「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

今は昔、OLの日 2018・11・25

2018-11-25 09:30:00 | Weblog


                      




           


              


                   





   今日の「お気に入り」は、インターネットのフリー百科事典「ウィキペディア」に載っていた

  カルロス・ゴーンさんの略歴。



                       



  「 カルロス・ゴーン(Carlos Ghosn、1954年3月9日 - )は、フランスの自動車会社ルノーの

   取締役会長兼CEO(PDG)にして、日産自動車の前会長、三菱自動車工業の会長。」


  ( 中 略 )


  「 人物

    両親はレバノン人で、ブラジルで誕生。幼少期をブラジルで過ごし、中等教育は父の母国であるレバノンの

   ベイルートで受けた。フランスの工学系グランゼコールの一つであるパリ国立高等鉱業学校を卒業した後、

   フランス大手タイヤメーカー、ミシュランに入社し18年間在籍。

    ミシュラン社での業績を評価され、ルノーに上席副社長としてスカウトされ、同社の再建にも貢献した。



    1999年3月、当時経営と財政危機に瀕していた日産がルノーと資本提携を結び、同年6月、ルノーの

   上席副社長の職にあったゴーンが、ルノーにおけるポジションを維持しつつ、日産自動車の最高執行責任者

   (COO)に就任。後に日産自動車の社長兼最高経営責任者(CEO)、ルノーの取締役会長兼CEO(PDG)、

   ルノー・日産アライアンスの会長兼最高経営責任者(CEO)に就任。

   『コストキラー』『ミスター調整(FIX IT)』などの異名をとるゴーンは、日産再建に向け社員とともに

  『日産リバイバルプラン』を作成。短期間で日産の経営立て直しを果たし、2003年にフォーチュン誌は、

  彼を『アメリカ国外にいる10人の最強の事業家の一人』と称している。2013年6月から2016年6月には、

  ロシアの自動車メーカのアフトヴァース会長も務めていた。



   レバノンとブラジルとフランスの多重国籍を有する。アラビア語とフランス語、英語、スペイン語、

  ポルトガル語の5言語を話せる。日産自動車の社員に対して自らの肉声で語りたい時は、敢えて

  日本語で演説するようにしている。2004年には法政大学名誉博士になっている。2005年には、快進社、

  ダットサンで竹内明太郎と縁があり、早稲田大学からも授与されている。極度の経営不振と経済的危機

  の状態にあった日産自動車を立て直したということで、他社の社外取締役に招聘されたり、大学の委員

  なども務めたりもしている。また、自らコマーシャルに出演するなど、マスメディアにも積極的に登場。

   漫画誌・ビッグコミック・スペリオールに『カルロス・ゴーン物語』が掲載されるなど、広く知られる

  存在となっている。

   2016年10月より、ゴーンはルノー・日産アライアンスに加わった三菱自動車工業の代表取締役会長に就任。

   2017年2月23日、日産自動車は同年4月1日付で副会長兼共同CEOの西川廣人が代表取締役社長兼CEOに就任

  することを発表した。ゴーンは引き続き日産の代表取締役会長を務め、アライアンス全体の経営に注力する。

   KBE (大英帝国勲章・ナイトコマンダー)。」


  ( 中 略 )


  「 祖父ビシャラ・ゴーンは、レバノンで生まれ13歳でブラジルに移住し、ブラジル北部、ブラジルと

   ボリビア国境近くのロンドニア州の奥地 São Miguel do Guaporé サン・ミゲウ・ド・グアポレ で

   ゴム産業に参入。最終的には農産物を売買する会社のオーナーとなった。レバノン系ブラジル人

   である父 ジョルジ・ゴーンはロンドニア州の州都ポルト・ヴェーリョに居を構え、同じくナイジェリア

   生まれのレバノン人の女性と結婚。

    1954年3月9日にカルロス・ゴーンが誕生した。カルロスが2歳くらいの頃、不衛生な水を摂取したことで

   病気となり、母親とともにリオ・デ・ジャネイロに移転。カルロスが6歳の時、彼の3人の姉妹と母と

   ともに、祖父の母国であるレバノン・ベイルートに転居し、ベイルートのイエズス会系の

   Collège Notre-Dame de Jamhour(コレージュ・ドゥ・ノートルダム・ドゥ・ジャンブール)で

   中等教育を受けた。その後、パリ6区にあるプレップスクール Lycée Stanislas(リセ・スタニスラス)、

   そして、Lycée Saint-Louis(リセ・サン=ルイ)で学ぶ。1974年、エコール・ポリテクニーク

   (École Polytechnique)(グランゼコールの代表格でエリート養成校の一つ)を卒業し、1978年に

   パリ国立高等鉱業学校(École des Mines de Paris)で工学博士を取得し卒業。


    大学卒業後、1978年に欧州最大のタイヤメーカー、ミシュラン Michelin に入社した。」



                    



     「 ひとはどこまで無実か―――悪事が露見するまで無実である。」

         ( 山本夏彦著 「二流の愉しみ」 講談社文庫 所収 )
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今は昔、緑のおばさんの日・農協の日 2018・11・19

2018-11-19 05:49:00 | Weblog



   今日の「お気に入り」。


    「 子供のころ、よく父に手を引かれて銭湯へ行った。二十数年前の、夜がちゃんと夜の色をしていた時代の

     ことである。濡れた髪と湯気のあがっている体とを夜風になぶらせながら、とぼとぼ家路を帰っている

     と、いつもきまったように、点滅する赤い灯が漆黒の空を横ぎっていく。『飛行機や』と私が叫ぶと、父は

     しごく真面目な顔で、『ちがう、あれは流れ星や』と答える。私はむきになって夜空を指差し、『お父ちゃん、

     あれは飛行機やでェ』と言ってみる。つまりそこまでが序文で、父はおもむろに遠ざかっていく飛行機の灯り

     を見つめつつ、いつものお得意の話を始めてくれるのである。

     『あれはなァ、飛行機なんかやあらへん。あれは流れ星や。光とおんなじ速さで飛んでいっても何百億年も

     かかるほど遠いところから、星のかけらが飛んできて、いまちょうど頭の上を通っていくんや』

      幼い私は、たちまち何百億年という時間の凄さに我を忘れ、これまで飽きるほど聞かされた父の話を、また

     たまらなく聞いてみたい衝動に駆られてしまうのだった。父は宇宙という無限の空間と時間を語り、人間の限

     られた寿命のはかなさを教えてくれる。

     『おまえもこれから大きなって、そのうちおっさんになり、あっというまに爺さんになって、ほんでから必ず

     死ぬんや』

     『・・・死んだら、どないなるのん?』

     『死んだらどないなるのんか、それが知りとうて、昔、中国から印度へ仏教を習いに行きはった人がおるんや』

      父お得意の西遊記は、必ずこれだけの枕が必要なのであった。父は玄奘三蔵と、孫悟空、猪八戒、沙悟浄の

     三人の家来が、さまざまな妖怪や魔物と戦いつつ、ついに経典を得て帰還する話を語り終えると、熱っぽい目

     を私に注いで、こうつけくわえた。

     『そやけど、この話は全部嘘や。でたらめのこんこんちきや。孫悟空とか猪八戒とか沙悟浄なんて実際にはおれ

     へんかった。玄奘法師は一人で馬に乗って印度まで行きはった。無事に帰れるかどうか判らん命懸けの長旅を、

     たった一人で出かけはった。教えのためには命を張るほどに賢い勇気のある玄奘法師も、猿とか豚とか得体の

     知れんお化けみたいな心を、自分の中に持ってはったというたとえ話や』

     『・・・ふうん、お父ちゃん、ほんで死んだらどないなるのん?』

     『死んだら、・・・さあ、どないなるんやろなァ?』

      父と私は夜空に消えた飛行機のあとをぼんやり追いながら、またとぼとぼ家路をたどり始めるのだった。

      父は十年前、七十歳で死んだ。幾つかの事業に敗れ、不遇の晩年だった。

      冷たくなった父と一緒に、私は病院の一室で夜を明かした。

       ( 中  略 )

      病室の窓から星座が見え、どこからか虫の羽音が響いていた。かつて父の語った西遊記の、賢者聖人すら

     隠し持っているけだものの心の意味が、幾らかは理解できる年齢に達していた私は、不思議な思いで、死ん

     でいる父を見ていた。『死んだら、・・・さあ、どないなるんやろなァ?』と夜空を見あげていた父のあり

     し日のおもかげが、妙に生々しく思い出された。いま父は、その秘密を知った筈であった。私は落ち着かな

     い思いで、横たわっている父から視線を外し、窓辺にたたずんで夜空を見やった。死への言い知れぬ恐怖が、

     私を落ちつかなくさせていたのである。  」



            ( 宮本輝著 「二十歳の火影」 講談社文庫 所収 )




    





    



 
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いい遺言の日 2018・11・15

2018-11-15 07:00:00 | Weblog


 


     紫陽花が庭に咲く11月中旬、今日の「お気に入り」。


    「 二十九年の夏の終わりに、広島の元宇品(もとうじな)の森に行った。子供たちの昆虫採集の

     お付き合いである。浜でイヌが遊んでいた。紐でつながれていない。しばらくの間、イヌが波

     と戯れ、無心に遊ぶ姿を飽きずに見ていた。これが生きているということで、これが幸せとい

     うことだなあ。それにしては、ヒトの子供のこういう姿をしばらく見ていないなあ。

       
      遊びをせんとや生れけむ 戯(たわぶ)れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さ

      えこそ動(ゆる)がるれ


      日本にもそういう時代があった。私の子供時代も思えばそうだったかもしれない。塾なんかな

     い、テレビはない、スマホもない、将来なんて知ったことではない、今日のご飯をどうする。

     年寄りは昔は良かったというものらしいが、それだけかなあ。いまの時代は、皆さんいろいろ

     おっしゃるけれど、本当は変なんじゃないか。 」



    「 コンピュータにできることを、ヒトがする必要はない。コンピュータと将棋を指したりする

     のは意味がない。私はそう思う。百メートル競争を、だれがオートバイと競うのか。走るのに

     特化した機械と、ヒトが争う必要はない。ゼロと一とで書かれ、アルゴリズムで動くような思

     考を、コンピュータと競う必要はない。コンピュータが邪魔なら、電源を抜けばいい。自分で

     電源を入れてしまうコンピュータを創るのは犯罪である。そう決めたらいい。

      ヒトにはたちの悪い性質があって、できることなら、たいていのことは機械にやらせようと

     する。だからリニアが走り、ドローンが飛び、コンピュータが動く。でもそれをコントロール

     するのは、あくまでも人でなければならない。そんなことは当たり前で、言うまでもないこと

     であろう。 」



    「 そもそもなぜヒトはコンピュータが代表するような、デジタルの世界を必死で作ろうとする

     のか。便利だから、合理的だから、経済的だから。多くの局面でヒトはこの種の説明を採用

     する。それを私は機能的な説明と表現してきた。人体でいうなら、心臓は血液を送り出すポ

     ンプである。そういえば、ほとんどの人は納得して、それで話は終わりになる。心臓はそれ

     ほどにわかりやすいから、人工臓器としては最初に作られ、私が現役時代には、人工心臓を

     移植されたヤギが一年間生存するようになった。

      その裏にある暗黙の意図は、どういうものだろうか。人工的に心臓を置き換えれば、また

     具合が悪くなった時には、交換すればいい。それを延長していくと、おのずから最終的な

     答えが浮かんでくる。不死である。

      デジタルとどういう関係があるのか。デジタル・パタンとは、永久に変わらないコピー

     だと述べた。なんとコンピュータの中には、すでに不死が実現されている。デジタル・パ

     タンが死にそうになったら、つまり消えそうになったら、どんどんコピーを作ればいい。

     だからクラウドなのである。どこにコピーが存在しているのか、よくわからないけど、と

     もかくどこかにコピーが存在している。これをいたるところに置けば、実際的には死によ

     うがなくなるではないか。だから自分の記憶、感情のすべてをコンピュータに入れたらど

     うなるんでしょうね、という質問がなされる。その暗黙の裏は『俺は死なない』というこ

     とであろう。

      政治は世界を支配しようとする。世界とは、はじまりが空間である。それがローマ帝国

     を作り、大英帝国を作った。空間の支配が行き着くところまで行くと、時間の超克(ちょ

     うこく)が次の目標となる。時間を超越するために、ヒトはさまざまな極端なことをして

     きた。ものを書きだした若いころに、書いたことがある。秦の始皇帝は万里の長城を作

     り、エジプトの王たちはピラミッドを作った。それはいまだに残っている。石で作った

     巨大なものなら残る。もはや世界つまり空間を支配したと思った王たちは、時を超越し

     ようとして、ああいうとんでもないものを作った。

     それを置き換えたのはなにか。文字である。書かれたものは、永久に変わらないから

     である。文字を使えば、あんな巨大なものを作る必要はない。『もっと安く作れますよ。

     なにか書いときゃいいんです』。それを指摘された始皇帝は、たぶん腹を立てたのであ

     ろう。だから焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)だった。生き残るのは俺の特権だ。そう思っ

     たのであろう。エジプトのピラミッドは文字とともに消えていく。だんだん小さくなっ

     て、代わりに中に文字が書かれるようになる。その傾向は現在のデジタル・データで、

     いわば終止符を打ったことになる。

      コンピュータに代表される世界のどこが変なのか。 」


    「 もうおわかりだと思う。現代人は一定の手順でキイボードを押す。いまやっている作

     業が何のためか、そんなことは関係がない。しかも手順がきちんとしていないと、コン

     ピュータは反応しない。それどころか、うっかり別なキイを押すと、違うことを始めて

     しまう。だから厳密な手続きに従って、『きちんと働く』ようになる。 」


    「 手続き通り、きちんとやっている。それで何が悪い。現代人の多くがそう思って生活

     しているはずである。 」


        ( 養老孟司著 「遺言。」新潮新書 所収 )






                         





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介護の日・独身の日 2018・11・11

2018-11-11 05:20:00 | Weblog


                                        


   今日の「お気に入り」。


    「 おばあちゃんは百十歳まで生きた。先祖のキャラム・ルーアと同じ歳だ。おじいちゃんが亡くなったあと、

     おばあちゃんはおじいちゃんの衣類を、生前と同じ場所にそのまま残しておいた。上着や帽子は長いあいだポーチの

     釘にかかったままだったので、家に入っていくと懐かしいおじいちゃんの匂いがした。それは独特のタバコの匂い、

     こぼしたビールの匂い、ユーモアや陽気な優しさの匂いだった。茶色い犬たちは何ヶ月もその衣類の下に寝そべり、

     交差させた前足に鼻面をのせていた。情が深く、一生懸命がんばる犬たちだった。」



    ( アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」 新潮社刊 所収 )




                         


                         


                         



                                                   
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明日は鮭の日・もやしの日 2018・11・10

2018-11-10 05:00:00 | Weblog





                            



  今日の「お気に入り」。

   「 おじいちゃんは空中に跳びあがって踵を二回打ちあわせようとして死んだ。その晩、家のなかには人が大勢

    いて、おじいちゃんはその前にすでに二度もその芸に挑戦していた。いつもおじいちゃんを励ますおばあちゃん

    は、『もういっぺんやってごらんなさいな。三度目の正直というじゃないの』と言った。おじいちゃんは跳びあ

    がったと思うと崩れるように床に倒れ、そのまま起きあがらなかった。」



   「 おじいちゃんが死んだとき、おじいさんは『男の死に様にしては、なんというバカな死に方をしたんだ』と言

    って、関節が白くなるまで手を握りしめていた。おじいさんが人前で泣くのは、一人娘を亡くして以来のこと

    だった。

     あとでおばあちゃんは言った。『あの二人はまるで違うタイプだったけど、とても仲がよかったの。生涯を

    通じて。お互いにバランスを取り合っていたのよ』

     おじいさんは『スコットランド・ハイランドの歴史』という本を読みながら死んだ。読みかけのページに

    一本の指が置かれ、本はその指をはさんだまま閉じられて、眼鏡が鼻からずり落ちていた。ちょうどグレン

    コーの虐殺について、内と外からの裏切りの話を読んでいたところだった。あえて法を破ればこうなるとい

    う見せしめのために殺された『厄介な』男の話。それまでの自分の生き方が仇になって死んだ独立独歩の男

    の話だった。

    予想どおり、おじいさんは何もかもきちんと整えてから世を去った。柩をかつぐ人や、葬儀で演奏する音楽

    をリストにしていた。」



   「 どちらの祖父も、一人が建て一人が管理した病院では死ななかった。」



   「 おじいちゃんはあるとき、おじいさんに言ったことがある。『あんた、女友だちでもつくったらどうかね』

    おじいさんはこう言い返した。『それじゃあ、あんたは、人のことには口出さないで、自分の心配でもした

    らどうかね』」


   
        ( アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」新潮社刊 所収 )







     


     
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119番の日 2018・11・09

2018-11-09 05:30:00 | Weblog



 


   今日の「お気に入り」。


    「 私は父の五十歳のときの子である。父には初めての子供であった。まさかその歳で父親になるとは

     思っていなかったので、一人息子を溺愛して育てた。だから、越前海岸へ私をともなったとき、父は

     すでに六十歳になっていたことになる。私と父は、いつも他人の目には、祖父と孫として映っていた

     ようである。人に『お孫さんですか』と問われると、父はよく笑いながら『ええ、そうです』と答え

     た。なぜ否定しないのか不思議に思い、私はしばしば、そういう場面になるとムキになって『違うで

     え、僕らは親子やでえ、なあ、お父ちゃん、親子やなあ』と言って、質問の主をポカンとさせたもの

     だった。

      私の生まれたころが、父の人生にとって最も充実した時代であった。私が成長するにつれ、事業も

     健康状態も、なしくずしに落ち込んで行き、小学校にあがるようになると、幾つかの事業が傾いて、

     しばらく大阪を離れなくてはならない事態に追い込まれたのである。私たち一家は、昭和三十二年に、

     北陸富山へ移った。新しい事業を、友人と一緒におこそうとして、父はすべてを売り払い、新天地を

     求めたのであった。しかし、事業は軌道に乗らなかった。まい日まい日、手形に追われ、金策に走り廻

     っていた。私と一緒に、越前海岸に行ったのは、北陸での生活の中でも、とりわけ苦しいころであっ

     たかと思われる。いったいなぜ、幼い私をつれて、そんなところへ行ったのか、父の死んだ今となっ

     ては訊いてみる術もない。私がおぼえているのは、石川県の大聖寺という駅で降りたということと、

     長いあいだ、きりたった海岸べりにたたずんでいたということだけである。 」



    「 越前の荒れる海を見た人は、その凄さ、寂しさ、哀しさに心うたれるに違いない。だが私にとっては、

     それは風物としての光景ではなく、十歳の一人息子をともなって、荒海の淵にたたずみ、無言で自らの

     行末を見やっていた、父という風景なのである。 」


                 ( 宮本輝著 「二十歳の火影」講談社社文庫 所収 )


                         



     

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知恵の日 2018・11・07

2018-11-07 05:00:00 | Weblog


                           





  立冬の朝、今日の「お気に入り」。



   「 誰でも、愛されるとよりよい人間になる。」


     ***************   


   「 わが希望は常に汝にあり。 」





        ( アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」新潮社刊 所収 )






     

     
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阪神タイガーズ記念日 2018・11・02

2018-11-02 05:50:00 | Weblog







                          

                          

                          
                          


今日の「お気に入り」。


   「 ・・・・・・

    それから、年配の女が言った。「犬は? この辺の年寄りはみんな、あの雌犬の話をよくしてたよ。私も、おじいさん

   おばあさんが先代の年寄りたちから聞いた犬の話っていうのを聞かされたの、覚えてるよ。アメリカに行くとき、その

   犬が海に飛びこんで、舟を追って泳いでいったって。こっちに残った人たちは、崖の上の一番高い丘に登って、手を振

   って見送ってたんだけど、海の上にⅤの字を描いて進む犬の頭が見えたって。離れてゆく舟を追って、泳いで、泳いで、

   しばらくしたら、犬の頭が小さい点くらいになってしまってさ。キャラム・ルーアが犬を追い返そうとして怒鳴ってい

   る声も聞こえたって。その声が静かな海を渡ってきて、『帰れ、帰れ、バカ、うちへ戻れ、帰れ、帰れ、溺れ死んでし

   まうぞ』って叫ぶのが聞こえたそうだよ。

    そのとき、キャラム・ルーアは気がついたんだろうね。犬は絶対帰らないって。この犬はアメリカまでだって泳いで

   渡ろうとするだろう、渡ろうとがんばって死んでしまうだろうってね。そうしたら、帽子やら明るい色の衣類やらを振

   りながら、崖の上の丘に立って見送っていた人たちの耳に、キャラム・ルーアの声が変わったのがわかったって。感極

   まって声が割れているんだけど、『がんばれ、がんばって、ここまで来い、おまえならやれる。こっちだ! こっちだ!

   あきらめるな! できるぞ! がんばれ! ほら、待ってるから』って叫んでるのが聞こえたんだって。

    そして、崖の上にいた人たちの話だと、そういうふうに励まされて、犬の頭が波の上から持ちあがった。まるで希望

   が与えられたというみたいにね。そして犬はもっと懸命になって、それにつれてⅤの字が速くなって、横に広がってい

   ったって。舟から身をのりだしていたキャラム・ルーアが、船べりを叩いて励まして、手を伸ばして、ついに犬を水か

   ら引きあげた。この村の人たちが、その家族のことを思い浮かべる最後のシーンがそれなんだよ。そのあと、船そのも

   のが遠ざかって、大きな海の小さい点、その前に見た犬の頭より小さい点になるまで、ただ崖の上から手を振ってるだ

   けだったって」

      ・・・・・・   」



     ( アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」新潮社刊 所収 )




                          

                             
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犬の日 2018・11・01

2018-11-01 05:15:00 | Weblog
                       








  今日の「お気に入り」。


   「 海岸で待っているとき、犬が狂ったように走りまわった。何年もいっしょに働いてきた雌犬だ

    ったが、残してゆくことになり、近所の人に世話を頼んでいた。犬は何かおかしいと勘づいた

    らしく、砂の上を転げまわりながら不安そうにクンクン鳴いた。そして、キャラム・ルーアの

    一家が水際を歩いて小舟に乗り、沖で待つ大きな船へ向かって漕ぎ出すと、あとを追って泳ぎ

    はじめた。犬の頭が水をV字に切り、その目は去ってゆこうとする家族にひたと向けられてい

    た。犬は自分も家族の一員だと思っていたのだ。家族の漕ぐ小舟が、錨をおろした船に近づき、

    ゲール語で『帰れ』と怒鳴られても、犬は泳ぎつづけた。泳ぎつづけて、だんだん陸から遠く

    離れていったとき、とうとう耐えきれなくなったキャラム・ルーアは、脅しつける声を励まし

    の声に変え、身を乗り出して、ずぶ濡れで震えている冷たい体を持ちあげ、舟のなかに引き入

    れた。犬は彼の胸をびしょびしょに濡らしながら身をくねらせ、うれしそうに彼の顔をなめま

    わした。彼はゲール語で言った。『よしよし、おまえはずっと俺たちといっしょだったもんな、

    もうおまえを捨てたりしないぞ。いっしょに行こうな』 」


   ( アリステア・マクラウド著 中野恵津子訳 「彼方なる歌に耳を澄ませよ」 新潮社刊 所収 )




                          

    フリー百科事典 WIKIPEDIA には、アリステア・マクラウドさんのことが次のように書かれています。

    Alistair MacLeod, OC FRSC (July 20, 1936 – April 20, 2014) was a Canadian novelist,

   short story writer and academic. His powerful and moving stories vividly evoke the

   beauty of Cape Breton Island's rugged landscape and the resilient character of many

   of its inhabitants, the descendants of Scottish immigrants, who are haunted by

   ancestral memories and who struggle to reconcile the past and the present.

    MacLeod has been praised for his verbal precision, his lyric intensity and

   his use of simple, direct language that seems rooted in an oral tradition.

    Although he is known as a master of the short story, MacLeod's 1999 novel

   No Great Mischief was voted Atlantic Canada's greatest book of all time.

    The novel also won several literary prizes including the 2001 International

   IMPAC Dublin Literary Award.

    In 2000, MacLeod's two books of short stories, The Lost Salt Gift of Blood (1976)

   and As Birds Bring Forth the Sun and Other Stories (1986), were re-published in

   the volume Island: The Collected Stories. MacLeod compared his fiction writing

   to playing an accordion. "When I pull it out like this," he explained, "it becomes

   a novel, and when I compress it like this, it becomes this intense short story."

    MacLeod taught English and creative writing for more than three decades at the

   University of Windsor, but returned every summer to the Cape Breton cabin on

   the MacLeod homestead where he did much of his writing.

    In the introduction to a book of essays on his work, editor Irene Guilford

   concluded: "Alistair MacLeod's birthplace is Canadian, his emotional heartland

   is Cape Breton, his heritage Scottish, but his writing is of the world."   



       

       

       




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