2020/05/03
子どもの頃、読書感想文は宿題でも一番大変でしたが、このブログでも本のことを書くのはけっこう大変。
本の紹介文のような書き方なら、今はコピペで簡単に書けるかもしれない。あるいは、おもしろかった、という書き方も簡単かもしれない。でも「Stay Home」の今だから、じっくり読んで書こうと思うのです。
さて、石原慎太郎著『三島由紀夫の日蝕』の続き③です。
三島由紀夫は著書『太陽と鉄』(1965~1968年、雑誌「批評」に連載)を、「甚だ長い時間をかけて書き、自分の文学と行動、精神と肉体の関係について、能ふかぎり公平で客観的な立場から分析したもの」だと述べています。
それに対する石原氏のかなりの酷評。
『日蝕』より抜き書き、引用させていただきます。
「『太陽と鉄』は真摯な自己告白のように見えても実は粉飾でしかなく、本質的に嘘であり、間違いであり、氏にあんなことを言いきる資格はその肉体の能力の故にありはしない。華麗でむなしい弁論」p.96
「手のこんだ自殺のために書いたのではなく、こんなものを書かなくてはならなかったがゆえに自殺したのだ。」p.97
「肉体的プレゼンスにふさわしい人間ではなかったということ、むしろ誰よりもかけはなれて遠い資質の人だった。」p.97
「氏の反射神経は絶望的なものだった。」p.49
「主演映画〈からっ風野郎〉監督の増村保蔵氏に徹底していびられた。」P.50
「あれは大変、監督も三島さんも見ていて本当い可哀そう。そりゃあ台詞は誰でも少しやればできますよ。でも演技の動きが全然ちぐはぐでどうにもならないんです。 この間も若尾文子に灰皿をぶつけるシーンがあったんですが、それだけで1日かかっちゃった。とにかくまともに物が投げられないんです、あの人。」(石原氏と親しい映画スタッフの談) p.51
三島のボディビルについて。
「ボディビルは他の様々な機能を要求されるスポーツによって獲得される肉体とは異なる範疇の肉体でしかない。観賞に堪える以外の何でもない。」p.40
「他のスポーツは、その肉体が獲得するためには、その途上に誰しもが危険さえ伴う様々な心身の試練にさらされる。怪我のほかにも苛立ち、怒り、屈辱、劣等感、などなど。
そのどれもが人間の精神の肥満を殺ぎ落とし、結果としてよろず人間の資質に関する公平な認識を育て、さらに謙虚さ、忍耐、自制心を養い、つまり精神の強靭さを与えてくれる。」P.41
「三島氏がボディビルによる肉体の獲得の過程についてのべながらしきりにいっている受苦とは、ただ単純安全な反復に耐えるということでしかなく、他のスポーツには付随してある精神あるいは情念における苦痛についてではない」p.41
「真の才能を要するスポーツで強いられることは孤独などでは決してなくて、あくまで他人との肉体的精神的な濃いかかわりの中に自分を晒して耐えること」p.42
更に石原氏は三島の剣道についても手厳しく書いています。
「(三島氏が)剣道五段まで取った。信じられず見に行った。またかという気分だった。「面っ、面っ、面っ」とかけるその声と振り下ろす竹刀の動きがちぐはぐにずれてしまい、終いには全く合わなくなってしまう。相手の年配者が防具の陰で微苦笑するのがうかがえた。」p.61
「有名作家の特権を無意識に乱用し慣用していたとしかいいようない。どうにも痛々しく、氏には挨拶せずに勝ってに切り上げて出てきた」p.61
立原正秋氏ははるか前から三島氏の割腹自殺を予言していたともいう。
立原正秋氏エッセイ『寒椿』より
「あまりに脆弱な武であった。おのれの脆弱さをいちばんよく知っていたのは三島氏自身であった。彼はそれに打ち克つために剣をやり、ボディビルをやり、空手をやり楯の会をこしらえていた。そうした形を見世物にし始めたとき、私は無理につくり上げた武には限度がある、限度が来たとき、彼は自決するだろうと考えたのである。こと剣に関する限り、これは自明の理である。」P.63
「三島氏は、はじめから終わりまで、演技に徹した生涯であった。しかし、氏はなぜ自宅で割腹しなかったのか。まことの剣を知っていたなら、法を紊すことはしなかっただろうし、ましてや青年を道づれになど出来るはずがない。最後まで演技によって自己顕示をしなければ気のすまぬ人だったのだろう。もし独りで割腹自殺をしていたのなら、三島美学ははじめもよく終わりもよかった。」p.64
「本多秋五長老が、あの人には本心がない、と剔出したのは明言であった。」P.64
「他人が彼のことをどんな風に思っていたのかいろいろ読み返してみると、みんなそれぞれに遠慮しながらも氏のことをそれなりに冷静に捉え突き放して眺めていたのがよくわかる。ならばなぜにみんなももう少し早くもっと率直に彼に向かってものをいってやらなかったのだろう」p.66
「氏のように当時のメディアに全面的かつ無責任にもてはやされていた人間に、いたずらに王様の機嫌を損ねてまで王様は裸だという人間はいなかったということだろう」P.66
辛辣な言葉が並んでいますが、石原氏は「毒を解くのに毒をもってするようなもので仕方がない」と語っています。
「こと肉体に関する限りのもろもろの挿話は、実は三島氏が死について書いたものの中に散りばめられた伏線を捕らえ、氏の死を正確に明かして三島氏の作品を作者から解放してやるのに必ず役立つと思う。」p.48
この思いについては、本を最後のあとがきまで読んだとき一層の納得がいきました。
あとがきで石原氏は、この本の校正が全て済みとなった夜、三島さんの夢を見たという。
「氏が不満でなにか抗議にやって来たのか、それともこれで浮かばれるといいにきたのかは私にはわからないが、私は私なりに氏の鎮魂のためにもと思って綴ったことではある。」p.199
この言葉を読んだとき、皮肉な言葉の中に石原氏の三島氏への親愛の情、思いを感じ、不思議と胸に迫るものがありました。
『三島由紀夫の日蝕』はもう少し書きたいことが残っていますので、また次回。