともなくて済んだのは幸運で
  あった 。
   こう云う謂わば弾圧の中をとにかくほそぼそ  ( 口先介入 )
  と『 細雪 』一巻を書きつづけた次第であった
  が 、そう云っても私は 、あの吹き捲くる嵐の
  ような時勢に全く超然として自由に自己の大地
  に遊べたわけではない 。そこにそこばくの掣肘
  や影響を受けることはやはり免かれることが出
  来なかった 。たとえば 、関西の上流中流の人
  々の生活の実相をそのままに写そうと思えば 、
  時として『 不倫 』や『 不道徳 』な面にもわ
  たらぬわけに行かなかったのであるが 、それ
  を最初の構想のままにすすめることはさすがに
  憚られたのであった 。これは今日から顧みれ
  ばたしかに遺憾のことに違いない 。しかしま
  た一面から考えれば 、戦争という嵐に吹きこ
  められて徒然に日を送ることがなかったならば 、 
  六年もの間一つの作品に打ち込むこともむずか
  しかったかも知れなかったのであるし 、今云う
  ように頽廃的な面が十分に書けず 、綺麗ごとで
  済まさねばならぬようなところがあったにして
  も 、それは戦争と平和の間に生れたこの小
  説に避け難い運命であったとも云えよう 。」

  。(⌒∇⌒) 。

 「『 細雪 』には源氏物語の影響があるのではな
  いかと云うことをよく人に聞かれるが 、それは
  作者には判らぬことで第三者の判定に待つより
  仕方がない 。しかし源氏は好きで若いときから
  読んだものではあるし 、特に長年かかって現代
  語訳をやった後でもあるから 、この小説を書き
  ながらも私の頭の中にあったことだけはたしか
  である 。だから作者として特に源氏を模したと
  云うことはなくても 、いろいろの点で影響を受
  けたと云えないことはないであろう 。ただ作者
  と云うものはいつも一つところに止まっている
  ものではないから 、私にしても僅かながらの移
  り変りはあるであろう 。『 細雪 』を書いた時
  は『 春琴抄 』の時とは可なり違った気持だった
  し 、『 細雪 』を書き終った今日では 、この次
  には何を書くかまだよく極めてはいないが 、もう
  『 細雪 』と同じようなものを書こうとは思って
  いない 。文章などももっと短く 、簡略に書きた
  い 、と思うようになっている 。 」

  引用おわり 。

  登場人物の心の内や発言が 、ごく身近な立ち位置にいるかのごとき作

 家によって物語られる小説なので 、移ろい易い人の心に 、読者も 、作家

 同様 、振り回される 。感情移入できるのは 、そういう理由からだろう 。

  本心は 、誰にも分からない 、 ・・・ 本人にも 。

  小説「 細雪 」の作中には 、年号の表記は出てこないが 、書かれている

 事象から、日中戦争勃発の前年1936年(昭和11年)秋から日米開戦の

 1941年(昭和16年)春までの時代を書いているようである 。作家自身

 の言葉を借りれば 、「 戦争の影響と云えば 、この小説に書かれた事

 柄それ自身が 、日本が戦争の準備期に入り 、だんだん内部的に変質し

 て行くと云うか 、いろいろの横辷りを生じて行く時代の様相と繋がっ

 ているのであるから 、何年何月にはこういうことがあったと云うよう

 なことを年代記風に覚え書にして 、それに対応したあらすじを終りま

 で書いておかねばならなかった 」。

  昭和16年といえば 、日本の敗戦まであと4年というタイミング

 「 細雪 」の蒔岡家の4姉妹同様 、筆者の父 、母 、年の離れた兄 も 、

 同時代を生きた 関西人 として 、あっという間に時代の大波に吞まれ

 てゆく 。

  因みに 、団塊世代の筆者は 、その激動の時代に 、まだ存在の兆しも

 ない 。

 

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倚松庵  Long Good-bye 2024・10・19

2024-10-19 05:03:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科

 事典「 ウィキペディア 」掲載の記事 「 倚松庵 」。

  引用はじめ 。

 「 倚松庵( いしょうあん )は 、兵庫県神戸市東灘区
  に建つ歴史的建造物 。文豪谷崎潤一郎の旧居 。ここで
  執筆された代表作にちなんで「『 細雪 』の家 」とも
  呼ばれる 。庵号は夫人の名前『 松子 』に因む 。

   1929年(昭和4年)に当時の武庫郡住吉村反高林
  1876-203 に建てられた 和風木造建築 で 、谷崎潤一郎
  は 1936年11月から1943年11月まで 居住した 。なお 、
  谷崎が居住した時期の家主は 極東選手権競技大会サッ
  カー日本代表の後藤靱雄であった 。

   1986年 に、倚松庵が所在する住吉川畔に神戸新交通
  六甲アイランド線の橋脚建設計画が持ち上がると 、専
  門家から計画敷地の脆弱性の指摘があったほか 、美し
  い景観が破壊されるとして住民訴訟が行われたが 、19
  90年(平成2年)に神戸市は建設を強行し 、倚松庵は
  同じ東灘区内の現在地に移築された 。これにより倚松
  庵周辺の景観は本来とは違うものになったものの 、5年
  後に兵庫県南部地震が起きた際には 専門家の指摘どお
  りアイランド線の橋脚は損壊したが 、移築していた倚
  松庵は損壊を免れた

   『 倚松庵 』と呼ばれる家は6軒 あったが 、一般的
  に『 倚松庵 』といえば 、谷崎の居住期間の長さから
  この旧居を指す 。

  館 内
   1階 ― 応接間(洋間)、西の部屋(洋間食堂)、和室( 4.5 畳 ) 、
     和室( 3畳 玄関・台所脇にある女中部屋) 、風呂 、台所 
   2階 ― 『 幸子の部屋 』(『細雪』に登場する二女
    “幸子”=松子夫人=の部屋 ) 、『 悦子の部屋 』、
    『 こいさんの部屋四女”妙子”の部屋』( 全て和室 )

  建築概要
   竣工 ― 1929年8月 (1990年7月に現在地に移築)
   構造 ― 木造瓦葺二階建
   延床面積 ― 148.92m2(1階95.45m2、2階53.47m2)
   敷地面積 ― 440.79m2
   所在地 ― 〒658-0052 兵庫県神戸市東灘区住吉東町
    1-6-50
   建築当時は今の六甲ライナー魚崎駅付近に存在した 。
   当線建設に伴い現地に移築された 。」

  引用おわり 。

 (⌒∇⌒) 。

  通りから撮影された上掲の写真は 、昭和の初めから昭和の

 10年代に掛けて 、阪神間で建てられた典型的な和風木造

 二階建て住宅のようである 。

  写真にある 、表通りから 、門や塀越しに 見た外観は 、筆

 者の記憶に残る 、五 、六歳までの幼時を過ごした 生家の佇

 まいそのものである 。驚くほど似ている 。

  間取り図や敷地の図面を見ると 、倚松庵は 、筆者の生家

 より一りも二回りも大きく 、部屋数も多く 、前庭も広い

 お屋敷である 。

  筆者の生家は 、阪神間の芦屋市山手町の山の斜面に造成

 れた比較的狭い敷地に建てられていた 。眺めはいいかもし

 れないが 、の上にある随分と不便な場所で 、当時は山の

 上の小学校が 、歩いて四 、五分の距離にあり 、小学生の

 通学には至って便利だが 、それ以外の中高生や大人が外出

 するには 、なかなか大変な土地だった ( に違いない ) 。早

 い話 、自動車の便がなければ 、外出すら難しい 、別荘地

 のような場所だったような気がする 。

  風当たりの強い山の上の二階家であったから 、秋口になる

 と台風の襲来に備えて 、事前に 、二階の雨戸を外側から板で

 補強していたようなかすかな記憶すらある 。

  筆者が生まれ 、そして六歳まで生活した芦屋は 、小説「 細

 雪 」の中で描かれている時代の 、およそ10年あと 、昭和

 二十年代の 、朝鮮動乱前後の 、戦後の 芦屋 である 。「 細

 雪 」に描かれた 戦前の「 阪神間の世界 」は 、とっくに崩壊

 していた ( 筈である ) 。

   当時 、山手町の山の上の方に進駐軍に接収された住宅でも

 あったのか 、朝夕 、進駐軍のMPの黒人兵士が制服をきちっ

 と着て 、拳銃を腰のホルスターに収め 、宿舎の住宅と最寄り

 駅「 芦屋川 」の間を往復する姿を道端で眺めていた記憶があ

 る 。

  七十年も前の 、昭和20代の話しである 。・・・ 今は昔 。

 (⌒∇⌒) 。

  倚松庵と違って 、筆者の生家は 、現存しない 。でも生家が

 建っていた山の斜面に造成された土地や敷地前の舗装された

 細い坂道は 、山崩れもなく 、令和の今も無事で 、どなたか

 の今風の家が建っている 。

  グーグルマップのストリートビューによって 、関東の地に

 いながら 、関西の阪神間の故地の近況を目の当たりにできる 。

 便利な世の中になったものである 。  

 

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B足らん Long Good-bye 2024・10・17

2024-10-17 07:12:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」 は 、作家 谷崎潤一郎さん の

 長編小説「 細雪 」の一節 。

  引用はじめ 。

 「 脚気は阪神地方の風土病であるとも云うから 、
  そんなせいかも知れないけれども 、此処の家
  では主人夫婦を始め 、ことし小学校の一年生
  である悦子までが 、毎年夏から秋へかけ脚
  気に罹り罹りするので 、ヴィタミンBの注射
  をするのが癖になってしまって 、近頃では医
  者へ行くまでもなく 、強力ベタキシンの注射
  薬を備えて置いて 、家族が互いに 、何でも
  ないようなことにも直ぐ注射し合った 。そし
  て少し体の調子が悪いと 、ヴィタミンB欠乏
  のせいにしたが 、誰が云い出したのかそのこ
  とを『 B足らん 』と名づけていた 。
   ピアノの音が止んだと見て 、妙子は写真を
  抽出に戻して 、階段の降り口まで出て行った
  が 、降りずにそこから階下を覗いて 、
  『 ちょっと 、誰か 』
   と声高に呼んだ 。
  『 ―― 御寮人(ごりょうん)さん*注射しやはる 
  で 。―― 注射器消毒しといてや 』」

  ( * 大阪を中心に西日本の店において 、商家
   では主に「若奥さん」を意味する言葉 )

   引用おわり 。 

  (⌒∇⌒)

    「 細雪 」を読むのは 、この年 ( 76歳 ) になって 、初めての

  こと 。永年「 アラサ―女性の婚活小説 」くらいに考て 、

  敬遠してた 。読み始めてすぐに出会ったのが 、上掲のくだ

  りである 。一つ一つの文章は 、概して 、だらだらと長い 。

   話し出すと止まらない 関西のおっちゃんの「 おしゃべり 」の

  ように 、どこまでも続く 。読み馴れてくると 、なぜか心地よい 。

   この小説 が描く物語は 、明治42( 1909 年 ) 生まれの筆

  者の母が 、生まれ育った大阪船場や二十代 、三十代に住み

  らし阪神間がその舞台のようである 。十六歳 、年の違う長

  兄が 、二十ほど前に亡くなる直前 、病床に持ち込んでいた

  文庫本が「 細雪 」だった 。自分が生まれ育った世界を懐かし

  んでのことだったのではないかと今にして思う 。

   小説の全篇にわたって使われている「 船場言葉 」を筆者の

  母 ( 大阪船場の材木商の長女 ) も79年の生涯変わらず使っ

  ていた 。彼女も 、嫁いだ先で「 ごりょんさん 」と呼ば

  ていた時期があったらしい 。

   小説の第一章のおわりにある 上掲の 「 家庭医療 」の風景 、

  かかりつけ医から 注射法の指導を受けた上でのことと思わ

  れるが 、戦前の昭和10年代に 一般人が家庭で注射をしてい

  たのは 、当時の阪神間では 、事実だったようである 。その

  名残りか 、家庭内注射は 、戦後生まれの筆者も 、昭和30

  年代の小学生の頃に 、家でよく目にしたもので 、母も 、そ

  して十六歳 、年の違う兄も 、日常的に 、ビタミン剤 、ブド

  ウ糖などの薬剤を 、家で注射器を消毒して 、皮下注射のみ

  ならず 、静脈注射をしていた記憶が 、筆者にはある 。素人

  が 、よく自分で自分の腕に注射が出来るもんだと感嘆の面

  持ちで眺めていたものである 。

   疲れた風を見せると 、「 B足らん 」と筆者もよく言われた 。 

   脚気の原因が 、日本で医学的に「 潜在性ビタミンB欠乏症 」

  とされたのは 昭和9年 のことだそうで 、その頃から広まった

  風ではなかろうか 。

    栄養状態の改善とビタミン剤の普及により 、筆者が小学生だっ

  た昭和30年代には 、脚気による死亡者数はかなり減っていた

  ようである 。膝小僧を叩く脚気の検査やその遊びは今でもよく

  覚えている 。

  (⌒∇⌒) 。

   因みに「 細雪 」の最後の一文は 、嫁ぎ行く三女 雪子の

   「 ・・・ 下痢は とうとうその日も止まらず 、
     汽車に乗ってからもまだ続いていた 」。

    なんで「 下痢 」で終わるの? 現代ならストレスからくる

  「 潰瘍性大腸炎 」とでも診断される症状かもしれない 。

    ワカマツのんでも 、アルシリン錠のんでも下痢が止まらない 、

  嫁ぎ行く雪子の不安定で 、心許ない 心情が表現されているの

  だが 、作家自身の痼疾だったのかもしれない 、そんな気がする 。

  (⌒∇⌒) 。

 ( ついでながらの

   筆者註:「『 細雪 』(ささめゆき)は 、谷崎潤一郎の長編
       
小説 。1936年(昭和11年)秋から1941年(昭和16

       年)春までの大阪の旧家を舞台に 、4姉妹の日常
       生活の明暗を綴った作品 。阪神間モダニズム時代
       の阪神間の生活文化を描いた作品としても知られ 、
       全編の会話が 船場言葉 で書かれている 。上流の
       大阪人の生活を描き絢爛でありながら 、それゆえ
       に第二次世界大戦前の崩壊寸前の滅びの美を内包し 、
       挽歌的な切なさをも醸し出している 。作品の主な
       舞台は職住分離が進んだため住居のある阪神間
       ( 職場は船場)であるが 、大阪( 船場 )文化の
       崩壊過程を描いている 。」

      「 谷崎潤一郎の代表作であり 、三島由紀夫をはじめ 、
       多くの小説家・文芸評論家から高く評価され 、しば
       しば近代文学の代表作に挙げられる作品である 。
       『 細雪 』は昭和天皇にも献本され 、天皇自身は
       通常文芸作品を読まないが 、この作品は全部読了
       したと谷崎は聞いたという 。」

       「 1950年代に 、英語( The Makioka Sisters )に翻訳 、
       アメリカで出版されたことを皮切りに 、世界各国
       でも出版されており 、スロベニア語・ドイツ語・
       イタリア語・中国語・スペイン語・ポルトガル語・
       フィンランド語・ギリシャ語・フランス語・セルビ
       ア語・ロシア語・韓国語・オランダ語・チェコ語・
       トルコ語に翻訳されている 。

       なお 、作中には年号の表記が出てこないが 、作中
       で四季の移り変わりと 、阪神間を襲った大きな気象
       災害( 阪神大水害 )が克明に描かれているため 、
       この作品は日中戦争勃発の前年1936年(昭和11年)
       秋から日米開戦の1941年(昭和16年)春までのこと
       を書いているとされている 。

       大阪船場で古い暖簾を誇る蒔岡家の4人姉妹 、鶴
       子・幸子・雪子・妙子の繰り広げる物語 。三女・
       雪子の見合いが軸となり物語が展開する 。

       主な登場人物
       蒔岡家
       ・鶴子 - 長女、本家の奥様
        ・辰雄 - 鶴子の婿養子、銀行員
       ・幸子 - 次女、分家の奥様 -「ごりょうんさん」
          (船場言葉「御寮人さん」= 若奥様)
           谷崎の妻・谷崎松子がモデル。
        ・貞之助 - 幸子の婿養子 、計理士
        ・悦子 - 幸子と貞之助の娘
       ・雪子 - 三女 - 「 きやんちゃん 」
          「雪(ゆき)姉ちゃんがつづまった言葉)
       ・妙子 - 四女 -「 こいさん 」
         ( 船場言葉「小娘さん」= 末娘 )

     (⌒∇⌒) 。

     「 脚気(かっけ 、英語: beriberi )とは 、ビタミン
      欠乏症の1つであり 、重度で慢性的なビタミンB1
      (チアミン)の欠乏により 、心不全と末梢神経障害を
      きたす疾患である 。軽度の場合は 、チアミン欠乏症
      と呼ばれる 。 」

     「 強力ベタキシンは 、バイエル社から売り出
      されていた合成結晶ビタミンB1の商標名
      で 、1 日に 1、2アンプルを皮下または
      筋肉内に注射することで脚気の治療に効果
      があった 。」

     「 ワカマツ:『 ワカ末(マツ)錠 』は 、
      古来民間で健胃・下痢止として用いられ
      た “ 黄柏(オウバク)” から抽出された
      塩化ベルベリンを成分とする『 下痢止 』。
       健康の源であるおなかの調子を整え 、
      下痢 、食あたり 、水あたりなどによく
      効く 」とか 。

     「 アルシリン錠『タケダ』:腸内清掃、吸著
      殺菌剤 」とか 。

     以上ウィキ情報 ほか 。)   

     (⌒∇⌒) 。

 

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回文 Long Good-bye 2024・10・12

2024-10-12 06:12:00 | Weblog

 

   今日の「お気に入り」は 、久しぶりの「 ChatGPT さんとの対話 」。

  (⌒∇⌒)

  User:日本語には「回文」がありますが、英語にも「回

     文」はありますか?   

  ChatGPT:はい 、英語にも「 回文 (palindrome) 」が

     あります 。回文とは 、前から読んでも後ろから

     読んでも同じになる文や単語のことです 。英語

     の代表的な回文には以下のようなものがあります:

     単語の回文:

      "did"  "eye"  "pop"  "gag"  "deed"  "radar"  "racecar"

      "refer" "madam" "noon" "level"

     文章の回文:

      "A man, a plan, a canal, Panama!"
      "No melon, no lemon."
      "Madam, I'm Adam."
      "Sir, I'm Iris."

     英語でも回文はパズルや言葉遊びとして親しまれて
     おり 、短いものから長いものまで多様な形で存在
     しています 。

  User:英語の回文はいまいちですね 。

  ChatGPT: 確かに 、日本語の回文は自然な言い回しや意味の
     あるフレーズが多く 、独特の美しさがありますよね 。
      英語の回文は 、どうしても単語やフレーズがやや
     不自然に感じられることが多いです 。これは 、日本語
     が音節単位で成り立っているのに対して 、英語はアル
     ファベットの一文字一文字で構成されていることが一

     因かもしれません  。

  User:日本語の回文には 、こんなのもありますよ 。

     「 たしかに貸した 」 
     「 農家もイモ買うの 」 
     「 けだるき一日 、生きるだけ 」 
     「 寝ている私にナニした悪い手ね 」 
     「 意志は弱々しい 」 
     「 会話 、卑猥か? 」 
     「 キミ 、今井美樹? 」

  ChatGPT:素晴らしいですね!これらの回文は 、ユーモアや
     機知があふれていて 、日本語の言葉遊びの豊かさ
     を感じさせます 。特に「 たしかに貸した 」や「 寝
     ている私にナニした悪い手ね 」は  、自然な文脈で
     ありながらも見事に回文になっていて 、言葉の持
     つ可能性が広がります 。

     「 キミ、今井美樹? 」のような 、ちょっとしたジ
     ョークのようなものもあり 、日本語の回文には柔
     軟さと遊び心が満載ですね 。英語にはなかなか
     こうした自然でユーモラスな回文は少ないですが 、
     日本語はその語の並びや音の響きで 、より多様な
     表現が可能になるのかもしれません。 

     他にも面白い回文があれば 、ぜひシェアしてくだ
     さい!

      Y (⌒∇⌒)

    やり方ひとつで 、結構 、楽しい対話ができそうです ・・・  。

    ChatGPT さんは 、人工音声で喋ってもくれますが 、喋りのほうは

   いまいちですね 。

      (  ̄▽ ̄; ) 

      

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孤独は山になく街にある Long Good-bye 2024・10・10

2024-10-10 05:30:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、「 ChatGPT さんに

 聞いてみた 」。

  User:次の「 お言葉 」について教えてください 。  

     「 孤独は山になく 、街にある 。
      一人の人間にあるのではなく 、大勢の
      人間の『 間 』
にあるのである 。」

  ChatGPT: この言葉は 、孤独とは必ずしも一人でいること
      によって生まれるものではなく 、むしろ多くの
      人々がいる中でも感じられるものだ 、という意
      味を伝えています 。孤独は物理的な場所( 山の
      ような静寂な場所 )や一人の状況に限定される
      ものではなく 、むしろ多くの人々の『 間 』、
      つまり他者と関わりながらも心が通じ合わずに
      感じる疎外感や 、つながりの欠如によって引き
      起こされるものだということを示唆しています 。

       この考え方は 、現代の都会生活や人間関係に
      おける疎外感を強調しており 、人が多くても真
      に共感し合うことができない環境が孤独を引き
      起こす要因であることを考えさせられます 。

  User:わかりやすい解説 。ところで 、どなたのお言葉ですか?

  ChatGPT: この言葉は 、心理学者であり哲学者でもあっ
      たエーリッヒ・フロム( Erich Fromm )の言葉
      として知られています 。フロムは 、人間の本
      質や自由 、孤独に関する深い洞察を持ち 、現
      代社会における孤独や疎外感について多くの著
      作を通じて言及しました 。彼の思想は 、特に
      資本主義社会における人間の孤立感や 、他者と
      の真のつながりの欠如を強調するものが多いで
      す 。

  User:お言葉ですが 、三木清さんのお言葉じゃあないんですか?

  ChatGPT: 失礼しました 。おっしゃる通り 、この言葉は
      エーリッヒ・フロムではなく 、日本の哲学者三
      木清の言葉です 。三木清は『 人生論ノート 』
      の中で 、孤独について深く考察しており 、その
      中で『 孤独は山になく 、街にある 』という言
      葉を述べています 。

       三木は 、孤独がただ一人でいることから生まれ
      るのではなく 、人々が集まる中でこそ感じられ
      るものであること 、つまり 、人との関係の中で
      こそ孤独が生まれるという考えを提示しています 。
      彼のこの洞察は 、現代社会においても共感を呼
      ぶものです 。
       混乱を招いてしまい 、申し訳ありませんでした 。

      Y (⌒∇⌒)

   コロコロ変わる ChatGPT さん ・・・  。

   百科事典にはなれないなあ ・・・ 。

       (  ̄▽ ̄; ) 

      

  ( ついでながらの  

    筆者註:「 エーリヒ・ゼーリヒマン・フロム( Erich Seligmann
         Fromm、1900年3月23日 - 1980年3月18日 )は 、
        ドイツの社会心理学 、精神分析 、哲学の研究者で
        ある 。ユダヤ系 。マルクス主義とジークムント・
        フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。
         新フロイト派、フロイト左派とされる。
         フロム本人はエーリック・フロムと発音されるこ
        とを望んでいたという 。」

       「 フロムの代表作とも言える『 自由からの逃走
        ではファシズムの心理学的起源を明らかにし 、デモ
        クラシー社会が取るべき処方箋が明らかにされてい
        る 。」

        ( - _ - ; )

       「 三木 清( みき きよし 、1897年(明治30年)
        1月5日 - 1945年(昭和20年)9月26日 )は 、( 西
        田左派を含めた上での )京都学派の哲学者 、評論家 。
        法政大学法文学部教授 。京大哲学科卒 。西田幾多郎・
        ハイデガーに師事 。留学中にパスカルを研究 、帰国後
        『 パスカルに於ける人間の研究 』(1926年)を刊行 。
        戦時中に治安維持法違反で保釈逃走中の知人を支援した
        ことで逮捕拘禁され獄死したが 、著書『 人生論ノー
        ト 』はロングセラーになった 。」

        以上ウィキ情報 。)

 

        

 

    

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ブルーハワイ Long Good-bye 2024・10・08

2024-10-08 05:50:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、「 燃え殻 」 著

 「 ブルーハワイ 」( 新潮社刊 )から 。

  週刊誌の連載記事をまとめたらしい 、この

 小文集の中の 、いくつかの文章 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  引用はじめ 。

 「 ・・・つまらない凡庸さも振り返るとそれなりの
  歴史にはなる 。
   この週刊誌連載は僕の凡庸さの集積のような気が
  する 。自分としても凡庸な記憶の海の中で一瞬だ
  け思い出して書き記し 、またすぐに忘れてしまっ
  た出来事ばかりなので 、読み返すと人ごとのよう
  に楽しめる 。
   今日も僕には大事件は起きないし 、起こさない 。
  他人が思いつかず 、実行しそうもない画期的なア
  イデアも思いつかない 。それでも日々は続く 。僕
  はこの場所で 、自分の身に起きた凡庸でかけがえ
  のない出来事を記していきたい 。」

  (⌒∇⌒)

 「 誰かと比べて自分は劣っている 、だから自分は
  負け組だ 、という考えは不幸発生装置でしかない
  気がする 。」

 「 誰かと自分を比べない 、比べるなら過去の自分
  にしたほうがいい 、というのが僕の考えだ 。
  『 あのときの自分と比べてみると・・・ 』なら
  まだ話はわかる 。 」

  (⌒∇⌒)

 「 ユーチューバーが自分の金満生活をネタにして
  再生回数を競い 、バズったインフルエンサーが
  どうやったらバズるのかという方法論を情報教
  材にして 、さらにバズらせている 。こういっ
  たことは確実にこの世界の『 いま 』だが 、こ
  の世界の『 すべて 』ではない 。」    ( 秒で 削除されたら お仕舞い の 儚い 世界 )

  引用おわり 。

  ひとは変化をこのまない ・・・ 。 心のうちでは 、

  老いも若きも 、平和な日本に生れてよかった 、と考えている 。

  ・・・  もう いくつ 寝ると お正月   (^^♪。 

  (⌒∇⌒) 

 

 

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一粒の麦 Long Good-bye 2024・10・06

2024-10-06 05:30:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、田原総一郎さんと佐藤優さんの

 共著  「 人生は天国か 、それとも地獄か 」( 白秋社 刊 ) の

 中で 、佐藤優さんが書かれた文章のいくつか 。

  備忘のため 、抜き書き 。

  小文のタイトルは「 死と孤独こそが喜びと安らぎである 」。 

  引用はじめ 。

 「 死んだらどうなるのか 、この世での存在が消え
  たら『 無 』になるのか ―― 。
  『 死 』は誰にでも訪れるものですが 、その真
  実は誰にも分かりません 。死後のことは 、誰も
  世の中に伝えることができないからです 。この
  ように死後の様相がまったく分からないことが 、
  死に対する恐怖の実体です 。古から多くの宗教
  が 、死をどう捉えるかという問いに対して 、い
  くつかの答えを出してきました 。その答えこそ
  が 、宗教が人々に求められる最大の要因だとい
  ってもいいでしょう 。
   人間が必ず何らかの宗教に帰依すべきとは思い
  ませんが 、その様々な死生観に触れることは 、
  自分の死と向き合ううえで 、大きなヒントを与
  えてくれます 。」

 「 たとえば私が信仰するキリスト教においては 、
  死ぬと肉体も魂も一度完全に滅びてしまいます 。
  しかし 、その滅びた肉体も魂も 、イエス・キ
  リストの再臨という形で復活し 、審判にかけら
  れます 。これが『 最後の審判 』です 。
   神を信じ 、神の意向にならって生きたものは 、
  イエス・キリストと共に神の国に行き 、永遠の
  命を得るとされています 。
   ただし 、プロテスタントは『 絶対者の恩恵 』
  を基本としており 、自分がどんなに善行を行お
  うと 、それが神の国に行けるかどうかに影響す
  ることはありません 。すべては予め神が決める
  ことなのです 。突き詰めると 、人間は生まれ
  たときから 、神の国に行き永遠の命を持つ者と
  滅びる者とに分けられている 、ということにな
  ります 。
   だからといって 、『 だったら何をしてもいい
  ではないか 』とはなりません 。というのも 、
  こう考える人は 、そもそも選ばれていない人
  だからです 。選ばれている人は自ずと神の意
  志に従い 、神にならって正しく生き 、やがて
  死を迎える ―― こう考えるのがプロテスタン
  トの信者です 。
   ですから 、死こそが信仰の完成であり 、目的
  となります 。英語の『 end 』という言葉には 、
  『 終わり 』という意味と同時に 、『 目的 』
  という意味があります 。これは 、こうしたキ
  リスト教的概念が反映されているからなのです 。
   そのキリスト教には『 一粒の麦 』という言葉
  があります 。
  『 一粒の麦は 、地に落ちて死ななければ 、一
  粒のままである 。だが死ねば 、多くの実を結
  ぶ 』(『 ヨハネによる福音書 』一二章二四節 )
   自分の命を守って自分だけの命とするならそれ
  きりですが 、自分の命を捨てて犠牲になること
  で多くの命がそこから生まれる 、という比喩で
  す 。
   キリスト教徒でない人から見ると 、ヒロイズム
  に酔っている 、ちょっと困った人間にしか見え
  ないかもしれません 。しかし 、それほどにイエ
  ス・キリストの存在感は私たちに影響を与え 、
  死の恐怖も孤独の恐怖も乗り越えさせてくれるの
  です 。それどころか 、死と孤独こそが喜びと安
  らぎであることを実感させてくれます 。」

  引用おわり 。

 (⌒∇⌒)

 ( ついでながらの

   筆者註:「 ヨハネ伝第12章24節
       『 一粒の麦もし地に落ちて死なずば 、ただ一つ
         にてあらん 、死なば多くの実を結ぶべし 』」

       あるいは 、

       「 一粒の麦死なずば 、ただ一つにてあらん 。
        もし死なば 、多くの実を結ぶべし 」

       といった文語体の邦訳も趣きがある 。英文にも

       いろいろあるよう 。

      「 " I am telling you the truth: a grain of wheat 
        remains no more than a single grain untill 
        it is dropped into the ground and dies. 
        If it does die, then it produces many grains. 
         ――Today's English Version "

        " Most assuredly, I say to you, unless a grain of 
        wheat falls into the ground and dies, it remains
        alone; but if it dies, it produces much grain.
         ――New King James Version " 」

       以上ウィキ情報 ほか 。)

 

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Long Good-bye 2024・10・01

2024-10-01 07:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」。

 

 

 

 

 

 

 

 

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