1週間以上経過したのでもう見逃しも見られなくなったけど、先週NHKで東大安田講堂事件のことを取り上げていた。
(これ初回放送は2月だったんですね。。)
この番組についてらくちんさんがコメントしている。
自分たちが大学生になった頃、学生運動というのは基本的に存在しなかった。あの、独特の書体で書かれた看板は見たことがあるから、誰かやっている人はいたと思うが、知り合いにはいなかったな。
学校で習う歴史というのは近代、現代史の場合大体大二次大戦終結、朝鮮戦争~冷戦、日本の高度成長ぐらいがせいぜいで、自分が生まれたころ~物心つくぐらいの出来事はまるで分らないということの方が多い。今の学生さんたちは習うのかもしれないが、文化大革命などは、ほんとうに何のことかぜんぜん知らないで生きてきた。昔はwikiなんてなかったし、知りたければ図書館や本屋に行かないといけないし、そんな何でも書いてある本などそうはなかったのだ。
なので、らくちんさんは東大安田講堂事件について、若いころから色々知っていたようだが、僕などは批判するも何も、なにか昔大騒ぎしていたらしい、ぐらいしか知らなかった。
そういう人たちを全共闘世代と呼んでいいのかよくわからないが(より一般的には団塊世代かな)、あの時代の人たちは、とにかく変わっている(向こうはこちらのほうが変だと思ってるかもしれないが)。
もちろん、色んな人がいるのだが、例えば今も時折テレビに出たりしている鈴木正文さん(元雑誌編集長)は慶大の学生で、安田講堂事件に関わって逮捕された経歴を持つ。自動車雑誌なのに核実験反対運動を記事にして自らも参加したり、執筆した記事の端々に社会運動家的な片鱗がいろいろ見えたりと、非常に世代的な特徴がよく出ていた。
同じ流れで作家の矢作俊彦さんも、作品にそういう片鱗が時折顔を出す。長編「あ・じゃぱん」とかも、どこか学生運動的なコンテクスト(ひじょうに乱暴な書き方ですが)が感じられる。
名前は出さないがやはり戦後間もない生まれの写真家の方も、文章を書かせるとそういう世代的な色の濃い書き方になる。雑誌の記事とかは編集さんが直しているのか、そんなに目立たないが、自身のブログや、特にSNSなどは特徴がよく出ている。
村上春樹さんは、たぶんそういう学生運動とかとは無縁だったとは思うが、時代の影響は確実に受けている。作用があれば反作用が生じるのだ。比較的近年の作品では「1Q84」などは、正面から過激派を取り上げている。
だけど、吉田拓郎さんは(年齢的には少し上だけど)、あまりそういうにおいがないんだよな。。昔は色々いわれたらしいけど、その辺は見事というか。。
ほんの20年ほど前まで、職場には彼ら世代の人がたくさんいた。さらにさかのぼると、自分たちの親くらいの世代の人も社内にいたが、そういう世代に比べると彼らはより現代的というか、昔の日本を引きずっている感じが少なかった。
その頃の印象では、上の(自分の親ぐらい)世代と、団塊以後の世代(~自分たち若手)の2区分ぐらいに感じてもいた。
べつの視点で言うと、演歌/学生服の世代と、洋楽/ジーンズの世代、というかんじかしらね。。
今は上のどちらの世代も引退して、いつのまにか自分たちが社内でももっとも上の世代になってしまった・。そういう、今の立場で彼ら(団塊のひとたち)を見ると、昔はそんなに感じなかった違和感を感じるようになってきたことに気が付く。
なんというか、あの学生運動でヘルメットかぶってマスクみたいのをして、メガホン使って「我々はぁ、この暴挙を指弾しぃ、粉砕しなればぁ」という感じを、今日まで引きずっているような人が多い気がする。。
そういう、世代に共通する経験は、その後の世代、すくなくとも自分たちにはないと思う。各自が夢中になったことや、時代のムードみたいなことはあったし、それを懐かしく思う素地はあるが、それぞれの思いが重なっても一つのカラーにはならない。
必ずしも全く悪いことではないが、たぶん若いころのそうした経験が、とても楽しく充実していたのだろう。若いころやった手法に満足し、それで終わってしまっているようだ。
学生運動が先鋭化し、やがて暴力に訴えるようになったことは、その後の社会に重い悪影響を及ぼした。
戦前の軍国主義は終戦とともに強く否定され、平和的な国家として話し合いと秩序を重んじる社会に生まれ変わった。
学生運動も、最初は議論をするところから始まり、最後は凄惨な暴力で終わっている。しかし、こちらのほうは軍国主義と違い、「閉じて」いない。暴力を否定し、建設的な議論をする、という方向にはいかなかった。
景気の良いころは現世を楽しむことで、その後は不満を鬱屈させることで、解決を先送りしているだけだ。
先の番組でも、当時学生だった方々は過去を批判的には見ていないようだった (暴力に走った事を批判した方はおられたが)。なにかを前に進める、方向を模索する、という努力は、彼らのあたりで止まってしまったように思う。
今日の日本のおかれた状況は、そのあたりに遠因があるのかもしれない。