ベンベエの詩的つぶやき

世の中をちょっと斜めに見て・・・

友よ、はるかなる青春よ

2008-08-29 13:17:15 | 日記・エッセイ・コラム

雨の間合いの一瞬の晴間をぬって
セミたちの急ぎ鳴き------
みんみんもアブラもつくつく法師も
積もりつもった鬱憤を一斉に吐き出している。
  このときを鳴かでいつ鳴くや とばかりに-------------

どのような風の吹き回しだろうか
最近、いろいろな人がやってきて
にぎやかな話題と手みやげを届けてくれる。

レストラン経営から手を引いて十年、
古い自宅で蟄居のような暮らしをしているので
心配して訪ねてくれるのだろう。
大方がそのレストランで青春を語り合った仲間たちである。

今では立派な経営者として毎日、忙しく駆け回っている。
彼らがエネルギッシュな話を聞かせてくれるので
お蔭で老人クラブなどには入らずに済んでいる。
--------------ありがたいことだ。

しかし、ほんとうのところは様子伺いに来るというよりも
あの時代の懐かしさを求めてやって来るともいえる。
人生の後半を過ぎ、彼らも亦
遙か遠くに置いてきた青春を想い起こそうとしているのだ。
サザンの歌に惹かれるのも
青春の煌めきを今も持ちつづけているから。

   
来るひとも去るひともゆめ天の川


元気をもらう

2008-08-28 12:08:04 | 日記・エッセイ・コラム

新しい職場に再就職できたと
元米山奨学金生の王君から電話がある。
人材派遣会社であって、中国からの技術者を
日本の企業に紹介するのが主な仕事である。
日本と中国の役に立ちたいという願いが
やっと叶えられると喜んでいた。

カウンセラーとしての二年間の役割はとうに終了したにも
拘わらず、今もこうして律儀に現況報告してくる。
日本人の慣習や価値観、宗教観、美意識など
中国とは異なるであろう文化についての箴言にも
彼は素直に耳を傾けてくれる。
その人柄と能力が認められたのだろう、支店の一つを任された。
同棲中の恋人ともうまくいっているようで
電話の声が弾み、こちらまで元気が伝わってくる。

那須大洪水から10年経った。
ぼくに詩を書かせるキッカケになったA氏は
濁流にさらわれたまま未だに行方不明である。
3日間の総雨量が1200ミリを超え
これほどの異常は2000年に一度とか
4000年に一度と言われた。

しかしそれから10年、はたして現在どうだろうか・・・・
日本のあちこちで大雨洪水警報が発令され
1時間に100ミリだなんてこれまでには聞いたこともない雨量。

2000年に一度の割合いなどと
悠長なことは言っていられない。
 へんだぞ! へんだぞ!
 囁いているうちに
 ほんとうに変になってきて・・・・
ふと、ノアの予感さえ胸をよぎるこの頃である。

      恩讐へ消えては灯る秋蛍


おだやかに、ゆるやかに

2008-08-25 13:32:41 | 日記・エッセイ・コラム

包丁研ぎ屋さんが毎月二度、定期的にやって来ては
我が家の前で店開き。

店とはいっても軽自動車のトランクを開けただけのものであるが
この頃、ぼつぼつと客が付いたらしく
爽やかに砥石の音が聞こえてくる。

かつては別な仕事で活躍していたが
不況のあおりで本業がうまくいかなくなった。
それでも素直で向日的な人柄は
悲観したり、世をすねたりすることなく
全く新しいことにチャレンジした。

なんとか頑張ってほしいと、昼はカレーライスを届ける。

オリンピックが終わった。
開会式もそうであったが、閉会式のあの一糸乱れぬ統一には
感動というよりも獅子の凄さを見せ付けられた。
アメリカをはじめ、世界はさらに中国へ心が傾くであろう。

しかし、日本は日本、大きいことが総てではない。
おだやかに、ゆるやかに、
笑顔で生きていければいい。
経済大国なんて返上して、もっと身軽になろう。
現に、ヨーロッパでは豊かな文化と緑に抱かれて
静かに暮らしている国も沢山ある。

何事もほどほどがいい、ほどほどが・・・・・。

   
燕帰る共には行けぬさびしさよ


秋めいて

2008-08-24 11:59:42 | 日記・エッセイ・コラム

過日、県芸術祭文芸部門の審査会が無事終了した。
残念ながら、本年度文芸賞に相応しい作品は出なかったが
準文芸賞二編、奨励賞五編を選びホッとしたところである。
その中でも、うつ病の兄を詠んだ17歳の少女の作品が
終始ぼくのこころを捉えた。

古くからの友人がチタケ〈乳茸〉をとどけてくれた。
器に青々とした熊笹を敷き、その上にきれいに並べられたチタケ。
食べてしまうのが勿体ないほど絵になっている。
訪ねて来るのは年に四、五回程度であるが
若い頃から彼は粋なことが好きで
なかなかの洒落者。
その辺りがぼくと馬が合うのかもしれない。

チタケは茄子と合わせてごま油で炒める。
しかし皆が夢中になるほど美味しいとはぼくには思えない。
煮干しを噛んでいるような、ボソボソとした食感・・・・・
ベニタケ科に属すと聞いただけで、なんとも怖い気もするが
これがどうした訳か、特に栃木県人には
松茸と並ぶほどの人気があって
チタケうどん、チタケ蕎麦として歓ばれている。
お隣りの福島県人は食べないので
わざわざ越境してまでもチタケ狩りに出掛けるらしい。

昔は付近の雑木山に一歩踏み込んだだけで
子供でも沢山のチタケが採れて
笹の茎にとおして持ち帰ったものである。

落葉広葉樹がやたらに伐採されたり、
酸性雨などの気象変化によって
次第に減少し、今では貴重で高価なキノコとなっている。
夢中になりすぎて遭難する者もいて
この時季のニュースにもなるほどである。

   
寂光は黄泉の明りか虫の闇


ヒミコよ

2008-08-22 13:22:16 | 日記・エッセイ・コラム

 〈 男もすなる日記といふものを女もしてみむとするなり 〉
何の理由もなく突然、土佐日記の一行が思い出された。

ふり返ってみれば、これまで一度たりとも女性の視座で
ものを見たり考えたりしたことはなかった。
この世に男か女しかないのに、その一方である女の立場に
どうして思いが至らなかったのか不思議である。
女性の書いた詩など読んでいて
このごろハッとさせられることが多い。

近代日本は男社会を中心として
女は男に従うものと教えられ、そうやってきた。
しかし、男の性質というものは常に闘争的で名誉欲が強く
その結果、侵略や戦争が絶えず
社会に貧困と不幸を撒き散らしてきた。

これからは忍耐強く、慎み深い女性に
時代を委ねてみてはどうだろうか。
母性とは生み、育てるもの、
少なくとも今よりは穏やかで平和な社会の実現が
望めそうな気がする。

男じゃなければダメだ、自民党でなければダメだ、
大きくなきゃダメだ、右じゃなきゃダメだ・・・・・
ダメだ、ダメだのカチカチ頭では
社会はほんとうにダメになってしまう。
変革への勇気と発想の大転換が今こそ必要なのではないだろうか。

   「土佐日記」:紀貫之 日本最初の日記文学 
                 女性の筆に託して仮名文字で書かれている。

      
昼月やイヴに引かれてぶだう狩り