ベンベエの詩的つぶやき

世の中をちょっと斜めに見て・・・

たばこ

2006-05-31 18:03:11 | 日記・エッセイ・コラム

今日、5月31日は世界禁煙デー。毎年300万人が喫煙が原因とされる心臓病で死亡している。国民の健康を害するものを、国はなぜ売り続けるのだろうか。国家は国民の生命・財産を守る義務がある筈だが・・・。税収である。国民の健康より税収が大事なのである。それならば価格を一箱一万円にしてはどうだろうか。誰に注意されるまでもなく禁煙者が断然増えて、国民の健康に大いに寄与することになる。しかも、吸う人はそれでも吸うので、喫煙者が50分の一に減っても税収に変わりは無い。国民の健康と税収の一挙両得ではないだろうか。かつては僕もヘビースモーカーであったが、50歳の時にやめた。そしてどれほど周囲の人たちを不快にしていたか、止めてからよく解かった。           過日、バスを使って上京した際、仲間の1人が車内で喫煙を始めた。寒い日で窓は閉切ったまま。「吸う権利だってある」と僕の注意を笑うので、「わかった、その権利を尊重しよう、存分に吸ってくれ、そのかわり吸ったものは絶対吐き出さないでくれ。」 と僕も笑いながら言った。笑いながら制止するのがいい。彼は苦笑しながら煙草の火を消してくれた。


カレーライス

2006-05-30 23:09:02 | 日記・エッセイ・コラム

「食べているものをみればその人の人格が判る」と言ったのは、フランスの食通ブリア・サバラン。ケーキにその名が付くほどの食神である。                                                今日のロータリークラブの昼食はカレーライス。市販のルーの使いすぎで味がくどく、カレー大好きの僕にも一皿食べきるのはしんどい。しかし両隣りの会員が、「今日のカレーおいしいね!」と、互いに顔を覗きこんでくるものだから、僕は「うん」と応えただけで一気に水をあおった。味覚の違いはどうしようもない。視覚も嗅覚も聴覚も、人間の五感とはそういうものかもしれない。みんなそれぞれ個人差があって、だからどこの食堂もそれなりに繁盛している。


愛国心

2006-05-29 22:37:22 | 日記・エッセイ・コラム

「愛国心」という言葉を堂々と使えない国が、果たして今日の世界のどこにあるだろうか。「愛国心」が戦争に繋がってしまうなんて、今日、誰が一体考えるだろうか。慎重であることは悪い事ではないが、日本人の精神の問題を政治的駆け引きに使われるのは残念である。私たち日本人は愛国という文言にトラウマになってはいないだろうか。                                         自己本位ばかりが罷り通り、公徳心の欠如している日本人にこそ今、必要なのは「愛国心」ではないだろうか。愛国は決してファシズムではない。自国の文化・伝統に誇りを持ち、その伝統や文化を汚さぬよう言動に慎みを抱くことが「愛国心」である。        その心は郷土愛にも通じ、美しい郷土の山河を愛し守ることに繋がっていく。                      あちこちの森林はゴミ捨て場と化し、節操の無いポスターや看板で町は汚れ放題。そのような荒廃した環境の下で育った人間たちが、不正と欺瞞と暴力と無関心を増大させている。愛国心を失った現在の日本人の姿である。           


フリーズ!

2006-05-28 00:13:00 | 日記・エッセイ・コラム

ドイツで開かれるサッカーW杯に向けて、日本チームが出発した。揃いのスーツでみんなダンディー。  僕がドイツに行ったのはミュンヘン・オリンピックの年。パレスチナゲリラがオーストラリアの選手たちを殺害したため、警備兵によって彼らも射殺された。その報復としてルフトハンザ機を3機爆破すると、ゲリラたちが世界に宣言した。そのあとに行ったものだから、ヨーロッパの空港はどこも厳重な警戒網が敷かれていた。そして第一日目、事件はフランクフルトで起きた。税関を出ようとした時、突然3人の警備兵に取り囲まれたのだ。自動小銃を構え「フリーズ!」と叫んでいる。何事かさっぱり解からないまま両手を挙げてその場に立ちすくんだ。動いたら危ない。彼らは、誰かの写真と僕の顔とパスポートを見比べては銃口を突いてくる。凍りついたまま横目でその写真を覗くと、なんと!国際指名手配、「WONTED/RED・ARMY」日本赤軍の写真である。 3人の内のひとり、髭を生やした者が僕に似ているらしい。その頃は僕も髭を生やしていたし、同じ東洋人ということで彼らには区別がつかないのだ。「ノー! レッドアーミー、ノー!レッドアーミー」と、繰り返すのが精一杯、僅かでも僕が動いたらその場で射殺されていた。第三日目、スイスでも同じ目に遭ったが、コミニュケーションが全く介在しない異国人に銃口を向けられることの恐怖は今も忘れられない。


深夜放送

2006-05-27 00:46:39 | 日記・エッセイ・コラム

ラジオの深夜放送には青春がある。東京のアパートがある、ジャズ喫茶がある、微笑んでいる女の顔がある、カフカやカミュの文庫本がある。どれもみんなセピア色に切ない。祭りの尽きた後の広場のように、遠く過ぎ去ってしまった青春ほど切ないものはない。流れてくる「黒いオルフェ」を聞きながら、渋谷の東急名画座を想いだしている。酢こんぶを噛みながら、終わって外に出るといつも夕暮れだった。三平食堂でカキフライを食べ、東横線に揺られ目黒のアパートに帰った。好きな女はいたがそれ以上にはならなかった。瀬戸内の島へ帰る最後の友人を東京駅に見送ったとき、僕の東京は終わった。 ラジオの深夜放送には、もう戻れない哀しみがある。砂丘を吹き抜けていく風のような孤独がある。