「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

喧嘩両成敗 2013・11・30

2013-11-30 07:30:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。



  「 戦争には勝敗はあるが、正邪はない。戦勝国と敗戦国はあるが、その間に正義が

   わりこむ余地はない。

    古往今来勝者は敗者を存分にした。殺すか奴隷にした。敗けた国は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)

   して今度は反対に勝つと、同じ復讎(ふくしゅう)を復讎した。こうして何千年来戦争はある。これ

   からもある。

    清盛は頼朝を助けたばっかりに、あとで殺しておけばよかったとくやしがったが及ばなかった。

    頼朝は義仲を殺した、義経を殺した。

    戦さに始めて正義をもちこんだのはアメリカ人である。アメリカ人は報復を報復でないように

   見せたがった。東京裁判なんて前代未聞の偽善である。

                  [Ⅷ『昔は喧嘩は両成敗だった』平7・5・4/11]」

        ( 山本夏彦著「ひとことで言う-山本夏彦箴言集-」新潮社刊 所収 )


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2013・11・29

2013-11-29 07:05:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 十年間続いた南北ベトナム戦争が、昭和五十年北の勝利に終ってから十二年たった。

   当時わが国のマスコミは終始北ベトナムの味方だった。驚くべきは北の言いぶんを信

   じたふりをして『ベトコン』(越共)を民族解放勢力と称し北ベトナム軍は参加して

   ないと言い続けたことである。わがマスコミは十年日本人をあざむいたのである。今

   後ともあざむくだろう。

    私はそれをサンケイ新聞の近藤紘一(故人)毎日新聞の古森義久両記者のルポで知

   った。二人はフランス語とベトナム語を用いて材を多くベトナム人からとった。近

   藤のごときはながい滞在中縁あってベトナム婦人と結婚してしまった。古森は他の

   大新聞の記者が英語を話すベトナム人としか接しないで、記事はあくる日の英字新

   聞(甚しきは邦字新聞)を翻訳して書いていると報じた。

    特派員の目はいつも東京の本社に向いている。本社が反米記事を喜ぶならそれに

   迎合して書く。どうせ半年か一年で交代するのだからベトナム語なんかおぼえる

   気はない。そしてテレビは新聞に追随するのが常である。

    ことにNHKの磯村尚徳記者は昭和五十四年一月八日この戦争を回顧して、北の

   勝利を解放と呼んで礼讃した。ところがその直後の番組、夜九時のニュースはベ

   トナムのカンボジャ侵略(プノンペン陥落)を報じて面目は丸つぶれになったは

   ずなのにならなかった。当人もNHKもつぶれた自覚さえなかった。

    その証拠に去る六月二十七日夜NHKは同じ記者を起用してベトナム難民の報道

   をさせた。ベトナムを脱出するボートピープルのうち四人に一人は海のもくずと

   化すという。それなのにこの十年ボートに乗って脱出するものはあとをたたない。

    フランスの『世界の医師団』というボランティアは浄財を集めて船を調達し毎年

   難民を助ける運動を続けている。今回はフランス哨戒艇がそれを応援した。NH

   Kはこれに便乗して『世界はいま』というドキュメントを作った。

    哨戒艇が難民をさがして発見し救助する一部始終を私はこれによってはじめて

   見た。そのなかばは女子供である。全員が死ぬのを免れるために家族はばらばら

   に乗るという。外国船と見て恐れて逃げまどうボートもある。ソ連船だったら

   ベトナムに送還され厳罰に処せられるからである。

    ソ連の航空機は威嚇するがごとく飛ぶ。アメリカのそれも飛ぶ。フランスが救

   助に熱心なのは、もと宗主国としての自責の念があるからだろう。他の大国は

   当然熱心でない。引受け国がないため救われてもキャンプに何年もいる難民が

   あるという。

    日本は金は出すが難民を引きとること少いと、磯村記者は沈痛な面持ちで責

   めるがごとく言ったので私は唖然とした。

    この記者は以前北の勝利にバンザイを唱えんばかりだった人だったことは前

   にも書いた。いま北を世界の最も貧しい国の一つだと言う。何のかんばせあ

   って言うか。

    ボートピープルは十年波間に漂っているのである。NHKは十年まともな

   報道をしなかったのである。NHKにかぎらずマスコミの多くはそれなら

   『知らせる義務』などと言わぬがいい。芸人の不倫とやらばかりが醜聞な

   のではない。かくのごときを醜聞というのである。

                     昭和六十ニ年七月二十三日号)」

    (山本夏彦著「世はいかさまー夏彦の写真コラムー」新潮社刊 所収)

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若くして洗脳された思想は去らない 2013・11・28

2013-11-28 08:15:00 | Weblog



 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 重信房子が逮捕された前後の新聞記事は注目に値する。重信は日本赤軍派の最高幹部で、三十年前出国して

  しばらく海外から国内の赤軍派を操っているという報道があった。去年十一月全く忘れられたころ捕えられて、

  警視庁に移送された。

   新聞は常に野党的である。これは旧幕臣で才あるものが新聞をおこしたから自然である。新聞の反体制の根は

  遠くここにある。反政府でなければ『御用新聞』と同業にも読者にも見放された。徳富蘇峰の国民新聞は日露

  戦争でわが国はすでに弾薬も兵糧も尽きている、この講和条約は渡りに舟である、『結べ』と書いて、勝った

  勝ったと浮かれている読者の激昂にあって焼打ちされた。社員は畳を楯に抜刀して応戦したと伝えられる。当

  時一流の新聞は徳富と同じ情報を得ていた、講和やむなしと思いながら暴徒を恐れて徳富を見殺しにした。国

  民新聞は御用新聞と言われて部数は激減して他は激増した。

   新聞ははじめ薩長の藩閥政治反対の論陣を張った。藩閥政府が去って政党政治に移ると今度は政党の汚職を

  連日あばいて政治家を『財閥の走狗(そうく)、利権の亡者(もうじゃ)』と糾弾した。それをまにうけた青年

  将校が浜口(雄幸)を犬養(毅)を倒すと、テロはいけないがその憂国の至情は諒とするとかばって、軍部独裁

  の端を開いた。汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼすのである。

   戦後アメリカ一辺倒になった与党に、新聞は反対して、ソ連中国べったりになって、国民に独立の気概を

  失わせた。社会主義には正義がある、資本主義にはない。若者は正義に魅せられる。労働組合は悉く左傾し

  た。ソ連と中国が一枚岩の間はよかったが、不仲(ふなか)になるとわが社会主義も分裂した。さらに『六十

  年安保』を境に四分五裂した。

   社会主義革命は成就すると同志を殺す。スターリンはラデック、ブハーリン、トロツキイを殺した。永田

  洋子は革命が成就しないうちに同志を一人一人殺した。

   新聞は、ことに朝日新聞は終始社会主義の味方だった。日教組を手なずけたのは大成功だった。入試問題は

  朝日から出るぞとおどして部数をふやした。国鉄民営化にも反対した。動労は国民に見放されたのになお千

  葉動労だけでもゼネストはできる、全国の鉄道に千葉動労の同志がいる、その一人が一本ずつ犬くぎを抜け

  ば、即ちゼネストだと豪語したが、さすがに民心は離れたと見たのだろうと新聞は全く書かなくなった。報

  道がなければその言は存在しない。かくて動労はどたんばで新聞に裏切られたのである。

   新聞は近く日教組を見捨てる。その兆しはすでに投書欄にあらわれているとはいつぞや書いた。日の丸君が

  代騒ぎは天皇制打倒の最後の砦(とりで)だから組合は死守し新聞は味方したのである。

   朝日新聞は重信房子を評して、いまだに革命ごっこの幻想を抱(いだ)き続けて、ヒロインの役を演じている

  のが哀れだと書いた。この半世紀社会主義を支持した危険な火遊びに終止符を打って商業主義の権化である

  正体をあらわしたが、若くして洗脳された思想は去らない。なお外務省、文部省その他の省庁にまた新聞社

  のデスクにその申し子はいる。水に落ちた犬を打てと故人は言っている。

                                      (平成十三年一月二十五日号)」

  (山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)



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労働組合の時代は終わった 2013・11・27

2013-11-27 07:05:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「郵便局の民営化に反対するのは、民営化されるともろもろの利権を失う幹部たちである。昭和六十二年、国鉄の民営化がきまった時とは少し違う。あの時は幹部も組合も共にながく、はげしく反対した。今度は幹部は反対するが、下っぱはしないだろうと人間見物人である私は見守っている。
 新聞労連はもともと社会主義で国労、動労の友だから、ストライキがあると必ず組合の味方をした。国鉄は北海道、東日本、東海、西日本以下七社に分割されると、北海道から九州までずたずたになって三日かかる、四日かかるとまことしやかに書いて国民を脅した。赤字はふえこそすれ減りっこないとこれまた再三書いた。それでも天下の大勢は動かせない。やがて民営化されると一年余りで黒字になった。ずたずたにもならなかった。
 その頃から郵便局の幹部は今度は郵政の番だと色めきたった。課長や部長が零細わが社のごときにも入れかわり立ちかわりご機嫌伺いに来た。年賀状は何百通お出しですか、千通余りですか、持参します、雑誌の発送には局の車でとりに来させます、と手のうら返すようなサービスぶりである。
 自動車を回してくれるとは何よりだ、毎月二十五日が発送日だから本局に問合せたら、電話に出たのは組合員だろう、そんなこと聞いてないとけんもほろろである。上役が言ったのだから、聞いてこいと言わせたら渋々願書を出せ、何時に行くか約束できないと言う。上役は一大事だと狼狽しているが、組合はまだ気勢をあげているのである。組合の強いのは一等局である。三等局ー特定郵便局には局員五、六人しかいない。どういうわけか戦前から娘たちだけで、口をきいたらソンだといわんばかりの仏頂面(ぶっちょうづら)をしていた。
 局員が書留るから書留だろう。五十人六十人に原稿料を送るときは、客に複写伝票に氏名番号を書かせ、局員はただスタンプを押すだけで書留料をとる。昔からそうである(今も)。それがある日を境に豹変した。にこやかになった、口をきくようになった。ほぼ同じころ銀行が無愛想になった。郵便局のお株(かぶ)を奪って仏頂面になった。通帳を持って窓口へ行くと、そこに機械がある、行けといわんばかりになった。
 労働組合の時代は終ったのである。その威令は末端に及ばなくなったのである。今度の郵政の民営化に幹部は結束して反対するだろうが、特定局は騒ぐまい。
 明治維新の時もそうだった。樋口一葉の父君は甲州の農村の出で、小金をためて江戸に出て同心(どうしん)(与力〈よりき〉の下役、下級の警察官)の『株』を買った。下級だろうと士族である。幕府が瓦解する寸前士族の株を買って何とすると今なら思うが、一葉の父は思わなかった。
 薩長の時代になっても上役が薩長になるだけで、与力同心目明しのたぐいは旧のままだ。全員クビにしたら警察はなくなると父君は見て、そしてその通りだったのである。それなら今の特定郵便局の局長以下はまず無事だろうと娘たちは知らないで少しは騒いでもすぐ静まるだろう。民営化されても身分は旧のままで給金もそのままだろう。
 ものには汐どきがある。労働組合にはひと騒動する気はないと見物人である私は見ている。
                                    (平成十三年十一月二十九日号)」

(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)

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お尻だって洗ってほしい 2013・11・26

2013-11-26 07:35:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「ビデ(bidet)というものがパリにあることは少年のころから知っていた。うそかまことかヨーロッパ人はめったに風呂にははいらないという。はなはだしきは生涯に二度しかはいらないとも聞いた。まさかと思ったが本当らしい。
 昭和五年ルネ・クレールは『パリの屋根の下』で庶民のアパートの室内に水道がないことを教えてくれた。洗面はどうするか、入浴のかわりはどうするか。陶器の大きな洗面器に汲みおきの水を注ぐことを繰返していた。水道は各階に一つずつあるらしかった。裸の男がタオルで体をふいている場面を見せてくれた。ビデはこんな所にはない。中流以上にあるのだろう。」

「戦前の東洋陶器(戦後TOTO)は便所の陶器屋にすぎなかったが、次第に水回りの一流会社にになったのは進駐軍の『特需』で、急に需要がふえたからである。水洗便所の普及はこの特需から始まった。水洗の小便器は和風の『朝顔』を駆逐した。水洗は戦前はデパートとビルどまりだったが、戦後は団地マンションに及んで、今では大都会で汲取式は見なくなった。
 私は『室内』の発行人だから、用を足すとき必ず目の前のTOTOの四字に注目した。それをINAXが追うようになった。追うものと追われるものは、追うものの方が強い。何ごとによらず独占はよくないと見ていたら突然『朝シャン』があらわれた。
 ヴァンス・パッカードの『浪費をつくり出す人々』のなかに、流行をつくり出せ、そしてそれを流行遅れにさせろという条(くだり)がある。朝シャンは忽ち大流行して忽ち流行遅れになった。
 私は知らなかったがTOTOとINAXはかたき同士ではなくて共に森村財閥の一員だという。いわば親類みたいな仲で、戦前の伊奈製陶はタイル専門だったから仲好だった。今も仲好だが、末端の外交はどうだか分らない。『朝シャン』もほぼ同時に発売してほぼ同時に終っている。パッカードの言う通りである。
 今度は何を売出すか、何の商売も流行をつくりださなければならない。たぶんビデを売りだすだろうと傍観していたら売出さない。ビデに大和撫子がまたがる図を日本男児は見ることを好まない、イヤ好まないどころか女性週刊誌を見よと甲が論じて乙が駁したあげく、ビデという語を避けウォシュレットと命名して、お尻ふき、ビデ、乾かす、マッサージ洗浄とボタンに小さく書いて『お尻だって洗ってほしい』とテレビで広告して大成功した。近く日本中ウォシュレットだらけになったらどうする。アメリカに売りたかろうが、アメリカ人に『お尻』は禁句だそうで、CMに使えない。近く知恵者がネーミングを考えだすだろう。そのあとどうする。両社の知恵ははてしない競争をすることどの商売も同じだろう。生き残るために忙しくなるばかりであることも同じであろう。
                                    (平成十四年七月十一日号)」

(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)

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2013・11・25

2013-11-25 07:45:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「私は作者のキャリアは詮索しない方がいいと思うものである。読んで感銘をうけたらそれだけで足りる。作者の経歴を知りたくなるのは人情だが、作品がすべてで、本人はぬけがらであり、カスである、私が半分死んだ人だというゆえんである。
 たとえば漱石は兄嫁に惚れていた、それが漱石の作品の謎をとく鍵だと、何かにつけて持ちだされては地下の漱石も迷惑だろう、よしんばそれが発見であったにしても。
 私はほとんど出自(しゅつじ)を語らない、いや『無想庵物語』(文芸春秋刊)で、父の唯一の友、失敗した小説家武林無想庵を語ると同時に、もう一人の失敗した詩人山本露葉の大概を書いている。」

「私の父は祖父の築いた財産で生涯金利生活を送った。明治維新で士族の多くは零落したが、祖父のように産をなした者もあったのである。どうせろくなことでなしたのではなかろうと詮索しないから知らない。父は頭のなかは大正デモクラシー、生活は旧式だった。食膳は子供たちとは別にした。子供との間には会話はなかった。
 明治四十二年祖父の死を待っていたように、吉原で大尽遊びを始めた。七、八年続いたようだがぴたりとやめた。以後茶室を書斎にして終日とじこもってことりとも音をたてなかった。日記四十巻を残した。それはいわゆる日記ではない。すべて詩と散文の原稿で、推敲に推敲をかさねた順に捨てないで綴じてある。だから大冊ではあるが読むところは少い。西田長左衛門と藤井伯民は幸田露伴の弟子で、露葉の古い友である。その縁で蝸牛庵の露伴を再三訪ねているのにただ欄外に西田、藤井、武林と蝸牛庵を訪うとあるのみである。メモである。
 武林のこの前後の日記には露伴は相撲好きで『藤井来い』とやせっぽちの藤井伯民に勝って得意だが、元スポーツマンの無想庵にはひとたまりもない。露葉は武林の紹介で岡田(旧姓小山内)八千代、露伴の女弟子田村俊子が来たので浅草の『中清(なかせい)』で馳走して、六区で井上正夫(新派の人気役者)の細君に会ってじゃさよならと別れている。日記に二種あり露葉のそれはメモだからその交友関係が意外に広いのに、私が物心ついたころは訪問客はほとんどなかった。
 大正十二年の大震災で財産の過半を失ったのだろう。終日蟄居して書斎にとじこもるようになった。私は中村メイコの父中村正常(まさつね)がほんの四、五年流行作家で、なぜか一枚も書けなくなったのに戦中戦後のなん十年机の前に座して動かなかったと仄聞(そくぶん)して遅ればせながら心を打たれた。ひとたび芸の世界に足をふみいれたら出られない。あれは泥沼である。メイコはその父を尊敬していると聞いた。正常はメイコの子役としての収入で衣食していたはずである。私は正常の心中を思って暗然とした。私自身とくらべてメイコが尊敬の念を失わないのは奇特だと思ったのである。正常が死んだと聞いてこの欄に『正常よ眠れ』を書いたのはこんなわけからだった。」

(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)

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おやじのせなか 2013・11・24

2013-11-24 08:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

「少年は父の後ろ姿を見て育つというが疑わしい。一億サラリーマンの背を見て、皆あのようになりたいと思うのだろうか。私の父はわが国には珍しい金利生活者で、生涯人に雇われなかった。明治十二年下谷根岸に生れ、昭和三年二月二十九日数え五十で死んだ。この年は閏(うるう)年だったからおぼえている。私はまだ小学六年生だった。
 明治三十二年父は数え二十一のとき山本露葉と号し児玉花外、山田枯柳と三人の共著新体詩集『風月萬象』を出して世に出た。一連の藤村詩集が出た直後、新体詩の全盛時代だったから明治三十年代はひっぱりだこだったが、明治四十年に新体詩がいっせいに文語を捨て、口語自由詩に転じたとき、父は転じそこねて忘れられた。
 その詩は改造社の『日本文学全集』第三十七巻にニページ、筑摩書房『明治文学全集』第六十一巻に十五編採られている。
 私が父に触れることを避けたのは、何より露葉という雅号が嫌だったからである。当時の文壇の大立者幸田露伴、尾崎紅葉から一字ずつ借りるなんて恥ずかしい。
 それが恥ずかしくなくなったのは雅号なんて皆十六七のころにつける。泣菫(きゅうきん)、白秋、ことに春月(生田)なんていまでも恥ずかしい。してみれば有名ならそれで通るのか、通るのであると悟ってどうでもよくなったのである。
 父は階下の茶室を病室に改めて寝たきり一年を経て死んだ。小学生から中学生に移る私はその間に父が明治三十年代に発表した古新聞古雑誌、それから毛筆で書いた日記四十冊を読破した。次いで書棚の鷗外の『即興詩人』 これは漢語沢山で歯が立たなかったが、『水沫集(みなわしゅう)』は一読巻をおかないほど面白かった。『二葉亭四迷全集』(東京朝日新聞社) 『一葉全集』(博文館)の古本を最も愛読した。」

(山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」新潮社刊 所収)



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2013・11・23

2013-11-23 08:10:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

七平 面白いのは、今でもアメリカ人には、大統領は自分たちが選挙したから絶対だっていう意識があるることです。
 レーガンが暗殺されそうになって逆に人気が出たでしょう。自分たちが選んだ大統領を殺そうなんてもってのほかだ。それはアメリカに対する反逆なんですよね。オレたちが選んだんだからと、これ、ある意味で絶対化されるんです、たとえ四年間でも。
夏彦 なるほど。
七平 ところが日本人ってのは決して絶対化しないんです。あれはみんなバカでいいんです。田中角栄は不徳義漢でしょ。鈴木善幸は何しろ『暗愚の帝王』と言われたんだから無能でバカだということでしょ。
 つまりどんなにバカにしてもいい対象なんですけど、アメリカは大統領をバカにしちゃいけないんです。明治時代ですと功は全部天皇にあるんです。日露戦争に勝ったのも日清戦争に勝ったのもわが国が近代化したのも功は全部天皇に帰したんです。
 そして伊東博文以下は全部欲ばりで、好色で、悪いのはみんなあの連中で、天皇はちっとも悪くない。どんなに内閣を悪く言っても不敬罪なんかにならないんです、内閣批判は。
夏彦 うーん、そうですね。自分が選んだなんて思ってないんですよ。アハハ。
七平 思ってない。思ってない。ところがアメリカ人は、自分たちは大統領批判をしてもいいけど外国人が批判すると途端に態度変わるんです。あれが面白い点ですよね。
夏彦 ああそうですか。
七平 レーガンの悪口なんてアメリカ人はいくらでも言うけど、日本人が言った瞬間ちょっと変わるんです。
 それは日本人が言うべきことじゃない。いかに批判さるべきものであっても、あれはわれわれが選んだ大統領で、お前たちが批判することはアメリカ人に対する侮辱であると、こういう意識が顔に出るんです。
 ところが鈴木内閣を世界中が悪口言おうと日本人は何とも思わないんですよ(笑)。でも天皇だとちょっと違うんじゃないかなあ、今でも。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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2013・11・22

2013-11-22 07:20:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

七平 いやいや、そこがほんとの儒教国家と日本との違うとこなんです。
夏彦 徳は孤ならず、孤ならんや孤ならんやと言うじゃありませんか。
七平 徳とは? ってのは朱子の『近思録』を見るとちゃんと定義があるわけです。『誠は無為、幾に善悪あり』で『徳は、愛するを仁と曰い、宜しきを義と曰い、理あるを礼と曰い、守るを信と曰う。焉(これ)を性のままにして焉(これ)に安んずる、これを聖という……』といった具合で、明確に定義してそれをマニュアル化しないと気が済まないんです。
 その点ヨーロッパ人に似てるんですよ、中国人は日本人よりも。ところが日本人はね、あのひとが人徳あったらもっとお中元がたくさん来る(笑)。
夏彦 いえ、ほんとです。何度も言うけどね、うちの近所に会社を定年でやめて十年たっても二十年たっても山ほど中元が来るひとがいる。デパートからじゃない。ご当人が持参するんです。門前市(いち)をなしている。
七平 それが日本人における徳であってね。
夏彦 そうです。それなのに僕のとこへは誰も来ない(笑)。そうすると僕は反省しないわけにいかない。
七平 うーん、私も反省しないわけにいかない。
夏彦 それで僕はね、突然、お中元だとさとったの。おわかりですか。
七平 ご名答、ご名答、いや、それがね、天皇家に寄付することを法律で禁じてるでしょう。
夏彦 そう言やそうですね。
七平 天皇家に寄付しちゃいけないんです。
夏彦 許したら大変でしょう。
七平 もし許したら、あの皇居がお中元の山になって、天皇は身動きできなくなっちゃう。
夏彦 なーるほど。そんな法律あるんですか。寡聞にして知らなかった。
七平 だからお中元がたくさん集まるのが人徳なら……。
夏彦 そーうですよ。陛下はお困りでしょうな。
七平 人徳の象徴なんだ(笑)。」

(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)



 寄付をしてはいけないけど、手紙なら渡してもいいと考えたんでしょうか、あの山本さんは。
 
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2013・11・21

2013-11-21 07:00:00 | Weblog
今日の「お気に入り」。

「――凡庸のひとが〔日本では)リーダーになっていることの不思議・…
七平 このことを駒田信二さんと話したことあるんだけど、中国にもちょっと似た伝統あるんですね。つまり劉備玄徳っていうひとは『三国志演義』では一番無能者に描かれているが……但し徳がある。徳っていうのはまあ変なものでね。スーパーマンがみんな徳を慕ってやって来るから……諸葛孔明でも関羽でも張飛でも、玄徳以上のスーパーマンがみんな。
夏彦 そういやそうですな。
七平 これのいちばん典型的な例は三蔵法師だっていうんです。あれ一番無能なんで、化けものが出ると腰ぬかしちゃうんです。
夏彦 ハッハッハ、悟空がいて沙悟浄がいて八戒がいて(笑)。
七平 そう。超能力者がみんなこの無能な法師のために必死になるわけですね。これはヨーロッパ人には理解できないんです。
 たとえばナポレオンは無能で事があると腰ぬかしたけれど、部下に超能力の将軍たちがいてうまくやってくれたなんてありっこないんですよ。『イエナ戦の前のナポレオン』っていう画があるんですけど、ナポレオンがひとり頭をかかえて地図とコンパスを持ってこう(手で示して)やっているわけですね。もうほんと頭かかえているんです。
 ところが将軍ってのはうしろでタキ火にあたってズラーッと並んでただ命令を待ってるだけですよ。ナポレオンが命令したとおりに自分たちは動くだけで、そのとおりに兵を指揮すればいい(笑)。
 三蔵法師とは違うんです。ナポレオンは。
夏彦 それなら今の社長なんかもそうじゃありませんか。
七平 この前、ある証券会社の社長にちょっと聞いたら、社長いわく、日本では今も昔とおんなじで、大体三蔵法師ですって。
夏彦 アハハ。
七平 そんなこと表向きには言えませんけどね。
夏彦 あんまり鋭いひとはいけないくらいは言ってますよね。無能とは言わないけど。
七平 徳があればいい。
夏彦 そう徳ですね。
七平 じゃ徳とは何かっていうとね……。
夏彦 (身をのりだして)そりゃお中元ですよ。
七平 お中元ですって。
夏彦 (興奮気味に)それに決まってます。お中元がいっぱい来るひとです(笑)。」
 
(山本夏彦・山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)

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