「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

Long Good-bye 2019・11・30

2019-11-30 04:44:00 | Weblog






  今日の「お気に入り」。


   「 思ひかねいもがりゆけば冬の夜の

         川風さむみ千鳥なくなり 」

     ( 紀貫之 金玉集 冬(三十五) )

  



   「 おもひかねいもがりゆけばふゆのよの

          かはかぜさむみちどりなくなり 」

                ( 紀貫之 拾遺和歌集 )






    思いに耐えられず愛しいひとの許へ行けば

            冬の夜の川風寒くて千鳥が鳴いている ...
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Long Good-bye 2019・11・29

2019-11-29 04:30:00 | Weblog






  今日の「お気に入り」。


   「 紫のわが世の恋のあさぼらけ 諸手のかをり追風ながき 」 ( 与謝野晶子 )

  



   「 うら若き君が盛りを見つるわれ わが若き日の果てを見し君 」( 与謝野寛 )




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Long Good-bye 2019・11・25

2019-11-25 04:44:00 | Weblog






   今日の「お気に入り」は、稲垣栄洋さんの著書「生き物の死にざま」の中に出てくる

  「冬を前に現れ、冬とともに死す ”雪虫” ― ワタアブラムシ」から。


   「 多くの生き物が死に絶えてしまう冬。

     ところが、そんな冬の訪れを告げる風物詩として親しまれている生き物がいる。

     この生き物は、井上靖(やすし)が自らの幼少時代を描いた自伝小説のタイトル

    でも知られている。『しろばんば』というのが、この生き物の呼び名だ。小説

    『しろばんば』では、こんな風景が描かれている。


    いまから四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは

    口々に ” しろばんば、しろばんば ”と叫びながら、家の前の街道をあっちに

    走ったり、こっちに走ったりしながら、夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも

    舞っているように浮遊している白い小さい生きものを追いかけて遊んだ。



     『しろばんば』とは白い老婆という意味である。老婆のような白髪を見せな

    がら浮遊するこの生き物の正体は、ワタアブラムシというアブラムシの仲間

    である。

     ワタアブラムシは俗に、雪虫とも呼ばれている。まるで粉雪が舞うように飛

    んでいるのでそう名付けられたのである。地方によっては『雪ん子』や『雪蛍

    などロマンチックな呼ばれ方をすることもある。

     雪のように見えるワタアブラムシは、白いワックス状の物質を綿のようにまと

    っている。そのため、白く見えるのだ。

     ワタアブラムシが飛ぶようすは、本当に雪が舞っているように見える。ワタア

    ブラムシには飛翔するための翅があるが、飛ぶ力は弱く、むしろこのふわふわし

    た綿で風に乗って舞っていく。まさに、雪の妖精のようだ。」


   「 堀口大學の詩の中に、春が近づいて解けゆく雪をわが身にたとえた『 老雪 』

    という詩がある。

     北国も弥生半ばは

     雪老いて痩せたりな

     つやあせて 香の失せて

     わが姿さながらよ

     咲く花は 見ずて消ゆ

  


     ( 稲垣栄洋著「生き物の死にざま」草思社刊 所収 )


                   

                   

                   

                         

                         


                 

    稲垣栄洋さんのご本の中では29種の生き物の生態や死にざまが紹介されており、どれも興味深いが、

   就中「チョウチンアンコウ」の「進化」というか「退化」が壮絶ですさまじい。

   


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Long Good-bye 2019・11・23

2019-11-23 04:30:00 | Weblog








  今日の「お気に入り」。


   「 建物と、それを構築するための足場というものは、いつも妙な関係である。建物

    が完成してしまえば、足場は必要なくなり、かえって無用な邪魔物と化すのだが、

    建物を造るためには、断じて足場を組まねばならない。

     これを小説に置き代えてみるとき、私の中では、はっきりと〈 短篇小説論 〉と

    〈 長篇小説論 〉とが展開される。

     文章によって創(つく)りあげられた世界や物語を建物だと考えるならば、いかな

    る些細(ささい)なディテールやプロットも、すべて足場なのだと私は思っている。

     実際の建築物と足場との関係が、小説という構築物とディテールとの関係におい

    て異質な点は、小説の場合、完成してしまったあとも、足場は永遠に残りつづけ

    るということである。

     さて、建物と足場という譬喩(ひゆ)に即して言えば、ディテールやプロットだ

    けが存在するか、もしくは堅牢(けんろう)に強調されて、その内側に、どのよう

    な建物が建っているのかは、読者それぞれの心の領域の、豊かさとか感性とかに

    ゆだねられるのが〈 短篇小説 〉だと思う。もちろん、この〈 短篇小説 〉には、

    詩や短歌や俳句も含まれている。

     逆に、読み終えたのち、夥(おびただ)しいディテールやプロットの集積は声を

    ひそめ、心の視力から遠ざかって、おぼろになり、そこに屹立(きつりつ)する

    揺るぎない建物だけが、厳として立ちあらわれているのを〈 長篇小説 〉だと

    考える。けれども、その建物は、ディテールやプロットなしには構築され得な

    かったのである。

     しかし、これは、私の短篇小説論であり、長篇小説論であって、他の作家に

    は異論のあるところかもしれない。ともあれ、どっちにしても、ディテール

    やプロットというものが、いかに重要であるかは論を俟(ま)たない。すぐれ

    た文学は、すべて緊密なディテールとプロットが、あちこちで、あるいはた

    った一箇所で、ぎらぎらと光っている。しかもそれらは、足場であって、決

    して建物そのものではないのである。


     『螢川(ほたるがわ)』は、四百字詰め原稿用紙で百二十枚ぐらいだと記憶

    している。だから、短篇小説に属する作品であろう。私が『螢川』の第一稿

    を書いたのは二十七歳のときで、そのときは、短篇とか長篇とかの区別もな

    く、それどころか、いったい小説とはどうやって書けばいいのかも判(わか)

    らなかった。私は、やみくもに、ただ〈 螢の乱舞 〉を書きたかった。そし

    て、当時の私は、その螢の乱舞もまたディテールであることに気づいていな

    かったのである。」


   「 私は〈 螢の乱舞 〉を、小説の目的と錯覚し、その一点に向けて多くの

    道具立てを施していった。そうやって悪戦苦闘し、第一稿を破り捨て、第

    二稿を書き、それも投げ捨て、ついにあきらめ、また思い直して再び原稿

    用紙にむかった。私の書きたかった本当の〈 螢の乱舞 〉が、じつは足場

    に囲まれた空間にあることに気づいたのは、七、八回、書き直したころだ

    った。目的と手段との混同を、実作業の中で自ら気づいたことによって、

    私は、表現というもの、言葉というもの、風景というもの、創造に関する

    ありとあらゆる道具というものの意味を知った。


     当時の私は、重い病気にかかっていた。そのために会社勤めを辞めなけ

    ればならなかったが、妻のお腹(なか)の中には子供がいた。そんな私の

    中には、刻々と変化する無数の心があり、その心は、どれもこれも真実

    だった。だから私は、無数の螢の、美しい乱舞に酔いしれたかったので

    ある。

                             ( 1988.2 ) 」


     ( 宮本輝著「血の騒ぎを聴け」新潮社刊 所収 )


                  

                  

                  

                  



               




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Long Good-bye 2019・11・19

2019-11-19 05:09:00 | Weblog






  今日の「お気に入り」。


   「 ユリウス・カエサル(英語読みだとジュリアス・シーザー)は、次のように

    言っている。

    『すべての人は平等に、自らの言行の自由を謳歌(おうか)できるわけではない。

    社会の下層に生きる人ならば、怒りに駆られて感情に走ったとしても許され

    るだろう。だが社会の上層に生きる人ならば、自らの行動に弁解は許されな

    い。ゆえに、上に行けば行くほど、言行の自由は制限されることになる
。』


    『理性に重きを置けば、頭脳が主人になる。だが、感情が支配するようにな

    れば、決定を下すのは感性で、理性のたち入るすきはなくなる
』 」


     ( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )




                   


    フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には、「ノブレス・オブリージュ」について、

    次のような解説が載っています。

    「 ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige フランス語: [nɔblɛs ɔbliʒ])とは、

     直訳すると『高貴さは(義務を)強制する』を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位

     の保持には義務が伴うことを指す。

      フランス語の oblige は、動詞 obliger の三人称単数現在形で、目的語を伴わない絶対

     用法である。名詞ではない。英語では、フランス語の綴りをそのまま英語風に読んだり、英

     訳・名詞化して noble obligation とも言う。簡単に言うと『貴族の義務』である。


      起源

      この言葉自体は1808年フランソワ=ガストン・ド・レビの記述『 noblesse oblige 』を

     発端とし、1836年オノレ・ド・バルザック『谷間の百合』にてそれを引用することで広

     く知れ渡ることになる。

      英語では、ファニー・ケンブルが、1837年の手紙に『 ・・・確かに、”貴族が義務を

     負う(noblesse oblige)” のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わね

     ばならない。』と書いたのが最初である。

      倫理的な議論では、特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれる

     べきだという『モラル・エコノミー(英語版)』を要約する際に、しばしば用いられる。

      最近では、主に富裕層、有名人、権力者、高学歴者が『社会の模範となるように振る舞

     うべきだ』という社会的責任に関して用いられる。

      『ノブレス・オブリージュ』の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されな

     い不文律の社会心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを

     外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見

     なされる。

      法的な義務ではないため、これを為さなかった事による法律上の処罰はないが、社会

     的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われることもある。

     実例

      古代ローマにおいては、貴族が道路や建物などのインフラストラクチャー整備などの

     建築費を支払うことがあった。その代わり、建設した道路や建物に自分の名前をつける

     こともあり、例えばアッピア街道は、アッピウス・クラウディウス・カエクスによって

     建設された。

      貴族が21世紀の現在も存在するイギリスでは、上流階級にはノブレス・オブリージュ

     の考えが求められている。第一次世界大戦では貴族や王族の子弟にも戦死者が多く、第

     二次世界大戦ではエリザベス2世がイギリス軍に従軍し、フォークランド紛争にもアン

     ドルー王子などがイギリス軍に従軍している。現在でも、例えば高校卒業後のギャップ

     ・イヤー
に、ウィリアム王子がチリで、ヘンリー王子がレソトの孤児院でボランティア

     活動に従事している。またウィリアムはホームレス支援事業のパトロンでもあり、自ら

     路上生活体験をした。

      アメリカ合衆国では、セレブリティや名士が、ボランティア活動や寄付をする事は一

     般的なことである。
これは企業の社会的責任遂行(所謂CSR)にも通じる考え方でも

     ある。
第二次世界大戦においてはアイビー・リーグを始めとする、アメリカの大学生は

     徴兵制度が免除されていたが、志願して出征したものも多くいた。しかし2003年の

     イラク戦争において、政治家が対テロ戦争を煽(あお)り立てながら、イラク戦争でイラ

     クでの戦闘に参加するため志願し、アメリカ軍に従軍した親族がいるアメリカ合衆国議

     会政治家の数は、極(ごく)少数であったことが物議を醸(かも)した。






                   


                   


                   


                   
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Long Good-bye 2019・11・16

2019-11-16 05:30:00 | Weblog






  今日の「お気に入り」は、宮本輝さんの「ハンガリー紀行」から。


   「 オーストリアとハンガリーの国境に張りめぐらされていた鉄条網が取り払われ、

    東ドイツの人々がハンガリーを経由して、西ドイツへと流入し、ソヴィエトは解

    体し、ベルリンの壁がこわされ、思いもかけなかった改革の波が東ヨーロッパ全

    土を覆っていたとき、私はイタリアからハンガリーへ行き、そこで、あるテレビ

    の生中継を見た。

     アメリカの現職の大統領として、戦後初めてハンガリーを訪問したブッシュ前大

    統領が、ブダペストの国会議事堂前の広場で演説をする場面であった。

     おりから、雨が降っていて、議事堂前の広場に集まった人々の群れは、そっくり

    そのまま、色とりどりの数千もの傘の群れでもあった。

     ブッシュ大統領は、自分の演説の番がくると、背広の内ポケットから演説のため

    の原稿を出し、それをまったく読まないまま、人々の前で破り捨てるというパフ

    ォーマンスをやってみせた。

     私は、生中継のその瞬間を、バラトン湖畔にあるセルダヘーイ・ボラージュの家

    で見ていた。ボラージュは、私の家で三年間生活したセルダヘーイ・イシュトヴ

    ァーンの兄で、バラトン湖畔には、セルダヘーイ家の墓があり、私は、ハンガリ

    ーから共産主義がついえさるのをついに目にすることなく逝ったイシュトヴァー

    ンの父君の墓参のために、ハンガリーへ行ったのだった。

     誰も想像もしなかった事態が、いまたしかに猛烈な勢いで進行している・・・。

    それなのに、ハンガリーは雨で、人々の大半は、どこか淡々とした視線で、演

    説しているブッシュ大統領を見ている・・・。みんな浮きたっているはずなのに、

    冷めている・・・。 私は、テレビを観(み)ながら、そんな感想を抱いたのだっ

    た。」


   「 ブダペストは活気に満ちていた。たった一、二年のあいだに、メルセデス・ベ

    ンツやBMWやアウディや日本車が走るようになった。香港(ホンコン)の華僑

    (かきょう)と合意して、数年後にはブダペストのどこかに巨大なチャイナタウ

    ンが作られるという噂(うわさ)も耳にした。中国への返還を目前にして、香港

    の華僑たちは、ハンガリーをマーケットとして選んだという説もある。

     たしかに、ハンガリーは、夢にまで見た自由と自由経済市場を得たのである。

    しかし、そこには、当然のこととして、新しい時代への生みの苦しみも、いか

    んともしがたく、あちこちに発生してきた。

     簡単に言えば、社会体制は変わったのに、人々の考え方もやり方も、それに

    適応できない。共産主義の時代には通用していた『私には口はひとつしかなく、

    腕は二本しかない』という屁理屈(へりくつ)は、身に沁(し)み込んだ習性のよ

    うに捨てられない。

     新しい時代に迅速に適応する目端のきく人たちは、あっというまにのしあが

    っていき、大金をつかみベンツやアウディを乗り廻して、さらなる飛躍へと進

    もうとするが、時代の流れに乗りそこねた不器用な人たちは、旧体制のころよ

    りも生きにくくなり、『やっぱり、共産主義のほうがよかった』と叫び始めて

    いる。

     そして、目端のきく野心家たちも、いざとなると、『私には口はひとつしか

    なく、腕は二本しかない』のである。

     これはなにもハンガリーだけにかぎらない。旧西ドイツに流入した夥(おびた

    だ)しい数の旧東ドイツ人たちも、どんなに自由を愛しながらも、子供のときか

    ら否応(いやおう)なく与えられてきた共産主義思想による教育や価値観からは

    自由になれない。ハードは変わったが、ソフトは変わっていないということに

    なるのである。

     うかれて、いっぱしの事業家になったつもりで、ほんの数年前には触れるこ

    ともできなかった高級外車に乗っているのに、自分のミステークに対しては

    〈共産主義者〉で、非はいつも自分にはないとひらきなおる。」


                         ( 1993.7-10 )


     ( 宮本輝著「血の騒ぎを聴け」新潮社刊 所収 )



                 

     文中の「ブッシュ大統領」は、第41代米国大統領を務めたジョージ・H・W・ブッシュ

    (George Herbert Walker Bush, 1924年6月12日 - 2018年11月30日)、そう軍歴、政治

    経歴、ともに申し分なきパパブッシュの方です。

    
     フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には「バラトン湖」のことが次のように

    記述されています。

   「 地理

    バラトン湖はハンガリー高地の中央部に位置し、後期更新世の地殻陥没で形成された。

    東西に長く広がり、長さは約78km、幅は5-12km、面積は約595km2、最大水深は約11m。

    平均水温は20℃、夏の水温は26-27℃に達し、冬季は水面が凍結する。

    北岸の水深は比較的深く、南岸は遠浅になっている。水位の変動が大きく、春の雪解けの時に

    水位は最大となり、秋に水位は最低になる。平均水深は浅く、流域における土地利用の変化が

    顕著であるため、西部を中心に富栄養化が進んでいる。水面の色は淡いコバルトブルーで、

    水質は弱アルカリ性でマグネシウム、カルシウムなどの成分を含んでいる。

    50以上の河川がバラトン湖に流入し、湖水はシオ川からドナウ川に流れ出る。

    湖に流入する河川のうち、ザラ川からの流入量が最も多い。

    バコニュ山地に面する北西岸には森林に覆われた崖が形成され、崖の一部はティハニ半島として

    湖に突き出ている。半島の先端と南の対岸の距離は約1.5km離れており、毎年7月末にはバラ

    トン湖横断アマチュア水泳大会の会場となっている。バコニュ山地は地下資源に恵まれているが、

    山地東端のボーキサイト鉱床の開発に伴って行われているアルミニウム精錬の排水が地下水を汚

    染している。
一方南岸は平坦な土地となっており、肥沃な土壌が広がっている。

    歴史

    第二次世界大戦中、この近辺地区でドイツ軍と赤軍の戦い、春の目覚め作戦が行われ、別名、

    バラトン湖の戦いとも呼ばれる。

    社会主義時代のハンガリーでは、バラトン湖はユーゴスラビア領のアドリア海沿岸部と同じく、

    東欧の社会主義国の中では例外的に多くの西ヨーロッパの観光客を受け入れていた。

    1989年8月の汎ヨーロッパ・ピクニックの直前、ハンガリー・オーストリアの国境に敷か

    れていた鉄条網の撤去を知った東ドイツ(ドイツ民主共和国)の人間は休暇を装ってバラトン

    湖に滞在し、亡命の機会を待った。

    産業

    バラトン湖は国際的な保養地として知られ、沿岸都市は湖水浴を楽しむ観光地として賑わって

    いる。バラトン湖沿岸の都市で最大の規模を持つ南部の都市シオーフォクは、夏季には人口が

    5倍に増加するといわれている。湖畔にはホテル、ヨットハーバー、遊泳所などのバカンスの

    ための施設が建てられている。北側のバラトンフュレドは温泉保養地として知られ、かつては

    貴族、政治家、芸術家が集まる高級保養地となっていた。社会主義政権の成立に伴ってバラト

    ンフュレドに建てられた貴族の邸宅の多くが取り壊され、ホルヴァース・ハウスと呼ばれる

    18世紀末に建てられたサナトリウムだけが残された。 また、バラトン湖にはヘーヴィーズ

    温泉がある。

    バラトン湖では漁業が盛んであり、パイクパーチ(フォガーシュ、Fogassüllő)などが水揚げ

    される。バラトン湖の北側に位置する村落では温暖な気候と長い日照時間を生かしたワインの

    生産が行われており、バラトンワインはハンガリーワインの名品の1つに数えられている。」






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Long Good-bye 2019・11・14

2019-11-14 05:25:00 | Weblog







  今日の「お気に入り」。


   「 私は神戸の灘(なだ)区に生まれた。阪神淡路大震災で火の海になったところから少し

    山側へ行ったところである。

     だから、神戸の海が見えて、六甲山系をあおぐ阪神地区一帯の風景は、私という人間

    の思い出の出発点となっている。

     母は、生前、この阪神間のたたずまいが好きで、大阪市で暮らすようになっても、折

    にふれて、夙川(しゅくがわ)や岡本や芦屋や御影(みかげ)の坂道へ行きたがった。経

    済的に恵まれていたころの思い出は、つねに六甲山系と神戸の海が同時に眺望できる

    坂道につながっていたのであろう。

     夙川沿いの桜並木も、母が愛した風景のひとつだった。大地震で見るも無残な地と化し

    たが、ようやく元の姿に戻りつつある。

     倒れかけた松の大木が、倒れかけたまま新たに根を張って、夙川を覆(おお)うように

    枝を拡(ひろ)げていた。

    『 播半(はりはん) 』は、この夙川をずっと山のほうにのぼって行ったところに、昔日

    (せきじつ)の面影を壊すことなく存在している。

    小学生のとき、私は父と母につれられて『 播半 』へ行った。おそらく、父の取引先の

    ご招待だったのだろう。

    その日は寒く、『 播半 』のお庭に架けられた木の橋に霜が張っていて、私は橋の上で

     尻もちをついた。

     それから 三十数年を経て、私は『 播半 』に招かれる機会を得た。大きな橋という意

    味で『 翁橋(おきなばし) 』と名づけられたその橋を玄関のところから目にした瞬間、

    尻もちをついたときのことが甦(よみがえ)り、しばらく立ちつくしていた。

    『 播半 』の建物は、あの大地震でもびくともしなかったという。

                                ( 1997.6 )    」


           ( 宮本輝著「血の騒ぎを聴け」新潮社刊 所収 )




                

    「 播半 」について、フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には次のような解説

    が載っています。

    「 播半(はり半)は、かつて心斎橋や兵庫県西宮市に存在した創業1879年(明治12年)

     の老舗料亭。」

     「 初代播磨屋半兵衛が明治12年に心斎橋で創業した料亭兵庫県西宮市の甲陽園へも出店し、

     戦前は大阪市内三店と甲陽園の四店で営業されていた


      谷崎潤一郎『細雪』にも登場する料亭

     大阪市内にあった三店は太平洋戦争時に焼失

      甲陽園にかつて存在した播半(はり半)は阪神間モダニズム時代の1927年(昭和2年)

     に建設されたが、2005年(平成17年)閉店
。跡地は日本エスリードによる分譲マンシ

     ョン『エスリード西宮甲陽園』となっている。」


     阪神淡路大震災にびくともしなかった「『 播半 』の建物 」も、閉店時の2005年には築78年の

    老朽建築物になっていた筈で、時代の波に抗すべくもなく呑み込まれたんでしょうね。震災後、親類の

    法事で訪れたこともある「 播半 」が今から14年も前にすでに無くなっていたことをはじめて知りま

    した。

     ウィキペディアの解説を読んで、1931年(昭和6年)生まれの兄が入院した病院のベッドの枕許に

    「細雪」の文庫本を置いていたことなども思い出しました。


    


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Long Good-bye 2019・11・11

2019-11-11 04:44:00 | Weblog





  今日の「お気に入り」。


   「 アイデンティティという、日本人の大好きな言葉がある。日本語に訳すとありがたみが

    薄れるかもしれないが、本質とか本性とかを意味する言葉と思う。私はこれを、二つに

    分けて考えることにしている。閉じられたアイデンティティ、と開かれたアイデンティ

    ティ、の二つだ。この分類法を個人にあてはめてみると、閉じられたアイデンティティ

    のほうはその人がもともともっている性質
であり、開かれたアイデンティティは、その

    人が出会う環境によって、その人自身が変ることによって形成される性質
、というわけ

    だ。もちろん、いかに環境によって変るとはいえ、もともとの本性とは完全に別の性質

    になれるわけはない。家猫は竹林に放り出されてもやはり猫で、虎に変りはしない。

    しかし、暖かい家の中から竹林に環境が変れば、野生猫ぐらいには変るだろう。変らな

    ければ、死ぬしかないからである


     これを、ルネサンス時代のイタリアの政治思想家マキアヴェッリは、時代に合わせる才

    能
、とした。いかに能力に優れ、いかに好運に恵まれた人でも、その人が生きる時代に

    合致しなければ成功の存続は望めないのだ、と言って。

     要するに、いかに能力に秀で好運に恵まれた人でも、時代の要求に答えることのでき

    ない人は、早晩衰退するしかないのである。なぜなら、これまたマキアヴェッリによ

    れば、時代というものは変るものであり、昨日まで良かったことが明日も良いとはか

    ぎらない
からである
。 」


     ( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )



                   
                 



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Long Good-bye 2019・11・09

2019-11-09 05:59:00 | Weblog








  今日の「お気に入り」。


   「 私の考えでは、国家ないし民族は、大別すれば二種に分類できるのではないかと

    思う。

     第一種は、あらゆる手はつくしたにかかわらず、衰退を免れることはできなか

    った国家。俗に言えば、天寿をまっとうしたと言える国家(レス・プブリカ)で

    ある。古代のローマ、中世のヴェネツィアは、私の考えではこの種に属す。

     第二種は、持てる力を活用しきれなかったがゆえに衰退してしまった国家だ

    から、天寿をまっとうしたとは言えない夭折組(ようせつぐみ)に属す。その

    典型は、古代ギリシアのアテネと中世のフィレンツェだろう。 」


   「 史書の傑作が生れる条件の一つは、書き手の心中がいきどおりや強烈な怒り

    で破裂しそうになっていることにある。」


   「 フィレンツェ市民のマキアヴェッリには、『質』では優れているフィレンツェ

    共和国もふくむルネサンス・イタリアが、なぜフランスをはじめとする『量』

    に敗れるのかという、他に転嫁しようもないいきどおりがあったのである。

     反対に、ローマ最高の史家とされているタキトゥスには、ペシミズムはあっ

    ても怒りはなく、ヴェネツィア共和国には、冷静な記録者は生れても、マキ

    アヴェッリに匹敵する歴史家は生れなかった。

     いきどおりや怒りは、もともとからして力量のない者には向けられないので

    ある。力はあるのにその活用を知らなかった者に対してならば、ぶつけるに

    値する感情ではあるけれど。


   
     ( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )




                 
  






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Long Good-bye 2019・11・04

2019-11-04 04:50:00 | Weblog







  今日の「お気に入り」は、昨日の続き。


   「 私は、マンガとなるとアニメにでもしてくれなければとうてい受けつけない、

    旧世代に属する。これだけでも、石ノ森氏とは寄って立つところがちがう。そ

    して、一冊か、せいぜいが二冊のレオナルド関係の書物を読んだにすぎないと

    思われる石ノ森氏とちがい、ほとんどすべてのレオナルド評伝は読んでいる。

     それなのに、到達した想いならばまったく同じなのだ。ちがうのは、ダ・ビ

    ンチでなく、せめてダ・ヴィンチとぐらいは書いてほしいですね、という程

    度なのだ。

     それはおそらく、数多(あまた)の評伝が下司の勘ぐりにすぎなく、なのに

    彼は万能の天才だった、という点への私の疑問に、答えてくれなかったから

    だろう。

     英雄が英雄たる由縁を解き明かすのに、なにも英雄になる必要はないので

    ある。ただ、召使の立場から見るだけでは、『なのに』が解き明かせない。

     タダの人でありながらタダの人ではなかった人物を描きたいと思えば、イ

    タリア語でいえばスカットする、英語だとスペークする、瞬間を描かなく

    てはどうにもならなくなる。

     哲学用語だと、止揚と呼ぶのではないだろうか。辞書を引いたら、二つ

    の矛盾した概念を一層高い段階で調和すること、アウフヘエベン、とあ

    った。

     映画『アマデウス』がすばらしかったのは、タダの人、いやもしかした

    らタダ以下の人モーツアルトを描きながら、タダの人では終わらなかっ

    た彼を描くのにも成功したからだと思う。私自身は凡才だが、そういう

    ことを感ずる心根ぐらいは、持っていたいと願っている。

    『どうせおなじ人生なら、豊饒であるにこしたことはない』のであるから。」


     ( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )




                   


   ついでながら、塩野七生さんの生年は1937年(昭和12年)だそうです。一方、

    「サイボーグ009」や「仮面ライダー」でお馴染みの石ノ森章太郎さんの生年は

    1938年(昭和13年)で、没年が1998年(平成10年)だそうです。

    お二人は、同世代なんですね。

    「止揚」とかドイツ語の「アウフヘエベン」とか、昔懐かしい哲学用語を久しぶりに目にしました。
 




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