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主に西欧的な伝統の中で、私達は合理的な発想に馴染んで
きました。
生命の尊厳を持っているのは人間だけであり、それ以外の
ものは主体性を奪われた二義的な価値しか置かれていません
でした。
父・母・子という宇宙構造を唱えるキリスト教的思想の中で
育成された西欧の文明や科学は、人間の意識的な自我と
同一視される父を至高のものとし、母なる自然界はあくまで
端役でしかなかったのです。
例えば私達の視野は、常に関心のある一点に集中します。
この時に、視界の周辺で動いているものに注意は向かい
ません。
しかし深くリラックスして自分の考え事に集中し過ぎない
という姿勢が身につくと、私達の注意力は鋭敏になって、
どんな時にでも視野に入ってきたもの全てを均等に気を
配るようになります。
潜在意識は、この視野の周辺に追いやられた、生命維持に
不可欠な要素に他なりません。
私達の自我があまりにもはっきり自己主張すると、自然界の
「曖昧な」作用は恐れて逃げていきます。
私達の注意力の埒外に追い出されてしまうのです。
親が子供に言いたい事を言ってみろ、と怒鳴りながら見つめると、
子供は何も言えません。
それと同じです。
古い時代の科学の凶暴さは、ここにありました。
そして、自分の注意に入ってこないものは、初めから存在
しないと言い張ったのが、これまでの長い習慣だったのです。
(中略)
自然界と人間社会がはっきりと分かれた時から自然破壊が
始まりました。
周辺にある自然界よりも、中心にいる人間だけが偉いと
考えたからです。
人間は宇宙の縮図ですから、自然界と人間が分裂した時、
私達の中で大いなる自己と、自我との分裂も起こったのです。
私達は私達の本当の意志を忘れたのです。
そろそろこの本来の単純なバランスを取り戻さねばなりません。
その一助として、今日の精神世界への関心があると思うのです。
あなたが本当の大いなるあなた自身に遭遇するように、
深くリラックスする時間を作ってみましょう。
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主に西欧的な伝統の中で、私達は合理的な発想に馴染んで
きました。
生命の尊厳を持っているのは人間だけであり、それ以外の
ものは主体性を奪われた二義的な価値しか置かれていません
でした。
父・母・子という宇宙構造を唱えるキリスト教的思想の中で
育成された西欧の文明や科学は、人間の意識的な自我と
同一視される父を至高のものとし、母なる自然界はあくまで
端役でしかなかったのです。
例えば私達の視野は、常に関心のある一点に集中します。
この時に、視界の周辺で動いているものに注意は向かい
ません。
しかし深くリラックスして自分の考え事に集中し過ぎない
という姿勢が身につくと、私達の注意力は鋭敏になって、
どんな時にでも視野に入ってきたもの全てを均等に気を
配るようになります。
潜在意識は、この視野の周辺に追いやられた、生命維持に
不可欠な要素に他なりません。
私達の自我があまりにもはっきり自己主張すると、自然界の
「曖昧な」作用は恐れて逃げていきます。
私達の注意力の埒外に追い出されてしまうのです。
親が子供に言いたい事を言ってみろ、と怒鳴りながら見つめると、
子供は何も言えません。
それと同じです。
古い時代の科学の凶暴さは、ここにありました。
そして、自分の注意に入ってこないものは、初めから存在
しないと言い張ったのが、これまでの長い習慣だったのです。
(中略)
自然界と人間社会がはっきりと分かれた時から自然破壊が
始まりました。
周辺にある自然界よりも、中心にいる人間だけが偉いと
考えたからです。
人間は宇宙の縮図ですから、自然界と人間が分裂した時、
私達の中で大いなる自己と、自我との分裂も起こったのです。
私達は私達の本当の意志を忘れたのです。
そろそろこの本来の単純なバランスを取り戻さねばなりません。
その一助として、今日の精神世界への関心があると思うのです。
あなたが本当の大いなるあなた自身に遭遇するように、
深くリラックスする時間を作ってみましょう。
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