今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「中島敦は昭和十七年『山月記』『李陵』その他がようやく認められると同時に死んだ薄命の作者である。明治四十二年生れ昭和十七年数え三十三歳で没したというから現代人である。祖父は漢学者中島撫山父も旧制中学の漢文の教師だったという。漢学一家に生れたものは何十人何百人もいるが、昭和になって漢詩文の文脈を伝えた人は中島敦一人である。
趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)の都の紀昌(きしょう)という男が天下第一の弓の名人になろうと志を立て、名人飛衛(ひえい)の弟子になった。名人は弟子にまばたきしないでいることを命じた。弟子がそれに成功したことを告げると飛衛は言った。――瞬(まばた)かざるのみでは未だ射(しゃ)を授けるに足りぬ、次には、視ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如く、微(び)を視ること著(ちょ)の如くなったならば、来(きた)って我に告げるがよいと。
右は『名人伝』の一節である。さらに『悟浄出世』をあげる。いうまでもなく『西遊記』のなかの沙悟浄のことである。
○一万三千の怪物の中には哲学者も少くはなかった。ただ、彼等の語彙は甚だ貧弱だったので、最もむずかしい問題が、最も無邪気な言葉を以て考えられておった。彼等は流沙河の河底にそれぞれ考える店を張り、ために、此の河底には一脈の哲学的憂愁が漂うている程である。
前者は口語文であるが漢文そのものの趣きを伝え、後者はそれに近代味が加味されて明治の人が書かなかった新しさがある。中島敦の著作は二十編一巻を出ない。死後すでに四十余年になるのになお読むものが絶えないのは、絶えて久しい漢文脈に接して少年の読者のなかなる血が騒ぐからである。
中島が用いる字句は昨今の高校生には見なれないものばかりである。それにもかかわらず理解は電光のように成るのである。ただ中島の衣鉢をつぐ作者はもう出ないだろう。そもそも中島があらわれたのが奇蹟だったのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「中島敦は昭和十七年『山月記』『李陵』その他がようやく認められると同時に死んだ薄命の作者である。明治四十二年生れ昭和十七年数え三十三歳で没したというから現代人である。祖父は漢学者中島撫山父も旧制中学の漢文の教師だったという。漢学一家に生れたものは何十人何百人もいるが、昭和になって漢詩文の文脈を伝えた人は中島敦一人である。
趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)の都の紀昌(きしょう)という男が天下第一の弓の名人になろうと志を立て、名人飛衛(ひえい)の弟子になった。名人は弟子にまばたきしないでいることを命じた。弟子がそれに成功したことを告げると飛衛は言った。――瞬(まばた)かざるのみでは未だ射(しゃ)を授けるに足りぬ、次には、視ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如く、微(び)を視ること著(ちょ)の如くなったならば、来(きた)って我に告げるがよいと。
右は『名人伝』の一節である。さらに『悟浄出世』をあげる。いうまでもなく『西遊記』のなかの沙悟浄のことである。
○一万三千の怪物の中には哲学者も少くはなかった。ただ、彼等の語彙は甚だ貧弱だったので、最もむずかしい問題が、最も無邪気な言葉を以て考えられておった。彼等は流沙河の河底にそれぞれ考える店を張り、ために、此の河底には一脈の哲学的憂愁が漂うている程である。
前者は口語文であるが漢文そのものの趣きを伝え、後者はそれに近代味が加味されて明治の人が書かなかった新しさがある。中島敦の著作は二十編一巻を出ない。死後すでに四十余年になるのになお読むものが絶えないのは、絶えて久しい漢文脈に接して少年の読者のなかなる血が騒ぐからである。
中島が用いる字句は昨今の高校生には見なれないものばかりである。それにもかかわらず理解は電光のように成るのである。ただ中島の衣鉢をつぐ作者はもう出ないだろう。そもそも中島があらわれたのが奇蹟だったのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)