はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

死のうと考えたことのある人に

2018年04月15日 | 雑感
2018/04/15

真面目に語ります。

誰とは言わずにおこう。
つらいことがあったんだね。でも「今は生きててよかった」と思えるなら、それはなによりうれしい。

「個人的なことは社会的なこと」というけれど、誰かの問題はその人ひとりだけの問題ではない。同じ状況にある人は世の中にたくさんいる。パワハラでも、セクハラでも、中傷でも、男女差別でも、介護の問題でも、貧困でも、自分だけに起こっていると思っている問題は、みんなにも起こっている、あるいは起こる可能性があることなのだ。

誰かが、「こうされるとつらい」あるいは「つらかったこと」に声を上げることは必要だ。こういうことをなくしていくためにも、気づかないでいる人のためにも声を上げなくてはいけない。
それもまた、Me tooなのだ。

「死のうと考えたことがあった」と語ることは、単に自分の告白、息抜きのためではない。社会に警鐘を鳴らす意味がある。問題提起だ。当事者のみの問題ではなく普遍化されることだ。語ることで気づいて欲しいことがある。自分を省みて欲しい人々がいる。


ここからは私自身の思いなのだけれど、私は死ぬ時には、「いい人生だった」、「やりたいことはすべてやった。後悔はない」と思って死にたいと思う。

私の母は48歳で亡くなった。病床で「どうして私が・・・」と母は言った。「もっと生きたい」とも言った。19歳の私はそれを聞いていた。私は、それからずっと、母が生きられなかった残りの命の続きを受けて「では、私が生きよう」と思っている。そして、母の歳をとっくに越えてしまった。

若くして災害や戦争や病気で生を断ち切られた人がいる。生きている人はすべて、生きたくても生きられなかった人の「生を引き受けて」、その人の分まで生きなければいけないと私は思うのだ。
自分の人生は、自分ひとりの人生ではない。ずっと受け継がれてきて今の自分があるのだ。自分の人生が輝くことが、早くして亡くなった人々に報いることなのだ。


「追記」4/18

発言は、「死のうとしたことがあったけれど、今は生きていて幸せ」という意味ですよね。今は幸せということを言っているのですね。

どこに重点を置いて捉えるか。死のうとしたというところを捉えて騒ぐのは、かえって語ったご本人は当惑するのじゃないかしら。みんなに心配させようとしたり、暗い気持ちにさせようとした発言ではないということを考えなくてはなりません。

生きていると、きっといいことがある、という励ましだったと思うのです。
これで犯人探しをしたり、個人攻撃をするのは、かえってご本人を悲しませると思います。

「よかったね~」と一緒に笑っていれば、お互いにあたたかい気持ちになると思うけど。



コメント
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