旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

最北端 稚内への普通列車の旅9 帰路 旭川まで

2015-01-19 19:14:44 | 最北端 稚内への普通列車の旅
 稚内14時12分発の旭川まで直通の普通列車に乗り、昨日来たところを戻りますから、時刻表は省略します。
 まずは、今夜泊まる旭川をめざします。青空も見え、景色を楽しむことが出来ました。 稚内駅の改札案内表示は、今では珍しい木札。


 旭川行きは、宗谷北線運輸営業所シンボルマークをつけたキハ54。


 抜海付近、かすかに利尻の島影が見えます。


 兜沼を過ぎ、なんとか利尻富士(利尻山)の頂上が見えました。


 旭川到着が20時15分。途中駅弁を売っている駅がないので、夕食の駅弁は稚内駅で購入。





 最後の最後、幌延・上幌延間で利尻富士が姿を表しました。


 宗谷北線運輸営業所所属のキハ54には、沿線市町村のパンフレットを入れる棚が付いていましたが…


 安牛・雄信内間

 雄信内・糠南間。距離を示す標識の高さから積雪量の多さが想像できます。


今日の乗車実時間7時間24分。移動距離319.4㎞。

<途中下車の旅~旭山動物園> 
4日目の午前中は、旭山動物園に行きました。










 今日の宿泊地は小樽です。
 2日目と同じルートを、逆戻りします。

 つづく

最北端 稚内への普通列車の旅8 定期観光バス(3)

2015-01-18 08:08:08 | 最北端 稚内への普通列車の旅
あけぼの像  

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 北海道の牛乳生産量100万トンを突破と、飼育乳牛50万頭突破を記念して、昭和46年7月、宗谷岬の丘陵上に建設されました。
 この像は、牧柵をかたどった台座の上に、野良着姿の男女が南に果てしなく広がる宗谷丘陵を見つめながら力強く立っているブロンズ像で、“天北酪農の夜明け”を象徴したものです。

旧海軍望楼   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 帝政ロシアとの国交が悪化し始めた明治35年に、国境の備えとして旧帝国海軍が建設したもので、当時最強といわれたロシアのバルチック艦隊が、宗谷海峡、津軽海峡、東シナ海のどこかを通過し、ウラジオストクに集結するかを察知することは、戦略上極めて重大であったことから、同望楼の海上監視にも、任務の重要性が課せられました。
 日露戦争の終結に伴い望楼の使命は終わりましたが、その後も、大正9年沿海州で起きた尼港事件(※)では無線通信基地として、太平洋戦争では対潜水艦監視基地として使用されました。
 稚内では明治年代の建築物で現存する唯一のもので、昭和43年12月、市の有形文化財に指定されました。
※尼港事件(にこうじけん)
 アムール河(黒竜省)河口から40キロメートル上流の港町尼港(ニコラェフスク)で発生した邦人虐殺事件。ロシア革命後、わが国のシベリア出兵に反感をもつパルチザン(遊撃隊)が、大正9年3月から5月の間に引き起こした事件で、日本守備隊、邦人合わせて700人が虐殺されています。

平和の碑   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 太平洋戦争中の昭和18年10月、宗谷岬沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」の乗組員80名と、ワフー号によって日本海で沈められた日本商船5隻の犠牲者690名を慰霊するため、戦後50年の年にあたる平成7年9月に日米合同で建立されました。日米合同で慰霊碑を建立するのは、わが国では初めてのことであり、平和を願う両国民の気持ちが込められています。
―碑文―
 1943年10月11日、宗谷海峡において5時間に及ぶ日本海軍とアメリカ合衆国海軍との間で悲痛な戦いが繰り広げられた。
 この場所により、北東12マイルの宗谷海峡にアメリカ潜水艦ワフーSS238号乗組員80名のアメリカ人が眠っている。また、ワフー号の攻撃による多くの日本人の犠牲者が日本海に眠っている。
 この碑は、日本側の人々とワフー号に眠る乗員の家族とによって設立されたものである。
 かつての敵は、今日、兄弟として出会い、両国の平和が尽きることのないよう、また、我々が今あたためている友情が決して再び壊れることのないよう、献身したい。 

祈りの塔   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和58年9月1日未明、世界を震撼させた”大韓航空機撃墜事件”が眼前のサハリン西海域で起きました。
 「祈りの塔」は2周忌にあたる昭和60年9月1日に、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願い、遺族会の資金と、稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、サハリンを臨む宗谷岬の高台に建立されたものです。
 塔の周辺には地域の婦人部が世界平和の願いを込めて追い丹誠込めて植栽しているアルメリア花壇があります。
碑文
 愛と誓いを捧げる
あなたたちの生きる喜びを一瞬のうちに奪いさったものたちは、いま全世界の人々から糾弾されています。事件の真相はかならず近い将来にあきらかにされるでしょう
わたしたちは あなたたちの犠牲を決して無駄にはさせません
わたしたちは 生命の尊さと武力のおろかさをひろく世界の人々に訴えていくことを誓います
愛しい人たちよ
安らかにお眠りください
1985年9月1日建立日本大韓航空機事故遺族会

ラぺルーズ海峡の碑 

 西洋の墓の様な形に薄い石板が2枚立っている石碑があり、近づいてみると、ラぺルーズ海峡の碑と書かれていました。碑文は左がフランス語、右が日本語で刻まれていた。フランス語の横には外人のレリーフがはめ込まれていました。   
 碑文には次のように書いてありました。
 ラペルーズに
 1785年、フランス国王ルイ16世は世界海洋科学調査航海を命じます。
 二隻の艦艇司令官としてラペルーズ伯爵、ジャンーフランソワ ド ガローがこの航海の指揮にあたります。
 1787年、日本海探索後、日本海とオホーツク海を結ぶ海の存在を確認しました、同年8月、二隻の艦艇と共に、宗谷海峡の沖にひろがるこの重要な海峡を渡り切りました。
 従って、太平洋に合流するこの航路を通過した最初の欧州人なのです。
 1789年、オーストラリア出航後行方不明となり、この勇敢なる英雄は故郷フランスの地を再び踏むことはありませんでした。
 この航海者の功績と発見を讃えて世界海洋界はこの海峡を次のように命名しました ラペルーズ海峡
 
宗谷岬音楽碑   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 ダ・カーポ、ボニージャックス、千葉紘子、芹 洋子さんなどの歌手によりレコード化され、また、NHK の「みんなの歌」でも全国に紹介された郷土の歌“宗谷岬”の音楽碑が「日本最北端の地の碑」に程近い場所に建てられています。
 この音楽碑は、黒御影石に“宗谷岬”の歌詞と楽譜を刻んだもので、昭和55年(1980)11月に建立されました。
 また、平成14年には「宗谷岬」誕生30周年を記念して「30周年記念音楽碑」が建てられました。この碑は前に立つとメロディーが流れるようになっています。 

日本最北端の地の碑   


(説明は、稚内市役所HPより引用)
 日本最北端の地の碑は、北緯45度31分22秒、宗谷岬の突端に位置し、まさに日本のてっぺんに建てられています。碑は、北国のシンボル北極星の一稜をかたどった三角錐をデザインしたもので、塔の中央にあるNの文字は「北」を、そして台座にの円形は「平和と協調」を表しています。
 国道238号線の拡幅とバスレーン・歩道の新設により、駐車場やはまなす花壇などが整備され、観光客の絶好の記念撮影ポイントとなっています。

間宮林蔵の立像   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 世界地図にただ一人日本人の名を残した探検家・間宮林蔵は、安永9年、現在の茨城県伊奈町に産声をあげました。
 像は、林蔵の生誕200年にあたる昭和55年7月に、彼の偉業を顕彰し、時代を担う青少年に、世界へ羽ばたく夢と勇気を培ってもらおうとの願いから建立されたものです。林蔵が樺太へ渡る決意を秘め、はるか樺太を望見している立像で、栽付袴に羽織、足袋、二本差しと、肩には海上計測用の“縄索”をかけています。像は、実物より2割ほど大きい、高さ2メートルのブロンズ像です。

 短時間で見学し、最後は日本最北端のお土産屋さんへ。このときの気温は16度。
 店の中には、無料の流氷館。氷点下12.2度を体験しました。


 バスは宗谷岬をあとにし、「間宮林蔵渡樺出港の地」「カネクロサワ伝説」の場所を車窓から眺め、稚内空港へ戻りました。
 途中海岸線を通ったのですが、稚内では海水浴場はあるものの、気温が25度を超えることがまれで、泳いでいる人を見かけることがないとのこと。

間宮林蔵渡樺出港の地   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 宗谷岬から西へ3キロメートルの第2清浜地区に、「間宮林蔵渡樺出港の地」があります。
彼の著書“東韃(とうだつ)紀行”でもただ“宗谷”とあるだけで漠然としています。
 しかし、林蔵の墓石が見つかったことや、アイヌの「林蔵祭」伝承などから、現在の第2清浜地区と考えられます。
 文化5年4月13日、幕府から命を受けた林蔵(当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発しました。
 このとき、林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したといわれています。
 同年7月13日、第2次樺太探検のため、アイヌの船に乗って単身で出発し、トンナイ(旧真岡付近)で冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端のナニオーまで踏査して樺太が島であることを確認しました。
 この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名されたのです。

カネクロサワ伝説

 宗谷岬から8km程稚内寄りの国道238号線沿いにある伝説の場所。
 カネクロサワ伝説とはアイヌの娘が、失明した父親の回復を祈願して、宗谷厳島神社にお百度参りしたところ、夢枕に現れた弁財天のお告げで、この清水を探し当てたという。
 カネクロサワの清水には眼病をもたらす悪魔を金縛りにする力があると信じられ、眼病を治す伝説の霊水だそうですが、看板はあるものの、清水の面影は感じられませんでした。

 稚内空港で多くの人を降ろし、終着、稚内駅をめざしました。
 着くころには、雲の切れ間から青空がのぞくようになり、あと半日、天気の回復が早ければ利尻や樺太を見ることが出来ただろうと残念でなりませんでした。



 昼食は稚内名物の「たこしゃぶ鍋」。ガイドブックに載ってあった「車屋源氏」に行きました。 ミズダコのしゃぶしゃぶなのですが、レタス・水菜・エノキダケ・長いも・利尻昆布を入れて、味噌ベースのたれつけて食べるものでした。そして最後には、稚内ラーメンを鍋に入れて食べました。


 それにしても稚内は、何かにつけ「日本最北端」でした。






 このほかにも、「日本最北端の小学校」「日本最北端の郵便局」などなど。無料で、稚内に行ってきたという記念は、切符に押してもらった、稚内の「途中下車印」。改札口で、「途中下車印をお願いします。」と言えば、無料で押してくれます。旅の終わりに切符をもらってくれば記念に残ります。


 つづく

最北端 稚内への普通列車の旅7 定期観光バス(2)

2015-01-17 07:58:34 | 最北端 稚内への普通列車の旅
稚内灯台

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 ノシャップ岬のシンボル的存在であるノッポな灯台は、紅白の鮮やかなツートンカラーが特徴です。
 高さは42.7メートルで、北海道では一番高い灯台であり、全国では島根県日御岬(ひのみさき)灯台に次いで2番目の高さを誇ります。
 明治33(1900)年ノシャップ岬の丘陵地(現レーダーサイト)に建てられた旧稚内灯台は、長い間北の海を守り続けてきました。
 しかし、米軍ノシャップ基地の増強と拡張により移設を余儀なくされ、昭和41(1966)年1月10日現在の位置に建設されました。 

ノシャップ岬


(説明は、稚内市役所HPより引用)
 ノシャップとは、「岬がアゴのように突き出たところ」「波のくだける場所」というアイヌ語、「ノッ・シャム」が語源となっています。眼前には秀峰・利尻富士と花の浮島・礼文島、サハリンの島影をも一望することができ、夕暮れ時には地平線に沈む夕日が感動的な情景をつくりだしています。また7~8月頃の早朝、周辺の海岸では夏の風物詩である、利尻昆布の昆布採りの風景を見ることができます。

稚内市立青少年科学館

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和49(1974)年7月28日にオープン、総面積1,832平方メートル。2階建ての施設で、ノシャップ寒流水族館に隣接しています。施設内部は、プラネタリウム、マルチスクリーン、天体観測室をはじめとする各種実験室が完備され、遊びながら科学の素晴らしさを学べるようになっています。また、この科学館には、稚内市にゆかりの深い南極観測資料が数多く展示されており、歴代の砕氷船「宗谷」「ふじ」「しらせ」の模型や、実際に南極観測で使用された犬ぞりや、南極の石、樺太犬タロ・ジロの関係資料が豊富に展示されている。

ノシャップ寒流水族館


(説明は、稚内市役所HPより引用)
 稚内灯台のすぐそばに建つこの水族館は、開道百年、稚内市開基90年、市制施行20年を記念し、昭和43年(1968)7月に開館され、日本で100番目にあたる水族館です。飼育展示しているその数は120種、3000点あまりもあります。
 回遊水槽(90t)では、ホッケ、ソイの仲間、カレイの仲間等北方系の海の魚とともに、”幻の魚”イトウの泳ぐ姿を360度、見渡すことができます。
 また、”北の海のアイドル”フウセンウオのフ化にも成功し、新しい魚の飼育、展示にも挑戦している。この他、アザラシ池やペンギン池も設置され、愛らしいゴマフアザラシやフンボルトペンギン等に会うことができます。
 12月・1月は、水槽メンテナンスのため休館します。

 稚内駅を出発した観光バスは、稚内港北防波堤ドーム、稚内公園、ノシャップ岬を回って、稚内市街地を経て宗谷丘陵に向かいました。


 市内いたるところにロシア語表記が見られました。

宗谷丘陵の周氷河地形 【2004年 北海道遺産に指定】 
(説明は、稚内市役所HPより引用)
 宗谷岬の背後に広がる丘陵は、高さ20mからせいぜい200mで、稜線も谷も丸みを帯びています。おまけにどこも一面の笹とまばらな低木に覆われているだけなので、どこまで行っても同じように見えるのが、おかしいところです。

 V字型の鋭い稜線や谷を見慣れた方の目には、これらの丘陵はとても日本離れした雄大な光景として映ることでしょう。

 稚内の内陸部を特色づけるこれらの丘陵は、周氷河地形のひとつといわれております。
 石の割れ目に入る小さな雨粒でも、凍結と融解を繰り返しているうちに、岩を割ることが出来ます。また、地表が凍結、融解の作用を繰り返し受けていると流土現象といい、土壌中で対流が起きてしまうのです。稜線の角が崩れ落ちて丸みを帯びるばかりでなく、地表部全体にわたって流土現象などがいっせいにはたらくので、険しい山地も、ついには平坦でなだらかな周氷河性の波状地になってしまうのです。
 この波状の丘陵ができたのは、今から約1万年前に終わった地球最後の氷河時期、ウルム氷河期末期といわれ、いわば氷河時代のなごりと云うこともできます。こうした地形は北海道の至るところで形成されたといいますが、開発などで破壊されたケースが多く、現在この美しい地形が最も顕著に見られるのは宗谷丘陵地区といえます。明治の中頃までは、丘陵全域にわたりうっそうとした森林が生い茂っていましたが、相次ぐ山火事のため、今では一面笹に覆われています。最近では、地元の観光バスやツアーのコースになる等新しい観光ルートとなっています。また、2004年に北海道遺産として指定されています 
 いよいよ宗谷岬。 宗谷岬を含め「宗谷岬公園」、見所がたくさんありました。


 つづく

最北端 稚内への普通列車の旅6 定期観光バス(1)

2015-01-16 05:06:03 | 最北端 稚内への普通列車の旅
稚内港北防波堤ドーム

(説明は、北海道遺産HPより引用)
 稚内-樺太大泊間の旧稚泊航路整備の一環として、冬季の北西越波防止のために建設された半アーチ式ドーム。海上からの高さ14m、柱間6mの円柱70本を並べた長さ427mの世界でも類を見ない独特の景観と構造を持ち、港湾土木史に残る傑作であるとともに、旧樺太航路時代の記憶を残す歴史的遺産。設計者は、当時26歳の土木技師・土谷実。

稚泊航路記念碑

 大正12年、鉄道省により稚内~大泊間に連絡航路が開設されました。
 以後終戦の昭和20年8月に閉鎖されるまでの22年間の業績を讃えるため、昭和45年11月に建立された記念碑です。
 「稚泊連絡航路」22年の歴史の中で行き来した乗客は284万人にものぼります。
 碑文には次のように記されていました。
 この地稚内から、いまは異国の地、樺太大泊に、国鉄稚泊航路が開設されたのは、宗谷線が稚内まで全通した翌年の大正12年5月1日である
 この航路は、167kmの海上を約9時間を要し、ときに宗谷海峡特有の濃霧、あるいは結氷、流氷との悪戦苦闘によりまもられてきた
 昭和2年砕氷貨物船亜庭丸(3,593t)が就航するに及び、その往還は飛躍的に繁栄の一途をたどってきた
しかし、終戦直後の昭和20年8月24日18時、22年にわたる歴史的使命を終え、その幕を閉じたのである
 今ここに星霜20有余年、稚内桟橋がその面目を一新するときにあたり、有志相図り稚泊航路の輝かしい業績と、幾多先人の苦労を銘記してこの碑を建立し、永久に記念するものである
 昭和45年11月吉日
  有志を代表して
   旭川鉄道管理局長 深沢今吉
   稚内市長 浜森辰雄

樺太島民慰霊碑 氷雪の門

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 かえらぬ樺太への望郷の念と、かの地で没した幾多の同胞の霊を慰めるため、昭和38年8月に建立以来、稚内市では毎年8月20日に、樺太ゆかりの人々による慰霊祭を行っています。
 碑文
  人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここへ帰った
  戦後はその門もかたく鎖された
  それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなった多くの同胞 の霊を慰めるべく、肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、木原豊次郎氏、笹井安一氏の熱意と、全国樺太連盟の賛同、並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る
氷と雪のなかで、きびしく生き抜いた人々を象徴する女人像、望郷の門、霊石を三位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった
この記念碑を氷雪の門と命名した

九人の乙女の碑   

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和20年(1945年)8月20日、終戦5日後に、樺太真岡郵便局で電話交換業務を終えた後、自ら若い命を絶った9人の女性の霊を慰めるために建てられました。
 殉職した九人の乙女
  高石ミキ(24)        高城淑子(19)
  可香谷シゲ(23)       松橋みどり(17)
  吉田八重子(21)       伊藤千枝(22)
  志賀晴代(22)        沢田キミ(18)
  渡辺照(17)
碑文
 戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む

昭和天皇行幸啓記念碑 

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和43年9月、開道百年記念式典のご臨席のおりに、ご来市になられた天皇・皇后両陛下は、稚内公園の『九人の乙女の碑』の前で、当時の浜森市長より九人の乙女の悲話をお聞きになりました。
 両陛下は、目頭に涙を浮かべられ、深く頭をお下げになり、九人の乙女の冥福をお祈りされました。
 後日、この時のご感銘を次ぎの様に詠まれました。

  御製(天皇)
   樺太に命を捨てし たおやめの 心思えば胸 せまりくる
  御歌(皇后)
   樺太につゆと消えたる おとめらの みたまやすかれと ただいのりぬる
 両陛下の御製・御歌は、行幸啓記念碑に刻まれ、昭和44年8月に除幕されました。

南極観測樺太犬訓練記念碑

(説明は、稚内市役所HPより引用)
 昭和32年、国際地球観測年を機に、日本が初めて南極観測に参加するにあたって、極地での物資輸送を目的に”犬ぞり隊”が編成されました。
  この”犬ぞり隊”の主役が、稚内周辺から集められた樺太犬たちです。
  南極へ出発する前に、”犬ぞり隊”は稚内公園で8ヶ月間、厳しい訓練を受け、その中から選び抜かれた22頭の樺太犬は、南極観測船『宗谷』で白い大陸に渡り、任務をまっとうしました。
  しかし、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に置き去りにされて死ぬという悲劇を被りました。
  そして、昭和34年1月、第3次越冬隊がタロ・ジロの奇跡的な生存を確認し、当時世界の人々を感動させたことは今日でもよく知られています。
  稚内市は、樺太犬の功績を讃え、『南極観測樺太犬訓練記念碑』を制作しました
  記念碑はブロンズ像で、台座には南極で採取した白石が埋め込まれています。
  除幕式には、樺太犬を南極に置き去りにした隊員への非難と、タロ・ジロの奇跡の生還の歓喜がうずまく中で、昭和35年7月、関係者多数の出席のもと、とり行われました。

教學之碑

 樺太南部の豊原市にあった「樺太師範学校」の記念碑です。
 碑文を見ると、昭和14年4月、45万島民の文化の向上と教育振興の重責を担う教員養成機関として、豊原市に開校したて50周年を記念し、樺太島を望むこの地にに平成元年7月8日、樺太師範學校同窓会が建立したとありました。

 つづく

最北端 稚内への普通列車の旅5 いよいよ稚内へ

2015-01-15 05:33:12 | 最北端 稚内への普通列車の旅
 昨夜は、駅前にある「民宿旅館 サロベツ会館」に泊まりました。


(サロベツ会館の夕食)

 幌延町は原子力関連施設の誘致を進めた結果、「幌延深地層研究センター」、関連研究所の「幌延地圏環境研究所」も開設されたとありましたから、その工事関係者なのかの長期滞在者が多いようでした。
 幌延駅は、宗谷本線の中では大きな駅で、木造上屋のあるホームと、駅舎にはJRの窓口のほか,観光案内所や沿岸バスの窓口が併設されていました。


 さて、今日はいよいよ稚内。乗る列車は宗谷本線稚内行き普通列車。
○幌延   06:21発
・下沼   06:28着 06:28発
・豊富   06:36  06:36
・徳満   06:41  06:42
・兜沼   06:50  06:57
・勇知   07:02  07:03
・抜海   07:11  07:25
・南稚内  07:37  07:38
○稚内   07:42着
 6時頃稚内方面から、キハ54が2両でやってきて、1両は私たちが乗る稚内行き。片方の1両は6時3分発名寄行き普通列車に分かれました。
 幌延の地名は、アイヌ語のポロ・ヌプ(大きな平原)に由来するとおり、ここからサロベツ平野が広がっています。


 昨日からの雨は上がりましたが、雲が厚く今日もあかり景色を楽しむことが出来ないかもしれないという不安を抱えての出発です。
 私たち2人の他1人を乗せた列車は、幌延を出発しました。


 下沼までは、国道からも離れてひたすら防雪林に囲まれて走るため、あまり開放感を感じません。


 下沼の地名は、アイヌ語のパンケ・ト(下の沼)が語源。下沼を出ると、途中、林に囲まれて見通しが悪い所もありますが、牧草地の中を進みます。左手には、パンケ沼、ペンケ沼があるサロベツ原野が広がっているのですが、天気のせいかよく見えません。


 豊富は、幌延よりは規模の小さい駅ですが、特急も停まります。


 豊富からは、高校生を中心に10名ほど乗ってきました。まだ6時半を過ぎたのにと思いましたが、次の列車は8時19発なので、この列車に乗らないと部活などに間に合わないのでしょう。
 豊富から徳満までは、牧草地の中を進みました。


徳満を過ぎるとしばらくは右手に国道が40号線が併走するのですが、次第に離れ兜沼に向かいます。
 サロベツ原野の北の端にある、その姿がかぶとに似ていることから名づけられた兜沼が10分の所にある、兜沼駅。


ここでは、上り一番列車待ち合わせのため7分停車。
 左に兜沼を見て出発ると、この先は丘陵地帯となり、牧場風景が見られます。
 勇知駅は、日本最北の貨車駅。駅前は立派な診療所。



抜海までの車窓は丘陵地で、平坦なところは牧草地になっていました。
 天気が良ければ、日本海と利尻山が見えてくると抜海のはずですが…


 抜海は交換駅で、上り札幌行き特急スーパー宗谷2号行き違いのため14分間停車。
 抜海港から利尻・礼文を結ぶ人だけでは乗れない貨物フェリーが出ていた時代もありますがいまはそれもなく、駅舎は開業当時の建物と貫禄がありますが、駅前はさびしいものでした。


抜海から南稚内の間は、宗谷本線のハイライト、景色が良いところです。
 周辺は丘陵で,木も生えず熊笹のみが茂っている。突然左に視界が開け、断崖の上から雄大な利尻山を望むはずでしたが…。


 晴れているときには列車の運転手さんが最徐行をしてくれるので、シャッターを切るには十分な時間があるはずなのですが…。
 海岸線を離れ、「こまどりスキー場」が見えてくるとまもなく南稚内。


 南稚内駅は宗谷本線以前に開通した天北線の終点として開駅し、当初は「稚内駅」でした。その後宗谷本線も開業したのですが、利尻・礼文・樺太航路の港まで距離があるということで、現在の稚内駅まで延長され、稚内港駅となったのですが、まもなく稚内港駅を稚内駅、稚内駅を南稚内駅に名称を変更したそうです。
 今でも稚内の中心は稚内駅よりも南稚内駅のほうにあり、地元市民の利用者は南稚内のほうが多く、特急も全列車停車します。


 この普通列車からも、20人ほどの人が降り、残ったのは私たちを含め5人でした。
右手に、宗谷北線運輸営業所の車庫をみて高架を過ぎると終点稚内。


 稚内駅は、「稚内駅前地区第一種市街地再開発事業」の一環として工事中で、シンボルの車止めの所にある「最北端の看板」も一時撤去中。1面のホームも、片側の線路が撤去されていました。


 すべての事業が終わるのは平成24年3月の予定だそうです。

(指宿駅・鹿児島駅・東京駅から、稚内駅までの距離が書かれていました。)



 稚内発14時12分発旭川行きで戻るため、稚内滞在時間は6時間30分。そこで、宗谷バスの定期観光バス「日本最北端と北海道遺産巡り」に乗ることにしました。この観光バス、事前の予約不要で稚内駅を8時20分に出発し、12時に戻ってくるので、時間的に都合がよいのです。

 コースは、日本最北端なので「宗谷岬」と、52ある北海道遺産のうち稚内にある「稚内港北防波堤ドーム」と「宗谷丘陵の周氷河地形」が中心となります。



 つづく