顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

間もなく除夜の鐘…お寺と鐘楼

2024年12月26日 | 歴史散歩
大晦日は、古い年を除く日という意味から「除日(じょじつ)」ともいわれていました。この除日の夜、つまり除夜に撞く「除夜の鐘」は、108ある人間の煩悩を消し去り新しい年を迎えるために、その数だけ撞くとされています。



この梵鐘を吊るした建物は鐘楼とよばれますが、楼門と一緒になった鐘楼門や下層が袴腰になっているものなどいろんな形があり、歴史散歩でお訪ねした寺院で撮った鐘楼を並べてみました。(なお紹介したお寺では、除夜の鐘を撞かないところもあります)

源頼朝の創建と伝わる臨済宗妙心寺派の長勝寺(潮来市)の鐘楼は、下層が袴の裾のように広がっている袴腰付きです。

元徳2年(1330)の銘のある梵鐘は、鎌倉幕府14代執権の北条高時が頼朝の菩提のために寄進したもので重要文化財に指定されています。



善光寺(長野市)の鐘楼は江戸時代後期建立の入母屋造檜皮葺き、切石積基壇上に南無阿弥陀仏の六字にちなんで6本の柱で建てられています。

小江戸といわれる川越市の天台宗喜多院、下層が門になっている袴腰付鐘楼門です。

梵鐘の銘にある元禄15年(1702)に建てられた鐘楼ともども重要文化財に指定されています。


雨引山楽法寺(桜川市)は、アジサイと雨引観音の名で知られる真言宗のお寺です。

ここでは鐘楼堂とよばれる華麗な建物は、建長6年(1254)に宗尊親王により建立され、その後二度再建された文政13年(1830)のもので、屋根だけは瓦葺きに葺き替えられています。

真言宗の華蔵院(ひたちなか市)の梵鐘(※上記タイトル下のイメージ写真)には幸運な歴史が残っています。

江戸時代後期、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が大砲鋳造のため、領内の梵鐘を集めましたが、暦応2年(1339)の銘のある浄因寺(現、満福寺(常陸大宮市))の鐘は、幸いに鋳つぶされることを免れ、後にこの華蔵院に据えられたと伝わっています。

鐘楼門で知られる阿弥陀寺(那珂市)は、土塁や堀の残る中世の額田城の一画にある浄土真宗のお寺です。水戸藩2代藩主徳川光圀公御手植えと伝わる樹齢320年の枝垂れ桜が咲く春には桜まつりで賑わいます。

親鸞聖人が建保4年(1214)那珂西郡大山(城里町)に開いた念仏の道場、大山禅房阿弥陀寺を明徳3年(1392)額田城主小野崎氏が額田城内に移し守護寺としました。


臨済宗の江畔寺(常陸大宮市)は、佐竹氏の一族小瀬義春が康永3年(1344)、小瀬城の大手門前に菩提寺として建立しました。



西光院(大洗町)は応永5年(1398)宥祖上人の開山で、寺号を古内山宝性寺西光院と称し京都醍醐寺無量寿院末の真言宗のお寺です。

西蓮寺(行方市)は奈良時代の延暦元年(782)に桓武天皇の勅願により最澄の弟子である最仙によって創建されたと伝えられる天台宗の古刹です。

最仙上人お手植えと伝わる銀杏の巨樹2株の黄葉が彩る境内に建つ重層の鐘楼には、直線的な袴腰が付いています。


「親鸞聖人法難の地」として知られる浄土真宗の大覚寺(石岡市)、京都の天竜寺庭園を模したとされる「裏見無しの庭」が名所になっています。


浄土真宗の大山寺(城里町)の境内では、意匠を凝らした木組みと流線的な袴腰が美しい鐘楼がひときわ目を惹きました。


茅葺き、袴腰付の小じんまりとした鐘楼は、浄土真宗の無量寿寺(鉾田市)にあり享保12年(1727)の棟札が残っているそうです。本堂も茅葺きでしたが2021年火災により焼失、鐘楼は免れましたが本堂はいま再建工事中です。


宝金剛院(常陸太田市)は真言宗のお寺で、久慈川流域を支配した久自国造舟瀬足尼(すくね)の墳墓と伝えられる全長は160mの前方後円墳、梵天山古墳の南麓にあります。


神社に鐘楼?……東金砂神社(常陸太田市)にある鐘楼は、神仏混合時代の遺産で、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった別当寺・東清寺の名残だそうです。


真言宗の仏国寺(城里町)の鐘楼に吊るされた梵鐘には貞享元年(1864)の銘があり、明治の廃仏稀釈で建物は破壊されましたが境内の外れにあったため難をのがれたと伝わります。

最後は柴又帝釈天(東京都葛飾区)、正式な名は経栄山題経寺という寛永6年(1629)開山の日蓮宗の寺院です。

ここは松竹映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さんで有名になり、この大鐘楼も今は亡き佐藤蛾次郎演ずる源ちゃんが時を知らせる鐘を鳴らす場面に出てきました。


この一年拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。

暗い話題の方が多かった年でした…せめて五輪や大谷君の活躍で暫し気を晴らせていただきましたが、新しい年には世界各地の紛争が終息し平和な地球になることを切に願いたいと思います。

どうぞよいお年をお迎えください。

年の暮れ2024…まだ頑張っている花たち

2024年12月19日 | 季節の花
2024年もあと2週間弱、すっかり色彩の少なくなった身の回りで、寒さに耐えながら咲いている花を探してみました。


ホトケノザ(仏の座)シソ科オドリコソウ属で、花期は3月から6月とされてはいますがとんでもない、今は1年中見られます。春の七草のホトケノザはキク科の別種です。


日本古来のタンポポ(蒲公英)は春に咲きますが、繁殖力が強く生態系で優位になっているセイヨウタンポポ(西洋蒲公英)は、この時期でも咲いているのを見かけます。


林の中で元気に咲いているアザミを見つけました。googleレンズで調べると、ノハラアザミ(野原薊)のようです。


大洗港の先端緑地公園で咲いていたキミガヨラン(君が代蘭)は、5~6月と10~11月の年2回咲くリュウゼツラン科の耐寒性常緑低木でユッカともよばれます。海沿いは2,3度暖かいといわれますし、北米~中南米原産でも耐寒性は強いようです。学名の種小名「gloriosa (栄誉ある)」から和名が付けられたといわれます。


いま満開なのはサザンカ(山茶花)、古刹の生け垣に咲いていた三種の配置には、植木職人の感性が感じられました。


我が庭のフユイチゴ(冬苺)…樹の下に生えていますが今年は野鳥にすぐ見つかってしまいました。


ヒイラギ(柊)はキンモクセイの仲間、甘い芳香で知られますが嗅覚の衰えた仙人の鼻では無臭です。「鰯の頭も信心から」という風習も最近では見られなくなりました。


縁起のいい名前のキチジョウソウ(吉祥草)も、木陰に植えた我が庭では増えすぎて困っています。


垣根のバラが赤い実と一緒に咲いていました。このように初冬に咲く返り花のバラのことを「冬薔薇(ふゆそうび/ふゆばら)」といい、よく詠まれる初冬の季語です。

               冬薔薇いよいよ年の空深く  高澤良一



ススキ(芒)もこの時期になるといちだんと侘しさを感じます。

               折れてなほ日に華やげり冬芒  岡田日郎


樹の下が霜よけになったようで、無傷のムラサキカタバミ(紫片喰)を見つけました。


いつもと同じ12月10日前後の強霜により黒くなった皇帝ダリア、亜熱帯の中米原産で我が家に来てから約20年、今年もよく頑張り1か月の間冬空を華やかにしてくれました。根茎部分は地中に残りますので、枯草などを被せておくと来年もまた元気に芽を出します。



まだ散りかねている紅葉をバックに、コブシ(辛夷)の蕾が大きくなっていました、来る年の希望を象徴するように…。とはいえ、世界各地で収まらない争乱、不安定な国内情勢や物価高騰など明るい話題があまりないのが気にかかりますが。

最後の紅葉…歴史ある3寺社(水戸市)

2024年12月12日 | 水戸の観光

2,3日強い風が吹き、枝にしがみついていた紅葉もほとんど散ってしまいました。なんとか間に合って撮った最後の紅葉の写真です。


水戸八幡宮は樹齢800年という国の天然記念物指定の大銀杏で知られています。


訪ねた時には大銀杏は散り始めていましたが、樹高42mの大樹が鳥居のはるか上の空に屹立していました。


幹周り9mもある樹の下は黄色い絨毯です。稀に葉から実が出るので「お葉付け銀杏」とよばれています。仙人が数年前に撮って社務所でお墨付きをいただいた写真を〇囲みで入れました。


この八幡宮は、文禄元年(1592)水戸城を手に入れた佐竹義宣公が常陸太田から居城を移す際に水府総鎮守として鎮斎し、文禄3年(1594)八幡小路(いまの北見町)に本殿を創建しました。水戸徳川家の治世になり一時城外に移されましたが、宝永6年(1709)この地に再び遷座され、代々の水戸藩主からも崇敬されました。


本殿は国の重要文化財に指定されています。
ご本尊の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は神格化された応神天皇なので、山門、拝殿などには菊のご紋が付いています。


標高差約20mの水戸台地上にある八幡宮の北東の崖上に烈公御涼所があります。水戸藩9代藩主、徳川斉昭公(烈公)がここを訪れて眼下に望む那珂川の涼風を楽しまれたといわれています。大きな欅の木が色付いていました。


祇園寺は明の心越禅師の開山、水戸藩2代徳川光圀公の開基による曹洞宗の寺院です。

心越は廷宝5年(1677)に来日し、天和元年(1681)光圀公の招請でこの場所にあった天徳寺に居住し、元禄8年(1695)の死去までこの寺で過ごしました。


正徳2年(1712)四世大寂界仙のとき、いままでの岱宗山天徳寺を河和田村に移し、そのあと壽昌山祇園寺と改め、心越禅師をもって開山とし曹洞宗寿昌派の本山となりました。
本堂前の実の付いた大木は、センダン(栴檀)です。


光圀公が心越禅師に心服したのは、禅宗の高僧であると同時に、篆刻、絵画、書、詩文、琴(七弦琴)など一流の中国文化を伝える技術を持っていたからといわれます。特に篆刻については、「日本篆刻の祖」といわれ、その作品が各地に残っています。


祇園寺開山の約200年後の幕末、水戸藩は門閥派(諸生党)と改革派(天狗党)による激しい藩内抗争により多数の犠牲者を出しました。水戸市内では天狗党の慰霊碑が多く、明治以降は逆賊の立場に置かれた諸生党ですが、昭和10年(1935)に殉難者525柱の名を記した、この「恩光無辺の碑」が建てられました。


祇園寺の墓地には諸生党のリーダー市川三左衛門、朝比奈弥太郎や洋画家の中村彝、詩人の山村暮鳥などが眠っています。


光圀公開基のため薬医門形式の山門には、水戸葵紋がしっかりと付いています。


桂岸寺は、正式には「大悲山保和院桂岸寺」ですが、地元では「谷中の二十三夜尊」という名前で呼ばれています。

天和2年(1682)檀海和尚が開山し市内の全隈町にあった普門寺を、水戸藩立藩の際家康より付けられた附家老2代中山信正の供養のため子の信治が譲り受け現在の地に開基しました。


元禄7年(1694)、光圀公の命令により保和院と改称、さらに宝暦5年(1755)に現寺号を称し、京都御室仁和寺末となりました。門跡寺院の仁和寺なので菊の紋が付いています。


延命地蔵やピンコロ地蔵などの置かれた一帯も鮮やかに彩られていました。


愛染堂と朱雀門…門は旧水戸城二の丸に在った水戸徳川家霊廟の門と伝えられています。


隣接して光圀公が名を付けて愛した保和苑があり、60種5000本のアジサイなど四季の花々が植えられています。この明星が池は水戸城の東の水堀の役目をした池の名をとりましたが、光圀公がその池を浚って魚を採ろうとしたときに家老の中山信正が堀の水を抜くとは…と諫めた話が残っています。


この中山信正はご意見番で知られ、その墓は真北に光圀公の眠る瑞竜山を向いた場所にあり、家紋の「枡形に月」をかたどった墓石に光圀公から贈られた諡号「恭子(きょうし)」が刻まれています。


社会派、前衛派の俳人として知られる金子兜太が旧制水戸高校在学中に詠んだ「白梅や老子無心の旅に住む」の句碑が置かれています。

水戸市街地から北西に少し離れた歴史あるこの一画は、いまの時期人影も少なく紅葉の穴場でした。

立野神社…山里に長い歴史の式内社

2024年12月07日 | 歴史散歩

「式内社」は「延喜式内社」ともいい、律令制度による支配を行った大和国家で平安時代中期の延喜5年(905)に編集された「延喜式」の中の、当時の官社(律令制の神祇官または国司の祀るべき神社)として神名帳に載っている神社のことです。


式内社は全国で3132座(祭神の数)、2861社(神社の数)が記載されており、それらは約1200年前に実在した由緒正しい、格の高い神社ということになります。
常陸国では大社7座7社(いずれも名神大社)、小社21座20社の計28座27社が記載され、常陸大宮市ではこの立野神社だけです。

立野(たての)神社は、社伝では約1400年前の大化2年(646)に久自国造の物部氏の一族、立野連が現在地から約1キロ離れた西塩子との境の立野山の山腹に祖神を祀ったのが始まりとされています。


その後、天正年間(1573~1592)にこの一帯を治めていた佐竹氏の一族の小瀬庄三郎義隆が、現在地にあった白幡山の鹿島神社に合祀して立野鹿島神社と称して、小瀬の総鎮守としましたが、その後いつの頃からか立野神社と呼ばれるようになったと伝わります。


木製の鳥居は、近辺では珍しい本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設けた両部鳥居です。


大きな石をくり抜いた手水舎はこじんまりとしてまわりの景観に溶け込んでいます。

御祭神は級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなつとべのみこと)で、風の神とされ、風を防ぐことから五穀豊穣の神、嵐除けの神としても地域の人々に信仰されてきました。

天保5年(1834)水戸藩9代藩主徳川斉昭公より地方二十一石寄付され、また、明治5年(1872)には最後の藩主だった昭武公より水戸家重宝の塗弓一張が奉納されました。


本殿の千木は外削ぎ、鰹木は5本でした。千木の削ぎ方や鰹木の数で男神、女神を分けるという説は現在では俗説とされているようですが。


伊勢神宮遥拝門…500キロ以上離れた伊勢神宮に行かなくてもここから遥拝することができます。


茨城県北の2社5寺で「佐竹七福神巡り」を設けており、ここは大黒天でした。


摂社が多く中には小さいながら凄い彫刻の施された社もありました。

見事な龍の彫刻と木鼻まで付いた摂社は稲荷神社です。


本殿の下には緒川が流れています。約10キロ南で那珂川に合流し、那珂湊で太平洋に流入します。

左右の狛犬は長い年月を経て表情がまろやかになったような気がします。


神輿殿には社紋の左三つ巴の入った金色の神輿が格納されていました。


6月初旬に行われる境内社の素鵞(そが)神社の祇園祭ではこの神輿の渡御があり、静か山里は威勢のいい喧騒につつまれるそうです。(※写真はチャレンジ茨城県民運動HPよりお借りしました)

昔の儘のたたずまいを残すこの緒川地域には1100世帯ほどが散在しているだけですが、地域の方々に崇敬され、ともに長い歴史を刻んできた神社の姿を見ることができました。

偕楽園公園の秋…年々紅葉が遅くなる?

2024年12月01日 | 水戸の観光

梅で知られる偕楽園は、広さ12.7haで標高差約20mの水戸台地上にありますが、周辺の沖積層の水辺を含めた緑地は、偕楽園公園とよばれ約300haの面積があります。

その中でも紅葉の名所として近年知られてきた「もみじ谷」は、水戸台地が浸食されて出来た谷に植えられたもみじが大きくなり、この時期に訪れる人も多くなっています。


今年訪れたのは11月25日、去年も例年より遅かった紅葉ですが今年はさらに遅れていました。


まだ十分に色付いていません。


少し緑が混じっている紅葉が好きだという人もいますが…。

因みにこの場所の昨年と一昨年の紅葉写真を載せてみました。


去年の2023年11月27日撮影


一昨年の2022年11月14日撮影




さて一般的にはモミジより少し早めに黄葉するイチョウは、茨城県立歴史館の銀杏並木が名所として知られています。


昭和49年(1974)に当時の岩上二郎知事が、文書館と博物館の二つの機能を備えた歴史館として開館した当時は、全国的に注目を集めました。


開館より50年、古文書や行政文書から、考古や歴史、美術工芸など56万点以上の資料を収蔵しており、今年は節目の年としていろんな記念展示が行われています。


ここには昭和45年(1970)まで、茨城県立水戸農業高等学校があり、その旧校舎本館も復元されています(写真右)。


また構内には明治14年(1881)に建てられた旧水海道小学校本館が水海道市(現常総市)から移設されています。


水海道町民有志が寄付5000余円を集め、建てたのは地元の宮大工羽田甚蔵で、横浜の外国人居留地に通って図面を書いたといわれています。女優の羽田美智子さんの高祖父になることがNHKファミリーヒストリーで紹介されたことがありました。


ところで銀杏の葉にはシキミ酸という防虫効果のある成分が含まれ、古文書などに銀杏の葉が挟まれているのが見つかるそうです。また、なかなか腐らずに残るため踏んだ足を滑らせたり、腐葉土には向かないなどともいわれています。



水戸城の堀の役目と偕楽園の借景として池の役目を果たした千波湖は、当時の大きさの三分の一くらいになっていますが、一周3Kmの湖畔の歩道は、ウオーキングやランニングの方々でいつも賑わっています。



水戸城の南北東は水堀で守られていましたが、陸続きだった西側には5段の堀があり、その一番外側の堀跡は西の谷緑地として整備されています。深い堀の上はすぐに繁華街という立地で、茨城県で唯一のデパート「京成」のビルが紅葉の上に見えます。


この紅葉の遅れる原因は地球温暖化のため、夏の高温で紅葉する前に葉が枯れたり散ってしまったり、また紅葉の一番の誘因である朝晩の冷え込みが弱くなりきれいな色付きにならないともいわれています。



1週間前に気候変動に関する最大の国際会議COP29が閉幕しましたが、なかなか意見の一致が難しかったらしく、またアメリカの次期大統領は離脱の素振りさえ見せています。モミジの紅葉くらいならいいのですが、世界中で起きている干ばつによる飢餓や海に沈む島嶼国など命に係わる切実な問題を、地球で生きてゆくものの責任として大国こそ先頭に立って取り組むべきではないでしょうか。