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奈良県立図書情報館
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昨日、奈良県立図書情報館に行く。
JRなら駅からバス22系統に乗り、遠回り。
奈良の知らない景色を楽しみながら、奈良県立図書情報館に到着。
途中、フナムシのような変わった形をした建物があったが、ぱっと見は何なのかはわからないのが残念。
奈良県立図書情報館では現在、次の資料が展示されている。
「図書展示 古文書を読む くずし字に親しもう」
「柳宗悦と民芸 ー「用と美」を求めてー」
「大和の隣組 戦争を支えた地域組織」
関係資料も頂戴し、充実した時間を過ごす事が出来た。
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柳 宗悦
柳 宗悦(やなぎ むねよし、1889年3月21日 - 1961年5月3日)は、民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。
2011年5月29日現在 Wikipediaより ▼
来歴・人物
東京府(現:東京都)生まれ。海軍少将柳楢悦の三男。学習院を経て東京帝國大学卒業。専攻はウィリアム・ブレイクやウォルト・ホイットマン等の英語圏の宗教哲学であった。
嘉納治五郎は母勝子の弟であり招かれる様に、現在の千葉・我孫子(現:我孫子市)に住んだ。さらに志賀直哉らを呼び、我孫子に文人らが集結し白樺派文学が進展するきっかけをつくった。
学習院高等科から東京帝國大学に進み、大学在学中に、同人雑誌グループ白樺派に参加。生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱え、民藝運動を起こした。1936年(昭和11年)、東京府東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民藝館を設立。1957年(昭和32年)、文化功労者。
晩年はリウマチや心臓発作との闘病を余儀なくされたが、執筆活動を続けた。1961年(昭和36年)春に脳溢血により、日本民藝館で倒れ数日後逝去した。
家族
1914年(大正3年)中島兼子と結婚。柳兼子は近代日本を代表するアルトの声楽家だった。長男にインダストリアルデザイナーの柳宗理、次男に美術史家の柳宗玄、三男に園芸家の柳宗民。甥に染織家の柳悦孝、美術史家の石丸重治、法学者の今村成和がいる。
朝鮮とのゆかり
1919年(大正8年)3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。1924年(大正13年)には京城(現ソウル)に朝鮮民族美術館を設立した。
朝鮮民画など朝鮮半島の美術文化にも深い理解を寄せ、京城において道路拡張のため李氏朝鮮時代の旧王宮である景福宮光化門が取り壊されそうになると、これに反対抗議する評論『失はれんとする一朝鮮建築のために』を、雑誌『改造』に寄稿した。これが多大な反響を呼び、光化門は移築保存された。
1922年(大正11年)に私家版で和装本『朝鮮の美術』や、『朝鮮とその藝術』(叢文閣)を出版した。他の主な編著・著書に『今も続く朝鮮の工藝』(日本民藝協会、1947年、限定版)や、『朝鮮とその藝術 選集第4巻』(春秋社)がある。以上は『全集第6巻.朝鮮とその藝術 ほか57篇』に所収している。
交流、著述活動
バーナード・リーチとの交友も知られる。『バーナード・リーチ日本絵日記』(毎日新聞社 1955年/講談社学術文庫、2002年、補訂解説水尾比呂志)を訳している。またバーナード・リーチ・河井寛次郎・濱田庄司述、柳宗悦編の『焼物の本』が、日本民藝館創立50周年記念で復刻(共同通信社 1985年、解説水尾比呂志)出版された。
仏教学者・禅者の鈴木大拙は、柳の学習院高等部時代の英語教師で、生涯交流した。弔辞「柳君を憶ふ」がある。
沖縄文化を生涯にわたり紹介し、1938年~1940年にかけ沖縄県に、4度滞在調査した。詳しくは『選集.第5巻 沖縄の人文』や、集大成『全集. 第15巻 沖縄の傳統.ほか』がある。また編書『琉球の文化』、『琉球の陶器』(1995年に榕樹社で復刻、榕樹書林に1997年改名)や、『沖縄と柳宗悦』(沖縄タイムス社編、1989年)を参照。
江戸時代に全国各地を廻国し造仏活動を行い、独特の「微笑仏」を残した木喰行道や妙好人の研究を行った。特に木喰研究は柳宗悦の木食仏発見が契機となったことで知られる。『選集.第9巻 木食上人』を参照。また円空仏に関する論考もあり、全集『第7巻 木食五行上人.ほか』に所収。
筑摩書房『柳宗悦全集』は、1980年(昭和55年)に始まり、完結に12年かかった。1982年(昭和57年)には20巻目まで順調に出せたが、第21巻「書簡集」は1989年(平成元年)に上中下巻で、最終第22巻「資料その他」は、1992年(平成4年)に上下巻で、各巻とも1万5千円前後で刊行した。大量の書簡の収集に加え、新たに発見された未発表の原稿作品の収録、雑文や年譜の編集に10年以上費やしたためである。故に全巻揃いは、古書値も高価である。
機関誌「月刊民藝」は、1939年(昭和14年)4月号から1946年(昭和21年)7月号まで、戦局悪化による休刊を挟んで発行された。1955年(昭和30年)から日本民藝協会再創刊している。2008年(平成20年)に不二出版で、『復刻版 月刊民藝・民藝』が刊行された。
和装本による機関誌「工藝」は、1931年(昭和6年)から1943年(昭和18年)にかけ114号が、休刊を挟み120号を1946年(昭和21年)から1951年(昭和26年)にかけ発刊した。なお「工藝 目次総目録」が、熊倉功夫『民芸の発見』(角川書店)の巻末にある。
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見て下さいまして、ありがとうございます。
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