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お願いいたします。
4月6日深夜の豪雨による被害は綾瀬市内各所で起きましたが、しかし小園地域での被害が特にひどいものでした。
私は、■4月6日深夜の綾瀬市小園地域の豪雨被害を連続ツイート の記事の中でお伝えしましたように、自治会長と相談し、14日の日曜日に市側の出席の元、被災住民の方々に集まっていただきました。
約50名近くの方が参加され、命の危険もあった災害に対し、市の危機管理が甘かったことや、水害対策について具体的な解決策を示さない姿勢に対し、怒りの声が多数出されました。
市側は、住民の声に押され、ゴールデンウィーク明けまでに、庁内の検討の進展具合について報告をするということとなりました。
私も、参加された多くの方から、議会でこの問題を取り上げて、解決してください! と必死に訴えられました。
6月議会の一般質問でこの問題を取り上げることに決め、すでに議会事務局に申し込みました。1番目の質問者となりました。
みなさんの声をひきつづきお寄せください。
一般質問は6月17日からはじまりますが、私は最初ですので、9時からとなります。どうぞ傍聴にお出かけください。
日本政治の右傾化の突撃隊の役割を果たしている「日本維新の会」が、2つの市長選で惨敗しました。ウルトラ右翼の危険性に日本国民が気付き始めた証でしょうか?
日本が軍事国家にならないように、早く化けの皮がはがれるように、私たちもいっそうがんばらないと。
維新 兵庫2市長選惨敗
“大阪都に吸収” 市民反発
宝塚で中川氏再選
14日投開票の兵庫県宝塚市長選で、広範な市民とともに「明るい宝塚民主市政をつくる会」(日本共産党や民主団体で構成)が支援する無所属現職の中川智子氏(65)=元社民党衆院議員=が4万3347票、51・75%を獲得、「日本維新の会」公認の元市議(40)らに大差をつけて再選を果たしました。
「維新」は宝塚市長選と、同日投票の伊丹市長選に大阪府外の首長選では初めて公認候補を擁立。夏の参院選や兵庫県知事選の前哨戦として、大阪市長の橋下徹共同代表が2度も現地入りするなど総力戦で臨みましたが、宝塚・伊丹の両市とも市長選で惨敗し、市議補選でも落選しました。「『維新の会』ノーという結果」(橋下氏)が突き付けられた格好です。
宝塚では市長2代続けての汚職・逮捕という異常事態の中で4年前、中川氏が初当選。クリーンな市政で「宝塚の誇り」を取り戻し、財政健全化を進めながら市立病院の医師を増やすなど、市民本位の市政を推進してきました。日本共産党は与党として中川市長を支えてきました。
選挙戦では「維新」幹部が「大阪都」構想にからみ、兵庫県の自治体も特別区に含める発言をしたことが大問題になり、中川氏は「大阪への吸収など許さない。絶対に宝塚を『維新』に明け渡してはいけない」と強調。「『維新』に負けるな」という市民の声が日々広がりました。
「維新」候補は、公務員攻撃を繰り返し、「単純労務職員の分限免職(解雇)を殺されてもやる」「中川・共産党市政はおかしい」と叫びましたが、中川氏の「自治体は市民に寄り添い、日々の生活を守り、困っている人を元気にすることが仕事」(14日の会見)という姿勢が市民の共感を得ました。
4月16日の「しんぶん赤旗」の記事からです(写真も)。こうした事実を認識していくことが大切ですね。
日本の中国侵略時、旧日本軍は中国に数多くの慰安所をつくり、「慰安婦」にした朝鮮人や中国人の人権を踏みにじりました。
中国側の研究によれば、北は黒龍江省から南は海南島まで、日本軍が侵略したところには、どこでも慰安所があったといわれます。
二ヶ所の慰安所跡が紹介されています。
■アジア最大規模[南京市]
南京市には40以上の慰安所があったといわれています。市の中心部にあるのがアジア最大の日本軍慰安所といわれる利済巷慰安所の跡地です。
2005年までは低所得者の住宅として使われていました。居間は空き家です。
現在は、建物を保存し、慰安婦歴史陳列館に改装するための工事の真っ最中。来年の開館を目指しています。
日本軍は、南京大虐殺(1937年)の後に、当時の高級住宅街を慰安所に改装しました。45年の終戦まで使われ、総面積は4800平方メートル。一帯には三つの慰安所があり、50人以上の「慰安婦」がいました。
うち最も大きい「東雲慰安所」と呼ばれた建物は、1階に14、2階に16もの部屋がありました。主に朝鮮人の「慰安婦」が連れてこられました。2階には指示に従わない「慰安婦」を閉じ込め、つるし上げて殴る小部屋もあったといいます。
利済巷慰安所の保存を求めてきた南京師範大学の経盛鴻教授は「侵略の歴史を否定する日本の一部の勢力に対し、日本軍が『慰安婦』を使っていたという生きた証拠として、ここを保存する意義は大きい」と語ります。
■最初の慰安所[上海市]
上海には日本軍の慰安所が150以上あったとされます。1931年、侵略を開始した日本軍が中国につくった最初の慰安所が上海にある「大一サロン」です。
建物はほぼ当時のまま残されており、いまは住宅として使われています。内部は暗く、小部屋が並んでいて、日本式の木製ドアや観音開きの窓が当時のまま残されていました。中庭には、日本軍兵士が周りで踊ったという噴水の跡もありました。
45年の終戦まで使われ、多いときには約20人の日本人「慰安婦」がいたといいます。
蘇智良 上海師範大学中国慰安婦問題研究センター主任の話
河野談話見直しは
孤立への道で危険
私たちの研究では、日本軍に「慰安婦」にさせられた中国人は20万人以上にのぼると見積もっています。今まで証言してくれた元「慰安婦」は100人余り。多くの「慰安婦」は戦争中や戦後に亡くなっています。
生存者の多くは収入がほとんどなく、病院にも行けない状態です。地方政府が生活費を援助している場合もありますが、わずかなものです。私たちは寄付を集め、現在約20人の元「慰安婦」を援助しています。
旧日本軍が彼女たちを「慰安婦」にしたやり方は、
・家事労働などとだました
・捕虜になった女性兵士を慰安婦にした
・農村などから捕まえてきた
などで、すべて彼女たちの意思に反したものでした。
安倍晋三首相が「慰安婦」問題で旧日本軍の関与と強制性を認めた「河野官房長官談話」の見直しを示唆したことはとても驚きました。河野談話は日本側の資料で政府と軍の責任を証明したもので、最も基本的な認識です。
もし河野談話を見直すなら、日本はアジアや世界から孤立するでしょう。これはとても危険なことです。
安倍首相は日本の平和憲法も変えようとしています。日本は「古い道」を進むのでしょうか。私は日本の未来と前途を心配しています。