2020/02/16
著者の牧野雅子さんは龍谷大学犯罪学研究センター博士研究員。京都大学博士(人間・環境学)。専門は、社会学、ジェンダー研究。警察官として勤めた経験があります。
戦後から現在までの雑誌や新聞記事を分析し、これまで痴漢がどう捉えられ、社会の意識がどうつくられてきたかを読みとく本です。
本の紹介文によれば、
〈なぜ日本では「痴漢」という性犯罪が、こんなにも日常化しているのか? そして、「被害」の対で語られるべき「加害」ではなく、なぜ今「冤罪」ばかりが語られるのか?
戦後から現在までの雑誌や新聞記事を分析し、これまで痴漢がどう捉えられ、社会の意識がどう共有されてきたかを読み解いていく、これまでになかった新しいアプローチの書。
この社会は、「痴漢」の問題と今度こそきちんと向き合わなくてはいけない――前提を共有し、解決策を考えていくために必読の一冊〉
現在では、痴漢は性暴力の一つと捉えられているんでしょうかね。
というのも、以前は、"性的な暴力"ではなく"公共の場の秩序を乱す迷惑行為"とされていました。法律はなく、自治体の迷惑防止条例で取り締まるものでした。
痴漢行為によって性的羞恥心を催したかどうかが問われ、まだ性的羞恥心を感じえないと思われている幼女は被害者として想定されないという、驚きの発想なのです。
今は刑法の「強制わいせつ罪」が適用されます。被害対象が女性だけだったのが、男性にも適用されるようになっています。
痴漢といっても様々な場所、状況がありますが、この本は電車内での痴漢に限定して書かれています。
私は、「はじめに」から読み始めましたが、作者はどうしてこの本を書いたのだろうとずっと思って読んでいきました。その答えは「終わりに」にありました。
作者が学校を卒業して警察官になった1年目、仕事帰りに乗った電車で痴漢に遭ったのです。警察官(いわゆる婦警)である自分がどうしていいかわからない。結局、同じ電車に乗っていた上司や両親の手助けで犯人は捕まりました。
その時の経験が大きかったのだと思います。もちろん、その後も婦警として痴漢被害者に接して違和感を感じることも多かったのでしょうが。
この「終わりに」の文が巧みで、まるで小説のように感じました。
「この人、婦警さん」と上司が言って自分を指さした時の犯人の驚いて見開かれた目、「自分の人生は終わってしまった」と妻とふたり手を取り合って泣いたという犯人の謝罪。
なぜ、ここで謝罪に妻が引き合いに出されるのか・・・
痴漢について、あまりにも男女で認識のずれがあるのです。
1960~70年代頃まで、痴漢は男性の文化や娯楽のひとつであり、大衆男性週刊誌にはどこの路線がやりやすいとか、女子高生がたくさん乗ってくる駅とか、書かれていたのです。
満員の通勤地獄、辛い仕事に向かうときの唯一の楽しみが、満員電車の痴漢であるという発想。
「痴漢!」と声をあげられた時の対処法は「誰がお前みたいなブスを触るか」というものでした。
「女もされるのを待っている」、あるいは「私が女として魅力的なので触ってくるのだ」と女も内心満更ではないと感じているだろう、というのが男性側の考え方でした。
これを女性に問えば、誰もが100%男性の勘違いだと言うでしょう。
それから痴漢冤罪事件の映画が公開され、痴漢といえば、冤罪が畏れられるようになり、仕事も家族も失い、一生を棒に振るというイメージがつくようになりました。
痴漢と言われも絶対に駅長室に行くな、逃げとおせという対処法がまかり通り、最近でも、線路に飛び降りて逃げていく男の映像をテレビで見たことがあります。
被害女性の傷つきに心を寄せる発想よりも、男が困らないためにどうするかという男性中心の発想が痴漢冤罪にはあります。
作者は書いています。
「冤罪の責任は女性ではない。捜査機関や裁判所にあるにもかかわらず、女性に問題があるように責任転嫁されてきた。」
「ただ電車に乗るだけなのにそこまで心配しなきゃあだめ?息苦しい世の中になったものだという男性は、何も心配せずに電車に乗れる立場にあったことを示している。ただ電車に乗るために女性たちは闘ってきた」
遅れている警察、遅れている法律、遅れているマスメディア・・・特に昔のことは読んでいくと悲しくなるような箇所が多かったですが、確かにそんな時代だったなと私自身も思い当たることがあります。
やっと、MeToo問題も語れるような時代になってきました。
この本も男女を問わず読んでもらいたいと思いました。