ひとはミステリアスなものに惹かれるもので
はじめから正体が判っていたら興味は半減してしまう。
モナリザが五百年もの間、ひとを魅了しつづけるのも
あの微笑にミステリアスなものを感じるからである。
このごろ売出してきた女優の蒼井優・・・・・
彼女もまたミステリアスなムードを持っている。
貞淑で謙虚な昭和初期の女性像と
手品箱のように何がとびだすか予測のつかない奔放さを
兼ね備えており
なにやらとても懐かしい想いがする。
女優やタレントに特別の感情を抱くことはないが
蒼井優にかぎっては、これまでとはちょっと想いが異なり
あの微笑が映像を超えて、ひしひしと胸の奥に入り込んでくる。
何かふしぎな感慨がぼくの中に湧いて来る。
あのヨンサマ現象と同じとは思いたくないが
やはりひとにはそう言われてしまうだろうか・・・・・
彼女はことさら美人というほどでもなく
また、目をみはるほどの演技力の持主とも思えない。
なのにあれほどの不思議な雰囲気は
蒼井優・・・・人間そのものの魅力であろう。
「おせん」というドラマで老舗料亭の女将を演じているが
ちなみに「おせん」とは、
ぼくが12歳のときに亡くなった母の名でもある。
毎週火曜日の夜、おせんさんに会えるのが楽しみである。
春愁し茶柱のこと言はずをく やす
門を取り壊したときは
長年そこに在ったものが消えてなくなるという
一種の悔恨、あるいは虚無感のような感慨を抱いたが
その感情ですらひと月も経てば薄れてしまう。
むしろ重々しい建造物のない広がりと自由さも
なかなか良いものだとさえ感じられるようになった。
造っては壊し、壊しては造りつぎつぎと
人間ほど環境に手をつける生きものはいない。
その点、人間は高等生物なのだろうか。
何にでも合わせることができて、
何でもすぐに忘れることができて
それとも人間は単なるお調子者なのだろうか?
ワニガメの生態を観た。
そのグロテスクな容姿に似合わず
実に巧妙な方法で餌を獲る。
口を大きく開けると喉の奥から赤いミミズのようなものが
ひらひらゆらゆら現われる。
魚はそれに惹かれて、吸い寄せられるように口の中へ・・・・
ばくっと顎を閉じれば仕事はおしまい。
そうやってワニガメは何万年も生きている。
神様の創造力には驚かされるが
なぜ人間にだけこんなに忙しい「時間」が与えられたのだろうか。
時間給という労働評価もあって
みんなせかせかきょろきょろ生きている。
ステルスの如く地上すれすれ雨燕 やす
約束どおり叔父シローの墓参り。
新緑の雑木山がほっくらと膨らみ
何処からかそよ風に乗って、昼の揚げ物の匂いがしてくる。
花を供え、缶ビールの栓を抜いたとたん
どうしたことか! 蛙が一斉に鳴きだした。
あまりに突然のことで、ぼくの方が驚いたくらいだ。
水を張ったばかりの田圃がにぎやかになって
いかにも叔父シローが喜んでいるようにも感じられた。
昔は、墓の前に立っても何ら感慨が湧くことはなかったが
歳の所為だろうか、この頃はすこし思いが変わってきたようだ。
二、三本の雑草を抜き、墓碑を撫でたりしていると
急に体の中に爽やかな風が吹き込んできて
あちらの世界との交信がスイッチONされたような気配がする。
いくぶん体が軽くなるような気もするのである。
そう言えば、叔父シローが初めてぼくに贈ってくれた本が
『ノンちゃん雲に乗る』であった。
叔父からのプレゼントというのは、親からのそれとはちがう
何か特別の感慨があって
50年経った現在でも忘れることのできない
うれしい想い出である。
*「ノンちゃん雲に乗る」 石井桃子著 1947年初版本
1951年第一回芸術選奨の文部大臣賞
捨てられしままに水仙咲きにけり やす
すでに鬼籍に入っている二人の叔父の夢を見た。
二人とも大正時代の洋館のような家に
ぼくの知らないひとたちと暮らしていた。
とりたてて会話はなかったが、彼らは穏やかに笑っていた。
日暮れ前にその家を出て
ふり返ると、ガラス窓から暖かな灯火がもれていて
暗がりへ帰っていくぼくの方が何だかとても寂しい気持ちであった。
夢・・・・・
過去の潜在記憶が、あるいは未来への予知・予感が
なにかの拍子に睡眠中に出現する。
昔から〈夢のお告げ〉とか〈正夢〉〈夢占い〉などと言われていて
決して疎かには扱えない深遠な精神分野である。
夢の中で悪い事が起きたら感謝しろ と昔、教えられたことがある。
人生の中で起こるべきことは必ず起きる。そこから逃れる事はできない。
しかし、先祖や仏に守られている人間は
起こるべき悪いことを夢の中で起こしてくれるというのだ。
だから日常ではもう同じことは起きないのである。
悪い夢を見たら感謝する・・・・・・
朝、夢の話を妻に話して聞かせると
「シロー叔父さんの命日が迫っているのよ」 と笑っていた。
ぼくはすっかり忘れていた。
その日にはビールと水仙の花を持ってお墓に行こうと考えている。
薔薇咲けり黄色は赤を夢見つつ やす
『チェンバロの饗宴』と題したコンサートに出席した。
四台のチェンバロによる演奏で、F・クープランのクラヴサン曲集や
J・S・バッハの四台のチェンバロのための協奏曲などの
バロック音楽集。
しばらくは中世の貴族社会の気分を楽しませてもらった。
聴衆は300人ほどでほとんどは女性、
男性はその一割にも満たない。
コンサートに限らず総ての分野へ女性の進出が目立っているが
その勢いたるや加速度を増すばかりだ。
男たちはおとなしく女の後につづき
なにやら卑弥呼時代の到来を彷彿させる。
ところで、男の女装がテレビ番組の中で流行っているが
映像による影響力は絶大で、このごろは
あの化け物のような姿にも違和感を覚えなくなってしまった。
実はこのことがいちばん怖い。
感性の麻痺・・・・
このまま女性のパワーが増大し、社会が女系化していったら
かつて女性たちが行動したのと同じ、
次は男たちによる復権運動が台頭することになるだろう。
ーーー時代は行ったり来たりの繰返し、男と女はやじろべえ。
ちなみに、
当コンサートの会場が「男女共同参画センター」であったというのも
なにかしら近未来を示唆しているかのようで皮肉だ。
落ちてこその鮮やかなれや落椿 やす