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「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

コロリ往生 Long Good-bye 2021・09・30

2021-09-30 04:40:00 | Weblog


   今日の「 お気に入り 」は 、種田山頭火 ( 1882 - 1940 ) さん の「 私を語る ― (消息に代へて) ― 」ほか 。


   「 私もいつのまにやら五十歳になつた 。五十歳は孔子の所謂 、知命の年齢である 。私にはまだ天の

    命は解らないけれど 、人の性は多少解つたやうな気がする 。少くとも自分の性だけは 。――

    私は労れた 。歩くことにも労れたが 、それよりも行乞の矛盾を繰り返すことに労れた 。袈裟のか

    げに隠れる 、嘘の経文を読む 、貰ひの技巧を弄する 、―― 応供の資格なくして供養を受ける苦脳(マヽ)

    には堪へきれなくなつたのである 。

     或る時は死ねない人生 、そして或る時は死なない人生 。生死去来真実人であることに間違はない 。

    しかしその生死去来は仏の御命でなければならない 。

     征服の世界であり 、闘争の時代である 。人間が自然を征服しようとする 。人と人とが血みどろに

    なって掴み合うてゐる 。

     敵か味方か 、勝つか敗けるか 、殺すか殺されるか 、 ―― 白雲は峯頭に起るも 、或は庵中閑打坐

    は許されないであらう 。しかも私は 、無能無力の私は 、時代錯誤的性情の持主である私は 、巷に

    立つてラツパを吹くほどの意力も持つてゐない 。私は私に籠る 。時代錯誤的生活に沈潜する 。

    『 空 』の世界 、『 遊化 』の寂光土に精進するより外ないのである 。

     本来の愚に帰れ 、そしてその愚を守れ 。

     私は 、我がままな二つの念願を抱いてゐる 。生きてゐる間は出来るだけ感情を偽らずに生きたい 。

    これが第一の念願である 。言ひかえれば 、好きなものを好きといひ 、嫌ひなものを嫌ひといひたい 。

    やりたい事をやつて 、したくない事をしないやうになりたいのである 。そして第二の念願は 、死ぬ

    る時は端的に死にたい 。俗にいふ『 コロリ往生 』を遂げることである 。

     私は私自身が幸福であるか不幸であるかを知らないけれど 、私の我がままな二つの念願がだんだん

    実現に近づきつつあることを感ぜずにはゐられない 。放ては手に満つ 、私は私の手をほどかう 。

     ここに幸福な不幸人の一句がある 。 ――

       このみちや

       いくたりゆきし

       われはけふゆく   
                           」


           「 春寒のをなごやのをなごが一銭持つて出てくれた


    ( 出典: 種田山頭火著 村上護 編 小崎侃・画 「 山頭火句集 」ちくま文庫 ㈱筑摩書房 刊 )










  9月30日は 、ワイドFM93の日 だそうな 、だからって 、何 。
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紅旗征戎非吾事 Long Good-bye 2021・09・29

2021-09-29 05:06:07 | Weblog

  今日の「 お気に入り 」は 、種田山頭火 ( 1882 - 1940 ) さん の 小文 「 歩々到着」 。


   「 禅門に 『 歩々到着 』といふ言葉がある 。それは一歩一歩がそのまゝ到着であり 、一歩は一歩の脱落

    であることを意味する 。一寸坐れば一寸の仏といふ語句とも相通ずるものがあるやうである 。

     私は歩いた 、歩きつづけた 、歩きたかつたから 、いや歩かなければならなかつたから 、いやいや

    歩かずにはゐられなかつたから 、歩いたのである 、歩きつづけてゐるのである 。きのふも歩いた 、

    けふも歩いた 、あすも歩かなければならない 、あさつてもまた 。――


       木の芽草の芽歩きつづける

       はてもない旅のつくつくぼうし

       けふはけふの道のたんぽぽさいた

             ◇

     どうしようもないワタシが歩いてをる                     」

    
    ( 出典: 種田山頭火著 村上護 編 小崎侃・画 「 山頭火句集 」ちくま文庫 ㈱筑摩書房 刊 )








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あさぼら~け Long Good-bye 2021・09・28

2021-09-28 04:30:00 | Weblog







  今日の「 お気に入り 」は 、島崎藤村著 「 夜明け前 」から 、冒頭のくだり 。


 「 木曾路 (きそじ) はすべて山の中である 。あるところは岨 (そば) づたいに行く崖 (がけ) の道であり 、

   あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり 、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口であ

   る 。一筋の街道 (かいどう) はこの深い森林地帯を貫いていた 。

    東ざかいの桜沢から 、西の十曲峠 (じっきょくとうげ) まで 、木曾十一宿 (しゅく) はこの街道に添うて 、

   二十二里余にわたる長い谿谷 (けいこく) の間に散在していた 。道路の位置も幾たびか改まったもので 、

   古道はいつのまにか深い山間 (やまあい) に埋 (うず) もれた 。名高い桟 (かけはし) も 、蔦 (つた) のかずら

   を頼みにしたような危 (あぶな) い場処ではなくなって 、徳川時代の末にはすでにわたることのできる

   橋であった 。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降 (くだ) って来た 。道の狭い

   ところには 、木を伐 (き) って並べ 、藤 (ふじ) づるでからめ 、それで街道の狭いのを補った 。長い間に

   この木曾路に起こって来た変化は 、いくらかずつでも嶮岨 (けんそ) な山坂の多いところを歩きよくし

   た 。そのかわり 、大雨ごとにやって来る河水の氾濫 (はんらん) が旅行を困難にする 。そのたびに旅

   人は最寄 (もよ) り最寄りの宿場に逗留 (とうりゅう) して 、道路の開通を待つこともめずらしくない 。

    この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも 、その制度組織の用心深さをも語っていた 。

   鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に 、これほどよい要害の地勢もない

   からである 。この谿谷 (けいこく) の最も深いところには木曾福島 (きそふくしま) の関所も隠れていた 。

    東山道 (とうさんどう) とも言い 、木曾街道六十九次 (つぎ) とも言った駅路の一部がここだ 。この道は

   東は板橋 (いたばし) を経て江戸に続き 、西は大津 (おおつ) を経て京都にまで続いて行っている 。東海道

   方面を回らないほどの旅人は 、否 (いや) でも応 (おう) でもこの道を踏まねばならぬ 。一里ごとに塚 (つか)

   を築き、榎 (えのき) を植えて 、里程を知るたよりとした昔は 、旅人はいずれも道中記をふところにして 、

   宿場から宿場へとかかりながら 、この街道筋を往来した 。

    馬籠 (まごめ) は木曾十一宿の一つで 、この長い谿谷の尽きたところにある 。西よりする木曾路の最初

   の入り口にあたる 。そこは美濃境 (みのざかい) にも近い 。美濃方面から十曲峠に添うて 、曲がりくね

   った山坂をよじ登って来るものは 、高い峠の上の位置にこの宿 (しゅく) を見つける 。街道の両側には

   一段ずつ石 (いしがき) を築いてその上に民家を建てたようなところで 、風雪をしのぐための石を載

   せた板屋根がその左右に並んでいる 。宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に 、本陣(ほんじ

   ん) 、問屋(といや) 、年寄(としより) 、伝馬役(てんまやく) 、定歩行役(じょうほこうやく) 、水役(みず

   やく) 、七里役(しちりやく) ( 飛脚 )などより成る百軒ばかりの家々が主 (おも) な部分で 、まだそのほ

   かに宿内の控えとなっている小名 (こな) の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える 。

   荒 町 、みつや 、横手 、中のかや 、岩田 、峠 などのがそれだ 。そこの宿はずれでは狸の膏薬を売る 。

   名物栗こわめしの看板を軒に掛けて 、往来の客を待つ御休処もある 。山の中とは言いながら 、広い空は

   恵那山のふもとの方にひらけて 、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある 。なんとなく西の

   空気も通って来るようなところだ。」


   物語の背景となる中山道 木曽路や 、木曽十一宿の一つ 「 馬籠宿 」の説明の「 引用 」はここまで 。

   過不足のない叙述で、すっきりとまとまってます、 文豪の 「 観光案内 」、さすが 。

   この後 、主人公 青山半蔵 の 生涯 の 物語 が始まります 。先は長いです 。

    ( ^ω^)・・・  読了できそうにありません 。




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攘夷を言いつつ鎖国してる Long Good-bye 2021・09・27

2021-09-27 05:06:07 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」は 、古代中国の言葉、四つ 。いずれも蔑称 。

   「 東夷 、西戎 、北狄 、南蛮

   ( とうい 、せいじゅう 、ほくてき 、なんばん 、と読む、とその昔 教わりました 。)

  
   この四つの言葉を 、相手の身になって 、今の世に当てはめてみれば、こんなところ でしょう か 、・・・ ?

   東夷  朝鮮 ・ 韓国 ・ 日本 ・ 台湾 ・ 亜米利加 / 美国 ・・・
   
   西戎  ウイグル 、チベット 、 西域諸地域 / 諸国 ・ 印度 ・ 波斯 / 伊蘭 ・ 土耳古 ・・・

   南蛮  越南 ・ 比国 ・ 泰国 / タイ王国 ・ 緬甸 / ミャンマー ・ 豪州 ・・・ 遠く は 以色列 、欧州 ・・・ 

   北狄  蒙古 ・ 露西亜 ・・・ 北極の向こうには 加奈陀 ・・・

   周りにあるからと言って 、昔と違って 、朝貢国 ばかりじゃありません 。敵 の 敵 は 味方 。

  「 史記 」の 「 呂不韋伝 」には 、こんな言葉があるそうな 。

    「 奇貨居(お)くべし 」。

   言葉の意味は 、「 得難い機会だから逃さず利用すべきだ 」。

    自ら蒔いた種 、コロナ を 奇貨 として 、攘夷 を言いつつ 、民の耳目 を 封じ 鎖国 する 習さん中国 と 「 呉越同舟 」 今も

   仲良し 金さん朝鮮 。

    " くさ " は 世界中に 散開中 。お月さま の 裏側 にも 基地 がある 。

  中国は 、独自開発(?)した SLBM を持ってるし 、朝鮮は 、朝鮮で 、" くさ " に 貢がせたおカネで 、

  弾道ミサイル買いたい放題 、SLBM まで 手に入れそうだし 、装備 し終えれば 、向かうところ

   敵なし 、と考えそうで 怖い 。

  上納制度の 「 蜘蛛の巣 」が堅固に張り巡らされてるんだろうなあ 、想像に難くない 。

  パチンコにハマる人が増えれば増えるほど 、ミサイルがたくさん買えるのは、

  日本社会にビルトインされた70年の歴史ある仕組み 。

  平均して一店の年商30億円のパチンコ屋さんの経営者には 、代々朝鮮半島の国々に所縁の

  ある人が多いのです。お札刷ったり、クスリ造ったり 、ミサイル打ったり 、・・・ 大忙し 。

  風の便りで知ってはいるが 、止んだと聞いた例 ( ためし ) なし 。

  ひっそり 、こっそり 、何十年も続ければ 、塵も積もれば山となる

  三方四方八方ご承知の「 お約束 」の世界 。


  かと言って 、人口ん十億の国に 、周りの人口少数国 がバラバラに

  対応していては 敵う筈もありません 。

   なかなか厳しい国際情勢 。

   「 打ちてし止まん 」の行き着く先がどうなるかは 、日本人なら「 戦争を知らない 」 団塊世代 も

  その 「 子供たち 」も 、身に沁みて感じて 、育ってきた 筈なんですが ・・・ 。


   因みに 、SLBM を持ってる国は、ご存じ 米国 、ロシア 、英国 、フランス 、中国 の5大国の他 、

  インド と 北朝鮮 と 韓国 だそうです 。保守 ・ 運用におカネが掛かるんで 、実戦上 、意味のある軍事力と

  言える国は 、限られるのかも 。

  SLBMって 、潜水艦発射弾道ミサイル( せんすいかんはっしゃだんどうミサイル ) 、

  英語で 、 submarine-launched ballistic missile , 略して SLBM 。

  物騒な代物だけど 、おカネ出しゃあ買えるんだ 、・・・所詮 、ミサイルだもんね 。

  SMBC じゃありません 、SLBM


  インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」には 、筆者が知っても役に立たない「 ムダ知識 」

  が 満載 。例えば 、SLBM について「 潜水艦発射弾道ミサイル( SLBM )は、射程に限らず潜水艦から

  発射する弾道ミサイルを指す 。現用兵器は全て核弾頭を装備する戦略兵器であり 、爆撃機および大陸間弾道

  ミサイルと並ぶ主要な核兵器運搬手段
である。SLBMを搭載した潜水艦は弾道ミサイル潜水艦と呼ばれる。」

  と解説され 、開発の歴史や運用についてまで詳しく述べられています 。知識欲とお時間のある方は 、どうぞ 。

   こんな記述もありました 。

     「 第二次世界大戦の末期 、ナチス・ドイツは世界初の実用弾道ミサイルである

       A4/V2 ロケット を 防水キャニスター に収めて Uボートで曳航し、北アメリ

      カ大陸沿岸から発射してアメリカ本土を攻撃する計画を持っていた 。防水

      キャニスターは上部がミサイル格納庫 、下部がミサイル燃料タンクとなって

      おり 、必要に応じて Uボート 共に潜航が可能だった 。機器の製造も着手

      されたが 、実現前に終戦となった 。弾道ミサイルが開発されたばかりのこ

      の時期に 、すでに潜水艦の隠密性を利用し 、弾道ミサイルをもって敵地を

      急襲するアイデアが検討されていたことになる 。


   ナチス・ドイツ のトラウマ 、今も 、今後も 、永遠に 。


  ついでながら 、中国の SLBM は 、3タイプあるようです 。

   「 中国はSLBM を独自開発し、SSBN( 夏級原子力潜水艦 、晋級原子力潜水艦 )で運用している

    ( 他にも唐級原子力潜水艦1隻が公試中 )。したがってその能力は未知数である 。

    巨浪一号( Ju-Lan1 、JL-1 CSS-N-3 )

     巨浪一号は単弾頭の固体二段式ミサイルで 、夏級原子力潜水艦に搭載されて運用されている 。

     射程延伸型の JL-1A が開発済みとされている 。射程 2,150 キロ 、単弾頭 。

    巨浪二号

     射程 8,000 キロ 、MIRV3-8 発搭載

    巨浪三号

     新型の唐級原子力潜水艦用に開発中( 一部で発射実験成功の情報あり )。 」


    引用は 、ここまで 。

    SSBN は 、「SLBM搭載原子力潜水艦 」のことらしい 。

    日本にも 、SSBN を米国からレンタルで借りて 、領海外で運用し 、それに 独自開発したSLBM

   を搭載してはどうかという アイデアがあるらしい 。日本にはミサイル開発技術はあるし 、潜水艦技術

   はあるし 、非核三原則にも抵触しないわなあ 、・・・ でも 姑息 、 ムダ 、言ってみただけ ? 。

    同じ 閉鎖空間 でも 、「 国際宇宙ステーション( ISS ) 」の 宇宙飛行士 なら 夢 も 希望 も

   ありそな感じ だけど 、「SLBM搭載原子力潜水艦 」の 乗組員 は 、夢 も 希望 も もてそ に ないなあ 。

    モチベーションは 、使命感 と 高給 と 将来の栄達の可能性 ・・・ くらいか ?

    精神衛生上 、甚だよろしくないように思う 。

    この世は 、不毛な職業で満ち満ちてはいますが 、よくキレませんね( ^ω^)・・・ 。

    五大洋のうち 、南氷洋を除く 、四大洋のどこかを 、今日も五大国の SSBN が 遊弋 ( ゆうよく )

   しているのかと思うと 、空恐ろしい気がいたします 。維持費 、大層かかりそう 、究極のムダ遣い 。

    SSBNは 、人類が地球上で生きていく限り 、永遠に祟りそうな 究極兵器のよう 。

    抜け出すには 、宇宙のコロニーしかないんでしょうか 。機動戦士ガンダムの世界 。宇宙に行っても

   争いは止まりそうにありません 。人類の叡智を結集してこれだもんなあ 。やっぱ ダメ かも 。


    ついでながら 、英国のSSBNの基地 は 、イングランド ではなく 、分離独立しかねない スコット

   ランド にあるそうな 。ちっちゃ 。 どこかのラジオで 小耳に はさんだ ムダ知識 。。


   紅旗征戎非吾事

   軍事パレード 、マスゲーム 、中華思想 、文化大革命 、・・・ 、天動説 / 地動説 、・・・ 、暴れん坊将軍 、
   
                       いつの時代か 、・・・ 、アナクロニズム ( 時代錯誤 )。

    物騒な兵器・戦闘機の陳列・誇示 、閲兵式、分列行進、オリンピック・パラリンピックのマスゲームなどなど 、

   姿かたちは変われども 、似通ったことは先進自由主義国でもやってますから、・・・ 笑えません 。

   似て非なるものだと主張しても 、発想の次元が同じです。

    西の方を眺むれば 、三国みんな 、攘夷を言いつつ鎖国してます 。

    防火長城 で 別世界 。報じられなきゃ 、なかったことに 。

    人流 止めて 、物流 止めず 。

    虚々実々 ないまぜに 秘術を尽くしてわたりあう 。

   この世は 、ホントに ダメ と ムダ 。

   我 不 知 道 。
   








   




      




          




                




                            
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曼殊沙華 Long Good-bye 2021・09・26

2021-09-26 05:06:07 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」 。


   「 歩きつづける彼岸花咲きつづける 」

   「 いつまで生きる曼殊沙華咲きだした 」

   「 月のあかるさはどこを爆撃してゐることか 」

   「 日ざかりの千人針の一針づつ 」

   「 闇路戻れば藪しゞま啼ける何鳥か 」

   「 曼殊沙華のみ眼に燃えて野分夕空し 」

   「 悔いるこころの曼殊沙華燃ゆる 」


   ( 出典: 種田山頭火著 村上護 編 小崎侃・画 「 山頭火句集 」ちくま文庫 ㈱筑摩書房 刊 )



   今日「 くつろぎの日 」の もう一つの「 お気に入り 」は 、どなたかのお言葉 。

    「 しかるべきお方が 、『 ならぬことはならぬものです 』と仰せになる局面 」か とか 。

















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をなごやの灯がまたたき Long Good-bye 2021・09・25

2021-09-25 05:06:07 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」 。


   「 分け入つても分け入つても青い山 」

   「 しとどに濡れてこれは道しるべの石 」

   「 鴉啼いてわたしも一人 」

   「 生死の中の雪ふりしきる 」

   「 この旅 、果もない旅のつくつくぼうし 」

   「 へうへうとして水を味ふ 」

   「 落ちかかる月を観てゐるに一人 」

   「 笠にとんぼをとまらせてあるく 」

   「 まつすぐな道でさみしい 」

   「 だまつて今日の草鞋穿く 」

   「 しぐるるや死なないでゐる 」

   「 しぐるるやしぐるる山へ歩み入る 」

   「 木の芽草の芽あるきつづける 」

   「 わかれきてつくつくぼうし 」

   「 すべつてころんで山がひつそり 」

   「 つかれた脚へとんぼとまつた 」

   「 捨てきれない荷物のおもさまへうしろ 」

   「 旅のかきおき書きかへておく 」

   「 まつたく雲がない笠をぬぎ 」

   「 年とれば故郷こひしいつくつくぼうし 」

   「 こんなにうまい水があふれてゐる 」

   「 しみじみ食べる飯ばかりの飯である 」

   「 うしろすがたのしぐれてゆくか 」

   「 鉄鉢の中へも霰 」

   「 よい湯からよい月へ出た 」

   「 月が昇つて何を待つでもなく 」

   「 かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た 」

   「 水をへだててをなごやの灯がまたたきだした 」


    ( 出典: 種田山頭火著 村上護 編 小崎侃・画 「 山頭火句集 」ちくま文庫 ㈱筑摩書房 刊 )



                                                      
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昔の 意識高い系 Long Good-bye 2021・09・24

2021-09-24 05:06:07 | Weblog



   今日の「 お気に入り 」は 、昨日のつづき で す 。


   学生時代の 網野善彦 ( 1928 - 2004 ) さんが、「 日本共産党 の活動家 」で 「 山村工作隊 の指揮や階級闘争による

  国民的歴史学運動に携わ 」り 、「 民主主義学生同盟副委員長兼組織部長 」となったが 、のち運動から脱落 、後年 、

  高校教師・大学教授・歴史学者 に転身された
、という 「 ウィキペディア 」の掲載記事を読んで思い出したのが 、

  同じ 「 ウィキペディア 」掲載の 、元東京都知事で作家の 猪瀬直樹 ( 1946 - ) さんの 経歴記事

  猪瀬さんについての掲載記事を 、以下に部分引用いたします 。猪瀬さんは 、元「 信州大学全共闘議長 」で「 新左翼学生

  運動の指導者として通称『 白ヘル 』( 中核派 )に属し 」ていたそうです 。


   ついでながら 、学生時代の 網野善彦さん が所属していた某政党傘下の 「 民青 」は 、1960年代の学園紛争の頃、「 青ヘル 」

  でしたっけ 。今どきの若い人はご存じないでしょうが 、猪瀬 さん が所属していた「 中核派 」って 、後に言う 所謂

  「 過激派 ? 」


   昔の 「 意識高い系 」は、政治活動に向かう人が多かったようで 、若気の至り 、でも 真 摯 。・・・・・・ 今 は 昔 。



   「 猪瀬 直樹(いのせ なおき、1946年(昭和21年)11月20日 - )は、日本の作家、元政治家(第18代東京都知事)。

   血液型はAB型 。妻は女優 、画家、映像作家の蜷川有紀 。

   長野県出身 。『 ミカドの肖像 』で 大宅壮一ノンフィクション賞受賞 。道路公団民営化推進委委員 、

   地方分権改革推進委員会委員 、日本文明研究所所長 、大阪市特別顧問 、大阪府特別顧問 。

   東京都知事( 第18代 、1期 )、東京工業大学世界文明センター特任教授 、

   東京大学大学院人文社会系研究科客員教授 、国際日本文化研究センター客員教授を歴任 。

   経歴、人物について

   長野県下水内郡飯山町( 現 、飯山市 )生まれ 。2歳半から長野市に移る 。

   父が飯山出身で母は松本の出身 、両親共に小学校教師 。諏訪市の諏訪市立高島小学校で知り合って結婚し 、

   飯山に異動になってそこで生まれる 。育ったのは長野市 。往生寺のすぐ下に住んでいた 。

   1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した。

   信州大学教育学部附属長野小学校 、信州大学教育学部附属長野中学校 、長野県長野高等学校を経て

   ( ジャーナリストで産経新聞客員編集委員だった花岡信昭とは幼稚園から高校まで同級生 。)信州大学

   人文学部経済学科卒業 。在学中は社会主義運動理論家の清水慎三ゼミに所属し 、新左翼学生運動の

   指導者として通称「白ヘル」(中核派)に属した 。1967年の羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が

   高揚しており 、1969年に信州大学全共闘議長を務めている 。大学構内のバリケード封鎖を行ったり 、

   学生運動の主力部隊を率いて上京し 、反米・反イスラエルの 10.21 国際反戦デー闘争 や 佐藤首相訪米

   阻止闘争 に参加したりした 。猪瀬は 、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって 、

   60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと

   主張している 。


   大学卒業後 、上京し結婚 。出版社勤務などを経て 、1972年 、明治大学大学院政治経済学研究科政治学
 
   専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し 、日本政治思想史を研究 。ナショナリズム研究の

   橋川文三に教えを請うたのは 、学生運動を離れた後 、『 日常性の連続がふつうの生活 』『 そうした

   日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った 』からだという 。

   その後 、アルバイトを経て 、作家活動に転じる 。1987年 、西武グループと堤義明について皇族との

   関係を絡めながら著した『 ミカドの肖像 』により 、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニ

   スム学会特別賞受賞 。1996年 、『 日本国の研究 』により 、文藝春秋読者賞を受賞 。

   2001年 、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる 。2002年 、道路関係

   四公団民営化推進委員会委員に就任 。

   2007年 、地方分権改革推進委員会委員に就任 。2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科

   客員教授 、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授 、2006年から東京工業大学世界

   文明センター特任教授 。

   2012年3月26日 、マラソン初挑戦にして東京マラソンを完走 。走破タイムは6時間40分 。

   2007年から 、石原慎太郎知事の下で東京都副知事を務めていたが 、石原知事の退任に伴い後継指名を

   受け 、2012年(平成24年)12月16日の東京都知事選挙に立候補の届出 。そして選挙で433万8936票を

   獲得し 、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選した 。青島幸男 、石原慎太郎に続き 、

   東京都知事は3人連続で作家出身となった 。また 、初の戦後生まれの都知事となった 。猪瀬は石原

   前知事の五輪招致方針を引き継ぎ 、2020年オリンピックの東京招致を成功させた 。

   その後徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した( #徳洲会

   グループからの資金提供問題 )。なお五輪招致活動中の2013年7月に 、妻・ゆり子が病気のため

   逝去 。享年65歳 。

   都知事の職を辞してから約10ヶ月 、メールマガジンの発行だけを続けた 。2014年10月末に新刊発行を

   もって執筆活動を再開したが 、政治活動は行わないことを表明している 。なお徳洲会資金問題では

   メディアが収賄と報道したが 、司法には選挙資金収支方報告書帳簿記載漏れと判断され 、

   公職選挙法違反として罰金刑が確定し5年間の公民権停止となった 。

   2016年10月には蜷川有紀との交際が明らかとなり 、2018年4月には婚約を発表 、12月下旬に結婚( 再婚 ) 。」 


   記事の引用はここまで 。

   昭和3年生まれの網野さんは2004年に亡くなりましたが 、敗戦直後の昭和21年生まれで 、団塊世代の猪瀬さん は

  まだまだお元気なよう 。


   英国生まれの作家 P. G. ウッドハウス ( Pelham Grenville Wodehouse ) の小説「 それゆけ 、ジーヴス 」の

  主人公 バーティーに、同じく作中人物で、バーティーの執事である ジーヴス が語って聞かせる言葉にこんなの

  があります 。

   「 ・・・尊敬すべき老紳士というものは 、青年時代にきわめてやんちゃでいらしたと喧伝(けんでん)される

    ことを決して嫌われるものではないということをおわかりいただけようと存じます ・・・ 」

    ( 翻訳家 森村たまき さん による邦訳 )

   やんちゃ話しは 、彼らにとって 、勲章みたいなもんでしょうか ? はったり ?

  それとも 自慢 ?

   お若い頃やんちゃだった 、口達者、手達者な 、網野 さん や 猪瀬 さん や どこか

  の 慎太郎さん のような人たちと対峙して 、並みの人たちが 、議論に勝てよう道理がありません 。

   皆さん 、論破王 。

  とても 太刀打ちできるもんじゃありません (;´д`) 。





        
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国の名前 Long Good-bye 2021・09・23

2021-09-23 05:06:07 | Weblog


  今日の「 お気に入り 」。


   「 『 日本 』は地名であるとお考えの方もあるいはいるかも知れませんが 、これは本来地名ではありません 。

    『 日本 』は特定の国の名前として 、ある時点で歴史上にはじめて出現した言葉です 。読み方も十六世紀の頃

    に『 にほん 』と『 にっぽん 』の両方あることがわかっており 、どちらが多く用いられたのかは議論の分かれ

    るところですが 、ここでは『 にほん 』にしておきます 。『 にほんばし 』と『 にっぽんばし 』があるのです

    から 、どちらを使ってもよいと思います 。しかし 、国の名前であるならば 、誰かがいつか何らかの意味を込

    めて定めたことになります 。それでは 、この国の名前が決まったのは 、果していつだったのでしょうか 。」

     ( 中 略 )

   「 ・・・ 、驚くべきことに現代の日本人の多くはその答えを知らずに日本に暮らしています 。大学で歴史を

    教えていた頃 、毎年 、最初の講義の時に学生に対して『 日本という国の名前が決まったのは何世紀か 』と

    いう質問をしてみました 。そうするといつでも 、またどこの大学でも 、答えは紀元前1世紀から始まって

     19世紀まで 、ほぼ満遍なく散らばっていました 。やや多かったのは3世紀と答えた学生で 、これは卑弥

     呼を意識してのことでしょう 。それから15世紀も多く 、これは足利義満が『 日本国王 』と称したのを念

    頭に置いているものと思われます 。ただ正解の7世紀を含めて 、いずれも多数派と言えるほどの数で はなく 、

    要するにこの問題に対して 、日本人の認識はきわめてあやふやであると言えます 。

     国家公務員の研修に呼ばれて同じ質問をした時も 、結果は似たようなもので、 50人のほとんどが知りま

    せんでした 。私が『 外国に行って 、このことを聞かれたらどうするのですか 』と言ったら 、みなさん苦笑

    されていましたが 、その席にいたアメリカの国務省の役人に『 ご自分の国の名前が決まった年は 』と聞いた

    ところ 、彼は1776年すなわち独立宣言の年を挙げていたと思います 。それが本当にアメリカの国名が決

    まった年かどうかは別にしまして 、私はこれは非常に重大な問題だと思っています 。大学で中国人の留学生

    に聞くと 、『 1949年 』と即座に答えが返ってきました 。日本人のように 、国名が誕生した時を明確に

    答えることができない国民は 、世界でも珍しいのではないでしょうか 。 」

     ( 中 略 )

   「 しかし 、実をいえば 、私自身もある時期まで国の名前が決まった年を 、正確には認識していませんでしたし 、

   学生にも全く教えてきませんでした 。また 、それが書いてある教科書も 、最近まで全くなかったと思います 。

   最近 、ようやく本文や注にこれについての記述が現れましたが 、やはり一番大きな問題は 、どのレベルの歴史

   教育においても 、この点がほとんど教えられてこなかったことだと思います 。」

  「 それでは 、日本という国名が決まったのはいつなのかといいますと 、現在の大方の学者の認めるところでは 、

   浄御原令 ( きよみはらりょう ) という法令が施行された689年とされています 。浄御原令は天武天皇が編纂を

   開始して 、死後その皇后の持統が施行した 、はっきりと存在が確認されている法令です 。その前に近江令があ

   ったという説もありますが 、これは整備された形ではできていなかったという説が有力です 。

    対外的には 、大宝律令が制定された701年の翌年 、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人が当時の周の皇

   帝・則天武后 ( 中国大陸の国家の歴史上 、唯一の女帝で 、国号を唐から周にかえています ) に対して 、『 日本 』

   の使いであると述べたのが最初といわれており 、これは 、ほとんどすべての学者が認めています 。それまでは

   『 倭王 』 の使いであるといっていたのが 、702年に変わったのです 。つまり 、国名を『 倭 』から『 日本 』

   に変えたのですが 、そのことから 、『 日本 』という国号が公式に決まったのはそれ以前ということになり 、

   689年の浄御原令施行の時が最も可能性が高いと考えられています 。」


   ( 出典:網野善彦著 「 歴史を考えるヒント 」新潮選書 ㈱新潮社 刊 )


  「 引用 」はここまで 。


   網野善彦さんは 、その昔 、筆者が通っていた高校の「 日本史 」の先生 。当時 、

   教壇の先生は38歳 、講義を聴いていた筆者は16歳だった筈なんですが、筆者の記憶に先生が授業される

  お姿はありません 。

   インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」には、網野先生の生い立ちやその生涯が次のように

  綴られています 。掲載記事のうち 、「 活動・評価 」や「『 日本 』論について 」の部分は 、長文かつ学術

  的で 、「 日本史 」に疎い素人 の筆者には難しく 、ついていけませんので、引用を差し控えます 。

  「 網野史観 」と評される程の高名な歴史学者にお成りになっていたとは 、お亡くなりになる迄 存じあげま

  せんでした 。


   「 網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の

    歴史学者。専攻は中世日本史。

    生 涯

    江戸時代から続く地主網野家の当主・勝丸の末男として山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)に

    生まれる。曾祖父の網野善右衛門は実業家で、山梨中央銀行の前身のひとつである網野銀行の創業者であ

    る。

    実父の勝丸は甲州市塩山の旧家出身で代議士も務めていた広瀬久政の次男として生まれ、網野家へ養子に

    入った人物。久政長男の広瀬久忠は善彦の叔父にあたり、久政も右派政治家で戦前には山梨県初の大臣

    (厚生大臣)を務め、戦後には参議院議員となった。久政三男の名取忠彦も戦前は山梨県翼賛会壮士団長

    で、戦後は山梨中央銀行の頭取として山梨県政財界で影響力を持っていた人物で、善彦の幼少期にはこう

    した右派的政治環境があったことが指摘されている。

    幼少期に東京市麻布区桜田町(東京都港区西麻布)へ移住。白金小学校卒業後、1940年(昭和15年)、旧

    制東京高等学校尋常科入学。このころの友人に氏家齊一郎や城塚登や増田義郎がいる。 旧制東京高等学校

    高等科文科卒業後、1947年(昭和22年)、東京大学文学部国史学科入学。学生時代は石母田正に私淑(網野

    善彦著作集より)。またこのころ日本共産党に入党し、山村 ( さんそん ) 工作隊の指揮や階級闘争による国民的歴史学運

    動に携わる。民主主義学生同盟副委員長兼組織部長となったが、のち運動から脱落する


    1950年(昭和25年)3月に東京大学文学部国史学科を卒業。
同年4月から渋沢敬三が主宰する財団法人日本常

    民文化研究所の月島分室に勤務した。

    1954年(昭和29年)に水産庁からの予算打ち切りが決まると同研究所を辞し、翌年4月から永原慶二の世話

    で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務。同年5月には日本常民文化研究所の同僚だっ

    た中沢真知子と結婚する。エンゲージリングが買えないほど貧しかったため、代わりにカーテンリングを

    贈ったという。

    1956年(昭和31年)6月、正式な教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会など

    の顧問を務める 。
勤務の傍ら東京大学史料編纂所に通って古文書を筆写、1966年に『中世荘園の様相』を著す。

    1967年(昭和42年)1月に同校を退職
し、同年2月に名古屋大学文学部助教授に就任し、名古屋に転居。

    1973年(昭和48年)には中世史研究会発足に参加している。

    1978年(昭和53年)に『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録

    1979年(昭和54年)、神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任し、

    1980年(昭和55年)10月に神奈川大学短期大学部教授に就任。1993年(平成5年)4月に神奈川大学大学院

    歴史民俗資料学研究科を開設し、1995年から同大学経済学部特任教授となり、1998年(平成10年)3月に

    定年退職。

    2000年(平成12年)2月に宮田登の葬儀委員長を務めるが、その翌月に自身が肺癌だと分かり闘病生活に入る。

    2004年(平成16年)、東京都内の病院にて死去。享年76。死去時には、ル・モンド紙にも記事が掲載された。

    遺骸は本人の遺志によって献体された。 」  



    上記のご経歴から、1967年1月には都立北園高校を退職され、同年2月名古屋大学文学部助教授に転じら

   れていたことを知ると共に 、筆者が北園高校に在籍していた 1963年4月から1966年3月までの3年間 、

   網野先生が 「 日本史 」の授業以外に「 社会科学研究会 ( 社研 ) 」や「 部落解放研究会 」などの顧問を務めて

   おられたことも知りました 。半世紀以上も前のことで 、網野先生の講義の内容や授業の雰囲気について全く記

   憶にありません 。そう言えば 、高校時代 、家でとってた 「 朝日新聞 」読んだことなかったなあ 、・・・

   「 天声人語 」も 。昔から「 意識低い系 」の筆者です 。

    ふとした出会いが人生を分ける 。会わなくてよかった

    ついでながら 、網野先生の高校時代からの友人 、城塚登さんは 、筆者の高校時代の「 漢文 」の先生 。
    東大助教授の傍ら 、都立高校の講師バイトをなさっていたよう 。
    偏屈そうな雰囲気の先生でした 。この方には 会えてよかった

    「 中国語 」の講師をされていた 菊地昌典さん も 網野さん 、城塚さん つながり のよう 。
    履歴書から消しておられる 不遇時代 。

    ウソのようなホントの話 。





    
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現の証拠 Long Good-bye 2021・09・22

2021-09-22 05:06:07 | Weblog



  今日の「 お気に入り 」 。

  「 げんのしようこ といふ草は腹薬として重宝がられるが 、何といふつゝましい草であらう 。梅の花を

   小さくしたやうな赤い花は愛らしさそのものである 。或る俳友が訪ねて来て 、その草を見つけて 、子

   供のために摘み採つたが 、その姿はほゝゑましいものであつた 。

      げんのしようこのおのれひそかな花と咲く

    萩がぼつぼつ咲き初めた 。曼殊沙華も咲きだした 。萩の花は塵と呼ばれてゐるやうに 、曼殊沙華の

   やうに 、花としてはさまで美しくはないけれど 、何となく捨てがたいところがある 。私は萩を見る

   たびにいつも故人一翁君を思ひ出す 。彼の名句 ―― たまさかに人来て去ねば萩の花散る ―― は歳月

   を超えて私たちの胸を打つ 。」

          【 筆者註: 文中の「故人一翁君」とは、「 清水一翁( しみず いちおう )、
                 ? – 1928 )」、一翁は出家後の法名 。大正時代の初め 、
                層雲で活躍 。】


  「 今日はあまりの好晴にそゝのかされて近在を散歩した 。そして刈萱を頂戴した 。

    素朴な壺に抛げこまれた刈萱のみだれ 、そこには日本的単純の深さが漂うてゐる 。何の奇もないと

   ころに量ることのできないものがある 。

    露草の好ましさも忘れてはならない 。まいあさ 、碧瑠璃の空へ碧瑠璃の花 、畑仕事の邪魔になら

   ないかぎりはそつとしておきたい 。

    だんだん月が澄みわたつてくる 。芋が肥え枝豆がおいしくなるにつれて 、月も清く明らかになる 。

   とかく寝覚がちの私は夜中に起きて月を眺める 。有明月の肌寒い光が身にも心にも沁み入つて 、お

   もひでは果もなくひろがる 、果もない空のやうに 。

    欲しいな 、一杯やりたいな 、 ――そんなとき 、酒を求めないではゐられない私は 、亡き放哉坊の

   寂しい句をくちずさむ 。 ―― こんなよい月をひとりで観て寝る

    私にもひよいと戯作一句うかんだ 。芭蕉翁にはすまないが 。 ――

      一つ家に一人寝て観る草に月                            」


   ( 出典: 種田山頭火著 村上護 編 小崎侃・画 「 山頭火句集 」ちくま文庫 ㈱筑摩書房 刊 )
   


    子供のころ 、母が土瓶で煮出していた「 ゲンノショウコ 」、部屋に漂う薬草の独特の匂いを思い出す 。

    明治生まれの母は 、右手に煮沸消毒した注射器を持って、自らの左腕に漢方薬「 ミノファーゲン 」の

    「 静脈注射 」をする 、今にして思えば変わった人 、医者でも 、看護師でもないのに 。

    因みに 、インターネットの フリー百科事典「 ウィキペディア( Wikipedia )」には 、以下の解説があり 、

    とても興味深い 。漢方じゃないんだ 。 夏の季語 。・・・ 飲んでみようかな ・・・ お薦めかも 。



  「 ゲンノショウコ( 現の証拠 、学名: Geranium thunbergii )は 、フウロソウ科フウロソウ属の

   多年草 。日本全土の山野や道端に普通に見られる 。中国植物名は 、童氏老鸛草(どうしろうかん

   そう)。近い仲間にアメリカフウロ 、老鸛草 などがある 。」

  「 名称

    古来より 、下痢止めや胃腸病に効能がある薬草として有名で、和名の由来は 、煎じて飲むとその

   効果がすぐ現れるところからきている 。和名ゲンノショウコは「 実際に効く証拠 」を意味し 、

   「 現(験)の証拠 」と漢字書きにされる
。日本では 、現の証拠 のほか 、玄草(げんそう)と

   いう名でも流通している 。

    別名として、果実の形をろうそくに見立ててロウソクソウや 、種子を飛散させた後の果実の形が 、

   神輿の屋根のように見えることから 、ミコシグサ( 神輿草 )、フウロソウとミコシグサを合わ

   せてフウロソウミコシグサ( 風露草神輿草 )とも呼ばれる 。また 、葉の形にちなんでネコアシ

   ( 猫足 )、ウメに似た花形と茎が細く伸びる姿からウメズル( 梅蔓 )ともよばれることもある 。

    花言葉は 、『 心の強さ 』である 。」

   ( 中 略 )

  「 薬草

   ゲンノショウコはドクダミ 、センブリなどと共に 、日本では古くからの三大民間薬の一つに数え

   られ 、下痢止めの薬草として知られている
。江戸時代から民間薬として用いられるようになり 、

   『本草綱目啓蒙』( 1803年 )にも取り上げられ 、『 根苗ともに粉末にして一味用いて痢疾

   ( りしつ )を療するに効あり 、故にゲンノショウコと言う 』との記載が見られる 。

   現代の日本薬局方にも『 ゲンノショウコ 』として見える 。ただし 、伝統的な漢方方剤(漢方薬)

   では用いない
。」

   ( 中 略 )

  「 採取と飲用

    一般に開花期である 7 - 8 月頃に根を除いて刈り取り 、洗って十分水気を除いて 、天日で乾燥

   させたものが生薬になり 、ゲンノショウコ と呼んでいる 。日本薬局方 では茎・葉をゲンノショ

   ウコ 、その粉末をゲンノショウコ末という 。若葉のころは 、トリカブトやキンポウゲ類の有毒

   植物に似ているため注意するが 、夏の開花期であれば花で確認できる 。

    優れた健胃・整腸作用を持ち、下痢、便秘、食あたり、慢性の胃腸疾患に効能があり、時間をかけて

   十分煎じることで薬効成分が抽出される 。下痢止めとしては 、ゲンノショウコ 1日量 10 - 20 グラム を

   約 500 - 600 cc の水で煎じ約半量まで煮詰めたものをさらに濾して、温かい状態で1日3回分けて服用

   する方法が知られている 。下痢に使用するときは 、なるべく量を多くした方が良いと言われ 、便秘に

   使用するときは 、1日量 5 - 10 グラム と量を減らして煎じ服用するとされる 。冷えた煎じ汁は 、整腸

   薬となる 。扁桃炎 、口内炎 、のどの痛みには 、煎じ汁をうがい薬として使用することが知られている 。

   湿疹やかぶれには 、煎じ液を冷まして冷湿布に用いられる場合もある 。慢性的な胃腸の弱い状態など

  ではお茶代わりに飲用する場合もある 。利尿目的の場合は 、1日 10 - 15 グラム を、500 cc の水で 、

   5 - 10分 煎じ 、3回に分けて食間に服用する 。高血圧予防には 、ゲンノショウコ10グラム 、ドクダミ

   10グラム 、少し炒った決明子 5グラム を煎じて常用すると効くとされる 。また 、ゲンノショウコ

   100グラム 、ヨモギ 100グラム を混ぜて浴湯料として使ったゲンノショウコ風呂は 、冷え性 、しぶり腹

   に効くとされる 。

   下痢 、便秘に使用するのは日本独特の使い方で 、中国ではこのような症状には使用されていなかった 。

   中国には日本のゲンノショウコはないが 、キクバフウロ 、ミツバフウロ 、イチゲフウロなどを老鸛草

   (ろうかんそう)と称して 、神経痛に用いる 。」


      

                         
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一緒に食べましょうよ Long Good-bye 2021・09・21

2021-09-21 05:06:07 | Weblog




   今日の「 お気に入り 」 。


     「 われわれがサルと呼んでいるニホンザルやヒヒのような動物は 、基本的には仲間内で食物を分かち合うと

      いうことはありません ( 南米にはオマキザルやタマリンという餌を分配する珍しいサルもいますが…… ) 。

      しかし 、ゴリラやチンパンジーのような類人猿は餌を分け合います 。」


      ( 中 略 )


     「 親から子へ食べ物の分配が行われる種は 、現在 、約300種いる霊長類のなかでも限られています 。

      さらに大人同士で分配が起こる種はごくわずか 。そして 、おとなの間で分配が行われる種は 、必ず親子

      間でも分配が起こる種だということが分かっています 。

       つまり 、もともと親から子へ行われていた食物分配が 、何らかのきっかけでおとな同士の間でも普及

      したと考えられます 。おそらく人間も例外ではないはずです 。

       特筆すべきは 、強い者が独り占めをして食べるサルとは正反対で 、体が大きいほうが分配をするとい

      うこと 。執拗 ( しつよう ) に肉の分配を要求するチンパンジーのメスに取り囲まれたオスが 、不承不承と

      いった様子で肉を分け与えることもあります 。結果的に 、チンパンジーたちは同じ場所で 、同じものを

      同時にみんなで食べることになる 。これが食事の原形になっているのです 。

       われわれ人間も 、レストランではそれぞれ違う料理を食べることもありますが 、基本的には同時に同

      じものをみんなで食べます。私たちはそれを何の疑いもなく 、当たり前のように日々行っています 。し

      かも 、ゴリラやチンパンジーのように要求されなくても 、食物を持っている者がわざわざ相手のもとに

      運んで『 一緒に食べましょうよ 』なんてことを言う 。なんでそんなバカなことを !? と 、争いを避け

      るために弱い者が身を引くというルールを徹底させたサルなら思うでしょうね 。実はわれわれが日常的

      に行っているのは 、非常に不思議なことなのです 。

       ケンカの種になりそうなものを相手との間にわざわざ置いて 、仲良く一緒に食べましょうと食べ物を

      囲む 。ということは 、私たちは誰かと食事をするたびに『 平和の宣言 』をしているとも言えると思い

      ませんか 。( ケンカの種となり得る )食べ物を 、あなたと私は仲良く食べられるような関係になりま

      すよ 、ということを 、最初から前提として向かい合っているわけですから 。」

       ( 中 略 )

     「 われわれは意識的にでも 、無意識的にでも 、大事なことを話すときには 、食事を伴うことが少なく

      ありません 。そういう場を設け 、そこで食を通じたコミュニケーションをとることで 、私たちは他

      者を受け入れてきました 。食事の場を設けるということ自体が 、和解を前提にしているのです 。

       食事は 、人間がチンパンジーの共通祖先と別れてから 、最初につくりあげた最も重要なコミュニ

      ケーションだと思います 。サルにとって食事は一般に非常に個的な行為です 。それを人間は自分の

      食欲を抑制し 、相手と同調させながら 、やり取りにしました 。しかも 、みんなで食べると 、食事

      がより美味しく感じられたりもする 。共食の不思議な魅力です 。栄養補給の面から見れば 、非効率

      極まりありません 。一人で食べれば数分で終わるものを 、時間をかけてみんなで食べるのですから 。

       今の食事の形態は料理を出す順番や 、味つけ 、配膳の仕方 、料理と食器の合わせ方のような工夫

      を重ねたうえで 、できあがっています 。でも 、食事のプリミティブ ( 原初的 )な段階で大切にさ

      れていたことは 、やはりやり取りや同調だったと思います 。食は人間にとっていちばんプリミティ

      ブで大切なコミュニケーションなのです 。」


     ( 出典:山極寿一著 「 京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ 」. 朝日新聞出版 刊 )





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