顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

赤沢江…350年前の水戸藩の農業用水

2024年02月06日 | 歴史散歩

赤沢江(あかざわえ)は今から約350年前に、水戸藩初代藩主徳川頼房の命を受けた工事奉行望月恒隆の指図により甲州黒川金山や諸国の鉱山開発に携わっていた永田茂右衛門、勘右衛門親子が工事を任され慶安3年(1650)に着工、明暦2年(1656)に完成した農業用水路です。

その取水口は那珂川大橋の約100m上流左岸にありました。関東の嵐山ともいわれる御前山(156m)の山裾が那珂川に突き出した岩盤を穿った洞窟が見えます。

この河原は我が娘たちが小さい頃によく連れて行って遊ばせたところですが、当時は興味も知識もなく気が付きませんでした。

幕命により水戸藩が編集した地誌「水府志料」によると、沢山村(城里町)赤沢で取水し大山、北方、粟野、高久、上圷、石塚、下圷、上泉、岩根を通り、長者山(水戸市)の下で台地の端を削って通水、常葉村(水戸市)の北で那珂川に流入した水路延長4里28町(約18km)で11ヶ村2000石余の地域を潤しました。

Google mapにその地区を結んで流路を大雑把に引いてみました。

その後水利が悪くなったり、大洪水で破壊されたりして宝暦7年(1757)には使用されなくなったため、短期間のこの事業は後世にあまり知られていないようです。



昭和になってから約2キロ下流に赤沢揚水機場を設け、水の便が悪い河岸段丘上の約200haの水田の灌漑をしてきました。しかし近所の人の話では昨年でここも稼働を止めたと言っていました。

機場のすぐ上流の対岸には小場江堰の頭首工が見えました。

ここも同じ時期に永田茂右衛門、勘右衛門親子が工事を任された水戸藩の三大江堰(辰ノ口江堰・岩崎江堰・小場江堰)の一つで、これは建設から350年以上経過していますが、現在でも重要な灌漑設備として水戸市、那珂市、ひたちなか市の農業用水を供給しています。
※頭首工とは、農業用水を河川から取水するため、河川を堰き止めて水位を上昇させ、水路へ流し込む施設のことです。


赤沢江の取水口から約10キロ下流に「赤沢江憩いの広場」があります。手入れがされてなく案内板も消えていますが、用水の跡らしい水路が河岸段丘の裾にありました。

水を含んだ台地の湧水が用水路に流れ込むようにしてあったのでしょうか。

ところで、これらの工事をした永田勘右衛門は、赤沢江、小場江堰の他に辰ノ口江堰(慶安3年・1650)、岩崎江堰(承応元年・1652)や、水戸城下町の笠原水道(寛文2年・1663)など、水戸藩の利水、治水に大きな功績のあったため2代藩主光圀公より「圓水」の名を賜り、光圀公が晩年隠居した西山荘近くの墓地に葬られています。


永田勘右衛門が携わった笠原水道は、初代藩主徳川頼房公の田町越えといわれる低地を埋め立て下町への商人移住策の後、飲料水に不自由した下町へ光圀公が水道設置を命じたものです。

総延長10キロの水道は日本で18番目に古い江戸時代の水道といわれ、修復を繰り返しながら、近代水道が敷設された昭和7年まで使われました。

昨日はこの地方にも珍しく大雪注意報が出されましたが、太平洋から約5キロに位置する終の棲家では午後の降雪もその後雨に変わり、雪の欠片もない朝…、震災に遭われた能登の方々には申し訳ないような気持ちになりました。一日も早く元の生活に戻れることを願うばかりです。

水戸城祉の門…現存と復元など

2024年01月30日 | 水戸の観光

明治元年の藩内抗争最後の弘道館戦争、明治5年(1872)の水戸城二の丸御殿の火災、昭和20年(1845)の水戸大空襲…度重なる災難で水戸城址の建物はほとんど消失してしまいましたが、残った本丸薬医門、弘道館正門の他、復元された門など城址にあるいろんな門を在庫写真も加えて並べてみました。



現存する薬医門は本丸跡に建つ水戸一高の正門にもなっています。昭和20年の大空襲で水戸市街地の約8割を消失しましたが、この門は郊外の祇園寺に移設されていたので消失を免れました。建築様式から佐竹氏が水戸城を整備した16世紀末に建てられたものとされます。

形式と規模などから本丸から二の丸に通じる橋詰門とするのが通説になっています。昭和56年(1981)に風格のある姿そのままに本丸跡に移築復元されました。



同じく現存する三の丸にある藩校弘道館の正門は、藩主が来館する時など正式の場合のみ開門されました。国の重要文化財に指定され、本瓦葺きの四脚門の柱には明治元年の弘道館の戦いの弾痕が残っています。藩内抗争最後のこの戦いで正門と正庁、至善堂などを残し、建造物のほとんどが焼失しました。

現在は年に数度の記念日に、正門が開門され来館者が通行できます。


正門の右手にある弘道館通用門は、学生や教員、役人たちが出入りした門です。現在の来館者もこの通用門から入ります。



水戸城の中枢、二の丸の正門の大手門は、佐竹氏が水戸城主だった慶長6年(1601)頃に建てられ、その後江戸時代に数度の建て替えがあり明治になってから解体されました。江戸時代初期の様式を残し、土塁に取り付く形式では国内でも屈指の規模をもつそうです。

現場発掘調査や現存する絵図や古写真から寸法や意匠などを割り出し、当時の工法、材料を使って同じ場所に同じ姿で2020年に復元されました。



柵町坂下門は、二の丸の南側虎口にあたる坂の下に設けられていましたが、景観整備の一環として坂の中腹に、高麗門という本柱の後ろに屋根を載せた控え柱のある様式で建てられています。左の銅像は、家康公の11男で水戸藩初代藩主の頼房公です。



杉山門も、北側の沖積層低地に流れる那珂川方面から二の丸に上がる杉山坂の頂点にある高麗門様式の門です。杉山坂は初代藩主頼房公が水戸城大改修の際に整備した坂で、中腹には矢来門がありその間に下乗札、下馬札がありました。



三の丸の藩校弘道館の北側にあった北柵御門と土塁、通路の一部が2019年に弘道館全図や残存絵図などの資料と発掘調査をもとに復元整備されました。教員や役人だけが通行を許され、学生は正門わきの通用門から出入りしていました。背景の建物は昭和5年建築の茨城県庁旧庁舎です。



弘道館裏門は、有料区域の弘道館から梅林や孔子廟方面への出口専用の門です。


藩校に付き物の孔子廟は昭和20年の空襲で焼失し復元されましたが、この戟門は創建当時の姿です。孔子の故郷、山東省曲阜を向いて建てられ、屋根には鬼犾頭(きぎんとう)と鬼龍子(きりゅうし)という霊獣が載っています。



水戸城址には今でも学校が5校あり、水戸一高の薬医門の他は、それぞれ城址にふさわしい姿の門が建てられています。

しかも二の丸の中央には白壁の塀に囲まれた水戸城址通りがあり、その両側に並ぶ校門は違和感なく写真に納まります。



二の丸の水戸二中は、光圀公以来250年の歳月を経て完成された大日本史を編纂した「彰考館」の跡にあるので、校門の前には編纂の地という大きな石碑が建っています。


水戸二中に向かい合わせの茨城大学付属小学校・幼稚園の校門です。ここは二の丸御殿の跡で、明治になってから茨城師範学校がありましたが昭和20年の水戸大空襲で焼失しました。


同じく二の丸御殿跡に建つ戸三高の校門です。この先には二の丸隅櫓への入り口があります。


水戸三高校門の向かい側にある見晴らし台入口の門…ここを入ると那珂川を見下ろす標高差約20mの河岸段丘上にある天然の要害の水戸城を実感できます。


三の丸小学校の校門は簡素ながら風格のある冠木門、江戸時代の城門や武家屋敷に使われました。ここには藩校弘道館の武館や医学館がありました。

番外編


東武館は、弘道館の武館での正式科目であった北辰一刀流の道場で、明治7年に建てられました。門は武骨ながら薬医門形式で建てられています。この東武館は、全国選抜少年剣道錬成大会を毎年開催するなど、現在でも民間剣道場としては特異な存在として知られています。


水戸城本丸の東側にある浄光寺曲輪(東二の丸)にあった浄光寺門は、いまひたちなか市にある浄土真宗浄光寺に移築されています。


水戸城下の保和苑桂岸寺にある愛染明王堂の朱雀門は、水戸城二の丸にあった水戸徳川家霊廟の門を移築したと伝えられています。
 



二の丸隅櫓内に展示されているこの門扉は、坂東市の万蔵院に水戸城大手門と伝わって保存されていたものです。大手門とは大きさが違いますが、水戸城内のどこかの門であったのは確かのようですし、この門が水戸市に寄贈されたのを機に大手門復元に繋がった、まさに運命の扉でした。

水戸の梅まつりは偕楽園と、約800本の梅がある弘道館公園も会場にして2月10日から始まります。二度の戦火などで水戸城の建造物はほとんど消失しましたが、この機会に残っている貴重な門や復元された門などを廻りながら御三家水戸城の往時をしのんでみてはいかがでしょうか。

1月28日に撮影した弘道館では、正庁をバックに八重寒紅と冬至梅の紅白が花を開き始めていました。

可哀そうな名の野草たち…富太郎博士も命名

2024年01月23日 | 季節の花

花の季節にはまだ早いこの時期ですので、きれいな花を咲かせているのに哀れな名前を付けられてしまった花を在庫写真から探してみました。なんとそのうちいくつかは、1500以上の植物を命名した牧野富太郎博士が名付け親です。

春一番に土手に顔を出しているオオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)は、果実(上記写真左下)が犬の陰嚢に似ていることからの命名ですが、牧野富太郎博士もそのものずばりの名を付けたものです。「星の瞳」という可愛い花にぴったりの別名もありますが、博士命名の方がインパクトが強く覚えてしまいます。ヨーロッパ原産で明治初年に渡来しました。

犬ふぐり星のまたたく如くなり  高浜虚子


もう咲き始めているノボロキク(野襤褸菊)、これも牧野博士命名といわれます。花の後の白い冠毛をボロ切れに見立て、野に生えるボロ菊という意味で付けました。明治初期にヨーロッパから入り全国に拡がっている雑草です。


同じキクでもこちらはハキダメギク(掃溜菊)、牧野博士が世田谷の掃き溜めで発見したので名が付けられてしまいました。小さい花ですが黄色い筒状花のまわりの白い舌状花が整然と並び、なかなか気品のある雑草です。熱帯アフリカ原産で明治初期に渡来しました。


ミゾソバに似て可愛い花なのに、ママコノシリヌグイ(継子の尻拭い)とは!!ミゾソバと違い葉や茎に棘があるので、憎い継子の尻をこの草で拭くという意味ですが、現在では幼児虐待で問題になりそうです。日本の在来種です。




蔓性多年草のヘクソカズラ(屁屎葛)は葉や茎に悪臭があることからの命名です。この臭いの元メルカプトンはガス漏れ検知のために、無臭のガスの臭い付けにも使われているそうです。
日本の在来種で、万葉集でも「屎葛(くそかずら)」の名で詠まれています。

菎莢(ぞうきょう)に 延(は)ひおほとれる屎葛(くそかずら)
絶ゆることなく宮仕へせむ   高宮王 (万葉集 巻16)

   ※ 菎莢=カワラフジノキ(マメ科の落葉高木)
 延ひおほとれる=絡み付いている                        高宮王(たかみやのおおきみ) 奈良時代の歌人、官人  生没不詳


ジゴクノカマノフタ(地獄の釜の蓋)は在来種でシソ科の多年草、キランソウ(金瘡小草)という本名があります。
「地獄」という恐ろしい名の由来は、地面にしっかり張り付いて生える姿を「地獄の釜の蓋に見立てた」説と、薬草としての効能が高いので「地獄への蓋を閉じられる」という説などがあります。


葉や茎に鋭い棘のあるナス科のこの植物は、アメリカ原産の外来種で「要注意外来生物」指定のワルナスビ(悪茄子)です。さらにすごい繁殖力のため、牧野博士がいたってストレートに命名しました。明治39年に成田市の御料牧場で発見した博士は自宅に持ち帰って植えましたが、その根絶に苦労した話が著書「植物一日一題」に載っているそうです。


ヌスビトハギ(盗人萩)は、そのマメ科独特の形の実から名前が付きました。足音を忍ばせる泥棒の足跡のようだというのは牧野博士の説、そのほかに実が「引っ付き虫」になるので、気付かないうちに衣服に取り付くさまをいったという説もあります。北海道から沖縄まで分布する在来種です。




クサギ(臭木)は、葉に独特の臭いがあるので命名されましたが、花は芳香がします。しかも実もきれいで古くから青色の染料に使用されてきました。日本全国に分布する在来種です。
このクサギの臭さは茹でると消えるため若葉は山菜として食用にされ、また万葉の時代からクサギを焼いた灰で色付けした「黒酒(くろき)」は宮中の祭祀に欠かせないものでした。

天地と久しきまでに万代に仕へ奉らむ黒酒白酒を   智奴王 (万葉集巻 19)

※天地と共に永遠に、万代にお仕えしましょう、このめでたい黒酒白酒(くろきしろき)を捧げて。
智奴王(ちぬのおほきみ) 天武天皇の孫で,長親王の子。


明治維新以降、日本には諸外国から外来植物が大量に流入したので、牧野博士たちも名前の付け甲斐があったことでしょうし、また1000年以上前の先祖たちもその時代に頭をひねって名付けたと思うと、何か楽しい気分になりました。

崎浜横穴墓群…12万年前の牡蛎化石床 

2024年01月16日 | 歴史散歩
霞ケ浦に張り出したかすみがうら市の出島にある崎浜横穴墓群です。



無数の牡蛎殻が積もった化石床の崖に並ぶ横穴が、異様な光景を見せています。

約12万~13万年前のこの一帯は海の中で東京湾の一部となり、真牡蛎が積もるように繁殖していたと思われます。



上記の現地案内版によると…地球の12万年前からの長い歴史の一コマを見ることができます。




約12万~13万年前、古東京湾時代のこの一帯は海の中で、真牡蛎(まがき)の貝殻が潮流によって集積し自然に積もって化石床を作りました。

約2万~3万年前の海退期、大陸にマンモスがいたこの時代は気温が低い氷河期で、海面は今より80メートルも低くなり陸地化しました。

歴史は進み約6千年前には地球が暖かく海水面が高くなり、内陸の奥深くにまで入り江ができる「縄文海進」により、今よりも広い霞ケ浦ができ、ここは浸食されて牡蛎化石の崖ができます。

やがて人類が現れ、水上交通や魚介漁の便がいいこの地方には人が住むようになり大きな古墳も多く見られますが、大化の改新時の「大化の薄葬令」で墳陵の小型簡素化が行われ、前方後円墳の造営から横穴墳墓に変わっていったといわれます。


この横穴墓群は羨道と玄室の間に段差を設けた高壇式という構造です。


玄室も規模の大小があり、設けられた棺床は1床から3床のものが見られます。



牡蠣殻の壁に囲まれた玄室、古墳のように個人一人の墓所ではなく一族が何度も使用したともされ、副葬品はほとんど発見されていないということです。


棺床が無くなり仏像が置かれている横穴墓もあります。右手に錫杖を持つお地蔵さんでしょうか。


この一画には17基の横穴墓が確認されているそうです。

古墳などの造営、埋葬者はほとんど不詳とされていますが、霞ケ浦市立博物館長千葉隆司さんは、この一帯の加茂という地名や霞ケ浦に面した地理的環境から、大和朝廷で薪や水など厨管理に携わり京都の加茂神社との繋がりのある古代氏族の賀茂(加茂・鴨)との関連性を指摘しています。

北東2キロには加茂神社があります。寺伝では寛正元年(1460)加茂孫四郎が東下の際に京都加茂社よりの御分霊を鎮座させたと伝わります。



小さな神社ですが境内はきれいに掃き清められていました。

また北東2.5キロの牛渡牛塚古墳の案内板には、「常陸国府に下向途中にこの地で亡くなった勅使を慕って泳いできた牛が力尽きてこの地で亡くなり、地元の人が感動して牛塚と名付けた」と書かれています。ここの地名も牛渡になっています。

標高は4mという市内で最も低い場所にあり、直径40m、高さ4mの円墳です。

小さな祠が建っていて、中には石仏が置かれていました。

県内の横穴墓群はこの他にも十五郎横穴墓群(ひたちなか市)、十王前横穴墓群(日立市)など各地にみられますが、いずれも水上交通の好立地で大型古墳が近くにあり、7世紀半ばの古墳時代末期の短い期間の造営によるものです。

写真はひたちなか市の十五郎穴横穴墓群です。那珂川の支流本郷川の台地上にある、彩色装飾で知られる虎塚古墳群の一画に、186基もの膨大な数で残存しています。

大和朝廷から遠く離れていますが、茨城の古墳の数は多く、「茨城県古墳総覧(1959)」によると約3,400、その後の調査で現在では10,000基を超えるともいわれています。その中には舟塚山古墳(石岡市)、富士見塚古墳(かすみがうら市)、三味塚古墳(行方市)などの巨大な前方後円墳もみられます。
これは4世紀から7世紀のころには、大和朝廷の力がこの地方まで広がったことを示しており、支配者の強大な権力の象徴として大型古墳が作られました。しかし7世紀中葉の645年に発令された「大化の薄葬令」で墳墓は小型簡素化されて、新しい形態の横穴墓や方墳などになり、やがて古墳時代の終焉を迎えました。


偕楽園NOW…あと1か月で梅まつり

2024年01月11日 | 水戸の観光
今年の水戸の梅まつりは2月10日~3月17日に開催されます。
地球温暖化のため開花が毎年早くなっていますが、今年は暖冬といわれても夏の猛暑が秋口まで続き、開花の条件である寒さの到来が遅かったせいか、咲き始めが遅いような気がします。しかし、これが通常の開花状況なので、まつり期間中には一斉に花を咲かせることでしょう。

表門には門松が飾られていました。偕楽園はほかにも門がありますが、ここから園内に入ると、鬱蒼とした大杉林と竹林の「陰」の世界から、梅林と見晴らし広場の「陽」の世界への変化という開設した藩主斉昭公の趣向が体験できるといわれています。


表門入り口の「十月桜」は、10月から咲き始め4月まで咲き続けます。


寒風に耐えている今はさすがに必死な姿で咲いていますが、周りの桜が一斉に開花する4月には、目を覚ましたように負けじと艶やかな姿で咲き誇ります。


同じ場所で撮った2021年4月1日の写真です。同じ木の桜とは思えず、生命力の強さに驚かされてしまいます。


ロウバイ(蝋梅)もいつものように、新春の香りをとどけていました。


これは花の中心が濃い赤紫色になる基本種のロウバイで、和蝋梅(ワロウバイ) ともよばれます。



園内の梅は、蕾が大きくなってはいますが、まだ咲いている木を探す「探梅」には早すぎる気がします。この梅は紅梅で、「八重唐梅」という梅です。


やっと見つけた「八重寒紅」、偕楽園は水戸城の見張り所や出城的な役割をしたともいわれていますので、城攻めの先駆け一番乗りの誇らしい咲き方に見えませんか?


「二季桜」がまだ咲いていました。冬(11~1月)と春(4~5月)の年2回開花する桜です。
この桜の苗が、歴史的なわだかまりを捨て友好都市になった彦根市に水戸市から贈られ、彦根城址で毎年花を咲かせているそうです。


さすがに花は元気がありませんが、4月には周りの桜に合わせて力を振り絞りもう一度きれいな花を咲かせます。


標高差約20mの河岸段丘上の偕楽園の南側崖下にある「八重冬至」、常磐線から見える木製の標柱そばで早咲きの標準木みたいな梅ですが、やっと蕾の先が白くなってきました。


南側崖面の常緑樹が何本か伐採されていて、視界が良くなり好文亭の姿が下の偕楽園公園からよく見えるようになりました。眺望のためか枯朽のせいか不明ですが…


梅の花にバトンを渡す前の園内は、いたるところで山茶花が花びらを散らしていました。

次から次へと100種類以上ある梅が咲き始める季節が間もなく訪れようとしています。

春が来るというのに、正月早々大震災に見舞われた能登半島の被災者の方々にも、その頃には少しは明るい陽ざしが見えるのでしょうか。東日本大震災での我が家の長い停電と断水を思い出し、極寒の時期での避難生活の環境が少しでも良くなるように願っています。