信州生坂村「山紫水明 食と文化癒しの郷!」

山清路、大城・京ヶ倉等の自然。赤地蔵、百体観音等の伝統。おやき、おにかけ等の食文化を持つ生坂村!

第43回全国育樹祭の前日視察研修

2019年12月14日 | 私の活動報告
 16日(月)は日差しが届いて、沖縄那覇空港に着いた時にはとても暑くて、日本の寒暖の差を肌で感じました。
 朝6時30分に家を出て、午後2時頃沖縄那覇空港に着きましたので、3箇所ほど視察研修ができました。

 最初に、旧海軍司令部壕に行き、昭和19年日本海軍設営隊(山根部隊)によって掘られた司令部壕を視察しました。当時は450mあったと言われ、カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵が収容されていました。戦後しばらく放置されていましたが、数回に渡る遺骨収集の後・昭和45年3月、観光開発事業団によって司令官室を中心に300mが復元されました。




▽ 105段、20mほどの階段を降りると、通路が縦横に張りめぐらされた壕内へと続いていました。


▽ 壕内は、薄暗い通路が無数に張り巡らされ、迷路のようになっていました。


▽ 司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとが当時のままくっきりと残っていました。




▽ 司令官室の壁面には、「大君の御はたのもとに死してこそ 人と生まれし甲斐ぞありけり」という大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されていました。






 次に、平和記念公園と沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館に視察に行きました。1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。 90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でありました。


 公園内には沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されています。国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地であり、観光の要所ともなっております。





 1995年に除幕した「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人を問わず、沖縄戦における全戦没者24万人余の氏名が刻まれており、戦争で肉親を失った遺族や平和学習の団体等、多くの人々が訪れます。
 また、「平和の礎」内にある広場の中央には「平和の火」が灯されています。 この「平和の火」は、沖縄戦最初の米軍の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の「平和の灯」及び長崎市の「誓いの火」から分けていただいた火を合火し、1991年から灯し続けた火を1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものとのことです。



 平和祈念資料館は、悲惨な沖縄戦の実相及び教訓を後世に正しく継承するとともに、平和創造のための学習、研究及び教育の拠点施設として活用されているとのことでした。




 私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立されたとのことでした。






 最後は、看護要員として戦場に動員され、亡くなっていった「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔に献花をし、ひめゆり平和祈念資料館を視察研修しました。ひめゆり平和祈念資料館には、ひめゆり学徒隊の犠牲者の遺品や、ガス弾によって多くの犠牲者がでた伊原第三外科壕が実物大で再現されており、ひめゆり学徒隊について学べる場となっていました。








 沖縄県立第一高等女学校を「乙姫」沖縄模範学校女子部を「白百合」と名付けられていたそうです。その両方の名前を合わせて「姫百合」と名付けられ、ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったそうです。










 今回の視察研修は、日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦である沖縄戦の悲惨さを伝え、二度とこのような戦争を繰り返さぬよう、人々の記憶のなかから沖縄戦の惨禍を忘れることなく語り継いでいかなければならないと感じました。

▽ 朝の写真は山清路の風景です。





 その他生坂村では、公民館でわら細工講座、地域未来塾、少年少女バドミントン教室、小学生バレーボール教室、少年少女サッカー教室U-15などが行われました。

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