乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

ヨーロッパの「城」の特徴 / 役割や構造 

2024-11-10 | 資料での旅

 

ヨーロッパの「城」の特徴 / 役割や構造 

 

 ヨーロッパにはまるで童話の世界から飛び出してきたような、美しく壮麗な歴史ある城がたくさんあります。

 ヨーロッパでは歴史的に数多くの侵攻や領土争いがあり、そのために防御の要となる城が数多く建造されたという背景があるからです。

 

 また、地方領主が独立性を保つために城を築いたこともその数を増加させました。

 地政学的に見ても、山地や河川沿いなど戦略的に重要な位置に城を築くことで、自らの領域を守ると同時に他の勢力の進出を防ぎました。

 さらに、農業が中心の経済では、領主は農民を保護する代わりに税を徴収し、その税収をもって城を構築・維持していたのです。

 

 以下でそんな城の役割、構造についてもっと詳しく解説

 ヨーロッパの建築文化

 

 

ヨーロッパの城の役割

 誰もがイメージする上に高くそびえ立つ城、というのは民間人が住むところではなく、「為政者や軍の指揮官の住居」であり、政治や情報の拠点でした。

 山地や河川沿いなど交通・軍事・通商上の重要な拠点に建設され、支配域を守る為の防衛線として機能しました。

 

 敵の侵攻や攻撃を防ぐ為に土や石で固め頑強に作られており、食料、武器、資金の備蓄場所でもありました。

 古来より他民族との侵略戦争を繰り返してきたヨーロッパ人には、このような場所は常に欠かせない存在だったのです。

 多くの城があるのは、ある意味必然といえる。

 

ヨーロッパの「城」の特徴|役割や構造に注目しよう引用

 

 

https://europa-japan.com/category15/entry104.html引用

 

Wikipedia引用

 ゴシック様式とは

 バロック様式とは

    アール・ヌーヴォーとは

 ルネサンス建築とは

    マニエリスムとは

 ロココ とは

 

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ヨーロッパ建築様式の種類|各様式の特徴や成立した順番は?

2024-11-10 | ことのは

 

ヨーロッパ建築様式の種類|各様式の特徴や成立した順番は?

 

ヨーロッパ建築様式の多様性は、文化的および歴史的変遷を反映しています。ローマ帝国の古典的な形式から始まり、中世の宗教的建築、ルネサンス時代の復古主義、バロックの華麗な飾り付けまで、時代ごとの社会的、文化的な背景によって建築様式は進化してきました。この記事では、それらの特徴や成立の順番を探り、それぞれの時代の美的感覚を理解する旅をします。

 

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ロココ とは

2024-11-10 | ことのは

ロココ とは

 

  ロココ(Rococo)とは、美術史で使われた用語で、バロックに続く時代の美術様式を指す。

 18世紀、ルイ15世のフランス宮廷から始まり、ヨーロッパの他国にも伝えられ、流行した。

 

 

語源

 

 ロココはロカイユ(rocaille)に由来する言葉である。

 ロカイユは岩の意味で、バロック時代のグロット(庭園洞窟)に特徴的な貝殻で装飾された岩組を指したが、そこから転じて、1730年代に流行した、貝殻の曲線を多用したインテリア装飾をロカイユ装飾(ロカイユ模様)と呼んだ。

 

 ロカイユ装飾は、イタリアの貝殻装飾に由来すると考えられているが、植物の葉のような複雑な曲線を用いた特有のものである(画像参照)。  

 

ロココの家具(1730年)

 新古典主義の時代(18世紀末~)になると、前時代の装飾様式が退廃的であるとして蔑称的に使われたが、その後、時代一般の美術・文化の傾向を指す用語として、広く使われるようになった。

 

 ロココ様式(スタイル)、ロココ建築、ロココ趣味などと使う。

 

 豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココともいわれるが、両者の境界は必ずしも明確ではなく、ロココはバロックの一種と考える人もいる。  

 

 ロココの時代範囲 ポンパドゥール夫人(1721年 - 1764年)を中心とするサロン文化の最盛期にロココ様式は流行し、デュ・バリー夫人の時代まで続いたが、ルイ16世(在位1774年 - 1792年)が即位した頃から、装飾を抑え直線と均衡を重んじるルイ16世様式(広義の新古典主義様式)に次第に取って代わられた。

 

 しかし、ロココ的な美意識や雰囲気は、宮廷が実権を失う1789年のフランス革命まで継続した。  

 

 スウェーデンでは、1771年に即位したグスタフ3世の治世を「ロココの時代」と称している。スウェーデンのロココ様式の流行は1792年にグスタフ3世が暗殺されるまで続いた。

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アール・ヌーヴォーとは

2024-11-10 | ことのは

 

アール・ヌーヴォーとは

 

 アール・ヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。

「新しい芸術」を意味する。

 

 花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。

 

 分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。  

 

 第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。

 

 しかし、1960年代のアメリカ合衆国でアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。

 

 ブリュッセルやリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に登録されている。  歴史  ヴィクトール・オルタ「タッセル邸」。

 

ブリュッセル、1893年 アール・ヌーヴォーは、フランスではスタイル・メトロ、アート・ベル・エポック、世紀末のアート、などと呼ばれることもあった。

 

 アール・ヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエル・ビングの店の名前から一般化した。

 

 この言葉で狭義にベル・エポックのフランスの装飾美術を指す場合と、広義にアーツ・アンド・クラフツ以降、世紀末美術、ガウディの建築までを含めた各国の傾向を総称する場合とがある。

 

 国によって次のようにも呼ばれているが、これらの様式の大部分にはそれほど大きな違いはない。

 

 

 フランスでは、アール・ヌーヴォーは批判者からは、特徴的なアラベスクなフォルムから「ヌイユ様式」(麺類様式)、またエクトール・ギマールにより1900年に実現されたパリ地下鉄のこの様式の出入口から「メトロ様式」などとも呼ばれた。  

 

 ドームの壺(ナンシー派、1900年頃)  ポール・コーシーのズグラッフィート。ブリュッセル、1900年 アール・ヌーヴォーの理論的先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に求められる。

 

 中世のゴシック建築の構造と同様に逆にそれに装飾的・美的な機能を与えて誇示した。

 

 一連のネオ・ゴシック運動の先導者として知られていたにもかかわらず、ヴィオレ・ル・デュクは数々のアール・ヌーヴォーの建築家にも影響を与えた。

 

 ロックタイヤード城のフレスコ画(1859)を含む彼の諸作品はネオ・ゴシック運動とアール・ヌーヴォーの血縁関係の完璧な例である。

 

  1893年にヴィクトール・オルタがブリュッセルに建設したタッセル邸がアール・ヌーヴォー様式の最初の建築物であると見做されている。

 そこではヴィオレ・ル・デュクの流れを完璧に酌んで、金物、モザイク、壁画、ステンドグラスといった構造的であると同時に装飾的でもある要素を取り囲む植物的な曲線が空間のなめらかな流れと響き合っている。  

 

 

「アール・ヌーヴォー」という言葉は1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)においてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが初めて用いた。

 この言葉はフランスに伝わり、1895年12月26日、パリのプロヴァンス通り22番地に美術商サミュエル・ビングの店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」(仏: Maison de l'Art Nouveau)の看板として登場した。

 

 ここではヴァン・デ・ヴェルデの他、エドヴァルド・ムンク、オーギュスト・ロダン、ルイス・カムフォート・ティファニー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど、多数の象徴派とアール・ヌーヴォーの勢力下の展示が行われた。

 

 エクトール・ギマールは彼らとは別の孤独な道を行き、「ギマール様式」と呼ばれる彼独自の世界を作り出し、多作かつ隔絶した才能であったと見なされている。  

 

 フランスのアール・ヌーヴォーの最も見事な総体が構成されたのはナンシーである。

 

 1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多数の併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。

 ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となり、エミール・ガレ、ドーム兄弟、ジャック・グリューバーらがナンシー派を形成した。  

 

 1900年のパリ万国博覧会でビングは現代的な家具、タペストリー、芸術的オブジェなどを色とデザインの両面でコーディネートしたインスタレーション展示を行った。

 

 これらの完全な形で再現された装飾的なディスプレイはこの様式と非常に強く結び付いていたので、結果としてビングの店の名前「アール・ヌーヴォー」が様式全体を指すようになった。

 

 他方で彼らの真正の作品は、彼ら自身が(意図せずに)提唱者となった流行の成功によって飲み込まれ、はびこる粗製濫造の装飾品(ビングとヴァン・デ・ヴェルデの告発)はアール・ヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなる。  

 

 マジョレル邸の玄関の金物工芸 アール・ヌーヴォーは、フォルムの再生を妨げる格式ばった歴史主義とは異なる選択肢を提案するために象牙の塔から出て、日用品の装飾を引き受け過去の様式を断ち切りつつも利用する一群の芸術家たちの営みであった。  

 この観点から、木や石のような古くからの素材が鋼やガラスのような新しい素材と組み合わされた。

 

 芸術家たちはそれぞれの素材から最良のものを引き出すべく極限まで探求を推し進めた。多層のパート・ド・ヴェール(ガラス工芸の一種)、金物工芸の組み合わせ模様を施した階段の手すり、うねりのある木の家具などは、自然界に刺激されたフォルムの革新への意志を保ちつつも、意向に応じて手頃な価格で芸術を取り入れることを可能にした。

 

 この芸術はまた数多くのパトロンを持ち、選ばれたブルジョワ階層の間で広がって行った。  

 

 花、草、樹木、昆虫、動物などのモチーフがよく用いられ、これらは住居の中に美を取り入れるのみならず自然界にある美的感覚に気付かせることを可能にした。

 

 他方で鋼の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するまでに至った。  アール・ヌーヴォーはパリの無数の建物に影響を与えたのはもちろん、ヴァル=ド=マルヌやエソンヌやセーヌ=サン=ドニといったパリ近郊を散歩するとよく目にする、大半が20世紀初頭に建造された珪石造の数多くの古い別荘にも非常に大きな影響を与えている。

 

 

 錬鉄の大胆な使用、煉瓦と陶器による装飾、切妻と時として小塔がこれらの特徴となっている。

 

 こうした郊外でフランスの建築家たちは、アカデミズムとは対照的に総体的なものであろうとしたアール・ヌーヴォーが端緒となった新しい素材と新しい様式を実験したのである。

 

 

  第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコである(1920-1940)。

 

 

  家具調度  ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィによるベッドと鏡台 (1899)。オルセー美術館の展示  アール・ヌーヴォーの錫の花瓶 (1900年頃) アール・ヌーヴォーの家具の概念は職人仕事を再生させた。アール・ヌーヴォーは制作者個々人によるスタイルであり、それは職人の仕事を中心に据え機械仕事からは距離を置くものであった。

 

 室内装飾の領域での大きな革新は統一性の探求にあった。

 とはいえ、アール・ヌーヴォーも伝統的な様式と無縁というわけではなく、とりわけゴシック、ロココ、バロックなどの影響を残していた。

 

 ゴシックから理論的なモデルを、ロココなどから非対称性の応用を、バロックからはフォルムの造形的な概念を引き継いでいる。

 

 日本の彩色芸術もまた、その立体感の極めて平面的な扱いによって、ギリシャ式オーダーの対称性への隷属からアール・ヌーヴォーが解放されるのに貢献した(ジャポニスム)。  

 

 木は奇妙な形となり、金属は自然の流れの交錯を模倣して曲りくねった形となった。

 

 実際に、アール・ヌーヴォーは自然の観察に大いに基づいており、それは装飾のみならず、見方によっては構造的な部分にまで及んでいた。

 

 命を持つ、官能的な波打つ線が構造部分にまで行き渡り支配していた。

 

 椅子やテーブルは素材の中で特徴的なしなやかさに形作られていた。

 それが可能なあらゆる箇所で、直線は禁じられ、構造上の分かれ目は連続した曲線と動線のために隠されていた。

 

 アール・ヌーヴォーの最も優れた作品は、その際立った線のリズムにより、18世紀の高級家具にも似た調和を見せていた。

 

  フランスでは、アール・ヌーヴォーは2つの派に分かれていた。

 一方はサミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、もう一方はエミール・ガレ(1846-1904)に率いられたナンシーのそれである。

 

 ロココとアール・ヌーヴォーの類縁性が最も説得力を持つのはナンシーの方であった。

 それほど魅惑的ではないが、当時最も名を知られていた芸術家の1人であったルイ・マジョレル(1859-1926)が間違いなくナンシーのアール・ヌーヴォーの2番目の先導者であった。

 

 ガレは植物から象徴的な文学の銘に至るまでの幅広いモチーフの象嵌細工を得意とした。

 この巨匠の作品に典型的に見られるのが構造的な要素が幹や枝から末では花となって終わる変容である。

 ナンシー派とは対照的に、パリのアール・ヌーヴォーはより軽快で洗練された簡素なものであった。

 自然から着想されたモチーフはより大まかに様式化され、場合によっては半抽象化までされており、副次的なものとなっているように見える。

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マニエリスムとは

2024-11-10 | ことのは

マニエリスムとは

 

 

マニエリスムとは

 支配階級を楽しませる作品

  →宮殿などに作品が飾られる

  →難関な寓意や構図が好まれる マニエリスムの特徴

  →引き伸ばされた人体

  →非現実的な空間構成

  →形式上の蛇状人体 ローマ略奪

  →ローマにいた芸術家たちが逃れる

  →一部はフランスやプラハへ

  →マニエリスムが各地で発展    

 

 マニエリスムの語源は 手法や様式を意味するイタリア語の マニエラからきている。

 盛期ルネサンスで活躍した ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ を模倣しながら、 多様なバリエーションを 追求したのが特徴的。

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ルネサンス建築とは

2024-11-10 | ことのは

ルネサンス建築とは

 

ルネサンス建築 

 

 ルネサンス建築(ルネサンスけんちく)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。

 

 古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。

 

 人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。

 

 ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。  

 

 ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。

 

 当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている。  

 

 

イタリア

 ルネサンスはイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象であり、西洋の歴史において最も光彩を放つ時代の一つとして挙げられる。

 

  14世紀半ばから15世紀初頭のフィレンツェは、周辺都市との戦争とペストの流行に悩まされており、市民社会の構成は複雑かつ流動的であったが、戦争により周辺都市を併合し、メディチ、ルチェッライ、ストロッツィ、ピッティ、アルビッツィといった都市貴族が毛織物の加工や交易、金融業を主導することで、ヨーロッパの5大都市に数えられるまでに発展していた。

 15世紀、ブルッヘ、ヘントなどのフランドルの諸都市や、ロンドンなどもフィレンツェにきわめて似た社会構造を有していたが、これらの都市がゴシック建築の伝統を維持し続けたのに対し、フィレンツェではルネサンスという新しい芸術活動を創出した。

 フィレンツェがルネサンスを生んだ理由はいくつか挙げられるが、建築に関わるものとして、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂、サンタ・クローチェ聖堂にみられるような現実的かつ明快なトスカーナ固有の美意識、才能のある人間への賞賛、古代ローマの芸術・文学の遺産が数多く残っていたことなどを挙げることができる。

 

 

  やがて、ルネサンス建築はトスカーナからミラーノ、ローマに伝播し、建築家ブラマンテによって完成の域に達するが、イタリアにおけるルネサンス建築の絶頂期は必ずしも長くはなく、イタリア戦争(フランスや神聖ローマ帝国によるイタリア国土の割譲)や宗教改革、ローマ教皇の権威失墜、といった動乱の時期を迎えた16世紀には、いわゆるマニエリスムと呼ばれる局面を迎える(一般にローマ略奪がその画期とされる)。

 

 建築において、どの程度までマニエリスムを当てはめることができるのか、という点については、時代においても地域においても、そして建築家の分類においても議論がある状況だが、少なくともジュリオ・ロマーノ、ミケランジェロ、そして彼の追従者の建築については盛期ルネサンスからの逸脱が見られる。マニエリスムは社会的な安定を失ったルネサンスの衰退・退廃と認識されることもあれば、この時代に進んだ古代研究と建築家の個性が結実した独創的な建築運動と説明されることもあり、評価が分かれる。

 

 

  ルネサンスは、忘れられていた古代を復興する文化運動であり、建築の面ではそれまで主流であったゴシック建築の技法を否定し、古代ローマの建築を再生した、というのが一般的な見解である。

 

 これはおおむね正しいが、ルネサンスの建築家たちは一般に思われているほど、古代ローマの建築を正確に写し取ったわけではない。

 

 むしろ、その建築活動はルネサンスの理想を投影した独創的な側面が強いが、ルネサンスの建築家は古代の人びとが考案した建築のあるべき姿を復興したと考えていた。  

 

 

 ルネサンス建築の特徴としては、建築家たちが人体の比例と音楽の調和を建築に組み合わせることが美の具現と信じ、設計において簡単な整数比(耳に心地よい和音の比例に対応)を用いたこと、建築の平面として集中形式を好んだこと、透視図法を空間表現の手段として用いたことなどが指摘される。

 

 こうした建築理論が書物によって広く普及したことも大きな特色である。

 

 従来の建築は職人の技とのみ考えられていたが、数学的に根拠付けられ体系化されることで、幾何学・音楽・天文学と並ぶ学問と認められるようになったのである。  この項では、マニエリスムとして16世紀の北イタリアの建築活動、特にアンドレーア・パッラーディオの建築を含んでいない。建築史家によっては、16世紀以降をひと括りにマニエリスムとする場合もある。

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ゴシック様式とは

2024-11-10 | ことのは

ゴシック様式とは

 

 ゴシック様式(ゴシックようしき Gothic Style)とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語。  

 

 

概要

 最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適用範囲が広がった。

 

 この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。

 

 彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。

 

 当時は既にゴート族と称される集団は存在しなかったが、「ゴート族」という言葉はしばしばゲルマン人全体を指して用いられ、アルプス以北のドイツ語を話す人々(Tedeschi)のことを指し示して使われたからである。

 

 そして「ゴート族」と言った場合には、ローマ帝国と古典芸術を破壊した蛮族という批判的な見方が含まれていた。  

 

 しかしこの様式に対する認識は誤りである。

 

 ゴシック様式は、フランスのイル・ド・フランス地方から始まって各地へ広まった様式であり、ゴート族またはドイツ語を話す人々が創始した様式ではない。

 

 また、この様式が創始された時代の者たちは「現代様式」や「フランス様式」と言い表している。  

 

 

 ルネサンス期以後ゴシック様式は蔑まれ、一部その使用され続けたところもあるにせよ(ゴシック・サバイバル)、ほとんど採用されなくなった。

 

 しかし、18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスにおいてゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれるゴシック様式再興運動が活発化する。

 

 以後ゴシック様式が再考されて再び脚光を浴びるようになり、名前が由来するところの侮蔑的な意味合いはなくなった。

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バロック様式とは

2024-11-09 | ことのは

バロック様式とは

 

 バロック(伊: barocco, 仏: baroque 英: Baroque, 独: Barock)

 16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生。

 ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式。

 

 バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。

 

 カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。

 

 18世紀後半には新古典主義(文学、音楽は古典主義)へと移行した。

 

  バロックという概念の誕生と発展 バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ているとする説が有力である(ただし名詞barrocoはもともとはいびつな丸い大岩や、穴や、窪地などを指していた。

 いずれにせよ、この語にはいびつさの概念が含まれていたと思われる。

 

 一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のbarocoからきたともされる。

 

 そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある。

 

   現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。

 

 当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。

 彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。

 

「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。

 フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。

 

  1694年(バロック期の最中)には、この語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。

 

『バロック真珠のネックレス』」と定義されていた。

 

 1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」という定義が加わった。

 

 19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。

 

 1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き』においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。

 

 この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。

 

 フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。

 

  さらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった。

 

 皇后ウジェニーは 気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた。

 バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)はその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。

 

  ヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した。

 

 ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。

 

 フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。  

 

 始まり  ローマのジェズ教会のファサード。

 

 バロック様式の教会としては初めてのものであったと考えられている(1580年、ジャコモ・デッラ・ポルタ)。

 

 バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。

 バロック様式は1580年頃に始まった。  

(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。

 

 建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている。

 

 いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。

 

 この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう.  拡散 バロック様式の芸術家たちの劇的な側面が直截的・情動的な効果によって宗教的な主題の奨励に繋がると判断したカトリック教会によってバロックの人気と成功は促進された。

 

  1545-1563年のトリエント公会議によって定義されていたように、これはカトリシスムの芸術であり、それを最も良く示す教令は「改革、諸聖人の聖遺物、聖なる図像についての教令」である。

 

 つまりは対抗宗教改革の芸術であった。

 

 しかしながら、宗教改革に加わった国々では強い抵抗を受け、プロテスタント芸術が発達することになる。

 

 イギリスやフランスもまた拒絶の重要な中核となった。  

 世俗の貴族もまたバロック美術や建築の劇的な効果を訪問者や競争相手を感銘させる方法として考えていた。

 

 バロックの宮殿は一連の前庭、控えの間、大階段、応接間から構成されており、進むに従って豪華になってゆく。

 

 数多の芸術形式――音楽、建築、文学――がこの文化運動の中で互いに影響を及ぼし合った。  

 

 バロック様式の魅力は、16世紀のマニエリスム芸術の繊細さや知的な特質から、感覚に向けられた直感的なものへと意識的に移行した。

 

 直截的、単純明快、劇的な図像が用いられた。

 バロック芸術はアンニーバレ・カラッチとその仲間たちの果断な傾向から一定の影響を受けており、またコレッジョ、カラヴァッジオ、フェデリコ・バロッチといった、今日では「初期バロック」と分類されることもある芸術家たちの影響も見出される。  

 

 カラッチ一族(兄弟と従兄)とカラヴァッジオはしばしば古典主義とバロックという言葉で対比され、 両者は造形の分野(ヴェルフリンが定義した)で対照的な影響を持ち、後世に多大な影響を及ぼした。  

 

 ニコラ=セバスチャン・アダム『プロメテウス』(1737年、ルーヴル美術館蔵)。際立った緊張感、複数のアングルと視点、激しい情動に満ちた熱を帯びた力作。

 

 18世紀には古典的バロックから後期バロックもしくはロココへと移行した。

 これらは17世紀末にドイツ、オーストリア、ボヘミアで出現した。

 官能的な美の趣味は17世紀バロックの型に嵌った性質により自由な創作をもたらした。  

 

 装飾が増殖し、豊饒かつ幻想的になった。

 トロンプ・ルイユの壁画、階段、アレゴリーのニンファエウムや彫刻が教会、城、噴水を過剰なまでに満たした。

 

 ウィーン、ロンドン、ドレスデン、トリノ、南ドイツ、ボヘミアがこうした新機軸を取り入れた。

 

 ニコラ・サルヴィによるローマのトレヴィの泉(1732-1762)やルイージ・ヴァンヴィテッリによるナポリ近郊のカゼルタ宮殿の階段(1751-1758)に見られるように後期バロックの旺盛なカプリッツィオにあって目の喜びは不可欠なものであった。  

 

 パリ(コンコルド広場)、ボルドー(ブルス広場)、ナンシー(スタニスラス広場)などに建築空間が開かれた。

 

 オーストリアではフィッシャー・フォン・エルラッハとルーカス・フォン・ヒルデブラントが幻想的な建築で競い合った。

 

 バイエルンでは田舎の修道院が小天使に覆われた。

 ミュンヘンではアダム兄弟が高名である。

 

 ボヘミア、モルドバ、南ドイツのロココは巡礼教会を装飾し、ヴィースの巡礼教会では白地を覆う金泥の装飾で壁が崩れんばかりとなっている。  

 

 スペインとポルトガルのアメリカ植民地はイベリアのプレテレスコ様式に影響を与えた。

 

 フランスでは、ジュール・アルドゥアン=マンサールの門人たちが邸宅とその内部装飾に取り組み、サンジェルマン街やマレー、さらにはランブイエの非凡な鏡板などで見ることができる。  

 

 特徴 ハインリヒ・ヴェルフリンはバロックを円に代わり楕円が構成の中心に据えられ、全体の均衡が軸を中心とした構成に取って代わり、色彩と絵画的な効果がより重要になり始めた時代と定義した。  

 このアナロジーを音楽に当て嵌めると、「バロック音楽」という表現は有用なものとなる。対照的なフレーズの長さ、和音、対位法はポリフォニーを時代遅れにし、オーケストラ的な色彩がより強く現れるようになる。

 

 同様に、詩の表現は単純で、力強く、劇的なものとなり、明快でゆったりしたシンコペーションのリズムがジョン・ダンのようなマニエリスム詩人の用いる洗練され入り組んだ形而上学的な直喩に取って代わった。

 

 バロックの叙事詩であるジョン・ミルトンの『失楽園』では視覚表現の発達に強く影響された想像力が感じられる。

 

  絵画では、バロックの身振りはマニエリスムのそれに比べゆったりとしている。

 

 より両義的、不可解、神秘的でなく、むしろバロックの主要な芸術形態の1つであるオペラでの身振りに近い。

 

 バロックのポーズはコントラポスト(傾いだ姿勢)に頼っており、肩と腰の平面を反対方向にずらして置くフォルムの緊張感は今にも動き出しそうな印象を与える。

 

  17世紀初頭にはヨーロッパ全土で激烈を極めた宗教戦争などあらゆる闘争が起こり、国家や社会が分裂した。その不安な時代において、連続的な運動と永続的な秩序との間にしかるべき関係を見出そうとする努力がなされ、そこから独特な心情的表現が生まれた。

 これが「バロック」である。

 強い激烈な印象を与える変化と対比など、これらすべては、動的で変化に富む自然と人間の感情から見出された新しい表現であった。

 

  調和・均整を目指すルネサンス様式に対して劇的な流動性、過剰な装飾性を特色とする。

「永遠の相のもとに[注釈 2]」がルネサンスの理想であり、「移ろい行く相のもとに」がバロックの理想である。全てが虚無であるとする「ヴァニタス」、その中で常に死を思う「メメント・モリ」、そうであるからこそ現在を生きよとする「カルペ・ディエム」という、破壊と変容の時代がもたらした3つの主題が広く見出される。  

 

 ルネサンスからバロック初期はイタリアが文化の中心であったが、バロック後期には文化の中心はフランスへ移ってゆく。

 

  古典文学の1場面、劇的なアクションの只中で凝固し、斜めの遠近法の広がりの中で前景のイマージュがはっきりと現れている。

 

 絵画における「バロック」の意味を定義づけるものの1つはピーテル・パウル・ルーベンスがマリー・ド・メディシスのためにパリのリュクサンブール宮殿で制作した一連の絵(現在はルーヴル美術館蔵)であり、ここではカトリックの画家がカトリックのパトロンを要求を満足させている――バロック時代の君主制、図像学、描画技法、構図、そして空間や動きの描写などの概念である。

 

 カラヴァッジオからコルトーナまで、イタリアのバロック絵画には大きく異なった流れがあるが、いずれも異なった様式で情動的なダイナミズムを追求している。  

 

 後期バロック様式は徐々により装飾的なロココへと入れ替わってゆき、バロックの定義はこのロココとの対比によってより明確となる。

 

 フランスでは君主制に仕える芸術と見做されることも多い古典主義美術もバロックと対比するものと見做される。

 

  ネーデルラント(フランドル) ルーベンス ネーデルラント(オランダ) レンブラント フェルメール スペイン ベラスケス フランス ニコラ・プッサン(ローマで活躍) ジョルジュ・ド・ラ・トゥール イタリア カラヴァッジオ

 

 

 彫刻

 バロック彫刻では、人物の集合に新しい重要性が生じ、人間のフォルムによってダイナミックな動きとエネルギーがもたらされた――人物は中心の渦巻を取り巻いて輪をなし、あるいは外を向き周辺の空間へと向かう。バロック彫刻になって初めて、彫刻は複数の理想的な視角を獲得した。隠された光源や噴水といった彫刻以外の補足的な要素を付け加えるのもバロック彫刻の特徴の1つである。  

 

 ベルニーニ (1598-1680) の建築、彫刻、噴水はバロック様式の特徴を強く示しており、間違いなく最も重要なバロック期の彫刻家であった。

 

 ベルニーニはその万能さではミケランジェロに迫るものがあった――彫刻し、建築家として働き、描き、戯曲を書き、上演を行った。

 

 20世紀末にはベルニーニの彫刻は、大理石を彫る名人芸と、身体と精神を調和させたフォルムの創造とによって非常に高名なものとなった。

 また有力者からの需要が多かった胸像の優れた彫り手でもあった。

 

  コルナロ礼拝堂――総合芸術の傑作  ベルニーニ『聖テレジアの法悦』(en:Santa Maria della Vittoria) ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会のコルナロ礼拝堂のために制作されたベルニーニの『聖テレジアの法悦』(1645-52)はバロックを理解する助けとなる。コルナロ家のために教会の側面の補助スペースとして設計されたこの礼拝堂は、建築、彫刻、そして演劇を1つの大きな奇想に纏め上げた総合芸術の傑作となっている。  

 

 ベルニーニは煉瓦のボックスを作り、白い大理石の聖テレジアの恍惚する舞台とした。これは多色の大理石で作られた建築的な枠によって取り巻かれ、窓が彫像を高みから照らす。

 

 礼拝堂の両側壁沿いにある桟敷席にはコルナロ家の人々の顔が軽いレリーフで彫られている。

 見る者は聖人の神秘的な恍惚の観客=目撃者となる。

 アビラのテレジアは空想的な装飾によって強く理想化されている。

 対抗宗教改革で人気のある聖人であったテレジアは自身の神秘的な体験をカルメル会の修道女たちのために綴った。

 

 これらの書き物は霊性を追い求める俗人に人気となり、この彫像はその話を体現するものである。

 テレジアは神の愛をその心臓を貫く燃える矢と表現した。

 ベルニーニはこのイマージュを文字通りに、テレジアの足許でお辞儀の姿勢をして微笑みかける、クピドのようにして黄金の弓を持つ天使を置くことで具現化した。

 

 天使の像は矢を彼女の心臓に射込もうとはしておらず、引き下げている。聖女の顔は恍惚の予兆ではなく現在の充足感を映し出しており、オルガスム的でもあると言われる。  

 

 信仰とエロティシズムの混淆はバロック精神の特徴の1つであり、新古典主義の慎みやヴィクトリア朝の羞恥心に背くものであり続けてきた。

 

 ベルニーニは信心深いカトリックであり、修道女を風刺しようとしたのではなく宗教的体験から引き出される複雑な真実を大理石の中に体現しようとしたのである。

 

 テレジアは恍惚という多くの神秘主義者たちが用いてきた表現によって霊的な天啓に対する肉体的な反応を表したのであり、ベルニーニは真摯であった。  

 

 コルナロ家はこの礼拝堂で控え目に自分達を宣伝している。

 彼らの姿は礼拝堂の側面に彫られ、桟敷席からこの出来事を目撃している形になっている。

 

 オペラハウスでのように、コルナロ家の人々には桟敷席という聖女に最も近い、観客と比べ特別な位置が与えられているが、しかしながら観客の方が正面の良く見える位置になる。

(17世紀から恐らくは19世紀までは)コルナロ家の許可なくしては誰も彫像の下の祭壇でミサを行うことが出来なかったという意味ではこれは私有の礼拝堂であるが、見る者と彫像を隔てるものは祭壇の柵だけである。

 この彫像の光景は、神秘主義と一家の誇りの両方を示しているのである。  

 

 

 建築 

 シュトゥットガルト近郊のルートヴィヒスブルク宮殿。

 最大のバロック宮殿。  

 ヴァッハウ渓谷のメルク修道院 バロック建築では、重点は力強いマッス、柱、ドーム、キアロスクーロ、絵画的な色彩効果、量感と空間との取り合わせなどにあった。

 内装では、バロックの何もない空間を取り巻き横切る壮大な階段はそれまでの建築には存在しなかったものであった。

 世界各地のバロック建築の内装で見られる他の特徴として、奥に行くにつれて徐々に豪華になり、華麗な寝室、王座の間、謁見室などで頂点を迎える儀式用の続き部屋がある。

 これは気取った貴族の住居でも小さなスケールで模倣された。

 

  バロック建築はドイツ中部(ルートヴィヒスブルク宮殿やツヴィンガー宮殿)、オーストリア、ポーランド(ヴィラヌフ宮殿やビャウィストク宮殿)、ロシア(ペテルゴフ宮殿)などでも熱狂的に受け入れられた。

 

 イギリスでは、バロック建築はクリストファー・レン卿、ジョン・ヴァンブルー卿、ニコラス・ホークスムアらによって1660-1725年頃に頂点を迎えた。  ヨーロッパの他の都市やイスパノアメリカでも数多くのバロック建築や都市計画を見ることができる。  

 

 

 庭園  

 フランス、ユッセ城のバロック庭園 この時代の都市計画は交差点に小公園のある放射状の大通りを持ち、これはバロック庭園の設計から着想されたものであった。

 

  イタリア式庭園でのバロックの庭はルネサンス期の16世紀にもみられ、エステ荘、ランテ荘の庭などにも、バロック性がみられるが、同国でこの形式の庭園の造営の中心は17世紀から18世紀にかけてで、特徴として、大規模カスケードや池のテラス化といったルネサンス式よりも斜面を大胆に利用しているものがみられ、壁面、噴水、彫刻、園亭、階段及び手摺り、水劇場(野外劇場)、グロット(庭園洞窟)、壁がん、鉢(花鉢、飾り鉢)など石造物もテラスにおいて多く用いられている。

 

 そして統一性と立体性を図り、カスケードと水劇場による力動性をもたせ、驚かせる、奇想さといった、遊戯性とスペクタクル(壮観)性、イベント性が強調され、ルネサンスの基本精神である古代文明・文化の復興・再現という考えや芸術観であった自然の模倣は後退し希薄となっていき、ルネサンスのシンメトリー、調和、比例に代わって、創造的奇才の発揮と、庭の学芸性、多様性、総合性から一面性へと向かった。  

 

 イタリア式の場合は、ローマの南東20キロにあるフラスカーティに多い。フラスカーティはローマ時代の一大別荘地、温泉地であり、丘陵地でルネサンス期に別荘地・保養地として見直された。

 

 イタリアンバロックの代表例ではアルドブランディーニ荘(1598-1603)があげられ、このほかにはトルローニア荘、モンドラゴーネ荘、ムッティ荘、ファルコニエーリ荘、ルフィネッラ荘、ファルネーゼ荘や、イゾラ・ベッラ(マジョーレ湖,ベッラ島階段状のバロック庭園,イタリア式庭園・バロック)などがある。  平面幾何学式庭園・フレンチバロックの例では現在でも残されあるいは往時の姿に再建されたものも数多く、ランゲンブルク城バロック庭園(建築はルネッサンス建築の城)、ヴォー=ル=ヴィコント城(フランス・バロック庭園の初期の傑作)、プロイシシュ・オルデンドルフのクアパーク・バート・ホルツハウゼン(19世紀に風景庭園が増設されている)、ニュルンベルク・ノインホーフ城のバロック庭園、 リュベッケのシュトックハウゼン館庭園(但し、かつてのバロック庭園は、わずかにしか遺されていない)、カッセルのベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエ(一部は風景式に改造)、ハイデルベルク城(1719年に庭の一部をバロック庭園に手直し)、アンスバッハのオランジュリーと宮廷庭園(1723年から1730年までにバロック庭園として拡張される)、コーブルクホーフガルテン(Hofgarten、王宮庭園)、シェンゲンの「Gärten ohne Grenzen」(再建されたバロック庭園)、キルヒブラークのヴェスターブラーク騎士館バロック庭園、ヴァイカースハイム城(フランケン地方で最も初期のバロック庭園の一つに数えられる)、ホーフガルテン (ミュンヘン)、 シュタットハーゲンのシュタットガルテン、ニンフェンブルク宮殿バロック式庭園、シュヴェツィンゲン城バロック式庭園、シュテムヴェーデハルデム城公園(おそらくバロック庭園であったと推定されている)などがある。

 

  英国のカントリー・ハウスでも18世紀に広まる風景式庭園前世代となる17世紀時点では、バロック庭園の幾何学的な形状を有したものが好まれて採用されている。

 

 現代でもグイード・ハガーなどが小規模ながら、時としてバロック庭園を手がけている。  

 

 

 文学と哲学   

 バロック文学は、広く見られるメタファーとアレゴリーの使用と、マラヴィリア("Maraviglia", 不思議、驚き――マニエリスムでのように)の探求の中でのトリックの使用としてまとめられる新しい価値を示した。

 

 マニエリスムがルネサンスに最初の穴を開けたのだとすれば、バロックはルネサンスに正反対の応答をした。

 

 人間の心理的な苦悩――確固とした拠り所を求めてニコラウス・コペルニクスとマルティン・ルターの起こした革命の後では放棄された主題、「人間の究極の力」の証し――が、バロック期の芸術や建築では再び見出される。ローマのカトリック教会が主要な「顧客」であったので、作品のテーマは宗教的なものとなった。

 

  芸術家たちは細部に気を配るリアリズム(典型的な「複雑さ」とも言える)を伴うヴィルトゥオジテ(名人芸――ヴィルトゥオーゾはあらゆる芸術に共通のあり方となった)を追求した。  

 

 外形に与えられた特権が、バロック作品の多くに見られる内容の欠如を埋め合わせ釣り合わせるであろう。

 (以上、Wikipedia)

 

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舞台雑感 と、チケット整理     来年1月の京響のチケットをゲットしたよ

2024-11-09 | 舞台・音楽 雑感メモ

舞台雑感と、チケット整理

 

 来年1月の京響のチケットをゲットしたよ^^今のところ、11~3月で予定は以下の通り。

 

 

十一月

  キーウバレエ(白鳥の湖  済)

  京響(用があって断念)

  芝能(本日11/9公演:頭痛の為、断念)

 

  キーウバレエ(くるみ割り人形)11/26

  ミサ、オペラなど、4公演

十二月

  新日本プロレス 12/1

  ヴィオラコンサート 12/4

  ピアノ バラビーノ 12/6

  阿波人形浄瑠璃 12/7

2025

一月

  京響 1/11

三月

  ピアノ シフ・ミーツ・モーツァルト 3/23

 

 朝一10分遅れでチケットをゲットしたのに、いい席はどんどん埋まっていて、お目当ての席はギリギリセーフだった。

 音楽も人気があるんだね。

 

 今日は歌舞伎の南座顔見世のチケットと販売開始日でもあるんだ。

 でも、まだ躊躇してるんだ、、、

 片岡仁左衛門丈は見たいんだけど、、、

 何を隠そう、演目やなんかで躊躇してるんだ。

 確かに今回の演目は仁左衛門丈の美しさには魅了されるんだけど、それほど好きな演目(『元禄忠臣蔵』)ではないんだ、、、

 今日明日中に買うか買わないかの結論を出すよ。

 

 11月の京響のチケットを購入してたんだけどいけなくなったんだ。

 そうしたら、代わりに行ってくださるという方がいらっしゃったので、チケットを差し上げることができた。

 なんだか、とっても嬉しい!

 

 今日は私、頭が痛いんだ。

 なので、楽しみにしていた奈良の芝能は断念するよ。

 さみしいので、観世流百番集を読んでおこう、、、

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HOR  BIN  HOTEL  IN  VIETNAM (絵画や写真が多く飾られているフランス風ベトナムホテル)  (22景)

2024-11-08 | 中国 2006~2019(7回)・台湾・ベトナム

HOR  BIN  HOTEL  IN  VIETNAM (絵画や写真が多く飾られているフランス風ベトナムホテル)  (22景)

 


上の絵は、約100年前のHOR  BIN  HOTEL

 

 

 ベトナムではHOR  BIN  HOTELに泊まったことは、以前にも記録しました。

 このホテルはフランス風の木製階段の形が美しかったが、ほかの特徴としては、絵画や写真が多用されていた。

 ただし、良い絵というよりも記録的絵画や写真が多く、また数で勝負といった感じ。

 何しろ100年の歴史を記録するためといった意図を強く感じた。

 

 レストランやロビーや他の多くを写すことができなかったが、いちぶだけだが、記録しておきたい。

 

 

 

 

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『熊野権現縁起絵巻』 17 虎王は王子の守護させ獣らが木の実を捧げ木の葉衣を着た王子が受け取る。虎王は中央におり、背後から王子を見守る(33~35頁) 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

2024-11-07 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 17 中巻

  誕生したばかりの王子は、亡き女御の母乳で生長する。女御の祈念に応じて、山の虎王は獣らを論し、王子の守護させる。獣らが木の実を捧げ、木の葉衣を着た王子が受け取る姿が、異時同図法により描かれる、虎王は中央におり、背後から王子を見守る。(33~35頁)

 

和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

 中巻 

  誕生したばかりの王子は、亡き女御の母乳で生長する。女御の祈念に応じて、山の虎王は獣らを論じし、王子の守護させる。獣らが木の実を捧げ、木の葉衣を着た王子が受け取る姿が、獣らが木の実を捧げ、異時同図法により描かれる、虎王は中央におり、背後から王子を見ておる。(33~35頁)

33頁、34頁

34頁、35頁

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

2012年に読んだ熊野権現縁起絵巻

107:『和歌山県立博物館所蔵 熊野権現縁起絵巻』勉誠出版(6枚)柳川家蔵絵巻(断簡)

上巻

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 5 九百九十九人の后たちの悲しみ  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 6 九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 8 殿舎の内では、王の腰元に女御が付す。灯をともした鉄輪を被る女の姿が、后たちの嫉妬の深さを象徴する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 9 財前王をのせた車が、同時に導かれて五衰殿を出る。後をかつぐ両人が五衰殿の方を振り返る姿が、王の心残りを代弁する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

中巻

『熊野権現縁起絵巻』 10 「もろ共に御共せん」「いまはかいなきわかれそ」 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 11 中巻 やがて退出の時、玉簾に髪がかかる。自分を留めるのは玉簾だけだと、改めて悲しみを深くする。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 12 中巻 武士らは女御の処刑の地、地獄山へと追い立てる。市女笠を被る女御の両足より血が流れだすが、地獄谷ははるかに遠い。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 13 一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となる。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 14 中巻  女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す/ 女御は自身の髪を切り、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 15 中巻   王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる。敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 16 中巻   (15に続いて)周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁)

『熊野権現縁起絵巻』 17 虎王は王子の守護させ獣らが木の実を捧げ木の葉衣を着た王子が受け取る。虎王は中央におり、背後から王子を見守る(33~35頁) 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 

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『熊野権現縁起絵巻』 16 中巻   (15に続いて)周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁)

2024-11-07 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 16 中巻

  王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる(王子を懐妊中は首が斬れなかった)敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける(王子守護を祈願している)前に落ちた首もまた穏やかな表情。周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁)

 

和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

 中巻 

  王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる(王子を懐妊中は首が斬れなかった)敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける(王子守護を祈願している)前に落ちた首もまた穏やかな表情。周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁 前回と同じ詞書)

32頁、33頁

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

上巻

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 5 九百九十九人の后たちの悲しみ  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 6 九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 8 殿舎の内では、王の腰元に女御が付す。灯をともした鉄輪を被る女の姿が、后たちの嫉妬の深さを象徴する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 9 財前王をのせた車が、同時に導かれて五衰殿を出る。後をかつぐ両人が五衰殿の方を振り返る姿が、王の心残りを代弁する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

中巻

『熊野権現縁起絵巻』 10 「もろ共に御共せん」「いまはかいなきわかれそ」 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 11 中巻 やがて退出の時、玉簾に髪がかかる。自分を留めるのは玉簾だけだと、改めて悲しみを深くする。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 12 中巻 武士らは女御の処刑の地、地獄山へと追い立てる。市女笠を被る女御の両足より血が流れだすが、地獄谷ははるかに遠い。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 13 一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となる。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 14 中巻  女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す/ 女御は自身の髪を切り、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 15 中巻   王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる。敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 16 中巻   (15に続いて)周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁)

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『熊野権現縁起絵巻』 15 中巻   王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる。敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

2024-11-06 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 15 中巻

  王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる(王子を懐妊中は首が斬れなかった)敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける(王子守護を祈願している)前に落ちた首もまた穏やかな表情。周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁)

 

和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

 中巻 

  王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる(王子を懐妊中は首が斬れなかった)敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける(王子守護を祈願している)前に落ちた首もまた穏やかな表情。周りでは武士らが涅槃図さながらに泣き崩れる。(33頁)

32頁、33頁

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

上巻

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 5 九百九十九人の后たちの悲しみ  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 6 九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 8 殿舎の内では、王の腰元に女御が付す。灯をともした鉄輪を被る女の姿が、后たちの嫉妬の深さを象徴する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 9 財前王をのせた車が、同時に導かれて五衰殿を出る。後をかつぐ両人が五衰殿の方を振り返る姿が、王の心残りを代弁する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

中巻

『熊野権現縁起絵巻』 10 「もろ共に御共せん」「いまはかいなきわかれそ」 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 11 中巻 やがて退出の時、玉簾に髪がかかる。自分を留めるのは玉簾だけだと、改めて悲しみを深くする。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 12 中巻 武士らは女御の処刑の地、地獄山へと追い立てる。市女笠を被る女御の両足より血が流れだすが、地獄谷ははるかに遠い。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 13 一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となる。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 14 中巻  女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す/ 女御は自身の髪を切り、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 15 中巻   王子と身を分けた女御の首は、いとも簡単に斬れる。敷皮に座した女御の体は、血しぶきをあげても、少しも乱れず合唱を続ける。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

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『熊野権現縁起絵巻』 14 中巻  女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す/ 女御は自身の髪を切り、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

2024-11-06 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 14 中巻

  女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す。(31頁)

 

 女御は自身の髪を押し切り、五つに分け、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する。画は髪を切る前の姿。 続く斬首の場面では、元結が切れている。(32頁)

 

 

和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

 中巻 

 女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す。(31頁)

 

 女御は自身の髪を押し切り、五つに分け、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する。画は髪を切る前の姿。 続く斬首の場面では、元結が切れている。(32頁)

31頁、32頁

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

上巻

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 5 九百九十九人の后たちの悲しみ  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 6 九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 8 殿舎の内では、王の腰元に女御が付す。灯をともした鉄輪を被る女の姿が、后たちの嫉妬の深さを象徴する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 9 財前王をのせた車が、同時に導かれて五衰殿を出る。後をかつぐ両人が五衰殿の方を振り返る姿が、王の心残りを代弁する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

中巻

『熊野権現縁起絵巻』 10 「もろ共に御共せん」「いまはかいなきわかれそ」 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 11 中巻 やがて退出の時、玉簾に髪がかかる。自分を留めるのは玉簾だけだと、改めて悲しみを深くする。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 12 中巻 武士らは女御の処刑の地、地獄山へと追い立てる。市女笠を被る女御の両足より血が流れだすが、地獄谷ははるかに遠い。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 13 一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となる。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 14 中巻  女御は腹中の王子に語りかけ、誕生を促す/ 女御は自身の髪を切り、諸神仏・父母らに奉り、王子守護を祈願する  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

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『熊野権現縁起絵巻』 13 一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となる。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

2024-11-05 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 13 中巻 

 剣のように険しく、馬も通わない山を一行が登る。先頭の武士の指さす路は、これまでになく、勾配が急。女御ばかりか、武士らも頂をぐっと見上げる。 

 処刑地に着くと、斬首の準備が整えられ、女御は敷皮に座り、合唱する。一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、何も起こらない。刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となった。

 

和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

 中巻 

 剣のように険しく、馬も通わない山を一行が登る。先頭の武士の指さす路は、これまでになく、勾配が急。女御ばかりか、武士らも頂をぐっと見上げる。 

 処刑地に着くと、斬首の準備が整えられ、女御は敷皮に座り、合唱する。一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、何も起こらない。刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となった。

29頁、30頁

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

上巻

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 5 九百九十九人の后たちの悲しみ  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 6 九百九十九人の后は女御野解任をきいて嫉妬 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 7 后たちは五衰殿を訪れ、財前王と女御の前で相人に偽の占いをさせ、悪王子解任と答えさせる 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 8 殿舎の内では、王の腰元に女御が付す。灯をともした鉄輪を被る女の姿が、后たちの嫉妬の深さを象徴する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 9 財前王をのせた車が、同時に導かれて五衰殿を出る。後をかつぐ両人が五衰殿の方を振り返る姿が、王の心残りを代弁する。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

中巻

『熊野権現縁起絵巻』 10 「もろ共に御共せん」「いまはかいなきわかれそ」 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

『熊野権現縁起絵巻』 11 中巻 やがて退出の時、玉簾に髪がかかる。自分を留めるのは玉簾だけだと、改めて悲しみを深くする。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 12 中巻 武士らは女御の処刑の地、地獄山へと追い立てる。市女笠を被る女御の両足より血が流れだすが、地獄谷ははるかに遠い。 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

『熊野権現縁起絵巻』 13 一寸抜けば千人を斬る霊剣が抜かれるが、刃を当てても、観音の申し子である王子を懐妊する女御の首は斬れない。誕生まで斬首は中止となる。和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

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