台風のおかげで多くはないが雨をいただいた。
つい最近までの猛烈な暑さが暑いと言うレベルの暑さに下がった。
昨日今朝と朝晩は涼しさを感じている。
高屋川の鳥たちが鵜をかしらに整列している。
鳥たちが隊列を作ったので前回に続いた物語を始めやすくなった。
鵜を先頭に鴨が30羽ぐらいの列
サー戦いの姿に似ている
1568年神辺城は藤井皓玄により乗っ取りにあうが2ヶ月後に杉原盛重が
九州から引き返し奪還した。
西から見た本日の神辺城址
それ以後一時期毛利に忠誠を誓った宮氏が滝山城をおさめたが天正年代に入り
毛利の武将、備後福田氏一族の福田盛雅が兵数百人を連れてこの地に入り治めた。
神辺城の杉原盛重は尼子と山陰での戦に明け暮れし、神辺はおろそかになっていた。
盛重の長男元重は城代代行として神辺城にいた。
天正6年 元重は1里少々離れた滝山城が欲しい、
いや、滝山城に住む西国一の美貌で名高い
よし姫が欲しいから嫁にくれと使者を頻繁に出した。
受ける盛雅は一人娘で眼の中に入れても痛くないほど可愛いので
とうに15を超えたのにまだ手元に置いている。当然嫁に出す気はない。
その頃摂津の国から和歌山を経て西国に向かう途中の
池田勝正が滝山城の客人として逗留していた。
神辺城の元重はいらだち始め、
嫁にくれないなら滝山城を攻めると言う脅しを日増しに強くした。
盛雅は元重の器を小さいとみて娘は絶対わたせない、
親父の杉原盛重は山陰だし、兵もそんなにいないだろうし、
来るなら来いという気持ちが強くなり戦いの腹を決めた。
自陣は300人、在所の大江村から100人を補い戦いは始まった。
神辺城からは1600人が繰り出した。二手に分けて山陽道と笠岡道をのぼった。
笠岡道の先手は昔、福田盛雅の世話になっていたので海の方角へ進めた。
山陽道を進んだ組は滝山城を囲んで攻めるが逆に押し返されて苦戦していた。
笠岡組の大将は行く先がおかしいと疑いはじめたので
仕方なく道を変えて滝山城を目指した。
1600の兵が到着して1昼夜の激戦で福田盛重はこの城を離すことを決め
女、子供は井原方面に逃がし、自分も美作方面を目指して逃げることにした。
さて、最愛のよし姫は池田勝正と相談して時の将軍に仕えることにして勝正に預けた。
このとき将軍義昭は41歳、鞆で臨時幕府をひらき、各諸侯へ文を送り味方を増やし
何時か信長を倒して京へ帰る思いでいっぱいであった。
特に明智光秀への文は長いものだった。
(もしかしたら光秀の謀反は義昭の仕掛け?)
鞆の対岸箕島から鞆を見る
滝山を逃れたよし姫は勝正と深津を目指し、そこから箕島へ船で向かった。
勝正の知らせて義昭はここまで迎えに来てくれた。
よし姫を見た義昭は京にもいない美形とひとめぼれ。
よし姫25歳。
すぐに鞆の津へ連れ帰りよし姫に身の回りの世話をさせた。
義昭は正妻がいなくて鞆にも側室は置いていなかった。
一ケ月もしない間に義昭は自分が天下を再度動かす夢を捨ててしまった。
よし姫の接客のうまさに舌を巻き、夜は酒の相手をさせ
二人で舞を踊るなど今までの生活が一変した。
豊臣秀吉が西国へ行く途中、鞆へ逗留し義昭とのはなし、
征夷大将軍を秀吉にくれるよう迫られたがよし姫の中持ちで後日に回された。
このとき好色の秀吉に口説かれるがさらりとかわした。
楽しい日々も時日の経つのは速いもの。
天正16年義昭は京に帰り将軍職を辞退して出家した。
このときよし姫が京へ同伴したかは定かではないが
おそらく賢明な女だから鞆の津の館から津野郷の館へ移り
近くへ庵を作り出家したと想像する。
この話は終わりだが
実はお姫様の名前を仮によし姫としたのには訳があり
開発した焼酎の名前は現在意匠登録ほかを申請している途中であり
もし先にいじわるする人が出たら困るので仮名にした。
つい最近までの猛烈な暑さが暑いと言うレベルの暑さに下がった。
昨日今朝と朝晩は涼しさを感じている。
高屋川の鳥たちが鵜をかしらに整列している。
鳥たちが隊列を作ったので前回に続いた物語を始めやすくなった。
鵜を先頭に鴨が30羽ぐらいの列
サー戦いの姿に似ている
1568年神辺城は藤井皓玄により乗っ取りにあうが2ヶ月後に杉原盛重が
九州から引き返し奪還した。
西から見た本日の神辺城址
それ以後一時期毛利に忠誠を誓った宮氏が滝山城をおさめたが天正年代に入り
毛利の武将、備後福田氏一族の福田盛雅が兵数百人を連れてこの地に入り治めた。
神辺城の杉原盛重は尼子と山陰での戦に明け暮れし、神辺はおろそかになっていた。
盛重の長男元重は城代代行として神辺城にいた。
天正6年 元重は1里少々離れた滝山城が欲しい、
いや、滝山城に住む西国一の美貌で名高い
よし姫が欲しいから嫁にくれと使者を頻繁に出した。
受ける盛雅は一人娘で眼の中に入れても痛くないほど可愛いので
とうに15を超えたのにまだ手元に置いている。当然嫁に出す気はない。
その頃摂津の国から和歌山を経て西国に向かう途中の
池田勝正が滝山城の客人として逗留していた。
神辺城の元重はいらだち始め、
嫁にくれないなら滝山城を攻めると言う脅しを日増しに強くした。
盛雅は元重の器を小さいとみて娘は絶対わたせない、
親父の杉原盛重は山陰だし、兵もそんなにいないだろうし、
来るなら来いという気持ちが強くなり戦いの腹を決めた。
自陣は300人、在所の大江村から100人を補い戦いは始まった。
神辺城からは1600人が繰り出した。二手に分けて山陽道と笠岡道をのぼった。
笠岡道の先手は昔、福田盛雅の世話になっていたので海の方角へ進めた。
山陽道を進んだ組は滝山城を囲んで攻めるが逆に押し返されて苦戦していた。
笠岡組の大将は行く先がおかしいと疑いはじめたので
仕方なく道を変えて滝山城を目指した。
1600の兵が到着して1昼夜の激戦で福田盛重はこの城を離すことを決め
女、子供は井原方面に逃がし、自分も美作方面を目指して逃げることにした。
さて、最愛のよし姫は池田勝正と相談して時の将軍に仕えることにして勝正に預けた。
このとき将軍義昭は41歳、鞆で臨時幕府をひらき、各諸侯へ文を送り味方を増やし
何時か信長を倒して京へ帰る思いでいっぱいであった。
特に明智光秀への文は長いものだった。
(もしかしたら光秀の謀反は義昭の仕掛け?)
鞆の対岸箕島から鞆を見る
滝山を逃れたよし姫は勝正と深津を目指し、そこから箕島へ船で向かった。
勝正の知らせて義昭はここまで迎えに来てくれた。
よし姫を見た義昭は京にもいない美形とひとめぼれ。
よし姫25歳。
すぐに鞆の津へ連れ帰りよし姫に身の回りの世話をさせた。
義昭は正妻がいなくて鞆にも側室は置いていなかった。
一ケ月もしない間に義昭は自分が天下を再度動かす夢を捨ててしまった。
よし姫の接客のうまさに舌を巻き、夜は酒の相手をさせ
二人で舞を踊るなど今までの生活が一変した。
豊臣秀吉が西国へ行く途中、鞆へ逗留し義昭とのはなし、
征夷大将軍を秀吉にくれるよう迫られたがよし姫の中持ちで後日に回された。
このとき好色の秀吉に口説かれるがさらりとかわした。
楽しい日々も時日の経つのは速いもの。
天正16年義昭は京に帰り将軍職を辞退して出家した。
このときよし姫が京へ同伴したかは定かではないが
おそらく賢明な女だから鞆の津の館から津野郷の館へ移り
近くへ庵を作り出家したと想像する。
この話は終わりだが
実はお姫様の名前を仮によし姫としたのには訳があり
開発した焼酎の名前は現在意匠登録ほかを申請している途中であり
もし先にいじわるする人が出たら困るので仮名にした。