蟹を食べると何故か
体調が悪くなる。
食べている最中にすでに疲れてくる。
だからそこが名店であっても
蟹スキやカニ雑炊を食べに出かけようとは思わない。
戴いてもちょっとしか口にしない。
これはきっと
ぼくの中に平家の血がながれているのかも・・・・
壇ノ浦の怨念を思い起こせ と
その平家蟹の身内を食すとは何という罰当たりめ! と
ご先祖が怒っているので
蟹を食べると具合が悪くなるのかも・・・・。
蟹やナマコやあんこうなどなど
海中にはひどくグロテスクなものが生きていて
それらを最初に食べた人間の勇気を思う。
それにしても蟹を食べるときの
あの光景はすさまじい。
ベキッベキッ グチュグチュ ピチャピチャ
食べたあとの卓上の残骸もまたすさまじい!
蟹を前にして人間は言語を失くし
男も女も原始人にもどってしまうのだ。
陽気はまるで五月初夏。
庭の紅梅白梅の花があわてて退散
桜と辛夷が一斉に咲き出した。
統一地方選挙の幕開け。
候補者もその取り巻きもしばらくの間は大変だ。
政治は必要、だが候補者のなんと頼りない顔ぶれよ。
国は地方の集合体。
うつくしい日本の創生へ
ほんとうに実現可能なのかこころもとない。
それらの活動から
ぼくは一切、手を引いているが
夢を諦めたらダメ。
希望を棄てたら一巻のおわり。
「うつくしい日本の創生」のその第一歩としての選挙。
候補者もその取り巻きも
きれいに戦ってほしいと思う。
票を金で買ったり売ったりするようなことは
断じてあってはならない。
金を使って当選した政治家は
必ず元を取り返そうと画策する。
結果、大きなツケが市民の肩にのしかかってくる。
票を買うということは人格への侮辱であり
票を売るということは人格を自ら汚すことになる。
自尊心を大切にして絶対に金などは受け取らないことだ。
見よ、甲子園では球児たちが連日
フェアプレイを見せている。
桜の開花によせてあちこちから
春物のダイレクトメールが届く。
多くはデパートやアパレル関係のものだが
見て愉しむ反面、またゴミを増やしてしまう。
ところでそうしたカタログの中のある表現で
いつも気になっていることがある。
「舶来品」という言語である。
特に洋服のカタログに多く
〈舶来服地スーツ〉・・・と表示されているのをよく見かける。
今時どうでしょうか
舶来という表現にj時代的錯誤はないだろうか。
途上国のコンプレックスを反映したもので
ぼくはどうしてもこの表現には
文明開化から明治・大正時代を連想してしまう。
「舶」とは大きな船のこと。
その大きな船で外国からやって来るのが「舶来」である。
今、ほとんどが飛行機でやって来る。
流行に敏感なファッション関係者が
この表現の違和感に気づいていないとしたら
日本のアパレル界はまだまだ未熟なのだろう。
ハクライとハイカラ・・・ぼくには同じに聞こえてしまう。
水道料金がやたらに高い。
もう一年以上もそのまま払っている。
メーター器を検査してもらうと
使用していないときにも回っている。
どこか水漏れしているという。
業者に頼んで今回、
やっとその場所をつきとめた。
外から見たのではさっぱり判らないが
プロには感じ取れるようだ。
直感だろうか、それとも水が匂うのだろうか・・・。
ここに違いない、と掘り起こしてみると
まさしくぴったんこ!
これまで誰も見つけられず
最悪、屋敷中掘り返すところだった。
砂地の下に水の在処を発見するインデアンの
話を聞いたことがあるが
やっぱりプロというのは
どこか秀でたものがある。
それにしても一年以上
大切な資源の水とオカネを垂れ流してしまった。
水ぬるむ河原に犬を呼ぶ声が
ちらし寿司を作る。
いつものごとく作りすぎて
お隣へおすそ分け。
妻はますます母親に似てくるのだ。
お隣も丁度、蕎麦を打ったところで
塀越しの物々交換となる。
「お風呂貸して」 「しょう油貸して」・・・・
かつては隣人同士が助け合って暮らしていた。
みんな貧しく、みんな正直で
くったくなく暮らしていた。
昭和30年・・・「三丁目の夕日」あたりまでが
美しい日本人であったような気がする。
通りで子供と出会っても
何処の家の子供か分らない。
近所に空き巣が入っても
だれも気づかない。
旅行中で留守の日がつづいても
だれも気に留めない。
今まさに、コミニュテイーのルネサンス。
「向う三軒両隣」の復活が渇望される。