自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

滝山城物語2

2010-09-09 21:41:07 | Weblog
台風のおかげで多くはないが雨をいただいた。
つい最近までの猛烈な暑さが暑いと言うレベルの暑さに下がった。
昨日今朝と朝晩は涼しさを感じている。
高屋川の鳥たちが鵜をかしらに整列している。
鳥たちが隊列を作ったので前回に続いた物語を始めやすくなった。


鵜を先頭に鴨が30羽ぐらいの列
サー戦いの姿に似ている


1568年神辺城は藤井皓玄により乗っ取りにあうが2ヶ月後に杉原盛重が
九州から引き返し奪還した。


西から見た本日の神辺城址


それ以後一時期毛利に忠誠を誓った宮氏が滝山城をおさめたが天正年代に入り
毛利の武将、備後福田氏一族の福田盛雅が兵数百人を連れてこの地に入り治めた。
神辺城の杉原盛重は尼子と山陰での戦に明け暮れし、神辺はおろそかになっていた。
盛重の長男元重は城代代行として神辺城にいた。
天正6年 元重は1里少々離れた滝山城が欲しい、
いや、滝山城に住む西国一の美貌で名高い
よし姫が欲しいから嫁にくれと使者を頻繁に出した。
受ける盛雅は一人娘で眼の中に入れても痛くないほど可愛いので
とうに15を超えたのにまだ手元に置いている。当然嫁に出す気はない。
その頃摂津の国から和歌山を経て西国に向かう途中の
池田勝正が滝山城の客人として逗留していた。
神辺城の元重はいらだち始め、
嫁にくれないなら滝山城を攻めると言う脅しを日増しに強くした。
盛雅は元重の器を小さいとみて娘は絶対わたせない、
親父の杉原盛重は山陰だし、兵もそんなにいないだろうし、
来るなら来いという気持ちが強くなり戦いの腹を決めた。
自陣は300人、在所の大江村から100人を補い戦いは始まった。
神辺城からは1600人が繰り出した。二手に分けて山陽道と笠岡道をのぼった。
笠岡道の先手は昔、福田盛雅の世話になっていたので海の方角へ進めた。
山陽道を進んだ組は滝山城を囲んで攻めるが逆に押し返されて苦戦していた。
笠岡組の大将は行く先がおかしいと疑いはじめたので
仕方なく道を変えて滝山城を目指した。
1600の兵が到着して1昼夜の激戦で福田盛重はこの城を離すことを決め
女、子供は井原方面に逃がし、自分も美作方面を目指して逃げることにした。
さて、最愛のよし姫は池田勝正と相談して時の将軍に仕えることにして勝正に預けた。
このとき将軍義昭は41歳、鞆で臨時幕府をひらき、各諸侯へ文を送り味方を増やし
何時か信長を倒して京へ帰る思いでいっぱいであった。
特に明智光秀への文は長いものだった。
(もしかしたら光秀の謀反は義昭の仕掛け?)


鞆の対岸箕島から鞆を見る


滝山を逃れたよし姫は勝正と深津を目指し、そこから箕島へ船で向かった。
勝正の知らせて義昭はここまで迎えに来てくれた。
よし姫を見た義昭は京にもいない美形とひとめぼれ。
よし姫25歳。
すぐに鞆の津へ連れ帰りよし姫に身の回りの世話をさせた。
義昭は正妻がいなくて鞆にも側室は置いていなかった。
一ケ月もしない間に義昭は自分が天下を再度動かす夢を捨ててしまった。
よし姫の接客のうまさに舌を巻き、夜は酒の相手をさせ
二人で舞を踊るなど今までの生活が一変した。





豊臣秀吉が西国へ行く途中、鞆へ逗留し義昭とのはなし、
征夷大将軍を秀吉にくれるよう迫られたがよし姫の中持ちで後日に回された。
このとき好色の秀吉に口説かれるがさらりとかわした。
楽しい日々も時日の経つのは速いもの。
天正16年義昭は京に帰り将軍職を辞退して出家した。
このときよし姫が京へ同伴したかは定かではないが
おそらく賢明な女だから鞆の津の館から津野郷の館へ移り
近くへ庵を作り出家したと想像する。



この話は終わりだが
実はお姫様の名前を仮によし姫としたのには訳があり
開発した焼酎の名前は現在意匠登録ほかを申請している途中であり
もし先にいじわるする人が出たら困るので仮名にした。




滝山城物語1

2010-09-07 15:35:14 | Weblog
雨が欲しいのに!降るとは言うがほんとに雨は降るのだろうか。
降って欲しい。いや、お天道さんよ、絶対に降らさないと許さないのだ。
ああよかった。数滴雨が降りましたよ。17時現在。

7日15時 台風は山口県萩市沖を勢力を弱めて進んでいるようだ。
我が地では今、緩やかに西からの風が吹き、
高い雲は東に、低い雲は北にゆっくり流れている。


堂々川の堂々公園から見る山の木は枯れている
その上を雲は流れる


現在ある商品を開発したが名無しなので、名前を付ける為物語を探している。
日本書紀や古事記までさかのぼってみても面白いものは見いだせない。
仕方がないから時代考証を見ながら近隣の題材を拾ったその一つを見てもらう。
今回から2回に分けてくだらない話を読んでもらうことになった。

備後滝山城物語

この物語は鞆の津で足利尊氏が開祖した室町幕府の15代将軍足利義昭が
将軍末期を過ごし、征夷大将軍を辞退し滅亡した頃、備後での出来事である。
鎌倉幕府が倒れ新田義貞、楠正成によって京を追われた足利尊氏は鞆つまり
海の要衝で潮待ち港にある鞆小松寺で光厳上皇の院宣を受け、九州まで下って
勢力を回復し、武力を鞆に集結して臨時幕府をひらいた。
そして京都へ攻め上がり、建武3年室町幕府をひらいたのである。
それから歳月は流れ、
永禄11年
三好三人衆の勢力に抑えられていた足利義昭は織田信長、浅井長政などに警護され
京都へ上洛して朝廷から15代将軍の位を賜る。
が織田信長が自国へ帰還すると三好三人衆の巻き返しを受け
危機一髪のところで浅井長政、摂津の池田勝正、和田惟政等が奮戦して撃墜出来た。
義昭と勝正は後日鞆の津でも面談することになる縁があった。
その勝正は義昭に味方をしたが家臣の荒木村重や弟の下剋上内紛で追放され
和歌山方面へ行きのちに西国へ流れて行った。
義昭はこの後織田信長と仲良くしたり、
喧嘩をしたりしながらお互いを利用する繰り返しであったが
天正4年ついに織田信長は義昭を京から追放した。
義昭は毛利輝元を頼って備後鞆の津へ入り備後で亡命政府を作った。
これが鞆幕府と呼ばれ、天正16年義昭が将軍職を辞して
豊臣秀吉の軍門に下り出家したところで室町幕府は終わった。

話は変わって
備中と備後の境界に備後滝山城がありここは南北どちらからからも山が張り出し、
平野が狭くなっている山陽道の要衝であった。


備後滝山城があった滝山


この城は備後の有力武将の宮氏が治めていたが神辺合戦以降毛利と尼子の戦いでは
いつも矢面に立たされていた。
永禄年代に入り杉原盛重が毛利とともに尼子を山陰へ追いやり、
戦場が今の島根県安来に移ると神辺の街はしばし退屈の時間になった。


神辺城の対面要害山へ沈む夕日


次回へ続く
予告神辺城と滝山城の争い
ヒロイン姫の登場

物語には美女が出ないと面白くないので次号要期待

御領遺跡

2010-09-05 11:24:07 | Weblog
9月4日 36度を超えた13時から御領遺跡の発掘調査説明会があった。
現在堂々川の歴史を出筆中だから貴重な資料を確保のため参加した。
国道313号線バイパスの建設中場所であるが
313号と486号線が交差したところから東へ数100mのところ2個所


486号が途切れたところから東を撮影
前方高架は井原線の線路


今回の発掘は2個所
まず東側B区へある出度品展示から


弥生時代の遺跡
古いもので約2000年前




古代ハスのように芽が出ないかな!


神辺平野は吉備国の時代「穴の国」と呼ばれていた。
この地方は昔から安那(やすな)と呼ばれており、安那=あなとも読める。
弥生時代この平野一帯を穴の海説の人もおられるがこの地は現在海抜13~14mで
農業を営んでいた遺跡が出てくるから少なくても2000年前以降は淡水と判断できる。
農業の遺跡
本日の中国新聞にも掲載されていたが古墳時代の止水施設の残骸




木材群
自然木、杭、加工された板状のものが埋もれていた


広島県埋没文化財調査室では堰のような止水設備と思えるので調査を続けるとのことだ。
300mほど西のA区では奈良時代に作られた条理の痕跡溝か!



壊れた壺などを捨てていた井戸らしき跡


下の手に持った写真より

壺などを捨てたその下を掘るとどんどん掘れる


溝が埋まったから掘る、そしてまた埋まったと思える痕跡
粘土や砂の堆積が見られる



この痕跡から見て御領遺跡や大宮遺跡にみられる環濠ではないと思うとの説明もあった。

堂々川の洪水域を外れた高屋川合流地点から北へ約500mを西端にして東へ約1.6km
南北最大1.4kmの広大な遺跡が道路建設によりかなり姿を現せてきた。

この暑さと真面目な勉強をしていたので
普通ならお洒落の一つも出るのだが期待はずれで何もなく、ただ汗が気体になって出ていた。

絶滅危惧種Ⅱ

2010-09-03 13:56:48 | Weblog
暑いけれど
9月20日過ぎから堂々川では彼岸花が咲く。
今年は赤、白、黄色の花で2000本以上が咲く予想をしている。
花を咲かせ、見て楽しむために会員有志で対象場所の草刈りを行った、


堂々川5番砂留下流
正面が国の登録有形文化財の5番砂留

今年白、黄色の花を咲かせたい場所


汗をいっぱい出した成果



昨年9月25日頃咲いたヒガンバナ、本数にして約700本ぐらいだったと思う
今年約1700本植えたから天候に左右されなければ予想通りのはずだ。



この場所の上流に日本一の6番砂留がある。


堤長55.8m 堤高13.8m


この砂留規模だけではなく、
絶滅危惧種カスミサンショウウオ?の生息も確認でき
そのほかヘビトンボ、日本赤ガエル等たくさんの水生生物を育むでいる。
9月2日の中国新聞にその記事が出ている。



カスミサンショウウオの断定はまだできていないが
広島県に調査してもらう依頼をした。
御幸町の羽賀 芦田川見る視る館に現在生息している


すぐ隠れる

可愛い


絶滅危惧種であれば保護をどのようにするか
これから堂々川ホタル同好会は考えなければならない。

例によりホタルの現況


2匹のホタルの幼虫が1匹のカワニナを食べ始めた
幼虫は3匹見える


広島県の8月の気温は観測が始まって以来最も暑い、
そして9月の観測史上最高気温を更新したと二ユースは言うが
「あれもしなくては、これもしなくては・」
暑い暑いと言ってはいられない、可愛そうな我が性格が恨めしいです。

絶滅危惧種

2010-09-01 20:56:57 | Weblog
9月になった感がするコスモスの花が咲いていた。



2003年福山市の北部にスーパーフジグランを中心にした商業地域ができることになった。
その場所は江戸時代より前は沼地、
田圃として開墾されてからも少しの雨ですぐに冠水する所だった。
ある意味では自然が豊かな地域と言える。
この場所に現在絶滅危惧種のダルマガエルがたくさん住んでいた。


フジグラン神辺を核とした商業地域

フジグラン東側 汚れ川が改善され綺麗になった
多分、下水道の整備効果だと思う


ダルマガエル
トノサマガエルによく似ているこのカエルが
フジグランの北側を走るJR福塩線で約1時間山の中を走ると世羅郡の三川へ到着する。



現在ダルマガエルが住んでいるところは世羅郡世羅町小谷
2008年からは自然発生出来るようになったとカエル保存会の会長さんが言われた。


福山市の水源の一つ三川ダム


芦田川の上流ダムの近くにこんな看板が出ていた。



ダルマガエルとトノサマガエルの違い


殿様ガエルは背中の中央に線が1本通つている

ダルマカエルは中央に線は無く背中の両端に線がある
人見知りしないで簡単に写真を撮らせてくれる


カエルを繁殖させるためにはビオトープより水田がよいそうだが
農薬をすることは出来ない。
農薬をしないからこの地区のお米は人気があって30kg 1万円だそうだ。
20kgだと7000円 結構高いが間違いなく無農薬栽培のお米だ。
(お米のPRをするわけではないがこの髭の会長さんとは意気投合した。
意気投合したがお米が安くなるわけではない)


イナゴが多かったが小さい虫はカエルの餌になっているようだ

鴨を使って草や虫の予防をしている


この地でもホタルは飛んでいるのでカエルつながりを含めてホタル交流することにした。
本日の試験飼育ホタルの情報
餌になるカワニナが少なくなったので川に採りに行き与えたら
幼虫4匹が3分経つか経たないかぐらいでカワニナに噛みつきカワニナを引きづり回していた。



ホタルの幼虫は結構獰猛な生き物です。