2020/07/27
『五衰の人 三島由紀夫私記』感想の3回目です。
本書には三島由紀夫の妻・瑤子夫人のことも書かれています。
三島があのようなショッキングな亡くなり方をしたとき、家族はどんなだったろう、妻はどうしただろうと思っていました。
瑤子夫人は大学在学中の21歳で、三島由紀夫とお見合結婚をします。
恋愛結婚ならいざ知らず、大学を辞めて結婚するなんて、ずいぶん急いだのだなあと私は思いました。昭和33年(1958年)当時でも、中退して結婚するのはそれほど一般的ではなかったのじゃないかしら。
「瑤子夫人の死後の2011年(平成22年)に湯浅あつ子が証言したところによれば、杉山家との最初の面会の後、三島は縁談を断っていたのだという(理由は、娘が大学在学中にも関わらず、自分との縁談を急ぐ杉山元子夫人とその実家に、あまりよくない印象を受けたためとされる)。結局は瑤子の強い意志と要望で、両家の直の話し合いの末に結婚の運びとなったとされ、実は瑤子の方が三島に会って、すぐに気に入っていたのだという」(Wikiより)
『五衰の人』から瑤子夫人について書かれた部分を引用します。
(作者が)瑤子夫人に会った時も、故人のことは何も聞かなかった。瑤子夫人が決意をもって亡き夫の私事を守る人であるのを承知していた。
周知のように、三島さんは愛を前提としない結婚をした人だった。「結婚適齢期で、文学なんかにはちっとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思ってくれる素直な女らしいやさしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん。僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支えてくれる人」(『私の見合い結婚』)という条件を出し、日本画家・杉山寧氏の長女と結婚した。(p.279)
瑤子夫人の言葉によると、
主人のこと、彼との生活のことについては、いままで1度も書いたことはありません。書く手法も知らないし、主人との昔からの約束もあります。こういう夫でございましたと妻が書いても、それはたかだか興味の対象になるくらいでしょう。私自身、そういうものを読むのが好きではないし、妻が書くことによって亡くなった人の姿を変えるすべもありません。書く意志もなければ書くこともできません。(「諸君!」昭和60年1月号)(P304)
「愛のない結婚をした」と書いてあります。三島の同性愛はよく知られたところですが、しかし母親の倭文重は世間並みの結婚を望んでいました。正田美智子さんとお見合いをした、という噂もこの頃のことです。
同性愛についてはまた後日書きたいと思います。
瑤子夫人は三島の名誉を守るため、子どもたちを守るため、そして著作権を守る活動などを精力的にされていたようですね。
本書で私が注目した部分を2つほど書いておきましょう。
2年ほど前(平成5年頃)、有名な評論家5人が座談会の形で明治以後の名著百冊を選んだ本が出た。小説もかなり入っているが、三島作品は1冊も採用されていなかった。
「三島はコント作家だ」「『豊饒の海』だって長いショートショートだ」「オチまで我慢してくださいという小説」・・・談笑のうちにボツにされていた。
三島は死後自分の文学は疎んぜられるはずだと見通した。(P.282)
私はこの部分を読んだときには、三島の本が1冊も入らないことはないだろうと、誰が選者だったのかと調べてしまいました。まあ、誰だったかは、ここには書かないことにします。
徳岡氏は「フラワーチルドレン達」と形容していますが、この時代の雰囲気がどうであれ、ノーベル賞候補にもなった、今も読み継がれている作家に、それはないなあと思います。しかし、あの事件がなかったら、もっと作品は尊重されていたでしょうね。
最後に、徳岡氏は書いています。
三島さんに近い人はなぜか急ぎ足に去っていく。(p283)
1972年、文壇の師だった川端康成氏の不慮の死(ガス自殺)72歳
1973年、市ヶ谷の駐屯地で人質になった益田兼利総監の病死 59歳
1976年、息子についての回想『倅・三島由紀夫』を書いた父の梓氏 82歳
1976年、三島と親しかった翻訳者・アイバン・モリス氏 旅行先のイタリアで急死 51歳
1995年、瑤子夫人 心不全で死亡 58歳
1996年 平岡千之氏(実弟)肺炎で死亡 65歳
こうして並べてみると、両親は別として、三島と親しかった人はなぜか短命でこの世を去っている人が多いですね。自決事件が何か影響を与えているのでしょうか。
川端さんの死は、三島のことが少なからず遠因にあったと言われています。益田総督の癌による死は、自決事件を目の当たりにしたストレスではないかと石原慎太郎氏は書いています。
あの事件の与えた衝撃は大変なものがあったと思います。
鈴木邦男氏(森田必勝の友人)が書いているものをネットから引用しておきたいと思います。
「三島さんという人も残酷なんだな」と思った。だって、100人の「楯の会」の若者たちは、「その後」皆、悩み、悔やみ、そして苦しんで生きてきた。「なぜ自分を連れて行ってくれなかったのか」と。三島を恨み、絶望し、悲嘆に暮れた。
又、持丸博氏(初代 楯の会学生長)のように、「自分のせいで」…と自責の念に苦しめられた者もいる。「楯の会」時代は楽しかっただろう。しかし、〈11.25〉以降は、〈地獄〉だ。
持丸くんが脱会した1年後のこの衝撃的な事件に対して、彼自身、「あの事件の衝撃が余りにも大きく、その後の30数年間は、ほとんど金縛りにあったような状態が続き、とりわけボクが面接した後任学生長の森田必勝が、三島先生と一緒に自決したことは、長い間ボクの心の澱となっている。ボク自身が今もって、あの三島事件の持つ意味を未だに総括できていない」というほどだ。
と書いています。
あの事件によって人生が変わり、30数年間も悩み苦しみ続けていた人もいたのですね。
『五衰の人』の感想はここで終わります。
(お写真はありがたくネットからお借りしています)