闇夜の烏の変な世界

とりあえず、何にでも興味持ちますw
日々、気になった事を日記感覚でアップしてみようかと。

一枚の画像から蘇る思い出

2016-04-01 22:16:00 | 日記

​と、懐かしい画像を見てると、次々と思い出が蘇ってくる。

高校時代、ほとんど勉強せず(仮進級まで…)、大学受験も試験2か月前から勉強始め(バカだろ)て全滅と、「何しに高校へ行ってたんだ」 状態でした。

どう記憶を辿ってみても、「勉強しに高校へ」 って感覚はとうとう無かったよなぁ。

「楽器吹きに高校へ行く」 って感覚は、実感を伴い物凄く強かったんだけど(汗。


凄くトロンボーンが好きだったけど、我流だし才能無いの実感してたから、音楽の道というのも考えられなかった。

でも、仲間と2年半、吹奏楽部で楽しめた事は、高校時代 最高の思い出 であり、「宝物」になった。

 


卒業して7年の後、「第一回 定期演奏会」 をやるからOB参加しないか? と顧問(恩師)から誘われ、できて間もない海老名市民会館で再び楽器を吹いた。
これが切っ掛けになり、「楽器はやっぱり楽しい」 と思ってしまった。

その後、第四回から不定期で 高校の定期演奏会にお邪魔した。

OB会ができるのずっと後だから、生徒とOBが一緒に定期演奏会を作ってる時代です。

そして自身の夢だった(高校時は貧乏で楽器買えなかった)楽器を手に入れ、SWEの門を叩き、福島先生の下で楽団活動も楽しんだ。

夢のような時間だった。


ある時、同期でフレンチホルンの友人が新婚旅行から帰り、仲間内で宴会しようという事になった。
一晩中、チーズフォンデューでドンチャン騒ぎし、皆で泊まった。
…翌朝、目をさまし起き上がろうとして異変に気付き、隣で大イビキかいてたチューバの友人を引っ張って起こした。

起き上がれない!

慌てて仲間が救急車やら、乗って行った車(三菱ジープ)の移動にと走り回ってくれた。
日曜日で、救急車に乗せられても収容病院がなかなか決まらず、ご近所の方達が 「大丈夫かい」 って集まる始末。


渋滞を抜け、担ぎ込まれたのが 国立相模原病院。
運よく、北里大学病院の若い先生が研修を兼ねて当直してらしてくれ、対応してくれた。

「腹膜炎」、急性盲腸が派手に破けていた…。

3時間の手術、6本のドレン(管ね)を体内に入れる大騒ぎになった。
およそ20日間の入院に。

「あと1時間遅かったら手遅れだった」 とベッドの上で聞かされた。
ドレンを通すため お腹に沢山の穴を開け、鍛えてた腹筋はズタズタになった。
腹膜と何とかがくっついてしまったため、将来 胆石とかできても 膨らまして穴から治療する簡易的な術式はもうできないらしい。

先生に 「止めはしないけど、楽器を続けるのは考えた方がイイ」 と言われた時は 「目の前が真っ白」ってヤツを経験した。

その後、体調がなかなか戻らなかった事もあり、「潮どきかな」 と音楽活動にピリオドを打った。


高校の後輩が麻布獣医大に進学した際、ユーフォニウムだが 「トロンボーンが少ないから移って」 と言われたが楽器が無いと言ってたので、マイ楽器を言い値で譲った。


始まりがあれば、必ず終わりがセットで存在します。

自分の大好きな トロンボーン、そして音楽活動を教えてくれ、支えてくれたのは間違いなくこの狭い敷地の仲間たちだった。

ある意味 「キッカケ」 はココから始まり、ココで終わったのかもしれません。

ヤバ、思い出したらちょっとジーンってなってる(歳はとりたくないなー)汗


う~ん、やっぱり自分の 高校生活ってのは 結局のところ 「トロンボーン」 と 「吹奏楽」 そのものだと再認識ですw

渕高に感謝ww


あまり良い思い出ではないコレ

2016-04-01 22:14:00 | 日記

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高校の敷地の外れ、大学側に煙突が伸びるコレ。
実は実験で使った動物等を燃やす 「死体焼却場」。

今ほど徹底した排煙処理が成されておらず、その匂いは強烈でした。

 

立地上、昼食時に南風が吹く日に稼働してると最悪です。

全体画の中央上にある 大学の広場(巨大な倉庫が並ぶ)に弁当を持ってゾロゾロと生徒が避難した。
窓閉めたって匂うのだから、とても食事なんてできない。

この時ばかりは、大学側も高校生が広場に入ること黙認してたっけ。


この時代、高校にはまだ 学食 がありません。
旧校舎の一階のハズレに、休み時間だけ コロッケ屋のオジサン と、サンドイッチ屋のオバサンが来る程度。

メンチとか 菓子パン、サンドイッチが買えたけど、絶対量が少ないので遠い教室の生徒は猛ダッシュしてもほとんどありつけなかった。
食欲旺盛な高校生に対し、唯一の救いであり、常に戦場でした。

 

大学の 学食 は出入り禁止でしたが、忍び込む生徒が後を絶たなかったのも仕方ないですね。
なにせ、持参弁当を忘れたら 近くで買える場所が無いのですから(汗。
(近くにコンビニも無かった)


この空地が実は大学の部室棟跡

2016-04-01 22:07:00 | 日記

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全体だとかなり左端にあるこの空地。

当時は麻布獣医大の 部室棟 がありました。
木造の古びた建物で、沢山のクラブが入ってたのを覚えています。
吹奏楽部の部室も ここの1階にありました。


高校時代、同期の仲間と ほぼ毎日ココに通い詰めてました。

高校側の部活が終わるのがだいたい17時。
その後、楽器を抱えてココに移動、大学の先輩と 22時近くまで一緒に楽器の練習をしてたんです♪

運が悪いと大学生の酒盛りに巻き込まれたり、宴会状態になったりなんてあったなぁ(汗。←時効?

 

私は九州出身の熱血トロンボーン先輩(音大を目指し、後に先生に)につき、夢中で楽器を楽しみました。
ホルトンのバストロを使うその先輩の音色は、太く柔らかく、それでいて「色っぽい」 響きで、後の自分の目標に大きく影響した。

SWEに入る決断をしたのも、コーンのローズブラスベル(88HR)を手に入れたのが切っ掛けだし。

 

夜になると、高校の部室には戻れない(入れない)。
なので、楽器を大学の部室に預かってもらい、翌朝に引き取り 登校する。

そんな事を1年以上続けてた。

物凄く楽しい日々。


ある日、大学で火事があったと聞いた。
恐らくタバコが原因ではとの噂だが、この部室棟が全焼したんです。
1階にあった吹奏楽部は、半分程度の楽器がダメになったとか。

この航空写真の頃は、まだ火災跡をさら地にはしたものの、何に使うか決まってない頃のものです。


勉強も宿題もソッチノケで通った部室棟、そのなれの果てがコレって当時ショックだった。


青少年会館は今も

2016-04-01 22:03:00 | 日記

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この、全体の中で右上に見える建物が、青少年会館。
未だにこの建物は健在です。

一階にホール、二階に音楽室があります。

 

当時、吹奏楽部の主な活動といえば、「新入生歓迎コンサート」 「野球部の応援」 「文化祭(隔年開催)」 くらいなもの。
もちろん、「定期演奏会」 なんて無いし、最低人数も技術も未達で、コンクールの 「コの字」 も夢だった。

青少年会館は、「新入生歓迎コンサート」 と 「文化祭」 でメインステージになりました。
もっとも、どちらも ちらほらとしか人は入らず、とても寂しいものでしたが…。

文化祭に至っては、隔年開催でしかないし(名前も無かった、確か一応 渕高祭?)。


私にとって、この青少年会館は非常に重要なポジションになります。

高校1年時、大学のトロンボーンの先輩(師と仰いだ♪)の奨めで、ここで一緒に 「吹奏楽教室」 に参加。
毎週水曜日に、音大の先生が無料でアドバイスをしてくれてたんです。
おかげで、半年くらいだったとおもいますが、貴重な体験を得ました。

 

後に、この先生(福島先生)が教える SWE(相模原ウィンドアンサンブル)に入団する事になります。


練習場(相撲部)跡地

2016-04-01 22:00:00 | 日記

​当時、高校の吹奏楽部は部員が少なかった(最少8名)ため、練習(合奏)は主に麻布獣医大の吹奏楽部と合同で行ってました。 

大学との予定が合わない時は校舎間の中庭で練習です、雨でも。
(教室は他部や、ブーム絶頂の軽音楽部に占領されてた)

 

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画像では左側に青いプレハブ(生協販売所)が建ってますが、当時は手前と同じ、黒い木壁に瓦屋根の「長屋」がもう一列並んでました。

その中ほどに、大学の相撲部が使っていた部屋(ドアを開けても中は土床…)があり、椅子と譜面台を運び込んで練習してたんです。

まだズブの初心者だった私は、同じ中学から来た子と一緒に マウスピースだけを渡され、窓の外でビー ビーとやってました(涙。
なので、この練習所ではほとんど吹いた事がなく、当時皆が演奏してた ドボルザークの 「新世界」を羨ましく覗き込んでたなぁ。